表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オールドイースト  作者: よこ
第2章
105/532

2-1 手紙(11)

ウォルターは、手にしていたタブレットを、床の上に置くと、天井を見上げた。普段の土曜日であればザナー先生の授業の後、アナベルのバイト先のカフェで彼女の話を聞きながらその日習った箇所の読み返しを行っているのだが、今日は復習をする気にもならず、帰るなり書庫に閉じこもってしまった。が、読んでいる本にもいまひとつ没頭出来ない。意外なほど、カフェに立ち寄るのが習慣化していたようである。…というより


…先ほど見たアナベルの表情が、原因か…。


彼女に対する自分の気持ちを自覚してから、自分なりになんとか距離を縮めようとウォルターは彼なりに頑張ってきたつもりだった。けれど、彼女と自分の間には、どうしても埋められない、深い溝があって、それを埋めようとあがいている目の前で、今度は厚くて高い壁が築かれていくような。…そのやるせなさに、時々、本当にあきらめたくなる。


それでも、彼女は恋愛をしない人だからと自分を納得させようと思っていた。今は、近づくことも出来ず、あきらめることも出来ないのだとしても、彼女が変わっていくのを待つことは出来るのだからと、そう思っていた。けれど…。


 ウォルターが越えることが出来ずにあがいていた、溝も壁も、ルカの前には存在していないかのように彼は簡単にアナベルの心に入り込んでいった。目の前で、アナベルがルカに見せた表情が雄弁に物語っていた。半ば予想していたつもりだったが、それでも、目の当りにすると身に堪えた。自分がランチに誘っただけで、あんなに警戒していたというのに…。


 …あきらめようか…。


夏から何度か考えて、彼女に会うたびそれが不可能だと思い知らされる。乱暴でがさつで、鈍感で…欠点ならいくらでもあげつらうことが出来るくせに、ウォルター自身にもアナベルに対する自分の執着の正体がわからないのだ。


この頃彼女は、一年前には考えられなかったほど、笑顔を見せてくれるようになった。時折目にする可愛い笑顔を、自分だけのものにしたいと…。


はっきりと自覚出来る思いは、ただそれだけの筈なのに、自分のその思いが、ささやかな願いなのか傲慢な望みなのか、それすら彼には測れない。

それでも、重ねた時間の分だけは、近づけているのだと思っていた…。しかし、その積み重ねさえも、ルカの前では無意味だった。


ウォルターは、深々とため息をついた。今、一人で考えていても仕方がない。そう思っていると、インタフォンが鳴り響いた。こんな時間帯に尋ねてくる人の予定などない。ウォルターは居留守を決め込むことにした。対応するのも面倒だった。


書庫に籠ったままでいると、部屋の外からかすかに物音がする。まさか、と思って慌てて書庫から飛び出すと、キッチンに入る手前でアナベルが振り返った。書庫から出てきたウォルターの姿に驚いた様子で

