12
銭湯の最寄り駅に着いた頃には、もう辺りは暗くなってきていた。そろそろ夕飯時だ。
お腹がぺこぺこだった真夜樫達は、銭湯の近くにあった老夫婦の経営する小さな蕎麦屋で食事を取った。
腹ごしらえも済んだところでいざ銭湯へ出陣である。
老夫婦は良く銭湯を利用するらしいのだが、いつ行っても客は二、三人で、むしろ貸し切りの時の方が多いらしい。
経営しているのは彼らと同年齢の老婦人で、お金を稼ぐというよりも趣味で続けているのだという。亡くなった旦那さんが残した店なんだとか。
蕎麦屋で聞いたそんな話を思い出しながら真夜樫はみんなと共にのれんをくぐった。
入った瞬間、何とも言えない懐かしい香りが鼻孔をくすぐった。
真夜樫は一度もこの銭湯に来たことはないのだが、何となく懐かしいと感じた。だからきっと海市はもっとはっきりとした懐かしさを感じているだろう。
「あらあら、いらっしゃい。若い人達が揃ってくるなんて珍しいね。ゆっくりしていってね」
聞いた話の通り、フロントで上品な老婦人が迎えてくれた。
真夜樫達は料金と一緒にタオルや石鹸などのセットを購入した。タオルには『ノスタルジア銭湯』というロゴが刻まれている。何ともハイカラな名前の銭湯である。
「よっしゃー。とりあえず入るぞー」
「不知火先輩、どうします? 私達と一緒に入ってもカメラはお風呂に持っていけないから話せなくて楽しくないですよね? まやかし先輩達と一緒に男湯に入りますか?」
女湯と男湯に分かれる前におとぎがファインダーを覗き込みながらそう言った。
言われてみれば話し相手がいないと不知火が可哀想かもしれない。
だが何故そこで男湯に入るという選択になるのだろう。
「うん」
「うんじゃないよ、うんじゃ! っていうか眼鏡も風呂じゃ外すし!」
「え? 外しちゃう?」
不知火がそんなことないよねとでも言いたげな表情で小首を傾げている。
しかしそんな可愛い顔をされたって外すものは外すのである。
「うん。外しちゃうよ。だって曇るし」
「いじむーいじむー」
「いじむーで良いよ、別に。だったら眼鏡貸すよ、雲塚に。はい」
真夜樫は眼鏡を外し、おとぎに手渡す。おとぎは面白くなさそうにぷーっと頬を膨らませていたが、一応大人しく受け取ってくれた。
「のぞむーは私と一緒に入りたくないんだ。私が嫌なんだ。だそうです」
眼鏡を受け取ったおとぎが不知火の通訳を始める。
「不知火が嫌とかじゃなく、常識的に考えて一緒に入れるわけないだろ!」
「裸になれないからダメ? だそうです」
「ち、違うっ! 裸はもっとダメ!」
「おとぎっちや水沫お姉ちゃんも一緒なら良い? だそうです」
「良くない!」
「なんで? だそうです」
「な、何でって……」
自分にだって、不知火と一緒に風呂に入れるものなら入ってみたい気持ちもなくはない。
でも駄目だ。常識的に考えて無理だ。
真夜樫の場合は女子と一緒にお風呂という年相応の欲望よりも、恥ずかしさの方が勝るのだ。
海市が般若のような恐ろしい表情でこちらを見つめている。これ以上こんな会話を続けていたら、海市に風呂の中に沈められそうな気がする。
自分の身が大事な真夜樫は不知火の疑問には答えず、急いで男湯ののれんをくぐった。
「不知火ー。もう年頃の男の子にそんなこと言っちゃダメだぞー。じゃあ、お前らあとでなー」
「のぼせないように気をつけてね。では行こうか、不知火におとぎ君」
「そうですね。不知火先輩、落ち込まないで下さい。お風呂でガールズトークしましょう」
そんな声がのれんの向こうから真夜樫の耳にまで届いた。
「おー、やっぱ銭湯には富士山だよなー!」
「そ、そうですね……」
「貸し切り銭湯とか贅沢だなー」
「で、ですね」
海市と二人きりになるのは初めてだった。
