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病院を出てからもおとぎは眼鏡を返してくれなかった。それに加えて何だか不知火と楽しそうに会話を繰り広げている(ように見える)ため、真夜樫は取り返すタイミングを失ってしまった。まあ真夜樫も異性よりは同性の方が話しやすいし気が楽だったりするので、おとぎや不知火もそうなのだろう。
でもやはり一人で放っておかれると疎外感を感じてしまう。だから「そんなに仲良くなったなら雲塚が家に招待すれば?」と半ば拗ねながらおとぎに言ってしまった。
「拗ねないで下さいよー。はい、お返しします」
おとぎは眼鏡を外し、それをご丁寧に真夜樫の顔に掛けてくれた。
でも真夜樫はありがとうとは言わなかった。窃盗したのだからこれぐらい当たり前のことだと踏ん反り返っておいた。
「やっぱりまやかし先輩に懐かしさを感じたってことですから、まやかし先輩と一緒にいた方が良いんじゃないかなって私も思いますよ」
「あ、不知火に聞いたのか」
「話した」
見上げると、不知火がこくりと頷いた。
「はい。でも変なことは絶対にしちゃダメですよ、まやかし先輩」
「だだだ、だから俺はそんなことしないって!」
「うわ、この焦りよう。『しない』んじゃなくてホントはしたいけど『出来ない』んですね?」
「は、はあ!? ち、違うわ!」
こっちはそんなこと一言も言っていないのに、勝手に変な想像をして勝手に人のことを軽蔑の眼差しで見つめないでほしい。言っていないだけで変なことを考えていないわけではないのだけれど。
でもそれは健全な青少年がする当たり前の何てことない妄想なので放っておいてもらいたい。
「何かされそうになったら念力送って下さいねー。すぐ飛んでいきますから!」
「だ、だからっ! つーか念力!?」
「大丈夫。のぞむー優しいから」
口の端をやんわりと持ち上げながら、春の日差しのような柔らかい表情で不知火はそう言った。
記憶はなくしているが、やはりどこかで真夜樫のことをちゃんと覚えていてそう言っているのだろうか。それともただ信用しやすい性格なだけなのだろうか。
どちらが正解なのかは分からないが、真夜樫は不意に顔が熱くなるのを感じた。
「では私はこの辺で失礼しますね」
「え、お、おう。家、どの辺だっけ?」
「それです」
おとぎが指差したのは豪壮な構えの邸宅だった。お手伝いさんが一人や二人、いや五人くらいいてもおかしくないくらいの豪邸だ。
執事の運転する最高級リムジンで毎朝登校し、フリルやレースのあしらわれた純白のワンピースを翻しながらクラスメイトに柔らかい笑顔で「ごきげんよう」と挨拶するようなお嬢様が住んでいるのだろう。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花ってな感じの、美人でおしとやかで誰にでも優しい慈愛に満ち溢れた聖母のような金髪碧眼のお嬢様が――。
「金髪碧眼しか合ってない!」
「は? 何の話ですか?」
「い、いや。俺のお嬢様のイメージの話」
「まやかし先輩のお嬢様のイメージとかけ離れていてすみませんでしたねー」
おとぎは気を悪くしてしまったようで、眉間に皺を寄せながらぷっくりと頬を膨らませた。
それにしても、おとぎがこんな豪邸に住むお嬢様だとは全く知らなかった。おとぎと話すことと言えば、部活の話がほとんどで、今までお互いのプライベートな話なんてほとんどしてこなかったのだ。
「おとぎっちすごい。お姫様」
「お、おてんば姫だな」
「誰がおてんばですか! おしとやか代表おとぎちゃんに失礼ですよ!」
「お、おしとやか……?」
「おや、先輩は根暗代表ですか?」
「こら! 言って良いことと悪いことがあるでしょ! もう分別付くお年頃でしょ!」
自分が根暗だということは重々承知だが、人から言われると何だか無性に腹が立つ。
「あ、おばちゃん代表ですか」
「俺、生粋の男の子だから! 危険な狼さんだから!」
「おー、狼発言出ましたよー。不知火先輩の貞操はこの俺が守る!」
「お前、お家の前でそんなこと言っちゃって良いのか!?」
「この辺りじゃエロプリンセスで通ってますから良いんです」
「なにその二つ名! 俺のお嬢様イメージ崩すなよ!」
真夜樫のお嬢様に対するイメージが足元から崩れていく。もっとお嬢様というものは清楚で可憐だと思っていた。
「まやかし先輩に現実を思い知らせたところで私はそろそろ家に入りますかねー。では不知火先輩、また明日!」
「うん。また明日」
おとぎは不知火がどこにいるか分からないからか、四方八方にぐるりと挨拶をした。不知火はおとぎが方向を変える度に彼女の視界に入るように一生懸命移動していたが、おとぎにはその頑張りは全く伝わらないのだった。
「おいっ! 俺のこの微妙な気持ちをどうにかしていけー!」
真夜樫がそう言うと、おとぎはくるりと振り向いてにっこりとほくそ笑み、
「まやかし先輩の思っているお嬢様はただのまやかし、ですよ」
と妙にかっこよく決めると、門の中に入ってしまったのだった。
「かっこつけてるけどそれただのダジャレだよな!」
真夜樫のツッコミは果たしておとぎに届いたのだろうか。