「なんだ、居るなら返事くらいしろよ」

と、ほっとしたように呟いた。


「あの、どうして…」

「どうしてって、まだ業務時間内だ」

言いながらウォルターに背を向け、キッチンへと入った。いつものように奥の席にリュックを置いた。続いて入ってきたウォルターに向かって

「お前こそ、どうしたんだよ」

と、言った。


「何が?」

「なんで帰ったんだ?」

「なんでって、理由は言ったと思うけど…」

と、ウォルターが答えると、アナベルはこれ見よがしにため息をついた。


「ルカも残念がってたぞ。ちゃんとお礼が言いたかったのにって…」

言いながら、ジーンズのポケットから借りていたカードを取り出して、ウォルターに返した。


「いったい、いくら使ったんだ?」

「えーっと…。そんなには」

「誰に請求する気だよ?」

と、アナベルが呆れたようにいうと

「まあ、忘れずにレシートはとっておくよ。いつか誰かが返してくれるんじゃないかな?」

と、肩をすくめた。


「それより、よかったの?」

「何が?」

「もっとゆっくりしてて、よかったんだけど…」

「なんだよ、来ない方がよかったのか?」

「いや、別に、そういうわけじゃ…」

「こまかい指示を出すくらいだったら、ついていればよかったじゃないか。何話していいのかわからなくて…困った」


「…ごめん」

「素直に謝るなよ。今のは八つ当たりだ」

と、アナベルがややとげとげしい調子で言った。ウォルターは探るような表情になってしまう。

「何かあった?」

「別に…何も…」


妙な雰囲気になった。訊きたいことはある気がするのに、何を訊いたらいいのかわからない。アナベルもそんな風だった。言いたいことはある様子なのに、何を話したらいいのかわからない。ウォルターはため息をついた。


「せっかく来てくれて、こういうのも悪い気がするけど」

「なんだよ?帰れって?」

「いや、今日はもう掃除も夕食作りも大丈夫だから…」

「そっか…」

「時間まで、休んでいく?」

と、ウォルターが言うと、

「うん…」

と、アナベルは珍しく、さして抗議もせずにそう呟くと、椅子に腰を下ろした。


テーブルに腕を乗せると、行儀悪く腕の上に頬を乗せた。疲れているのか、ふてくされているのか、それとも両方か。珍しい態度に、ウォルターは椅子に下ろしかけた腰を上げると、流しの方へと移動する。そのままお茶の準備を始めた。アナベルは何も言わず、その様子を見ていた。


ウォルターが流しに立って、何かを作っている時の様子を見るのがアナベルは好きだった。無駄のない手際のよい動き。袖から覗く腕も、集中している横顔も、初めて会った時より、線の細さが少なくなっている。成長しているからなのか、習っているムエタイのおかげなのかは、アナベルにはわからない。


見ている間にウォルターはホットティーのポットをキッチンテーブルに置いた。円柱形のポットの中でゆっくりと茶葉が舞う。茶葉が開くのを待つ間、ウォルターは棚から、澄んだ琥珀色の壜を取り出した。よく見ると蜂蜜だった。ポットの茶葉を内部の押し蓋でゆっくりと押すと、アナベルが普段使っているコーヒー用のカップに紅茶を注いだ。それから、蜂蜜の蓋を開くと、一匙すくって、カップに入れると丁寧にかき回す。


