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「先輩! まやかし先輩っ! そんなところ勝手に入って良いんですか!」
銀杏の葉のように美しく色づいた金色の髪を揺らしながら、碧眼の少女は目の前の少年に呼び掛けた。まやかし先輩と呼ばれた少年は不満げに振り返る。
「俺、真夜樫だから。まーやーがーし。何度言ったら分かるんだよ。記憶喪失?」
彼の名前は真夜樫望。彼の言う通りまやかしではなくまやがしである。しかしまやかしの方が言いやすいのか、金髪の彼女はいつもまやかしと呼んでいた。何度訂正しても直してはくれない。
「こっちの方が呼びやすいですから。何でそこに濁点付いちゃったんですか? 無駄ですよ、その濁点。正直言っていらないです」
「い、いるから! だったらお前のおとぎって名前から濁点取っておときにしてやろうか!」
「どうでも良いです。ってあー、まやかし先輩! そこ、めっちゃボロいですって! もっとゆっくり行きましょうよ!」
真夜樫望の部活の後輩、雲塚おとぎ(くもつかおとぎ)は心配した様子で叫んだ。
真夜樫望と雲塚おとぎは同じ高校に通う先輩後輩という間柄で、同じ写真部に所属している。たった二人しか部員がいない、しがない写真部だった。
今日はその写真部の活動で廃工場に来ている。そして真夜樫は先程から入りにくい場所に入ってみたり、わざわざボロボロになった床を歩いてみたりしていた。
「急がないと日が暮れる。何も見逃したくないからな。最高の場所で最高の写真を撮りたいんだ」
「はいはい。その写真を撮るのは私なんですけどね。先輩だけ先々行ったって意味ないですよ」
おとぎは首から下げたデジタル一眼レフカメラを掲げてみせた。
そう、真夜樫は写真が撮れない。カメラも携帯のカメラしかない。しかもスマートフォンが普及したこの時代に、何世代も前の携帯を使っている。画質ははっきり言ってクソだ。
「俺がこうやって安全を確認したら、雲塚が安心して写真を撮ることが出来るだろ?」
真夜樫はそう言って振り返る。するとおとぎは面を食らった様子で黙り込んだ。
一呼吸置いてから、にっこりと微笑む。
「ふーん。言うことだけはちょっぴり男前ですね」
「言うことだけはっていうのは余計で、うわああああっ!」
「ちょ、先輩っ! 大丈夫ですか!」
かっこつけたそばから真夜樫は廃材に足を引っ掛けてすっ転んでしまった。周りに砂やら何やらが混じった埃が舞う。そのせいで服や茶色がかったボサボサの髪が埃まみれになった。
真夜樫はけほけほと咳き込みながら心配そうなおとぎに自分が無事だということを伝える。転んでしまったことが恥ずかしかったので、少し強がりながら。
「だ、大丈夫、大丈夫。怪我もない、うん。ちょっと油断してた。ちょっとだけ」
「あ、先輩はどうでも良いです。大丈夫って分かってるんで。それより廃墟ですよ、廃墟。時間を掛けて自然に朽ち果てるところに魅力があるんですから荒らさないで下さいよね!」
「あ、お、おう。そうだよな。でも先輩、何か複雑な気分……」
「せんぱーい。眼鏡、ずれてますよ。目の下のクマが丸見えです」
「あ、はい……」
何故か敬語になりながら黒縁眼鏡のズレを直した。しかし眼鏡に付いた埃が気になってしまい、渋々外して眼鏡拭きで拭き始める。
真夜樫は生まれつき目の下のクマがすごく濃かった。それを隠すために昔から伊達眼鏡を掛けていたりする。本当は両目とも裸眼で一・五くらいあるほど視力は良かった。
「眼鏡、邪魔じゃないですか? 別にクマなんて誰も気にしませんよ。気にしてるのはまやかし先輩くらいですね」
「誰も気にしないんだったら俺だって眼鏡なんか掛けたくないわ」
「あー、まさか誰かにからかわれた、とか?」
