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10-3

「ししし……不知火っ!? えっ!? ええっ!? こっちも不知火っ!?」

「何を言っているんだ、海市」

 水沫には当然何も見えていない。だから彼女は不思議そうに首を傾げる。

 しかし海市には見えている。ベッドには変わらず不知火が眠っているにも関わらず、真夜樫の向かい側にも不知火がいるという異様な光景がしっかりと。

「どどどど……どういうこっちゃ?」

「これはえっとですね。何と申しますか……」

「き、君ら何か知ってるのか!?」

「えーっとまあ何と言いますか、多分生霊と言うか魂と言うか……」

「……馬鹿にしてるのか?」

「つまりですね! 事故の影響で不知火先輩は体と魂が分離してしまったんです!」

「はあ?」

 病室の中に短い沈黙が流れた。

 海市はおとぎのことを、痛々しい電波ちゃんでも見つめるような生暖かい瞳で見つめている。

 水沫はと言うと、自分と同じ空気をおとぎに感じたのか、「分かる、分かるよ」と嬉しそうに頷いていた。

 おとぎは決して電波ちゃんではないのだが、そう見えてしまうのは仕方がないことだろう。「だから嫌だったんですよ!」と恥ずかしそうにおとぎは両手で顔を隠した。

「あの、雲塚は別に嘘を言っているわけではないです。えっと……不知火本人に聞いてみたらどうですか?」

「不知火本人にって……うわっ!」

 海市がいきなり後ろに仰け反った。真夜樫には見えないが、きっと不知火がふわりと浮いて、海市の近くに飛んでいったのだろう。

 何もない虚空を凝視しながら口をパクパクさせている海市をボーっと見つめていると、おとぎが「見ます?」と言って自分のカメラを貸してくれた。

「……お兄ちゃん?」

「し、不知火……なのか?」

「多分」

「で、でも不知火はそこで寝て……」

「おとぎっちが言った通り。中身と外身」

 不知火は自分、そしてベッドに眠る自分を順番に指差しながらそう言った。

 海市はなかなか状況を飲みこめないようで、男にしては大きな瞳をぱちくりさせている。

 突然水沫の身長に合うように屈み、自分の頬を指差し言った。

「なあ、水沫。ちょっと頬、引っ張ってくんねえ?」

「いいよ! よーっし! 思いっきりいくよ!」

 いつもつねられてばかりだからなのか、水沫はものすごく嬉しそうに顔を綻ばせて海市の頬を引っ張った。

「いってええええっ! いっつも手加減してやってんのに! 容赦なさすぎ!」

 あまりの痛さに海市は水沫の頭にゲンコツを落とす。自分で引っ張れと言ったくせに少々理不尽なのではないかと真夜樫は思ったが、水沫は全く気にしていないようだ。「あれ? いつも海市は手加減していたのかい? ふふ、ボクのことを恐れているのかな?」と一人で楽しそうにほくそ笑んでいる。