「はい」

と、言いながらアナベルの間にカップを置いた。紅茶の香りに混じってほんのりと甘い蜂蜜の香りが漂った。

「これ…蜂蜜?どうしたんだ?」

「先月末イブリンが送ってくれた荷物の中に入ってたんだ。毎回手紙と一緒に何がしか送ってくるから」

「そうなんだ」

言いながら、一口飲んでみる。ほんのり甘い蜂蜜にほっとする。


「手紙の返事、書けた?」

流しを背もたれに立ったまま、ウォルターは自分も同じものを飲んだ。

「…いや、書いてるんだけど、気に入らなくて…」

「書き直してるの」

「うん…」

「そんなに気合を入れなくても…」

「うん、でも…」

「そんなことに時間をとるより、勉強をした方が、イブリンも喜ぶと思うけど?」

「そうかな?」

「そりゃ。…手紙じゃなくてカードにしたら?」

「カード?」

「それだったら、長く書かなくてもいいし、気持ちも伝わるんじゃない?」

アナベルは紅茶を一口飲むと、宙を見上げた。

「そうか…いい考えかも」

「うん」

アナベルが少し浮上した様子になったのをみて、ウォルターはほっとした。


「なあ」

「うん?」

「今日、土曜日だろ?ルカに会ったこと、アルベルトやナイトハルトの言わないといけないよな…」

「言いたくないの?」

「うん…だって、友達に会っただけだ。久しぶりに…なのに、いちいち言わなくちゃいけないのか?」

ウォルターはため息をついた。


「言いたくないんなら黙っていれば?」

「いいのかな?」

「さあ?」

「…お前は言うんだろ?ナイトハルトに…」

「土曜日にザナー先生に会った時、報告することがあれば、報告するようにしているけど。だから、今度は…来週かな?」

「来週…」

アナベルは憂鬱そうに復唱した。


「お前…その、サイラスのこと訊いたのか?」

「誰に?ルカに?」

「うん…」

「いや、訊いてないけど」

自分の方からは何も言ってない。が、ルカの方から訊かれはした。答える前にアナベルが来たので彼の言葉の意味を確認することが出来なかったが。


「何かあった?」

「うん…」

言いながら、またしてもテーブルに顔をつける。


「今日はこのまま、ここにいれないかな…」


と、アナベルが呟いたので、ウォルターは紅茶を吹きそうになった。

慌てて口元を手で覆う。気づかれたかとアナベルを一瞥すると、案の定アナベルが目を見開いて、こちらを見ていた。


「いや、その…」

「変な意味じゃなくてだな…」

「いや、わかってるから」

言いながら、ウォルターはカップに残る紅茶を、飲み干した。


「泊りたいんなら部屋を提供するけど?寝袋があるし」

「だから、真に受けんなよ」

「受けてないけど?」

「なんだよ、寝袋って…そう言えば、あれって、昔から使ってるのか?」

「うん、フェンロンが長い休みのたびに野歩きをするのが趣味で、よく一緒に連れて行かれたから」

「野歩き?」

「うん、山とか、高原とか…。場所があればテントを張って、なくても寝袋で寝るんだ」

ひょっとしたらフェンロンなりに、孫の虚弱体質を気にしていたのかもしれない。あれは彼の趣味ではあったが、ウォルターを鍛えようという意図もあったのかもしれない、と思っていた。


「へえ、お前のおじいちゃんって、多趣味だったんだな」

「うん、何か、エネルギーが余ってたのかな?僕と一緒に暮らしているころには、仕事も半分退職してたから…」

「何やってたんだ?」

「え?」

「おじいちゃん、仕事…」

「いや…ちょっと、人に教えてるような…」

「ふうーん」

アナベルは首を傾げた。


「中等校に入る前には僕が使ってた寝袋は小さくなってて、新しいのを買わないとって話をしてたんだけど…」

祖父が心臓脳発作を起こして、あっという間だった。


「で、形見ってわけじゃないんだけどフェンロンが使ってた、寝袋を貰って、ジョンの家に戻ったんだ」

「お父さんの家では使い道なんてないだろう?」

「いや、それが、ジョンとケンカして…で、家の中にいるのもしゃくだったんで、その寝袋を使って庭先で寝たりとか…今にして思えば、くだらない反抗だけど、庭だってジョンの家の敷地内なんだから」

と、ウォルターは空になったカップの中を見つめながら、少し懐かしそうに話した。


「でも、中等校の頃ってそんな感じだよな。私もあった」

と、言いかけてアナベルは顔をしかめた。

「何?」

「いや…」


まだ、ハリーの家にいる頃、中等校の二年生になるアナベルは、ハリーに買われて、時折家を訪れる女性のことで、ハリーと言い争いになったことがある。その女性その人よりも、そういう女性を金で買うハリーの存在が、アナベルに耐えられないくらいの生理的嫌悪感を与えていた。


自身の嫌悪感を正面からハリーにぶつけた彼女に対して、泥酔していたハリーは「だったら、お前が俺の相手をするって言うのか?」と、彼女の腕を掴んで怒鳴り返した。


アナベルは恐怖と嫌悪で軽いパニックに陥り、腕を振り解くと、家を飛び出した。家を出てそのまま、車のガレージの横に身をひそめ、カイルの帰りを待つつもりでいた。が、酒に酔ったままのハリーが、外出しようと車の方までやってきて、車に乗り込んだ。