図星だった。真夜樫は恥ずかしくなって、おとぎに背を向け勝手に廃墟探索を再開した。バラバラに散らばった鉄材を避けながら歩を進めていく。
おとぎはそれを追いつつ言った。
「別に気にする必要ないですよ。言いたいやつには言わせとけば良いんですから」
「……言っとくけど小学生の時の話だぞ? 今は別に何も言われてない」
「じゃあいらないじゃないですか。ホントは目、良いんでしょ? 煩わしくないですか?」
「言われないのは眼鏡を掛けているからだろ」
「いやいや、ガキじゃないんだから。流石に何も言われませんて。気にし過ぎですよ。私だって何も言いませんよ? 徹夜明けのサラリーマンだなんて絶対」
「言ってますよ、お姉さん」
真夜樫は苦笑いを浮かべながら奥へ奥へと進んでいった。
天井がところどころ抜けているため、太陽の光が工場内にさんさんと降り注いでいる。ちょうど今は八月初旬。今日の最高気温は三十一度。しかも虫に刺されたり怪我をしたりしないように、真夜樫もおとぎも長袖長ズボンを着用し、がっちりした靴を履いていた。完全に夏の装いではない。
「先輩、少し休みませんか? 私、暑くて暑くて。それか写真をさっさと撮って駅の喫茶店でかき氷食べましょうよ。あ、それが良い。それにしましょう!」
「まだ納得いく場所が見つからない。休憩なら許可しようぞ」
「えー、まだ先輩の心の琴線(笑)に触れてくれないんですかー。もうちゃっちゃと撮ってかき氷食べましょうよー」
「と言いつつ座るんだな」
真夜樫は工場内のものを動かしたりしないように注意しながらおとぎの隣に腰掛けた。おとぎは持ってきていたペットボトルのお茶をぐびぐび飲んでいる。
「生き返るー。それにしても朝から来たっていうのになかなか撮影ポイント決まりませんね」
「いつものことだろ」
「いつものことですけど、今まで以上に先輩の大好きな錆びた金属まみれですよ、ここ」
「うーん、そうなんだよな。でもどうもしっくりこないんだ。というか今まで行った廃墟もあんまり俺の心の琴線に触れなかった。妥協した感じ」
「それ、いつも言ってますよね。まやかし先輩の心の琴線(笑)がおかしいんじゃないですか?」
ニッと意地悪な笑みを浮かべておとぎは言う。
「いや、俺は全くおかしくない」
真夜樫はキッパリと言ってのけた。自信満々に。
「じゃあ何なんですか。真夜樫の心の琴線に触れる廃墟とは?」
そう言って何かのBGMを口ずさみ始めるおとぎ。某人間密着ドキュメンタリーの真似でもしているのだろうか。
「うーん。何なんでしょうね。はっきりと言葉で言い表せるものではありませんね。こう心に、何というか、こう……うん。何か来るものがあると言うか。こう来るんですよ。何かが。ぐわーっとね。えも言われぬ何かが……」
「アドリブ下手くそですね」
「くそー、親と以外ほとんど会話しない俺にアドリブを求めるなー」
「あれ、まやかし先輩って友達いないんですか?」
「え? あ、い? あー、いる……いる、けど?」
「やっぱりいないんですね」
「う、え……?」
おとぎには嘘を吐いたことがバレバレだったようだ。まあ昼ご飯を一人部室で黙々と食べていることをおとぎは知っているし、校内で一人行動をしているところを何度も見られているので当然と言えば当然なのかもしれない。
「私が入部した時なんかあり得ないくらい挙動不審でしたもんね。話しかけて良いのか分かりませんでしたよー」
「だ、だって全然知らない人がいきなり入部したいとか言ってきたら正直ビビるだろ」
「ごくごく普通のことだと思いますけど……」
「俺、気の利いた会話出来ないし。普通は入部三秒くらいで『先日出来た高級ブティック店の羽根つき帽子が大変素敵ですことよ、ほほほ』みたいな小洒落た会話をするんだろ?」
「しませんし、小洒落てませんし」
「えー、じゃあ普通の人間はどんな会話をするんだよ」