気の許せる不知火やおとぎがいる時は、流れで会話出来てしまうのだが、やはり二人きりになると真夜樫の人見知りが大いに発動してしまう。上手く言葉が出てこない。
女湯の方からきゃっきゃうふふとおとぎや水沫の笑い声が聞こえてくる。女湯の方が落ち着きそうだ。
別に彼女達と一緒にお風呂に入りたいとかいうやましい気持ちがあってではない。
はっきり言って今、真夜樫はものすごい居心地の悪さを感じていた。
会話を続けなければ。でも何を話せば良いのだろう。もし怒らせてしまったらどうしよう。怒らせたら不知火と一生話せなくなるかもしれない。それは嫌だ。じゃあ話さなければ良いのだろうか。いや面白くない人間と思われるのも嫌だ。でもどうすれば。
そんな思いが頭の中を駆け巡り、緊張で腋に嫌な汗をかき始めていた。
海市がシャワーで体の汚れを一通り流し、速攻湯船に浸かったので、真夜樫はとりあえず気を落ち着かせるために体や髪を洗うことにした。
こうすれば距離が遠いため、海市も話しかけてはこないだろう。そしてこちらからも話しかける必要はない。とても楽だ。
と思ったのだが、
「先に浸かろうぜー。俺らもボーイズトークしよーよ」
と言われてしまい、渋々浴槽に浸かる羽目になってしまった。
「たまには銭湯も良いよなー」
「あ、はい。良いですよね」
「風呂から上がったらあれだなー。瓶のフルーツ牛乳をぐびぐびっとな」
「あ、良いですね」
話を広げることが出来ない。簡単な受け答えしか出来ない。あとになればもっと良い受け答えが思いつくのに、ここぞと言う時に出てこないのだ。
「のぞむー、無口だな」
「え、あの……すみません……」
相手に他意はないのかもしれないが、『無口』だと言われるとものすごく悲しくなる。
君といても面白くない。もっと何か面白いことを話してよ。
そんな風に言われているような気持ちになってしまうのだ。
「もしかして俺、君のこと怖がらせちゃってる?」
「い、いえ! 俺は別に怖いだなんて!」
海市は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
本当はとても恐れているが、一応否定しておく。はっきりと怖いですなんて言えるほど度胸はない。
「一応病室で話したことは嘘じゃないよ。君には本当に感謝してる」
「え……」
「でもさー。何ていうの? 娘を嫁に出したくない父親の気持ち、みたいなね?」
「は、はあ……」
「のぞむーと不知火が必要以上に仲良くしてるのを見ると、俺の中の嫉妬心がこう沸々と燃え上がってくるわけ」
両手で握り拳を作りながら海市は笑っている。けれど目は全く笑っていなかった。
やっぱり海市は怖い。そんなイメージが真夜樫の心の中に、着実に形成されていくのだった。
「まあ、あれだよ。一種の愛情表現みたいなものだと思ってくれれば良いから!」
「そ、そんな愛情表現って――」
不意に女湯の会話が耳に届き、真夜樫は口を噤んだ。どうやら海市にも聞こえたようだ。
向こうの声がはっきりと聞こえるように二人は黙り込む。そして悪いと思いつつ、聞き耳を立てた。
「それでどうなんですか? 不知火先輩ってまやかし先輩のことどう思ってるんですか?」
真夜樫の心臓がドキリと跳ね上がる。
不知火は一体何と答えるのだろう。
真夜樫と海市の二人は自分達のしていた会話なんて忘れて、女湯の方の会話に全神経を集中させた。
「えー。そうなんですかー。へー」
「ボクにも聞かせてくれ。……ほう。うーん、これは意外だね。いや……不思議の国では大して意外でもないかな」
そうだった。
眼鏡もカメラもない真夜樫達には不知火の声は聞こえないのだ。これではどれだけ耳をそばだてたって、不知火の答えは分からないではないか。
それにおとぎと水沫の反応だけでは不知火がどう答えたかなんて読み取ることが出来なかった。
