2-1 手紙(10)
更衣室で私服に着替え終わったアナベルは、念のためカフェの方を覗いてから帰ろうと、顔を出してみる。メリッサが目ざとく気が付いて、アナベルに声をかけた。
「メガネ君、来てるけど…」
「え?」
「珍しく、友達と一緒みたい」
「友達?」
イーサンだろうか?確かに珍しい。
「あの、どんな?」
「金髪の…何か品のいい雰囲気の」
「え?」
それは確実にイーサンではない。
アナベルはメリッサにお礼を言うと、カウンター席の方向に、足を向ける。ウォルターがいつも通り隅の席に座ってグラスの水を飲んでいる。横に座って、何か話している人の横顔が、一瞬目に入る。気がついたら声が出ていた。
「ルカ!」
アナベルの声にルカはすばやく反応する。振り返ると一瞬で笑顔になった。
「アナベル!」
急いで立とうと慌てるが、アナベルが近寄る方が、早かった。アナベルはルカの席まで来ると、ふいに困ったように手を上げ、すぐに下げる。微妙に挙動不審だ。それから、はにかんだ様な笑みを浮かべると、
「元気そうだな」
と、呟いた。ルカも柔らかい笑みを浮かべ
「うん」
とだけ答える。それから
「心配かけて…」
と、言いかけるが、アナベルは胸の前で、急いで両手を小さく振った。
「ううん、いいんだ。その、たいへんだったんだろ?きっと…」
と、ルカの謝罪を遮った。
その様子を横目で見ながらウォルターは密かにため息をついた。不思議なくらいアナベルが女の子に見えたし、癪に障るほど可愛かった。
終始存在を黙殺されていたウォルターは、メニューを片手に立ち上がった。それから
「ルカ、ちょっと待っててもらっていいかな?」
とことわると、メニューをアナベルの肩甲骨あたりに押し付け強制的に方向転換させる。
「注文を頼みたいんだけど」
と、言いながら、やや乱暴にそのままアナベルの背中を押した。
「お前、何言って…もう終わったんだって…」
というアナベルの抗議を無視して、ウォルターはアナベルを、カフェの室外、オープンテラスまで誘導する。ここなら人も多いうえ、外の音も入るので、聞き耳を立てられるのでない限り、会話を聞かれる心配はないだろう。アナベルは憤然として
「お前いったいなんだよ!」
と声を上げる。が、ウォルターは彼女の言葉を無視して、無言で現金支払い用のカードをアナベルに手渡した。カードを受け取ると、アナベルはそれをかざした。
「なんだよ?これ」
「なんの説明を求めてるの?」
ウォルターが、普段以上に無表情な調子で、アナベルの言葉に応じる。
「いや…」
「君から見ても彼はルカで間違いないね?」
と、ウォルターはアナベルに念を押した。
「え?」
「彼には僕らのことは、母親の違う姉弟だと説明した」
「母親が違う?」
「そうでないと同じ学年であることの説明がつかない」
「あ、そうか」
「混乱したら、僕らの父親が女にだらしがない、クズ野郎だって思い出せばいい」
ウォルターの言い方が可笑しくて、アナベルは笑ってしまう。
「それなら、嘘は言ってない」
「だな」
アナベルの笑顔をぼんやりと見ながらウォルターは少し息をついた。
「じゃ、僕は帰るから」
と、言うと立ち去ろうとする。
「え?なんで?」
「なんで…って」
アナベルの言葉にウォルターは、奇妙な顔をした。
「姉のデートにくっついて歩く弟はいないだろう」
と、答える。
「姉って…」
なぜだろう。姉じゃない、といわれた時はあんなに腹が立って悲しかったのに、今こう言われると、突き放されたように感じるなんて…。それにデートじゃないし…。
アナベルの様子を上から見ながら、ウォルターは再度ため息をつく。
「会うの久しぶりなんだろ?」
「うん」
「君、ずっと心配してた」
ウォルターの言葉にアナベルは顔を上げた。
「ゆっくり話してきなよ。その、今日は、仕事はいいから」
