2-1 手紙(8)
ウォルターは、普段とは違う意味で緊張する面会日を迎えた。アナベル経由でドクター・ヘインズから情報は伝わっている。何か訊かれる可能性は結構高い…そう考えていた。ウォルターはエナの執務室の前で、軽く息をついた。構えていても始まらない。ノックをすると、「失礼します」と断り、入室した。
入室すると珍しくエナが、執務机の側に立っていた。ウォルターが入室すると顔を上げ
「ここのところ忙しくて、満足に話も出来ませんでしたが、あなたはきちんと成果を出していたようで安心しています」
と、言い出した。ウォルターは驚きを顔に出さないようにするのに、少しの努力を要した。
エナはウォルターの返事を待たずに、続けて
「眼鏡を変えたのですね」
と、唐突に言った。言いながらこれも珍しくウォルターの顔を凝視する。
「はい…」
困惑しながらも返答する。ウォルターの返答に反応するかのように、エナがふっと目を細めた。
「前のものより、よく似合っています。あなたは…矯正は、しないのですか?」
「いえ、その…」
と、ウォルターは言いよどむ。何か勝手が違う。
いつもなら、開口一番、お互い無駄な時間とわかっていますが、とか、あなたの為に一時間も割かなければならない義務は本来ないのだが、とか、挨拶も満足に出来ないのですか、今のあなたを見たらお母様もがっかりなさるでしょうとか、とにかく関わらねばならないこと自体が、時間の無駄で迷惑だと、懇切丁寧に様々なバリエーションで伝えてくるというのに…。
とはいえ、ここ最近はそれすらもなかったし、アナベルに自分の生まれた経緯を打ち明けてから、エナの態度も以前よりは、気にならなくなってきてはいたのだが。しかし、今日のこれはなんだろうか?新手の嫌がらせか?
「まあ、いいでしょう。中期試験前にアナベルがカディナに勝手に帰省した時…」
一瞬ぎくりとする。彼女を追って、自分も彼女の郷里に行ったことは、エナ・クリックには伝えていないとドクター・ヘインズは言っていた。ばれてないと思っていたが…。
「愚かな事をとあきれたものです。アナベルの中期試験の結果は見るまでもないと、あきらめていたのですが、なんとかF評価は免れました」
「はい」
「アナベルに聞くと、あなたのおかげだと言っていました。遅くなりましたが、私からもお礼を言います」
「いえ…」
とりあえず、余計なことは言うまいと決意した。必要最低限の返事に留め、エナの様子を伺ってしまう。
「二年の教科はどうですか?」
いつもの報告要請が来たかと思い、
「まず、どの教科から…」
と、訊いた。今までの面会では、エナの指定する教科の説明を要請されるのが常だった。面会時間一時間、立ったまま約十分刻みで、教科の報告を一方的に述べさせられる。それが通常の、ウォルターとエナの面会時間の過ごし方だった。
「新しい教科では、どれが一番やりがいを感じますか?」
意外なことに質問された。一体なんのトラップだ?
「芸術史と心理、それに地学でしょうか?」
「そうですか。芸術史など、どちらかといえば私は苦手でしたが。そういえば、歴史はいつも見事な成績ですね。過去の出来事に関心があるのですか?」
「…興味深いと思っています」
「では、三年からの宗教哲学なども楽しみですね。あなたは文系の教科の方が得意なようね」
「そうですね」
「理数系は苦手ですか?」
「嫌いではありませんが、自分にセンスがあるとは思っていません」
「そうですか」
何故だろう。普通に親との面会っぽいような…なんとなく話の流れが普段と違うので、気が緩んでしまう。が、油断していると
「ところで、あなたが八月初旬に会った、チンピラの件ですが」
と、唐突にエナが話題を変えた。
「どのような風貌でしたか?眼鏡がないから見えなかったとあなたはいいましたが、出会い頭にいきなり眼鏡を壊されたわけでもないでもないでしょう。眼鏡が壊される前に見たはずです。髪の色や背格好くらいはわかるでしょう?」
と、いきなり質問が切り替わる。
「え?」
「髪の色は?覚えていませんか」
「いえ…」
「歴史は記憶の学問です。まさか一ヶ月前、自分の眼鏡を壊したチンピラの髪の色すら覚えていないと?」
そう理路整然と問われると言い逃れるのが難しい。それに、エナはくだんの出来事には、関与していない可能性が高く、執務室に仕掛けられた盗聴器は、今はもうないのだ。ウォルター息をついた。