真夜樫と海市の二人は同時にガックリと肩を落とす。
「まあどうせ『好き。お友達として』みたいな感じだろ」
不知火の単調な喋り方の真似をしながら海市はそう言った。流石兄妹、良く似ている。
「ま、まあそんな感じでしょうね」
「がっかり?」
「い、いえ別に……。俺もお友達として好きですし……」
一応『お友達として』のところを強く強調しておいた。
「えー何それ! あんな可愛い不知火ちゃんとお友達止まりで良いわけ!? 付き合いたいと思わないわけ!? ちょー有り得ないんですけどー!」
「い、一体どこのギャルですか……。それに……つ、付き合うだなんて……俺は別に……」
考えたことがないわけでもない。
一緒にいるとすごく安心するし、不知火ともし恋人同士になれたのならば、とても幸せな人生を送れそうな気がする。楽しい毎日になりそうな気がする。
でも絶対にそうなりたいとも思わない。これからどう気持ちが変化していくかは分からないが、今はまだ、ただ一緒にいられるだけで満足なのだ。
「付き合いたいって言え」
「え、ええっ! 何でそんな無理やりっ!」
「言えー!」
「つ、つつつ、付き合いたいです!」
「百億万年早いんじゃー!」
無理やり言いたくないことを言わされ、思い切り浴槽に沈められた。
正に暴君だ。ハバネロより辛口なお兄さんである。
不知火と付き合いたければまずこの暴君兄を攻略しなければならないようだ。もし不知火と付き合いたいと言う人がいたら教えてあげようと真夜樫はお湯の中で冷静に思うのだった。
「ぷはっ! も、もうその犯罪者予備軍的な愛情表現止めて下さいよ! いつか殺されそうなんで先に遺書書いといて良いですか! 遠野海市に殺されたって!」
「じゃあ遺書書く前にちょちょいと済ませるわー」
「い、意地でもダイイングメッセージ残してやる」
「大丈夫。ちゃんと隠滅しといてあげるからー」
「か、勝手に隠滅しないで下さいよ」
真夜樫がそう言うと、海市は楽しそうにカラカラと笑った。
この犯罪者予備軍が、と心の中で悪態を吐きつつも、少しだけ海市との会話が楽しいと思ってしまう真夜樫なのだった。
「あれ、のぞむー。あそこから露天風呂行けるっぽくねー?」
「あ、そうかもしれませんね。見に行ってみますか?」
海市が指差す先に、すりガラスの引き戸があった。すりガラスなので向こう側は良く見えないが、多分外と繋がっているのだろう。
外と言えば露天風呂。きっとそうに違いない。
「そうだなー。月を見ながら露天風呂で焼酎をグイッといきたいねー」
「あれ。海市さん、未成年ですよね」
真夜樫のツッコミを無視し、海市はすりガラスの引き戸の方に走っていった。すっころんで怪我してもあなたは流石に持ち上げられないですよと思いつつ、真夜樫も彼の後を追う。
すりガラスの引き戸を開けると彼らの眼前に広がったのは、湯煙が立ちのぼる露天風呂だった。
でもそれだけでない。
「ま、ままままままやかし先輩っ!?」
「く、くくくくくくくくく雲塚っ!?」
そう、露天風呂には先客がいた。
熱気でほんのりピンク色に染まった頬やしっとりと濡れた金髪が肌に貼り付いているせいでいつもより何倍も艶やかに見えるおとぎが、気持ちよさそうに湯船に浸かっていた。曇りきった眼鏡をかけていなかったらもっと色っぽかったかもしれない。
「ぷはあっ! やあ、海市に望君。君達も露天風呂を発見したのかい。でも先に発見したのはボクらだよ。ボクらの露天風呂と言っても過言ではないだろうね。さしずめボクらは航海者コロンブスと言ったところだろうか。しかしここは混浴だったんだね。気が付かな――」
「お前はタオルか何かで体を隠せっ!」
「ああ、忘れてた」
今まで風呂の中に潜って遊んでいたらしい水沫が一糸纏わぬ姿で立ち上がった。