 きっと悩みなんて一つもないのだろう。いつか彼女から鈍感力を伝授してもらおう。

「でも……つーことは夢ではないんだな」

「さっきからそう言ってる」

「正直驚いたが、これはこれで好都合だ! これで今すぐにでも不知火を目覚めさせることが出来る!」

「えっ? なんの――」

「今すぐにでも? どういうことだい、海市?」

 真夜樫の問い掛けを遮るように、水沫がそう海市に詰め寄った。

 海市は面倒臭そうに頭をポリポリと掻いてから、水沫に真夜樫の眼鏡を掛けさせた。

 顔が小さいため少々ズレ気味だが、彼女の目には間違いなく不知火の姿が映ったようだ。その証拠に、水沫は瞳を大きく見開いて「おお、何故不知火が?」と呟いた。

「生霊みたいな存在になった」

「おお、流石不知火! やることが普通じゃない! いや……ボクらにとっては普通、というべきなのかな? まあとにかく、それでこそボクの妹分だよ!」

「褒めても何も出ない」

 不知火はちょっぴり恥ずかしそうに顔の横の髪の毛を弄り始めた。

 あ、それ褒めてるんだ。しかも嬉しいんだ。この二人の会話をずっと聞いていたらいつの間にか不思議の国に転居していそうだ。

「しかしこれで本当に不知火を蘇らせることが出来るね!」

「一応生き……死んどらんわー」

「相変わらずツッコミが冴えまくっているよ、不知火! ボクの相方はそうでなくちゃ!」

 不知火のそのグダグダなツッコミのどこにキレがあるというのだろう。むしろ幼児がパパママと一緒に新聞を丸めて作った刀とかよりもキレがなさそうな気がする。

 そんな風にツッコみたくなるが、真夜樫はグッと堪えた。おとぎなら我慢などせずにスパッと一刀両断していたかもしれない。

「おい、眼鏡返せ。それでだ、不知火。『眠り姫』を破壊するパスワードは覚えてるんだよな? それさえあればすぐに目を覚ませるはずだ」

「眠り……姫?」

 真夜樫と不知火はまるで示し合わせたかのように、同時に首を傾げた。

「な、何ですかそれ?」

 不知火の声は聞こえていないが、おとぎもちゃんと会話に付いて来ており、海市にそう疑問を投げかけた。

「え? ちょっと不知火、忘れたのか? 『眠り姫』だよ『眠り姫』! お前、五か月前に一人で行ったんだろ!? 『眠り姫』を破壊するために一人で廃遊園地に!」

「『眠り姫』を破壊、ですか?」

「そ、そうなのか?」

「……分からない」

 真夜樫の問い掛けに、不知火は頭をふるふると大きく横に振った。

 『眠り姫』を破壊するために不知火が一人で廃遊園地に行ったとは一体どういうことなのだろう。

 というよりも『眠り姫』とは一体何なのか、見当すらつかない。

「不知火先輩、記憶喪失なんですよ。だからそれが何なのかは分かりませんが、すっかり忘れているかと」

「うん」

 おとぎに同意するように不知火が頷いた。

 それを見て海市は焦りを隠せない様子で、頭をガシガシと掻き毟った。

「うわー、マジかよー」

「な、何なんですか。その『眠り姫』って言うのは。何か危ないものなんですか?」

「それにはボクがお答えしよう。迷える子羊、真夜樫望君!」

 ボクの出番と言わんばかりに水沫が芝居がかった動きでみんなの前に立った。

「『眠り姫』とは簡潔に言ってしまえば色々なものを老朽化させる機械のことだ。でもボクはこれに新たな名前を付けた。それは――」

「遊ぶなら俺が説明すんぞ、おら」

 海市が笑顔を顔に貼りつけながら水沫の頭頂部を拳でぐりぐりとした。

 すると水沫はどうしても自分で説明したかったのか、大人しく芝居のような大きい身振りをやめた。

「えーつまり、この島に廃墟がとても多い理由、それは過去にこの機械が暴走してしまったからなんだ。この機械の怖いところは建物などの無機質なものだけでなく、人間などの生き物まで急速に老化させてしまうところにある」

「じゃあ十年前、人々がこの島から出て行かなければならなくなった理由っていうのは急速に老化してしまう危険に晒されたから、ということですか?」

「そう。表向きは君達が知っている通りだけど、裏では違った研究が動いていたんだ」

 含み笑いを浮かべ、何故か間を置く水沫を「俺が説明すんぞー」と海市が脅す。

 すると水沫はまたしても素直に続きを話し始めた。

「『眠り姫』は元々海市や不知火の父親、そしてボクの母親が所属する研究チームによって開発されていたエイジングスピードを操作する機械だった。この研究が成功すれば、医療にも応用出来るはずだったんだ。しかし開発は失敗、それどころか『眠り姫』は暴走を始め、ただエイジングスピードを加速させることしか出来ない機械になってしまった」

「え、えい、じんぐ?」

「老化ですよ、老化。もうまやかし先輩は口を挟まないで下さい」

 おとぎにそう諌められ、真夜樫は申し訳ないと縮こまるのだった。

 でも普通にかっこつけずに老化スピードと言ってくれれば良かったのに。

「暴走した『眠り姫』を人柱となって止めたのが当時研究チームのリーダーだった海市と不知火の父親でね。老夫になりながらもボクらが再びこの島に住めるようにたった一人で戦い抜いてくれたんだ」