「髪の色は確か、淡い色合いの金髪でした」
と、正直に答えた。
「背格好は」
「身長は、アナベルくらいでした。やせていたと思います」
「そうですか、どうしてトラブルに?」
「バス停に知り合いに似た人物がいたので声をかけようかと自転車を止めて近づきました。そちらしか見てなかったので、斜めから来た男とぶつかり、足をかけられて、転倒しました。その時に眼鏡が外れて、その男に眼鏡を踏まれたので…」
「そうでしたか、それで、逃げられて、たまたま居合わせたムラタに追跡を頼んだということですね」
「そうです。あのナンバーは…」
「レンタカーでした。支払いには、使い捨ての現金カードを使用。身元は割れませんでした。…予想はついていたのでしょう」
「そうですね」
「まあ、いいでしょう、それだけ聞ければ十分です」
ウォルターは息をついた、今日も短く終れそうだ…。
「ところで、もう一つ、質問があるのですが…」
「はい」
まだ、あったのか。ウォルターため息をつかないように注意した。
「その、気を悪くしないで答えてもらいたいのです。これは皮肉やあてこすりなどではありません」
「わかりました」
さっぱりわからない…。
「ロブ・スタンリーとの面会で、長い黒髪の、アジア系の小柄な女性が、同席したことはありませんか?」
長い黒髪で小柄なアジア系の女性…。しばらく考えてみる。
「いえ、ないと思います」
「では、ナイトハルト・ザナーの交際相手には?」
続く質問に対して、表情を殺すのは難しかった。訝しげな表情になったが、多分、問題ないだろう。
ウォルターはエナが訊きたいことがなんなのか、判ったような気がした。が、自分は何も知らないほうがいい。
「あの、この質問の意図をお尋ねしてもいいでしょうか」
「何故です?」
「それは…ロブ・スタンリー氏との面会に関してならともかく、ザナー先生の個人的な交友関係がクリック博士に何の関係があるのかわかりません。それに、僕は先生の交友関係に関しては何も知りませんので」
ウォルターの応答に、エナはため息をついた。
「そうですね。今の質問はなかったことに。あなたにスパイ行為を働けというつもりはありません」
言われて、安堵する。一方で、エナの質問の前置きが気にかかった。訊くべきか否か迷ったが、今日のエナには率直に振舞った方がいい気がした。…いや、今まで単に自分が壁を作っていただけで、この人にはいつでも率直な方が有効なのかもしれない。と、気がついた。
「あの、僕の方からも一つ質問してもいいでしょうか?」
「まだ時間は十分あります。答えられる質問なら、答えましょう。どうぞ」
「母を知っているのですか?」
回りくどい訊き方をしても意味がないだろう。単刀直入に訊いてみた。
「あなたのお母様は、私の事を知りません。ですが、私は一度見た事があります」
「そうでしたか」
意外なほどあっさりと教えてくれた。エナは執務机に置いた自分の手を見ながら
「美しい人でした。…とても」
と、続けて言った。ふっと顔を上げると、ウォルターの顔を見た。それから
「そういえば、夏にお姉様がいらしていたと…」
「はい…」
「お姉様は、お母様に似ておられるの?」
「僕にはわかりませんが、母を知る周囲の大人からは、母に似ているといわれるそうです」
外見は母譲りのイブリンだったが、恐らく気質の類は父譲りだろう。そんな気がする。翻って自分は容貌も気質も母譲りのようだった。遺伝上の父親に似ていたいとは、全く思っていなかったので、文句を言うつもりはないが。
「そう、なら、美しい方なのでしょう。私もお会いしたかったけれど、お姉様の方は、私などには会いたくなかったでしょうね」
と、エナが言い出しだので、ウォルターは仰天してしまう。
「いえ、姉もお会いしたいとは言っていたのですが、博士の方も忙しいだろうからと、遠慮して…」
「そうでしたか。そうですね…八月はまだ忙しかったかしら…」
と、エナが呟いたので、益々驚いてしまう。どうやら、本気で言っているらしい…。ウォルターが呆気に取られていると、エナが顔を上げた。
「まあ、よいでしょう。またの機会があれば、私の方にも伝えていただけると助かります」
「…わかりました」
「ロブ・スタンリーには伝える必要はありません」
「そうですね」
それに関しては全く同意見だ。エナに言われずとも、最初からイブリンをロブに会わせるつもりなど毛頭ない。