すぐさま真夜樫達は目を逸らす。大丈夫。光よりも早く視線を逸らしたので全く見ていない。
真夜樫の横で海市が顔を真っ赤にし、腕を組みながらぶつぶつ文句を言っている。何となく女性慣れしていそうな、というかホストに見える海市だったが実際は結構ピュアみたいだ。
「まあボクの幼児体型を見たって誰も興奮しないだろう」
「今日水族館で会ったリーゼントの前でそれやってみ! 一瞬で食われるからやってみ!」
「煮たり焼いたりされるのかな?」
「むしろ生かな!」
「ボクも魚は刺身が一番好きだよ。リーゼント君とは気が合いそうな気がする」
海市が水沫と一緒にいるわけは、彼女のこういう危なっかしいところにあるのかもしれない。
「み、水沫先輩。そろそろ出ましょう。不知火先輩も……えっ!? 見つけたっ!? ちょ! 待ってて下さい! 脱衣所からカメラ取ってくるんでっ!」
おとぎが突然立ちあがり、露天風呂から飛び出した。
どうやら不知火がいつもの『光』を見つけたらしい。どうやらこの銭湯で正解だったようだ。
「あ、まやかし先輩! お返ししますっ!」
おとぎが投げた眼鏡が露天風呂の中に落ちた。本当は手渡ししてもらいたかったけれど、地面に落ちなかっただけマシといえよう。
真夜樫は湯船に落ちた眼鏡を拾うため、一応「失礼します」と断りを入れ、露天風呂に足を踏み入れた。
曇りきっていた眼鏡はお湯で濡れた為、良い感じに元通りになっている。真夜樫は眼鏡を掛けると急いで浴槽から出ようとした。
が、水沫に腕を掴まれてしまった。
「入っていれば良いじゃないか。みんなで入った方が楽しいよ。ねえ、不知火?」
水沫が辺りをキョロキョロと見回しながら不知火に同意を求めた。
するとすぐ真横で不知火の「うん」という返事が聞こえた。見ると隣に不知火がいる。冬の制服姿で露天風呂に浸かっている。
いや、生霊の彼女にとっては浸かっているとは言わないかもしれない。
でも確かに不知火と一緒に風呂に入っている状態になっている。
「なななな、何でこんな近くにいるんだよっ!」
「おとぎっちに待っててって言われたから」
「だ、だからって俺の近くに寄って来なくても!」
「別に寄ってない。そこ。のぞむーの横に光があるだけ」
「あ……」
恥ずかしい。思い切り恥ずかしい勘違いをした。馬鹿だ。自分は大馬鹿者だ。
最初からその場所にいたにも関わらず寄ってくるなと怒られた不知火は微妙にむくれている。これは素直に謝っておいた方が良さそうだ。
「ご、ごめんなさい」
「自意識過じょむー」
「うっ……そうです。自意識過じょむーです……」
「へー。自意識過じょむー、また不知火と仲良くしてるんだー。お兄ちゃんも入れてほしいなー」
ジャボジャボと大股で露天風呂に入ってくる海市。腰にタオルを巻いているが、そんなに大胆に歩くと大事なものが見えてしまいそうだ。出来れば見たくない。静かに嫉妬に狂う海市は全く気が付いていないようだが。
「取ってきましたよー! 準備万端ですっ!」
興奮気味のおとぎが滑るようにして浴室から飛び出してきた。あまりに勢いが良かったため危うくこけるところだった。彼女もタオルを巻いてはいるが、あんなに大きな動きをしていたら男性陣にあらぬところを見られても文句は言えない。
「撮影しまくりますよー」
おとぎがファインダーを覗き込んだ瞬間、辺りがパッと明るくなった。どうやら完全に日が暮れたため、ライトが点灯したらしい。
でも変わったのはそれだけではなかった。
風呂の中に真夜樫達以外にも数人の男女がいるのだ。お年寄りが中心だったが、若いカップルや親子連れなどもいる。
そしてその中に遠野一家の姿もあった。
「まんまるお月様ー! きらきらお星様ー! お母さん、俺あれ欲しい!」
「じゃあいつか宇宙飛行士さんになって取りに行ってらっしゃい」
