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私、マリア・ローズベルトには婚約者がいる。とても美しく、皆から慕われている完璧な、そしてこの国の王子である婚約者が。
私が、彼と婚約したのは十歳の時の事だった。
私はローズベルト伯爵家の長女で、三人いる兄弟の中で女子は私しかいなかった。貴族社会では政略結婚は自分より高い位か同じくらいの相手と結婚することが一番家に貢献できるとされている。
そして私の同年代にはなぜかほとんど子息や令嬢がいなかった。そのことについて侍女のハンナに愚痴ったことがあったが、私を溺愛するお父様が、私が結婚しないようにとお母様の懐妊が分かった後貴族たちに暇ができないくらいに仕事を渡したという噂も流れていたと聞いた。ありえないと思いつつもお父様ならやりかねないなと思う。そんな噂が流れるほど娘を溺愛しているといると知られているのかと思うと恥ずかしいのでこのことは考えないようにしよう、うん。
そんなこんなで、私より二つ上でこの国の第一王子であるレオンハルト・カーライルとの婚約はほとんど必然だったように思う。
なので、両親からそれを聞かされても、優しい人だったらいいなと思ったくらいだった。政略結婚の相手に不足はないし、十歳では学園に通ってはいたがまだ社交界に出るような年ではないのでほとんど外に出ず、その王子に会ったことも噂も聞いたことがなかった。たまに遊びにきてくれる同年代の友達、ユーリや、二つ下の弟と遊んだり、五つ上の社交界で王子だ、貴公子だと騒がれているお兄様も忙しい時間の合間を縫って会いにきてくれていたのでそれで十分だったのだ。
しかし、結婚は何年も先だからといって婚約をしたからには会わないわけにはいかないので顔合わせの時間が設けられた。
◇◇◇
「お前なんか大嫌いだ!」
お父様に連れられて行った、王城の応接室で初めて顔を合わせ、挨拶をしようとした矢先に言われた言葉だった。
初めて見たレオンハルト王子は光輝くような金髪に、燃えるような赤色の瞳を持った、美男子だった。その王子が、お前もお前の家族もな、そう憎々しげに吐きすてる。自分で言うのもなんだが私は、お父様の美形の遺伝子を受け継ぎ、艶やかな蜂蜜色の髪にお母様ゆずりの赤みがかった橙色の瞳を持った美人だ。だから、気に入ってもらえるとはいかないでも悪い印象は持たれないと思っていた。元々の顔もだが、今日はお気に入りのドレスを着て、目一杯おめかしをしてもらったつもりだった。みんなから可愛いと言われていたので自惚れてしまっていたのか。
その後、王と王妃に怒られてしぶしぶ彼は挨拶をしたが、怒られても嫌いという発言は撤回しなかった。
初めて会ったのに嫌いと言われ、訳が分からなくなった私はその後のことをよく覚えていない。きちんと挨拶を返せていただろうか。ぼんやりとしたまま家に帰る馬車に乗る。そして、自分の部屋に帰るとドレスのままベッドに突っ伏して泣いてしまう。自分に向けられる嫌悪とはこんなにも恐ろしいものだったのか。今まで好意しか向けられていなかった私には到底受け止めきれるはずもなかった。そして私が思っているより心の中ではこの顔合わせを楽しみにしていたのだ。おめかしした私を王子が褒めてくれて、みんなで笑い合う、そんな想像をしていたのだ。そのまま声もあげずに泣く私に侍女たちはオロオロしている気配がする。しかし、今はそんなことを気にする気力も残っていない。
そんな時ハンナが私のそばにくる。
「お嬢様、差し出がましいようですがレオンハルト様にも事情がおありになるのではないのでしょうか。」
「私が覚えていないだけで気に触ることをしてしまったのかしら…?」
「いいえ、お嬢様。お嬢様は何も悪くありません。今はまだ言えませんが、お嬢様が大きくなったら旦那様がきちんとお話しされるでしょう。」
「そう…」
そうハンナに教えてもらったが、やはり恐怖は消えない。
後日にも埋め合わせ、と茶会にお父様を介して誘ってもらったが、行く気になれずレオンハルト王子を避けるようになった。何回も誘いを断っているとお父様が悲しげな顔でごめんなといってそれから何も言わなくなった。