…それにしても、エナの反応は、なんとなくザナー先生の時のアナベルと似ているような…と、妙なところで母娘のつながりを感じて、ウォルターは複雑な気分になった。
もっとも会わせたくない理由に関して言えば、ザナー先生とロブ・スタンリーでは真逆だろうが。ナイトハルト・ザナーは、自分から女性を口説きはしないが、ロブ・スタンリーは無節操だ。
「他には、何か訊きたいことがありますか?」
「いえ」
本当は色々とあったが、答えてもらえるとも思えない。またの機会があるかもしれない。
「そうですか、それならば、今日は終わりにしましょう。よいですか?」
「はい」
何から何まで異例尽くしだ。だが、今までの面会に比べると徒労感がない。いつもより今日の方が不毛ではなかった気がする。
ウォルターはエナの言葉を合図に、一礼すると執務室を後にした。
金曜日、ウォルターの家に入ったアナベルは、キッチンの椅子にリュックを置きながら
「昨日の面会、どうだった?」
と、訊いてきた。キッチンテーブルの椅子に座って、彼女を待っていたウォルターは、前置きをすっ飛ばしたその質問に、読んでいたタブレットを無言で閉じた。
「うん…」
と、切り出すと、母とイブリンに関するところを省いて、昨日の面会の様子をかいつまんで、説明した。
「…セキュリティチームの画像解析の結果、黒い長い髪の小柄なアジア系の女性があやしいって結論が出たんじゃないかな?」
「技研の人なのかな?」
「それはわからない。そういう人がいないか、ドクター・ヘインズに確認してみてくれる?」
「わかった」
「まあ、髪型なんてウィッグとかで、いくらでもかえられるけどね」
「ま、そうだな」
「とにかく、思ったよりましだったよ。無駄に長引かされもせず、次回もああだと助かるんだけど…」
「お前、いつもどんな感じなの?」
「うーん、別に。立ったまま延々教科報告をさせられている感じ。本来、無駄で不毛な面会時間の義務を、少しでも有意義にしたいって、気持ちの現れなのかな」
「…なんだ、それ…」
「だから、習っている教科の進捗とかの報告だよ。セントラル校の現在のレベルを、生徒の側から知りたいんじゃないの?」
アナベルは唖然とした。一時間延々教科の報告…自分には耐えられそうもない。
「お前…」
「だから、昨日は違ったんだって」
「そうなのか?」
「うん。そういえば君、三学期の中期試験の後、僕の話をエナにしたの?」
「え?」
「試験にF評価が無かったのは僕のおかげだって…」
「ああ…」
と、呟くと、アナベルは何故か顔をそむけた。
「嘘は言ってないだろう。その、エナが嫌味たらしく言うから、つい…」
「いや、お礼を言われたんだ」
「えっ?!」
「僕のおかげで、F評価を免れたから、お礼を言いますとか何とか…」
「なんだよそれ…」
「何が?」
「私には嫌味ばっかだぞ?その時だって、情けないとか人の迷惑を考えろだとか、他にも色々…。八月なんて、落ち着きが無いのは生まれつきだから、もうどうしようもない、とまで言われたんだぞ…」
「それは…」
流石にひどい、なんと慰めていいのかわからない。若干…本当のことだけに。言いよどんでいると、アナベルはまたしてもテーブルに突っ伏した。
「いいんだ!どうせ、落ち着きが無くて、無駄に力強いのだけがとりえなんだ!」
と、大袈裟に被害を訴え出したので、ウォルターはなんとなくおかしくなってきて、つい笑ってしまう。ふいに勢いよくアナベルは顔を上げると、目を眇めてウォルターを見た。
「おい、今、笑っただろう?」
「いや…」
反射的に口元を覆ってしまう。
「いや、笑った」
「なんだよ、笑えって言ってたのは君じゃないか」
「今のはバカにして笑ってた…」
と、ますます目を眇める。
「ごめん…」
と、ウォルターが謝ると
「別に…」
と、ややつっけんどんな言葉が返ってきた。続けて
「よかったじゃないか」
と、アナベルが横を向いたまま言い出した。
「何が?」
「エナのこと。険悪なのよりはいいだろう?」
と、言葉を続ける。ウォルターは素直に頷いた。
「確かにそうだね…ありがとう」
彼女といると時折感じる、なんとなく、穏やかで幸せな気持ち…自分ひとりでは決して体感することのない暖かい…その感覚に包まれる。
アナベルは少し首を傾げて、ぼんやりとウォルターを見ていた。ウォルターがアナベルの視線に気がついて、顔を上げると、彼女は慌てて目をそらした。