「分かった! その時はお母さんと不知火にプレゼントする!」
「将来は宇宙飛行士かー。かっこいい宇宙飛行士さんになってね」
「絶対なるよ! 家族みんなを宇宙に連れてってあげるもん!」
小さな海市が母親と可愛らしい会話を繰り広げている。現在の海市はと言うと、「可愛いですねー」とおとぎにからかわれ、恥ずかしそうに下を向いていた。
今でも宇宙飛行士の夢は追い続けているのだろうか。後で聞いてみたいものである。殴られそうな気もするけれど。
真夜樫達は次に小さな不知火と彼女の父親に視線を向けた。二人は小さな海市達と少し離れたところでのほほんとしていた。
どうやら海市はお母さんっ子、不知火はお父さんっ子だったようだ。
「湯のかおりーのぼせて色づくー君の頬ー」
「新しいお歌! ゆのかおりーのぼせていろづくーきみのほほー」
「おっ、良いね! 最初の二音もばっちりだ! 絶対忘れないようにいつも歌っておくんだぞ? さて、不知火のほっぺも林檎みたいに赤くなってきたからそろそろ上がろうか?」
「上がったらフルーツ牛乳飲んでも良い?」
「良いよー。じゃあみんなで早飲み競争しよう!」
「うん!」
そうして遠野家のみんなは女湯と男湯に分かれて出ていった。
その後きっとみんなで仲良くフルーツ牛乳の早飲み競争をしたのだろう。
「あれ? 今回は次にどこに行くかって言わなかったな」
「そういえばそうですね」
「つーことはこれで終わりってことかー」
「一日で終わってしまったね。少し残念かな。探検家としては少し、ね」
今までは最後に次に行くべき場所のキーワードを言ってくれたのだ。
でも今回はそれがなかった。ということは海市の言う通り、これが最後の歌であり、今までの三つの歌を組み合わせればパスワードになるのかもしれない。
しかし不知火が大きく首を横に振った。
「違う。まだ終わってない」
言われてみれば、まだ風呂の中には変わらず数人の男女がいる。つまりまだ映像は続いているということである。
ということは小さな不知火達の会話も未だに続いているはずだ。早く追わなければ、次のキーワードを聞き逃してしまうかもしれない。
「先、行ってる」
そう言って不知火は一人で露天風呂を出て行った。真夜樫達も急いで露天風呂から上がると浴室を抜け、更衣室まで走った。
男風呂の方の更衣室では、小さな海市と父親が着替えているところだった。
次に行く場所のキーワードが出るのはいつも小さな不知火と父親の会話だけだが、着替えながら一応二人の会話にも耳を傾けておく。
「俺なー、宇宙飛行士になるんだー」
「えー、そうなのか? 父さんみたいな科学者にはならないの?」
「あ、そっか……。じゃ、じゃあとりあえず科学者になってから一年後に宇宙飛行士になる!」
「なんだそりゃ。二つもなれるのかー?」
「なれるよ! 馬鹿にすんなー」
裸でジタバタ暴れる小さな海市から、今現在の海市は恥ずかしそうに顔を逸らす。
「ははっ、そうだな。なれるよな。夢はでっかい方が良い。たった一度の人生なんだ。失敗なんて恐れないで、自分のやりたいように生きなきゃな」
「うん! 俺はやりたいように生きる! 科学者と宇宙飛行士になるぞー!」
更衣室で着替えていた他の客達が小さな海市を微笑ましそうに見つめている。「小僧ー、頑張れよー」という恰幅の良いおじさんの応援に、小さな海市は白い歯をこぼした。
「あー、マジ恥ずかしいわー。何これ、公開処刑?」
「良いじゃないですか。それに子供の頃の夢って大それたものばっかですし。俺、ウルトラマンになるつもりでしたよ。だからそんな恥ずかしがることないですよ」
「いやー、そうじゃなくて。何つーかね。うん。変わってないなーと思ってさー」
「え? 変わってない?」
「あのー。はい。未だに将来の夢は宇宙飛行士と科学者なんですー」
