プロローグ
執務室に一組の男女が居た。
女性は来客用のソファに座り優雅に紅茶などを飲んで過ごしていたが、男性に話し掛けるような無粋なことをすることもなければ、男性もそんな女性に構うでもなく忙しなく詰まれた書類に次々と何かを書き込んでいる。
手入れの行き届いた銀の髪を肩程まで伸ばした男性は、整った顔に険しさを滲ませながら書類群を睨め付けるように作業をしていた。歳の頃はまだ二十前後といった若さもあり、このような執務室を有した屋敷に住んでいることも、そのような場で作業をしていることも似付かわしくないように思えるが、そのようなことは些事でしかないとばかりに青年は仕事に没頭していた。
が、しかし。
突然、ノックも無しに扉が開かれ使用人と思われる服装の男性が息も絶え絶えに執務室へと乱入してきた。
「大変です、ノート卿!」
使用人の激しい声とは裏腹に、ノートと呼ばれた青年もお茶を愉しんでいた女性も視線を向けるだけで慌てる様子はない。
「仕事中だったというのは見るまでもなく、伝えてあったので分かっていると思うが……さて、取り敢えず彼女の向かいにでも座るといい。今なら彼女が淹れてくれた茶も飲めるぞ」
「それどころではありません! 王城で――」
「待て。まあ、待て」
ノートは苦虫を噛み潰したような表情で使用人の言葉を手で制すると、一つ溜息を吐いて続ける。
「俺は忙しい。何も今忙しかった訳じゃあない、ここ数年ずっとだ。長年勤めていてくれているだけに、お前も既知の事とは思うが……さて、長年の付き合いだけに、俺が何を嫌うかも知っていたはずだよな? ん?」
そう言われた使用人は数か月振りに見たノートの笑顔を見て、これは解雇も有り得るのではないか、と懸念はしたものの、それでも言葉を続けることにした。
「多忙の中、更に邪魔をされることが何よりも嫌いであることは承知しているのですが……恐れながら、今回ばかりは聞いて頂きます!」
「……ほう?」
この屋敷に住み始めてから何年も経つが、自分に食い下がる使用人も珍しい。そう思い、ノートは素直に彼の言葉を聞いてみることにして、女性の向かい側に座った。
「俺にも、一杯もらっていいか?」
「まあ。図らずも貴方とお茶がご一緒できるだなんて、嬉しい事件ね」
彼女が立ち上がりティーポットから紅茶を新しく注いでいる中、使用人が告げる。
「謀反です! 王城にてナイジ=スタータス=カイズ将軍が謀反を起こしました!」
この緊急報告を以て、何年も仕えた主の慌てた顔を珍しく見ることになるだろうと思った使用人は拍子抜けすることになった。
「――そうか」
なにせ、その報告を受けた主人が驚くどころかカップに口を付けお茶を啜りながら、あまりにも平静に一言だけで済ませたからだ。
「ノ、ノート卿! これは誠の話です、信じて頂きたい! しかも、謀反は成功したようで我が国イマァス国王陛下は崩御、ご子息達は消息不明との事です!」
あまりの平静さに思わず使用人の方が慌ててしまい、彼が信じていないのだと思い状況説明を試みるのだが、それでもノートの顔色が変わることはなかった。
「消息不明――か、そうでなくてはな」
むしろ、少し嬉しそうにさえ見えて使用人は狼狽した。
「ゆ、ゆっくりとしている場合では……貴方様もイマァス国の爵位を持つ者、これからの事を考えなくては……!」
その言葉にはノートではなく、最初から最後までゆっくりとティータイムを愉しんでいた女性が口元に手を当てて、くすりと笑う。
「ん、なんだ? 機嫌が良さそうじゃあないか」
思わずノートが聞くと、彼女はくすくすと尚も笑いながら言った。
「いやですわ。一番楽しんでいるのは貴方の癖に」
そして、使用人はここ数年の間、滅多に見た事のないノートの無邪気な笑顔を見ることになる。
「――ああ、そうだな。そうかも知れない」
言うとノートは立ち上がり、使用人に今後のことは心配ないから安心しろと告げ、部屋から追い出してしまう。
そして、棚から一冊の本を取り出した。
「俺の計画とは大分違うシナリオになるようだが、待っていたと言えばこの展開を待っていたのかも知れない……」
棚にある本達は、一度興味を失ったのか、執務室にあまり人を入れたがらないノートが使用人が入るのを嫌ったのか、多少の埃が見えた。だが、今手に取り優し気に撫でた本には一切の埃はなく、何度も見ていることが伺える。
「さて、始めるとしようか――」
「直ぐに動くので?」
「もちろんだ」
振り返ってノートは無邪気に笑った。
「――これでやっと、恩を着せてやれるのだからな」