これが私たちの最悪の出会い。
◇◇◇
それから月日は過ぎ、十四歳になった。この国の成人は十五歳なのでもうすぐ成人だ。
私の学園の友達も、みんな社交界デビューに胸を躍らせ支度を始めている。
ユーリに誰にエスコートしてもらうのかと聞くと婚約者と言っていた。ということは私もレオンハルト王子と行かなければならないのか。あれからずっと会っていないがお父様も何も言わないのであまり気にしていない。だがこれだけ会っていないにも関わらず婚約破棄がなされる気配はないのでこのままきっと私はレオンハルト王子と結婚するのだろう。
そうぼんやりと思いながら一人で廊下を歩いていると使用人達の声が聞こえてくる。やけに盛り上がっていて声が大きく部屋の外に漏れていた。教えてあげようと扉を開けようとすると自分の話題になったので手を止める。
「そういえばお嬢様の社交界デビューのパートナーはレオンハルト様かしら?」
「そうじゃないかしら?けどレオンハルト様は可哀想よね。自分を殺そうとした人の娘と婚約なんて。」
「そうよね。あっ私見たわ。お嬢様とレオンハルト様が初めて顔を合わせた時大嫌いって言われてたわよ。やっぱり王子にも思うところがあるのね。」
「何?殺そうとしたってどういうこと?」
「あら、あなた知らないの?私たちも働き始めた時のことだったから詳しく教えられてないけれど、旦那様の指示で王妃様の侍女が王妃様のお腹にいたレオンハルト様を殺そうとしたのだって。お嬢様が生まれる前、一時期その噂で持ちきりだったのよ。」
ーー何を言っているんだろう?
背筋が凍るようだった。その後も話が続いていたが、全く耳に入ってこず、呆然と立ち尽くす。そして徐々にズルズルとしゃがみこむ。
そうなのか。だから私は嫌われていたのか。そりゃあ自分が殺されるかもしれなかった相手の娘と結婚したいとは思わないだろう。そう言われるとあの態度も納得できる。そう聞いたからにはできるだけ近づかないようにしよう、それが私に出来ることだ。王子は私のことが嫌いなのだから。政略結婚でも、お父様とお母様のように仲睦まじい夫婦なりたかったが、そうはいかないようだ。私がどれだけ彼を愛そうとしても、彼が私を愛することは一生ない。
そう決めたと同時にハンナが駆け寄ってくる。扉の横で座り込んでいる私を心配してのことだろう。どうしたのかと問うハンナに、何でもない、と言い部屋に戻る。すると、ハンナも一緒に戻ってきていて、気分の優れない時にすみませんと言いつつ、話し出す。
「お嬢様、社交界へいかれる際のパートナーには事前に話を通さないといけないのでもうそろそろレオンハルト様に手紙をお書きになってはいかがですか?」
最悪のタイミングでの申し出だ。あまり気は進まないが、嫌がっているとまた心配をかけることになるので諦めて渋々便箋を用意させる。そして社交界に行く時のパートナーをして頂けませんかという旨の色気のかけらもない業務連絡のような手紙を書き上げ、届けるように指示を出す。
その後、数週間後に返信が返ってきた。ちゃんと届いているのかと心配になるほど時間が経っていたし、返ってきた手紙はレオンハルト王子が書いたものではなくその父である王様からだった。それを見て愕然とする。手紙を書くのも嫌なのか。分かってはいたがショックで少し気分が沈む。
それを見たお父様が口を開く。
「マリア、お前が嫌ならパートナーは他の人がやってもいいんだぞ。」
「大丈夫ですわ。心配なさらないで。」
できればそうしたいが、婚約者がいるにもかかわらず他の男性とパートナーになるというのは醜聞になるし、王家への不敬とも捉えられる。そんなことになれば私だけでなく、両親にも迷惑を掛けてしまう。だからそんなことは許されない。我慢するしかないのだ。私はお父様には気づかれないよう、そっとため息をついた。
◇◇◇
やがて社交界デビューの日になった。
結局レオンハルト王子が承諾したので今日のパートナーはレオンハルト王子だ。