「人柱……ということはお二人のお父さんは……」

「まあ、仕方ないだろ。研究チームのリーダーだったわけだし」

 海市はとても裏表が激しい。本音を隠すのや嘘を吐くのも上手いようだ。それに加えて現実とは乖離した信じ難い話をされれば誰もが嘘なのではないかと勘ぐってしまうだろう。

 でも彼の切なげな表情に嘘はないと思えた。それに水沫が嘘を吐けるタイプだとも思わない。

 しかも不知火が生霊になったという非現実的現実を受け入れた今の真夜樫は大抵のことならすぐにでも受け入れられそうだった。

「どうやら本当の話みたいですね」

 そしておとぎのその言葉が海市達の話が本当だということをはっきりと決定付けてくれたのだった。

「お! 意外とすぐ信じてくれるんだー? 絶対『何の作り話ですか? 馬鹿ですか?』とか言われると思ったー」

「ま、だいたい分かりますから。嘘か嘘じゃないかってことくらい」

 おとぎは真夜樫に視線を送り、目が合うとやんちゃな笑顔を浮かべたのだった。

「でも破壊って、お二人のお父様が停止させたにも関わらず、まだちゃんと止まってはいなかったってことなんですか?」

「いや、一応ちゃんと停止はしてるらしいぜー」

「でも完全に破壊してしまう必要が出てきてしまったんだよ。どうやら当時の研究チームじゃなかったやつらが『眠り姫』を再起動させて実験をしようとしているみたいなんだ。この島の住人を被験者にね。未だに研究機関で働いているボクの母が再起動させるなと説得はしているらしいんだけど、どうにも頭の固い連中らしくて。だから彼らに再起動される前に破壊してしまおうってわけさ」

 海市も水沫の言葉に合わせて大きく頷く。

「そういうこと。『眠り姫』を完全に破壊するためにはあるパスワードを入力しなければいけないらしい。しかも親父は悪用されないように一人でこの島のそこかしこに『眠り姫』のダミーを置いた。ダミーだったり、本物でもパスワードを間違えると意識不明になるような仕掛け付きでなー。だから『眠り姫』って名前を付けたって話だ」

 これでやっと不知火が意識不明になってしまった理由が分かった。

 彼女は一人で『眠り姫』を破壊しに行き、パスワードを間違えた、もしくはダミーに当たってしまったためずっと意識を失っているのだ。

 そして『眠り姫』を破壊することが出来れば意識を取り戻すことが出来るのだろう。

「でも何で不知火は一人で……?」

「春休みに俺と水泡で本土の研究所にアルバイトに行ったんだけど、その時水泡の母さんが『十年後、子供達に渡してくれ』って託されたらしい手帳を見せてくれてさー。何か血縁者が触るとただの白紙に文字が浮かび上がるっていう良く分からない技術が使われてて……えっと、これな」

 海市はそう言って父親の手帳を鞄の中から取り出し、みんなに見えるように開いてくれた。どんな技術を使っているのかは科学者志望の真夜樫にも全く分からないが、本当に真っ白だった日記の上に黒い文字が浮かび上がってきた。そこに書かれていたのは、

『海市と不知火が高校生になった今頃にはもう『眠り姫』の破壊プログラムが完成しているだろう。どうか二人で協力してパスワードを入力し、破壊プログラムを起動させてほしい。パスワードの肝になる部分は不知火にしか教えていない。決して文字にはしたくない。他の誰かに知られて変えられたら困るからな。パスワードはきっかりひらがな十四文字、とっても簡単。ヒントは二人の名前だよ。海市は破壊、不知火はORIGINAL。すべてのはじまりはねむりひめ。ねむりひめはむひねめり。失敗すれば眠り姫、だから必ず慎重に』

 という短い文章だった。ますます『眠り姫』の存在が現実味を帯びてくる。

「それで次の日の朝にさ、島にいる不知火にパスワードの話を聞いてみようと思って電話したんだよ。そしたら勝手に一人で行っちゃったみたいで案の定失敗ってわけ」

「ドジッ娘」

 こつんと拳で自分の頭を叩きながら不知火はそう言った。

 ドジッ娘では済まされない気もするが、ここは話を先に進めるためにスルーしておいた方が良いだろう。

「そうですねえ。まずはその二人の名前のヒントから考えていけば良いんじゃないですか」

「俺、クイズつーかなぞなぞつーかこういうの嫌いだからパスだわー」

「そんなこと言ってたら先に進めないじゃないですか。ねむりひめはむひねめり……多分アナグラムですね」

 アナグラム。どこかで聞いたことがあるような気がしなくもない。

 でもそれが何だったのかは全然覚えていない。やはり横文字はどんなに簡単なものであっても苦手だと実感した。

「まやかし先輩は分からないでしょうから一応説明しておくと、言葉遊びってやつです。まやかしを入れ替えてやかましにしたりする、文字を入れ替えて違う言葉にする遊びです」

