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「ど、どうぞ……」
「お邪魔しまんどらごら」
「は、はい……」
「お邪魔しまやがしのぞむ」
「ご、ごめん……。ツッコむ気力が……」
真夜樫はおとぎの家のような豪邸とは違って、五階建てマンションの三階に、両親と共に住んでいた。
いつもはエレベーターを使って三階まで上がっているのだが、今日は不知火がいるのでかっこつけて階段で上った。「えー、たった三階なのにエレベーター使うのー? ひ弱ー」とか思われたら恥ずかしいからである。
でも運動神経が悪く、日頃から運動不足な真夜樫は三階に着いた頃には息が上がってしまっていた。これなら普通にエレベーターを使った方が情けない姿を晒さずにいられたのにと後悔した。
「あれ? 望、お帰りー! 今日部活じゃなかったっけ? 早かったわね!」
「うわ、マ……母さんいたの?」
ドアが開いた音を聞いて出てきたのは、真夜樫と同じような黒縁眼鏡をした、奇抜なファッションのきれいな女性だった。とても若く見えるが、彼女は既に三十代後半、れっきとした真夜樫望の母親である。
彼女は楼閣島のローカルファッション雑誌の編集長であり、そのせいか普段から他人の母親とは少し違ったファッションをしている。良い年して奇抜なコーディネートで毎朝出勤していく母親を見ると、恥ずかしい気持ちになる。
「うわって酷いわねー。お友達が風邪で来れなくなったから今日のお出掛けなしになったのよ」
「ふーん。それなのに何でそんなばっちりメイク(笑)ばっちりコーデ(笑)なわけ?」
「うふふふふ、良くぞ聞いてくれました! パパがね、それなら一緒に出掛けようって! お仕事、昼で終わりなんだって! 望も行く? 久しぶりに家族水入らずでお出掛けしよっか?」
「二人で行ってこれば? 夫婦水入らずで」
真夜樫の父親は十代の頃からファッションモデルをやっている。母親の雑誌は女性向けのファッション雑誌なのだが、知り合いが父親の活躍していた雑誌の編集で、その繋がりから二人は知り合ったらしい。今でも恥ずかしくなるくらいラブラブな夫婦だ。
父親はそこまで有名なモデルではないのだが、息子の真夜樫から見てもなかなかダンディーでかっこいいと思う。何で自分は全く似ていないのだろう、もしかして橋の下で拾われてきたのだろうかと不安になるくらいだ。
ダンディーな父親や美人な母親と一緒に歩いているとものすごく惨めな気持ちになるので、出来るだけ外では一緒に行動しないようにしていたりもする。
「あれ、そう? もう、親孝行な息子なんだから! このこのっ! ホント良い子に育ったわ!」
「あーもう分かったから! 時間大丈夫なのか?」
「わっ! パパ、待たせちゃう! じゃあ、ママ行ってくるね! 多分遅くなると思うけど晩御飯はもう用意してるからチンして食べてね! パパとママがいないからって女の子連れ込んでエッチなことしちゃダメだぞ!」
「は、はあっ!? さっさと行って来いっ!」
母親は怒らないでよと笑いながら手早くバッグを掴み、ヒールの高いエナメルのパンプスを履いて家を出て行った。
これでやっと不知火を家の中に招き入れることが出来る。
「お母さん、のぞむーに似てた」
「眼鏡だけな」
「他も似てる」
「そ、そうか? 悲しいくらい似てないと思うけど……」
「そっくり」
「そう、かな? あ、ありがとう……」
お世辞ですらそんな風に言われたことがなかった。だからお世辞だろうと分かっていても、とても嬉しい気持ちになってしまうのだった。
「のぞむーの部屋、これ?」
「うん。あ、でもちょっと片付けしたいからリビン――」
「お邪魔しまんごすちん」
「ちょ、不知火っ!?」
話も聞かずに不知火はスッと扉をすり抜けて勝手に真夜樫の部屋に入っていってしまった。
ちょっとエッチな本やDVDはベッドの内側にしまってあるし、書き溜めた恥ずかしいポエムや小説達は机の奥底に封印しているし、自分で勝手に作った廃墟専門雑誌は――廃墟専門雑誌!
