東京から来た「怪物」
東京から引っ越してきて8カ月。
かつては「怪物」と恐れられていたころの面影はなく、雲隠れ同然で転がり込んだ先が、祖父の実家のある、長崎県諫早市である。
「大輝ぃ、はよあせがらんと、まにあわんぞ」
長崎弁で祖父にせかされる。そいぐらいわかっとると、こちらも長崎弁で返事をする。
稲村大輝は、都会生まれの都会育ちで、いわゆる「田舎っ子」とは、縁もゆかりも無かった。
あんなこと言わなければ、東東京の強豪の帝豊高校の特待生も蹴らずに済んだのにな。
こんなド田舎に逃げなくてよかったのにな。
去年の6月、中体連東京予選で事は起こった。
その試合は、7回の攻撃終了時点で7対0。そのまま勝てたはずだった。
相手は一番から。ボールカウント2S2Bからのスライダー。
空振り三振だったのに、バッターは走っていた。キャッチャーが後ろに逸らした。
振り逃げ。
ここから、一気に流れが崩れた。
二番への初球、振り逃げのランナーが二盗、送球が上ずりその間に三進。
平凡な外野フライを打たせたらレフトが落球、エラーとヒットが同時に記録。
7対1、ランナー二塁。
これまた平凡なサードゴロをトンネル、ショートがカバーリングしてくれたが、内野安打。
ランナーは一、ニ塁。
四番はセンターライナーと思いきや、センターが芝で不様にずっこけ、二塁ランナーがホームイン、一塁ランナーは三塁、打者走者も二塁へ。
7対2、ランナー二、三塁。
五番はファーストがフライをバンザイ、ライトもトンネル。センターのカバーリングもむなしく、二人ホームイン。
7対4、ランナーは二塁。
六番に投げた、インローギリギリのカーブ。
良い音が響いた。
ツーランホームラン、7対6。
「ふざけんな!」
そう叫んだ。
「両チーム、整列!」
は?なんで?まだ1点差…。
「投手、稲村の規定違反により、没収試合とする。よって、光明中の勝利!」
え、え、え、え、え、…。
しばらくの間、頭の中が真っ白だった。
後日、校長に呼び出され、その日の生徒総会で土下座させられ、マスコミが家の前で待ち伏せており、裏口から入ってなんとか運び出した家具と共に目指したのは、祖父の実家のある長崎県諫早市。
その後も、「元田児中・稲村、失踪!」とデカデカと書かれた野球雑誌を見かけた。
今、周囲に自分の過去のことを知るものは、祖父と両親しかいない。
辰野山農業高校に入学が決まっても、野球部があることも知らず、あっても入る気もなかった。
しかし、野球部に入部し、初の全国大会に導くことも、全く考えていなかった。
長崎を舞台にしているため、長崎弁で会話をするシーンが出てきますが、間違っているかもしれません。もし間違えていたら、コメントで教えてください。