「でも…」
「気になることがあったらまた、次の日になってもいいから伝えてほしいけど」
「うん」
「あと、なるべく人気のないところは避けて、何かあったらすぐに連絡を入れるんだ。で…」
と、一瞬ウォルターは言いよどむ。
「あまり言いたくないんだけど、こちらのことはあまり話さない方がいいと、思う」
ウォルターの言葉に、アナベルは彼を見つめた。
「彼を…ルカや、君を信用しないって言うんじゃないんだ…けど」
「わかった」
アナベルはこだわらずに、頷いた。
ウォルターは少しほっとしたような顔になった。それから思い出したように、メニューをアナベルに渡すと
「それと、ルカはリンゴジュースだって」
と、言うとそのまま軽く手を上げて、踵を返すとテラスから出ていった。
アナベルが外の方向を見ていると、道に面したオープンテラスから、ウォルターがマウンテンバイクに跨って、道路の方向に向かうの姿が目に入る。ウォルターは一度も、アナベルの方を見なかった。
ずっとルカに会いたかったのは、本当だ。ウォルターに言われたように、ずっと心配していた。ようやく会えたのに、目の前でウォルターに立ち去られると、自分でも不可解なほど心細くなった。
アナベルはウォルターから預かったカードをジーパンのポケットに入れるとメニューを手に、カフェの室内へ戻った。室内に戻ると、メリッサを捕まえ、自分の分とルカの分の注文を頼む。それから、いつもウォルターと座っている、カウンターの一番端の席に戻った。今度はルカがやや素早く席から立った。
「あの…」
と、何かいいよどむ。
アナベルは改めてルカを見た。春に会った時より顔色がすこしいい。襟と袖、ボタンとめの箇所だけが白い、青と白のストライプ柄の半そでシャツに、ブルージーンズという出で立ちだ。格好のせいか、あの時より大人びて見えた。
アナベルが、自分の着ている服を見ているのに気が付いたのか、ルカが少し申し訳なさそうに
「これ、ウォルターに買わせちゃって…」
と、打ち明けた。
「ウォルターが?」
「うん、彼、どこに?」
「うん…」
変な感じだ。ルカとウォルターの話をしている。でも、何が変なのか、よくわからない。
「帰った」
「帰ったの?」
「うん」
アナベルのどこかすねた様な態度に、ルカはふっと笑みを浮かべる。
「…前に言った通り」
「え?」
「君たちは仲がいい」
見透かすような眼差しで、ルカに微笑みかけられて、アナベルは一瞬で頭に血が上った。
「べ、別に仲良くなんて…」
「でも、今アナベル、拗ねてた」
「拗ねてなんか、いないから」
と言うアナベルの言葉に、ルカは微笑んだまま
「最初、少し怖かったんだけど…。でも、わかりにくいけど、彼はいい奴だね」
と、言った。何故かアナベルは照れくさくなった。
「う、うん」
と、言うとアナベルは笑った。カウンターの席に座りなおすと、見計らったようにメリッサが飲み物を持ってきた。ルカの前にリンゴのジュースを置きながら、メリッサは、彼の顔を一瞥した。目が合ったことに気が付いたルカが、柔らかい笑みを浮かべ
「ありがとうございます」
と、お礼を言った。予想外だったのか、メリッサが何故か、はにかんだ様子で首を振った。
アナベルは早速、カフェラテのストローを口にした。ひどく喉が渇いていた。ルカはアナベルの様子を横目で見ながら、同じ様に、リンゴのジュースを口にする。アナベルはいつもウォルターが座っている席に自分が座って、いつも自分がいる席に、ルカが座っているのが不思議だった。こちら側から見える景色は、いつもと違って見えた。
「彼のこと…」
「うん?」
「…さっき少しだけ、サイラスに似ていると思ったんだけど」
と、ジュースを飲みながら、唐突にルカが言葉をつづける。ルカの言葉に、アナベルは仰天した。
「ルカ…」