朝、机の上に置きっぱなしにしていたことを思い出し、真夜樫は光の速さでドアを開けた。
廃墟専門雑誌とは、真夜樫が恥ずかしいポエムと小説を織り交ぜて作った自主制作雑誌のことである。それを他人に見られるだなんて恥ずかしいどころの話ではない。きっと自害したくなる。
「のぞむー、これ」
不知火が指を差しているのは紛れもなく真夜樫がせっせと作った廃墟専門雑誌だった。
部活以外では家にいることが多い癖に、真夜樫はパソコンを使うことがあまり上手ではなかった。生粋のアナログ人間なのだ。小説やポエムも普段は全部手書きだ。
でも拙いながらも一生懸命パソコンを駆使して中身の文章や表紙のレイアウトやらを何から何まで考え、自分だけの雑誌を完成させた。そしてこっそり印刷所で印刷してもらい、手元に紙媒体として残るようにしたのだ。
凝り性な真夜樫はこの一冊を作るのに半年の時間を有した。寝る間も惜しんで頑張った。誰に作れと言われたわけでもないのに出せる力の全てを出し切った。
だから作った後すぐは何度も何度も見返してニヤニヤしていた。しかし流石に飽きてしまい、何か月か机の奥底にしまったまま放置していた。
今日の朝、久しぶりに雑誌の存在を思い出し、見返してニヤニヤをしようとした。しかし時間がないことに気付き、机に置いたまま家を出てしまったのだ。
「だ、駄目!」
真夜樫は開きっぱなしだった雑誌を急いで閉じて、机の奥へと押し込んだ。
「見たい」
「む、無理だから! 絶対無理!」
「見せてくれないと……のぞむーと合体して生活する」
「ががが、合体!?」
そう言うと不知火は言葉通り真夜樫に重なった。
彼女は実体がないので真夜樫の体をすり抜ける。彼女が言っているのはこのすり抜ける性質を使って、合体しているように見せるという意味みたいだ。ちょっと変な妄想をしてしまった自分が恥ずかしくなった。
「こ、これにどんな意味があるんだよ!」
「ほら、のぞむーの腕四つ」
不知火は両手をパタパタさせている。腕以外は完全に真夜樫と重なってしまっているため、真夜樫の腕が四本になったように見えるのだ。
但しそう見えるのは不知火のことを視認できる真夜樫だけなので、何の意味もない。
「別に人には見えないし、勝手にやってていいよ。だから見せません」
「ご飯も寝るのもお風呂もトイレも一緒」
「……」
ご飯は良い。一緒に寝るのも嬉しい。むしろ大歓迎だ。でもお風呂とトイレは無理である。
何が嬉しくて風呂やトイレと言う狭い空間で不知火に貧相な体を見られ続けなければならないのか。
「……見せます」
それならば恥ずかしい手作り雑誌を見せた方がまだマシである。本文に書いてあるポエム的なものは不知火が読む前に飛ばしてしまえばいいのだ。彼女は物に触れられないから、読めないようにページを飛ばすくらい簡単なお仕事だろう。
「のぞむー作?」
「……はい。お恥ずかしながら……」
言ってしまってから誤魔化せば良かったと思ったが、もうあとの祭りである。
まあ発行・編集人のところにはきっちりと真夜樫望の名前が書かれているし、雑誌名も『MayakaSeach』という真夜樫の名前を彷彿とさせるものだし、いずれはバレるだろうから誤魔化しても仕方ないという結論に至った。
しかし本文のポエムだけは絶対に隠す。何が何でも隠す。
「この写真、見覚えある」
「あ、うん。大体が不知火と一緒に行った廃墟の写真だから……」
「ふーん」
一応撮影したのは全部自分である。何年も使っている携帯のカメラを使って撮った。いくら同じ部活だからといって不知火やおとぎの撮影したものは勝手に使えない。
本当は彼女達が撮った写真で完璧な雑誌を作ってみたいとも思ったのだが、恥ずかしくて言い出すことが出来なかった。
「次のページ」
「う、うん」
次のページは目次になっている。これは楼閣島の廃墟を特集した七月号で、今後も半年おきで発行される……設定だ。ページ数はボリューム満点の百二十六。楼閣島廃墟探索ガイドブックという冊子も付いている。