見つかること恐れたアナベルは、逃げ出そうと飛び出した瞬間、バックしてくるハリーの車にぶつかって、気を失った。気がついた時には病院のベッドの上だった。


カイルの話によると、アナベルがはねられた、丁度そのタイミングで彼は家に戻ってきたらしい。彼が見たところ、アナベルは車にはねられた後も意識があったらしいのだが、彼女自身には全く記憶がなかったので、心配したカイルの希望もあって、脳の精密検査を行った。が、特に異常は見つからなかった。記憶喪失に関しては事故にあった人間には割合よくある健忘だと説明された。一日の検査入院の後、退院することになった。


 退院間際になって、アナベルは腹痛を訴えた。アナベルは病院で初潮を迎えた。思いがけず初潮をむかえたアナベルは、軽いヒステリー状態に陥り、ハリーの車にひかれる前にあった出来事を、カイルにしがみつくようにして訴えた。家に帰るのを嫌がるアナベルの言葉を聞いてカイルは生まれ育った家を出る決意をした。そうしてアナベルは、カイルと、育った家を出て、中等校近くに安いアパートを借りて二人で暮らすことになったのだ。


 アナベルは宙を見て顔をしかめた。強烈に嫌な事を思い出してしまった。


「何か嫌なことでも思い出したの?」

と、ウォルターが敏感に察した。

「うん…いや…」

と、アナベルは曖昧に応じる。ウォルターに…同世代の男子に話せるような内容ではない。いくらウォルターがハリーを知っていたとしても、だ。ウォルターは、少し首を傾げた。アナベルの言いにくさを、察したらしい。


「まあ、色々あるよね」

と、だけ答えると

「飲んだ?」

と、アナベルに確認して、彼女の前から愛用のコーヒーカップを下げて、手早く洗い始める。アナベルはほっとした。


「…ごめん」

と、謝ると

「いや、たまにはいいんじゃない?」

と、ウォルターがこだわった様子も無く応じる。


食器洗いのことではないのだが…と、思うが、アナベルは気がついていた。ウォルターも、彼女が何を謝ったのか、わかっている事を。わかっていて、こうして自分の負担にならないように、わざとはぐらかすのだ。だからアナベルもこう答える。


「たまにって、結構、色々やらせてる気がする…」

「まあ、僕には苦にならないから、いいんじゃない?」

「お前に給料を払いたいよ」

「そりゃ、助かるね」

珍しくウォルターが苦笑する。彼の笑顔がアナベルは好きだった。めったに表情をあらわさないウォルターがこんな風に笑ってくれると、ほっとするのだ…。


カップを洗い終えると、ウォルターは時計を見上げた。

「そろそろ時間じゃないかな?」

「そうか…。あー、帰るの憂鬱だー」

「…まだ、言ってるの?」

と、ウォルターがあきれたように呟いた。


アナベルがあきらめてリュックを肩に掛け廊下に出でると、ウォルターも玄関までついて来た。玄関で挨拶をしようとすると、何故か外までついてきた。外の駐輪スペースに置いてある、ミニバイクの側まで来ると、ようやくウォルターは足を止める。


「念のため、家に着いたら、メッセージをくれないかな?」

「なんだよ、一体?」

「いや、君やルカを信用してないわけじゃないんだけど…」

「それ、三時に会った時にも言ってたぞ」

「念のためだよ」

「…わかったよ」

アナベルはあきらめて、約束した。ミニバイクを走らせてアルベルトの家へと帰る。


アルベルトの家に戻ると挨拶と共に玄関に入る。入ってからすぐにウォルターに、無事到着した旨メッセージを入れた。すると、即座に返信が戻ってくる。


【了解。ありがとう】


簡潔な返信だった。ずっと、携帯を見守っていたのだろうか?アナベルはなんとなく、泣きたくなった。


ウォルターが自分に優しいと、何故自分が困るのか、アナベル自身、本当はわかっていた。


…自分にはウォルターが必要なのだ。だから…彼を失いたくなかった。


そしてその、身勝手さが、アナベルは自分で、猛烈に嫌だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