「俺、まやかしでもないしやかましくもないからね」

 横文字が分からないことを馬鹿にされた上、名前で勝手に遊ばれ、踏んだり蹴ったりである。

「かいしを入れ替えると……医師か! そうか! 海市は医師だったのか!」

「医師じゃねえし。この文章からして俺の名前は破壊のパスワードのヒントになるんだろ? 医師かって意味分かんねえよ」

 水沫の頬を人差し指でツンツンと強く突きながら海市は言った。

 海市の水沫に対する態度は最初いじめのように見えていたが、何だか愛情表現な気がしてこなくもなかった。自分はそんな愛情表現は絶対にお断りだが。

「海市、視界、医師か、生かし、香椎、詩歌」

 不知火がかいしという三文字を入れ替え組み合わせて出来た言葉を次々に並べていく。

 その中に一つ引っかかるものがあった。

「詩歌……ってあれだよな。短歌とか俳句とか」

「あれですね。まやかし先輩が雑誌に載せてい――」

「あーあー聞こえなーい!」

 まだ心を許しきっていない海市や水沫の前でそんな恥ずかしいことを暴露されたらこの先普通に生きていく自信がなかった。

「昨日の不知火のお父さんの歌、五・七・五っぽかった気がするんだけど。季語はなかったから川柳かもしれないけどさ」

「それだ、のぞむー」

「じゃああの歌が『眠り姫』のパスワードってことですか!?」

「え、なになに? 不知火、記憶喪失なんじゃなかったの? 昨日の親父の歌って何だ?」

 当然だが、あの場にいなかった海市達にはそこから話す必要があった。

 昨日、海市達と出会った後にあの廃遊園地で不知火が光るものを見つけたということ。不知火がそれに触れると廃遊園地が一瞬にして賑やかだった頃の遊園地になったこと。そこで幼い頃の不知火と彼女の父親に出会ったこと。父親が不知火に何か自作の歌を教えていたこと。

 その全てを真夜樫は海市と水沫に伝えた。

 二人は驚きを隠せない様子だったが、嘘だとか作り話だとかは決して言ってこなかった。

「ファンタジーだなー。まあ、こんなになった不知火を見た後じゃ大して驚きもないけどなー」

「そうだね。ボクのような生まれ持ってのファンタジー体質だと知らず知らずのうちに不思議なものを惹き寄せてしまう……そういうことなんだろうね」

「いや、お前全く関係ねえからー」

 水沫のヘッドドレスを引っ張りながら海市はツッコミを入れた。好きな子をいじめたくなる小学生男子の心理なのだろうか。

「はねていくとけいうさぎとふしぎのくにへ……でもきっかりひらがな十四文字じゃない」

「あれ、ホントだ。一、二……十九文字か。五文字オーバーだな」

「というか五・七・五の時点で十七文字ですね」

「あ、そっか。ていうことは俺の検討違いか。ごめん」

 こんな簡単に分かるものだったら不知火だって間違えていないはずだ。

 でも結構良い線に行っていた気がしたのに、非常に残念だ。

「いや、その歌で間違いないと私は思いますけどね。意識を失う前に不知火先輩はその歌のことを強く考えていたはずですから」

 おとぎは言っていた。意識不明になる前に、信じていた友人達の本音を聞いてしまったことにショックを受けて、そのことについて深く考えていたら、意識を取り戻した時には何故か人の本心が分かるようになっていたと。