「つぎー」
次はあれだ。目次を見るに、廃遊園地を扱ったコーナーが十五ページまで続く。一応廃遊園地の概要は説明しているが、ポエム的なものは載せていなかったはずだ。
「あ、ここ。最初に目が覚めたとこ」
「え? マジで? じゃあ不知火はあの日、一人でここに行ったのか……。でも一緒に行ったことあるのに、何でだ?」
「謎」
首を傾げる真夜樫を見て、不知火も同じように首を傾げた。
真夜樫はあの日、不知火にどこへ行くのかを聞いていなかった。ただ行きたい場所があるから一緒に来てくれないかと言われただけだった。
何故彼女はあの日、この廃遊園地に行ったのだろう。考えても答えは全く見えてこない。不知火が記憶を取り戻すしか、その答えを知る術はなさそうだ。
「次、捲って」
「あ、おう」
真夜樫は不知火に言われた通りにページを捲っていく。不知火はどのページも真剣に見て、概要を隅から隅まで読んでくれている。
少し恥ずかしい気持ちもあるが、こんな風にみんながみんな真面目に読んでくれるのなら、人に見てもらうのも悪くない……かもしれない。
十分ほどかけて不知火は廃遊園地のページを読み終わった。次のコーナーは何だったっけと思い出しながら真夜樫はページを捲る。
そして現れた『真夜樫望 ―彼の考える廃墟の定義とは―』というコラムのページを見て、自分でも驚くくらいの速さで雑誌を閉じた。
このページの写真にはおとぎとふざけて撮ったアーティストっぽい真夜樫の全身写真を使っているので余計見せられない。部室の回転椅子にかっこよく(?)腕組みと足組みをして座っている自分の写真なんか恥ずかしくて不知火には絶対に見られたくない。それでなくともおとぎに写真を撮った時に思い切り笑われてトラウマになっているのだから。
でも自分ではなかなか気に入っていたりするのでこのページに使用したのだが。
「見たい。面白そうなページだった」
「ぜんっぜん面白くないから違うページに行こう」
「……あ、さっきのページを見たら何か思い出せそうな気がする」
「う、嘘吐け。今の間は何だよ。一瞬見せてもらう方法考えてただろ」
「考えてない。ちょっと声が出なかった。風邪かな。けほけほ」
「嘘でしょ?」
「ほんとうそ、です」
「どっち!」
明らかに嘘だ。どう考えても嘘だ。絶対上手いことを言って真夜樫の恥ずかしいコラムを見てやろう、ケケケという不知火の汚い魂胆だ。
「じゃあおとぎっちに言う。のぞむーが雑誌作ってるって」
遂に不知火は脅し作戦に出た。
おとぎに雑誌を作っていること知られたらきっと馬鹿にされるだろう。「見せて下さいよ、まやかしせんぱーい」とか言いながら家に乗り込んでくるだろう。ページを捲るたびに大笑いしてくるだろう。それは絶対に避けたい。
でもそれを避けることなんて、ごくごく簡単である。
「雲塚に眼鏡貸さなきゃいい話だから」
そう、おとぎに眼鏡を貸さなければ不知火はおとぎと会話をすることは出来ない。不知火は真夜樫には触れられないから無理やり眼鏡をおとぎに渡すことも出来ない。
これは勝負あった。
「……意地悪のぞむー」
唇を尖らせて不知火は言う。その拗ねた姿が何とも可愛らくてきゅんとしてしまった。
でもここで負けてはいられない。
「意地悪で結構です」
「……いじむー」
「何か一体化してるし!」
どんなに可愛くいじけたって、このページだけはどうしても見せられないのだ。
不知火は何か考えるように口元に手を当て、黙り込んだ。
また何か作戦を練っているのだろうかと注意深く様子を窺っていると、彼女はいつも通りのボーっとした表情で口を開いた。
「……じゃあ、いつか見せてもらう。もっと仲良しになったら見せてくれる?」
真夜樫の返事を待つように不知火は小首を傾げる。
「え? お、おう……」
「やった」
嬉しそうにふんわりとした笑みを浮かべる不知火を見ていると、こちらまで温かい気持ちになる。