真夜樫は突然のカミングアウトに笑いを堪えることが出来なかった。
「笑うとか超酷いんですけどー」
「だ、だって! 見えないですもん! 絶対ホストかホストだ……ああ、すみませんすみません! 殴らないで下さい! 本当にすみませんでした!」
拳を振り上げる海市に恐怖を感じ、真夜樫は力いっぱい謝りまくった。
「笑った代わりにのぞむーの夢、教えろ」
「え、俺? 俺の夢ですか?」
そう聞かれてもすぐには思いつかなかった。
今までの人生で何度も『将来なりたいものは何ですか?』という質問に答えさせられた覚えがある。
しかしなんて答えたかははっきりと思い出せなかった。
なりたいものなんて何もなかったから、いつも適当だった。みんなの真似をしてサッカー選手だとか、パイロットだとか、医者だとか、野球選手だとか、ゲームのプログラマーだとか。
そして今でも適当な大学に行って適当な会社に入っていつか結婚出来たら良いか、それぐらいの人生計画しかなかった。
いや、本当は一つだけなりたいものがある。でも自分なんかになれるはずがない。だから誰にも言わないことにしているのだ。
ただの儚い夢でしかないから。
「まだ決まってないです」
「マジかよー。夢を持とうぜ、のぞむー。一回きりの人生なんだ! やりたいこと見つけて楽しもうぜ! これ、親父の受け売りな」
「はい。今さっき似たようなの聞きました……って二人がいないですっ!」
「うわっ! 忘れてた! さっさと出るぞ!」
「待って待って! ズボン穿けてないですー!」
真夜樫はボクサーパンツを丸見せの状態で海市によって更衣室から引っ張り出されてしまった。
更衣室を出るともう不知火達がそこにいて、フロントの老婦人からフルーツ牛乳をもらっているところだった。
「あ、二人とも! フルーツ牛乳サービスしてくれるんですって! ってまやかし先輩なんでズボン穿いてないんですかっ!」
「パンツを女子に見せるっていうことに興奮を覚えているらしいよー」
「え……まやかし先輩キモ……」
「そんなんじゃないからっ! 誤解だから!」
「新しい世界を開いてしまったのかな、望君。私も不思議の国の住人だけど、流石にそれは理解出来ないね」
「俺も理解出来ないですよ!」
「のぞむーのしましまパンツかっこいい。スタイリッシュ」
「ありがとう! でもそんなにまじまじ見ないでよ!」
別にそんな性癖はないのに海市のせいで言われたい放題である。涙目になりながら必死でズボンを穿き終えると、海市に刺すような視線を放っておいた。彼が明後日の方向を向いている間に。
「で、次に行く場所分かったー?」
「分かったよ。次はボクらの母校だ。二年程しか通わなかったからあまり記憶にないけどね」
「お二人のお父様と小さい不知火先輩が保護者参観のお話をしてたんです。それで消えちゃったんで、多分小学校で間違いないかと」
「次は廃校か。海市さん達ってどこの小学校に行ってたんですか?」
「君達の高校とそう遠くないよ。今も昔もあの辺りに住んでるから。じゃ、明日は朝から廃校探検な! 明日の予定も決まったし、みんなでフルーツ牛乳早飲み競争だ!」
海市が老婦人からフルーツ牛乳を二つ受け取り、その一つを真夜樫に手渡してくれた。キンキンに冷えていたらしいフルーツ牛乳の瓶の周りには結露して水滴が付いている。
真夜樫達は腰に手を当て、老婦人のよーいどんの合図でフルーツ牛乳を一気に飲み干していく。冷えたフルーツ牛乳はとても甘くて美味しくて、この銭湯と同じ懐かしい味がした。
ふと海市が肩に掛けている銭湯のタオルが目に入った。ノスタルジア銭湯と言うロゴがとても印象的なタオルである。
ノスタルジア。
そうだ。ノスタルジアには確か郷愁と言う意味があった。雑誌を作った時に辞書で調べて使った記憶がある。
名は体を表す。