今日の私は、瞳と同じ色のドレスに、ダイヤのついたイヤリングをして、髪は横に垂らしている。ハンナ達は似合っていると言ってくれたが、憂鬱な気分は晴れない。なぜならいくら見た目をよくしても憎まれている人には意味などない。考えて余計に落ち込んだが気を取り直してユーリの元へ急ぐ。ユーリも今日が社交界デビューなのだ。会場の入り口に着くと、ユーリを見つけた。声をかけようとすると、ユーリの隣にその婚約者のハルがいて、仲睦まじく笑いあっているのであげかけた手を引っ込める。侯爵令嬢のユーリと伯爵子息のハルは政略結婚のはずだ。今はまだ婚約だけなのにあんなに仲がいい2人を見て羨ましいと思うと同時に微笑ましく思う。ユーリは私の大事な友達だ。幸せになってくれることほど嬉しいことはない。自然と顔が綻んだ。ニヤニヤしているとひとりの青年が近づいてきた。
「待たせてすまない。」
青年はそう殊勝な顔をして謝る。が、
「えっと…どちら様ですか…?」
申し訳ないが、誰かわからない。こんなキラキラオーラを放った美青年と待ち合わせをした記憶はないので、人違いじゃないですか、と言い踵を返す。すると、青年に腕を掴まれ引きとめられる。
「僕だ。レオンハルト・カーライルだ。」
そう言われ、私は固まる。そんな…まさか…。もう一度その青年の方をまじまじと見つめる。そういえばレオンハルト王子の面影があるような…?そういえば髪の色も瞳の色もレオンハルト王子と同じだ。しかし、レオンハルト王子はこんなに私に優しくない。そう見つめていると、訝しげな顔をされたので慌てて取り繕う。
「レオンハルト様、お久しぶりです。その服、とってもお似合いですわ。」
「ああ。ありがとう。貴方もよくお似合いだ。」
レオンハルト王子を褒めるつもりが緊張して服だけ褒めてるみたいになってしまった。だが、レオンハルト王子は気にした風もなくにっこりと笑い、褒め返してくれる。そして、私をエスコートして会場に入り、慣れた様子で
「僕と踊っていただけますか?」
そう言い手を差し出す。私は、もちろん、と言いその手に自分の手を重ねた。
そして1曲踊り終わった後、そばに引き寄せられ腕を組むように促されたので恐る恐る腕を組む。意外な行動にレオンハルト王子を見たが横顔からだとうまく表情が読み取れなかった。
そうしていると周りに人が集まってくる。
「この方がレオンハルト様の婚約者でいらっしゃいますの?お似合いですわね。」
「2人とも仲が良さそうで羨ましいわ。」
そう言われ、複雑な気分になる。レオンハルト王子はありがとう、と返していたが本当にそう思っているのだろうか。今日は優しかったから、父がした事を許してくれたかもしれない、そんな期待が頭をよぎった。しかし、一通り話終わって周りの貴族たちが離れて行くと、すうっと冷たい顔になり私と目が合うと反らしてしまう。そして組んでいた腕を離し、
「じゃあ。挨拶しないといけない人がまだ残っているんだ。」
そう言ってこちらには目もくれずスタスタと去っていった。それを見て悟った。今までのは演技なのだ。王家として、婚約者と仲が悪い、ましてや憎んでいるなどあまりいい話題ではない。それを理由に謀反が起こるかもしれない。それは言い過ぎかもしれないが、そうなる可能性はなくはないのだ、そんな悩みの種は先になくしておくに越したことはない。侯爵家の私にだって同じことが言える。むしろ憎んでいるのに仲がいいフリをしてくれたレオンハルト王子に感謝すべきなのだ。
ならば私も演じよう。そばに寄り添い、触れる事さえ迷惑なのだから、私にできることはそれしかない。
◇◇◇
レオンハルト王子と会う前、婚約が決まったすぐ後、一度婚約者はどんな人なのか見に行ったことがあった。見に行った時、レオンハルト王子は転んだ小さい子に手を差し伸べている所だった。その小さい子からお礼を言われ、笑みを返すレオンハルト王子を見て私もついつい笑顔になった事を覚えている。
その時から、その笑顔を私に向けて欲しい、そう思っている。
そう思ったり、レオンハルト王子に近づく令嬢に嫌な気持ちになったりする、この感情の名前は知らないし、知りたくもない。
もし知ったところで余計に辛くなるだけなのだから。