そして、こんなに彼女は見たがっているのに頑なに見せようとしない自分が何となく恥ずかしく思えてくるのだった。
「あの……笑わない……?」
「ん?」
「さっきのページ、見ても笑わない?」
「何で? 何で笑うの? 親父ギャグ集が載ってる?」
「い、いや。別に載ってないけどさ……」
「じゃあ、ギャグ四コマ?」
「そうじゃなくて! ……俺の書いた文章とか詩とか……」
「ギャグの?」
「ふ、普通の! いや、一応普通……なつもり……」
自分の作品なんて、まだまだ人に見せられるレベルには達していない。きっと人から見れば馬鹿馬鹿しくて低レベルで欠伸が出るくらいくだらないはずだ。笑われて、こきおろされて、失笑を買うのが当然のものなのだ。
だから見られたくない。笑われたくない。
いや、本当は見てほしいのかもしれない。誰かに批評してほしいのかもしれない。
でも雑誌の編集長をやっている母の仕事を今まで何度も見ているから自分で自分の作品が低レベルだと分かっている。
だから人に見せるのが怖いのだ。
『ああ、君ってこの程度なんだ』と思われるのが怖いのだ。
「そんなこと、気にする必要ない」
「……え?」
「のぞむーが批評してほしいならきっとみんなしてくれる。その中には酷評もあるかも。でも笑わない。のぞむーが一生懸命作ったものを笑うわけない」
「あ、あああ……ももも、もしかして口に出して言ってた!?」
「言ってた」
顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。心の声を思い切り口に出して言っていたらしい。
心の奥底のことを他人に吐露したのは初めてだった。親にも誰にも話さずに、ずっと胸の奥にしまっておいたのだから。
それがこんな風に他人に伝わってしまうとは思いもしなかった。
「のぞむーは自分に自信を持つべき。君はとっても素敵な人」
「そ、そんなお世辞は良いよ。記憶ないんだし、俺達まだ会って数時間じゃん」
「お世辞じゃない。そういうことって魂で覚えてる。私、不知火の魂だから」
「ど、どーだか……」
不知火がお世辞を言っているのか、はたまた本当に魂で覚えているのかは分からない。
でも何だか心の中のわだかまりが少しだけ溶けていったような気がした。嘘だとしても本当だとしても、そんな風に言ってもらえるとやはり嬉しいのだ。
「そんなに言うならどうぞ。でもがっかりしても知らないからな」
真夜樫はそう言って先程のページを広げ、机の上に無造作に置いた。
すると不知火は雑誌に顔を思い切り近付けて文章を読み始めた。
そんなに顔を近付けたら写真とキスをしてしまうぞとドキドキしつつ、見て見ぬふりをした。
「ふむふむ」
不知火は一通り読み終わったところで、そう言いながら顔を上げた。
「あの、どうだった?」
「のぞむーの考え方、私は好き」
『好き』
その一言で真夜樫の心のわだかまりが一気に融解していく。
好きという言葉にこうも魔力があるとは思わなかった。
文章が上手だとか、レイアウトが素敵だとか、プロみたいだとか言われるよりも、嬉しくて温かくてほっとする言葉だった。
「のぞむーのこともっと知りたい。もっと見せて」
愛の告白にも似たその台詞に、真夜樫の心拍数は跳ね上がる。
不知火の顔が写真ではなく、真夜樫本人に近付いてくる。緑と青の交じり合った碧海のような大きな瞳に捉えられ、動くことが出来なくなる。
何もかも見透かしているような不思議なその瞳に魅せられて、息をするのも忘れてしまいそうだった。
「う、うん。分かった。あの……ありがとう」
「何が? 本当にお世辞じゃない」
「うん。嬉しかった。ありがとな」
「こちらこそ。……でも」
「でも?」
「この写真はちょっと吹き出しそうになった」
「うわあああっ! やっぱ見せるのやめっ!」
顔を真っ赤にしながら急いで雑誌を閉じると、不知火はいたずらに笑ったのだった。