ノスタルジア銭湯は過ぎ去った時代を懐かしいと感じさせてくれる、そんなノスタルジックな銭湯なのだろうと真夜樫は思った。
「はい、のぞむー最下位」
「……え?」
「終わりですよ、終わり! まやかし先輩の負けです!」
ボーっと考え事をしている間にフルーツ牛乳早飲み競争がいつの間にか終わってしまっていた。まだ真夜樫の瓶には三分の一以上残っているというのに、だ。
「まだ飲み終わってないのか? おっそ! のぞむー、おちょぼ口!」
「ボーっとしていたけど、どこか異世界にでも旅立っていたのかい? 異世界に旅立っていても現世の自分のコントロールはしっかりとしなければね。というわけで罰ゲームの恥ずかしいエピソードの暴露をどうぞ、望君」
「ええっ!? 罰ゲームとかあったんですかっ!?」
そんなこと全く聞いていない。聞いていたら考え事なんかせずに本気で戦い抜いたのに。
「あったんだよ、のぞむー。残念だったなー」
「ず、ずるいですよ!」
「全くずるくはないんだよ、望君。人間いつでも真剣勝負だ。どんな状況であっても、ね」
「うー。恥ずかしいエピソードなんて言えるわけないじゃないですか!」
老婦人もおとぎ達と一緒になって「いーえ! いーえ!」と両手を叩きながら囃し立ててくる。これは言わないとこの楽しげな空気を壊しかねない状況である。
自分の身を犠牲にしてでもこの雰囲気を死守しなければならない。老婦人の笑顔を守れるのは真夜樫だけだ。
「私ものぞむーの恥ずかしいエピソード聞きたい。気になる」
「もっと言いたくなくなってきた……」
それから真夜樫は十分ほど渋った。それでもみんなは飽きずに囃し立て続けるのだ。
何だか言わなければ一生やめてくれなさそうな雰囲気だったので、渋々恥ずかしいエピソードを暴露することにした。本当はずっと心の奥にしまっておきたかったのだが。
「実はですね。祖父母がこの島に住んでて、小一の夏休みに一度遊びに来たんですよ。で近くの公園の砂場で砂遊びしてたら同い年くらいの女の子もいつもそこで泥団子作ってたんですよ。話しかけるのは恥ずかしかったけど一緒にいたかったんで、俺も隣で泥団子作ってたんですよ。それである日迎えに来た母さんにその女の子の前で思いきり『夏休みの間に十五回もおもらししたんですって? 過去最高記録じゃない!』って言われて俺はもう恥ずかしくて恥ずかしくてその場で砂になりました」
海市やおとぎには思い切り笑われ、水沫には憐みの表情でポンと肩を叩かれた。老婦人には「誰にでもあることよ」と優しくフォローをされた……と思ったのだがその後顔を背けてひーひー言いながら笑っているところを見てしまい、とても悲しい気持ちになった。
でも不知火だけは何が面白いのだろうと言いたげな表情で首を傾げていた。
流石不知火だ。不知火だけが真夜樫の心の癒しだ。
「不知火っ☆」
「なに? のぞむー」
「何でもないっ、ふふふっ☆」
「今度は私もフルーツ牛乳早飲み競争に参加したい」
「あ……そっか。……うん。そうだな。元に戻ったら、みんなでまた来ような」
不知火は嬉しそうにこくりと頷いた。
不知火も本当はみんなと一緒に競争がしたかったのだ。それにおとぎ達と一緒にちゃんとお風呂を楽しみたかっただろう。蕎麦だって食べたかっただろうし、もしかしたら不良達から走って逃げるドキドキ感を彼女も味わいたかったかもしれない。
早く不知火を元に戻してあげたい。
そんな気持ちが日に日に強くなっていく。
「ねえ。のぞむーの恥ずかしい話、もう一回聞きたい」
「え! な、何で? 無理だよ! 一回限定だからっ!」
「限定だった……」
一回ではみんなが大笑いするほどの面白さが理解出来なかったのでもう一度聞いてみようとでも思ったのだろうか。ものすごく残念そうに不知火は肩を落としていた。