真夜樫は至って真面目だった。本当にみんながどんな会話を繰り広げているのかが全く分からないのだ。小学生の頃から友達がほぼおらず、中学高校と完全にぼっちの道を突き進んでいる真夜樫には難しい問題だった。
「そんなの私としてるような会話で良いんですよ。じゃあ練習。さっきの答えを教えて下さい。先輩の心の琴線に触れる廃墟って一体どんなものなんですか?」
「あ、えっと……な、何だろうな。まあさっきも言ったけど言葉では言い表し辛くて……。でもこの廃墟、というかこの島の廃墟がいまいちぱっとしないってのは確かだな。何か違うんだ」
真夜樫達が暮らしているのは本土とは離れたところにある楼閣島と呼ばれる島だった。
島の面積は首都に負けず劣らないほどだが、人口は極端に少ない。昔もそれほど多くはなかったが、今に比べればもう少し多くの人々が住んでいた。
しかし十年前に全ての住民が本土に移住してしまったのだ。
その理由は、研究で島の動植物達が独自の生態系を持っていることが分かり、それらの保護のために一度住民達全てを本土に移住させる必要が出てきたということだったはずだ。
ところが更なる研究により十年前の研究結果が間違いだったことが分かった。それで三年程前から一般人の上陸も許可され、当時の住民も戻ってきているらしい。それに当時はこの島に住んでいなかった新しい住人も増えているようだ。真夜樫もずっと本土住まいだったが、二年程前家族と共に移住してきた。
このように当時の活気を取り戻しつつあるが、七年程の間に廃墟化してしまった建築物などはそのままになってしまっているところも多い。
この廃工場もその一つであった。
「俺が写真部に入った理由って話したっけ?」
おとぎは自分の体を抱きしめるようなポーズを取りながら頭を横に振った。
「一年の文化祭の時に写真部の人が撮影した廃墟の写真を見たからなんだ。あの写真に酷く感銘を受けてさ、俺も行ってみたいってなったわけ。で、カメラ自体に興味はなかったけど成り行きで入ったんだよ」
「あ、それってあれですよね? えっと確か、変わった名前の方が撮っていらした。私も実は去年の文化祭、見学に来てたんです。それであの写真に心打たれまして写真部に入るために今の高校に……それなのにいたのはまやかし先輩というカメラオタクの敵だったんですけど」
おとぎは自らの手で腕を擦りながらそう言った。
「じゃあお前も不知火の写真見たのか?」
「そうそう! そんな名前の方の写真です! っくしゅん!」
おとぎは遂に大きなくしゃみをした。
「何か寒いな」
「ですね。もうそろそろ日が落ち……あれ?」
おとぎはポケットから取り出した携帯の画面を見つめたまま動かなくなった。何があったのだろうと真夜樫はそれを覗き込む。彼女の携帯の画面にはうさぎの写真と大きなデジタル時計が写っていた。
「どうした?」
「いや、まだ三時なんですよね。十五時。こんなに寒くなるもんなんですか、ここって」
「そう言えば日もちゃんと差し込んでるのにな」
二人は同時に廃工場の抜けた天井を見つめる。まだ全く日は落ちていない。ちゃんと暖かな光で、薄暗く不気味な廃工場の中を照らしてくれている。
それなのに二人は何故か肌寒さを感じていた。長袖を着ているにも関わらず、だ。
「あ、あの……まやかし先輩。何か……気配、感じません?」
「あ、雲塚さんも感じます……? 俺もさっきか……視線を少々……」
「きょ、今日はここらで切り上げません?」
「い、良いですね。賛成です。かき氷、食べに行きましょう」
「暑いですからね。とっても暑いですから」
「そうですね! 暑いですからね! かき氷、もりもり食べましょう!」
真夜樫とおとぎは言葉とは裏腹にガタガタ震えながら、そそくさと廃工場を後にした。
駅でかき氷を食べようか迷ったが、二人とも寒気が治まらず、その日はお開きとなった。