「君も会ったんだろ?サイラスに…」
ルカはアナベルに視線を向けてそう訊いたが、アナベルは咄嗟に答えられない。
「でも、違った。やっぱりサイラスには似ていない」
「あの…」
「アナベル…その…」
ふいに真顔になって、ルカがアナベルを見つめた。アナベルは変に鼓動が早まるのを感じて、困惑した。
「ルカ、その服…」
「え?」
「よく似合ってるけど、その、さっき言ってたウォルターに買わせたって、どういう意味?」
と、唐突に話を変えた。何故だかよくわからないけど、ルカの真剣な眼差しは、自分の心臓には、よくないようだ。
「あ、うん。これ…」
と、言いながら、ルカは足元に置いた袋を取り出すと、アナベルの前で広げてみせた。アナベルは中を覗き込む。見ると、なんとなく見慣れたパジャマと、赤いキャップが入っている。
「靴も新調した。初めてだよ。その恰好じゃさすがに目立つからって…」
「ウォルターが?」
「そう、外で自分で服を買うなんて初めてだったから、すごい緊張しちゃって…店員さんはやたらとほめ上手だし…」
「ウォルターが、選んだの?」
訊きながら、なんとなく違うのだろうと見当はついた。
「いや、せっかくだから自分で選んだ方がいいって、でも、決められなくて…。ほとんど店員さんの見立てだよ」
それは店員さんもコーディネートのし甲斐があったろう。アナベルはなんとなく面白くなかった。それに、一体いくら支払わされたのか、考えるとウォルターが気の毒になってくる。アナベルは決意を固めるように、息をついた。
「ルカ…さっき言ってたサイラスって…」
「弟。アナベル、会ったんだろ?彼に…」
アナベルは息をのんだ。なんてこたえたらいいのかわからない。
ルカがここまで率直に訊いてくるとは思っていなかった。かえってルカに嘘をつきにくくなる。それでなくとも、元々嘘をつくのが苦手なのだ。でも、本当のことをそのまま言ってもいいのかどうか、わからない。アナベルが答える様子を見せないので、ルカは益々緊張した様子で、言葉を続けた。声が少し低くなっている。
「アナベル、その時に…」
答えようとしない自分の横顔を、観察するようにルカが凝視しているのがわかった。アナベルは、ルカが何を聞きたがっているのか、ふいに気が付いて、彼の方を向いた。ルカからルーディアという名前を、言わせてはならなかった。
「ルカ、その為に、病院から抜け出してきたの?」
「アナベル?」
「つまり…」
やはり自分が考えた通り、ルカはルーディアを知っている。ルーディアが言うような、曖昧な知り合いなのではなく、もう、ずっと前から知っているのだ。彼女に会うために、彼は病院をパジャマ姿のままで抜け出してきたのだ。
アナベルが言い淀んでいるのをみて、ルカは微笑んだ。
「ごめん」
と、謝罪する。
「え?」
拍子抜けしてアナベルが思わず声を上げると、ルカは困ったように顔をそむけた。
「だって、アナベル、困ってる」
「ルカ…」
「困らせているのは僕だろう?」
「いや、その…」
ルカはアナベルの方を見ると、いつか見た、夢見るような、表情になった。
「だから、ごめん」
どこかで見たような優しいまなざし。
あ…
と、アナベルは気が付いた。アルベルトだ。アルベルトが時折、リパウルをこんな顔をして見ている。大切な大切な大好きな人を見る目。アナベルは顔をそむけた。ルカは確かに自分を見ている。けれど、本当にルカが見ているのは目の前の自分ではない。
『あの時と同じだ…』
春に見た眼差し。すぐ横にいる自分には見向きもしないで、ずっと遠く、白い壁の向こう側を見ていた。
…ルカが見ているのは、ルーディアだ。
アナベルははっきりとそう悟った。悟った途端、喉の奥に重くて黒い塊がねじ込まれたような息苦しさを覚える。それがなんなのか、彼女にはわからなかった。