 だから不知火の場合も、意識不明になる前に考えていたことが強く関係しているのではないかと。

「俺もその歌がヒントで正解だと思うなー。そんな難しいもんじゃないと思うんだよな。答えは簡単っつってるし。つーか詩歌くらいしかヒントになりそうな言葉ないしなー」

「次は水族館……」

 不知火がそうポツリと呟いた。

 真夜樫はその不知火の呟きで、あることを閃く。

「そうか! まだ歌は他にもあるんだ。それを組み合わせたらパスワードになるのかも。不知火のお父さんが言ってたように、多分水族館で続きの歌を不知火に教えたんだよ」

 絶対にそうだとは断言できなかったが、遊園地で聞いた歌をどうにか十四文字に収めようと奮闘するよりもいくらか時間を有効に使えるような気がした。

 もし間違いだったらどうしようと真夜樫は一瞬不安を感じたが、すぐに海市がうんうんと感心げに頷いてくれた。

「水族館か。そういえば昔家族で行った覚えがあるなー。じゃあとりあえず不知火の名前のアナグラムは各自考えとくってことで、水族館に行ってみるかー」

「でも今日は流石に無理だよ、海市。着いたらもう夜だよ。ボクが夜九時に寝ないと朝起きられないのを知っているだろ?」

「へいへい、見た目も頭脳も子供。じゃあ、明日朝一番に行くか。駅で待ち合わせっつーことで。あ、そういえば勝手に人数に入れてたけどのぞむーやおとぎちゃんも協力してくれる?」

 もちろんである。不知火を元に戻すためならなんだってすると真夜樫は心に決めているのだから。

 それに写真部を守るために三人で一つの本を完成させる約束をしている。そのために元々明日は朝一で廃水族館に行く予定だったのだ。

 真夜樫はおとぎと顔を見合わせると、同時にこくりと頷いた。

「さんきゅー。じゃ、明日七時に駅でー。じゃ、不知火帰ろうかー」

「えっ!? ちょ、め、眼鏡は?」

「貸してー。これがないと見えないしさー。話し相手がいないと不知火もいやだろ?」

「これからものぞむーのお部屋で生活するからのぞむーに眼鏡返して」

 その瞬間、海市の笑顔が大きく歪んだ。海市は不知火が遠野家に帰ってくるのは当然と考えていたようだ。

 しかしどうやら不知火にその気はないらしい。

「ど・う・い・う・こ・と・だ、お・い?」

「おおお、俺に言われてもー!」

 今にも殴りかからんとする勢いで海市に襟元を掴まれ、真夜樫の体は恐怖で震えた。友達がいない真夜樫は喧嘩なんてしたことがないし、親にすら殴られたことがないのだ。

 殴られたら痛いのだろうかとか考えていたら、殴られてもいないのに涙が出そうだった。

 でも不知火やおとぎがいるのでグッと奥歯を噛み締め堪える。このくらいのことで泣いたら情けないどころの話ではない。

「のぞむーを離して」

 不知火はそう言って、海市を真夜樫から必死に引き剥がそうとしている。

 しかし彼女の手は海市の腕をすり抜けてしまうため、全く意味がない。

「のぞむーを離せ」

 それでも彼女は諦めず、何度も何度も海市の腕を掴もうとする。掴めないと分かっているのに、やめようとしない。いつものとろんとした瞳はキリリと吊り上っており、明らかに怒っていることが誰の目で見ても分かった。

 自分のために懸命になってくれる不知火を見ていると、途端に目頭が熱くなってくる。

「あれ、不知火。触れないのか?」

「生霊だから。分かってるなら早く離して」

「お、おう……」

 不知火の強い口調に圧倒されてか、海市は真夜樫から手を離した。

 そして何とも情けない表情で言う。

「俺よりのぞむーが良いのか……。兄ちゃんよりそんじょそこらの馬の骨を取るのか……」

「うん」

 不知火の反応は思いの外素っ気なかった。

 可愛い妹に冷たくされて意気消沈している海市に真夜樫は一応フォローを入れておく。

「あの……記憶を失くしてるからだと思いますよ。一番初めに会ったのが俺なんで、一番信用できるって勘違いしてるだけっていうか。ほら、ひよこが最初に見た人を親と間違えるっていう刷り込みのような感じで……」

「そんなんじゃない」

「そんなんなの。そんなんってことにしといて。じゃないと俺と一緒に帰れないよ」

 真夜樫はムスリと頬を膨らませて抗議する不知火の耳元で、海市に聞こえないようにそう囁いた。

 不知火はまだちゃんとは納得していないようだったが、渋々といった感じで頷く。頬がほんのり桜色に染まっているような気がしたが、気のせいだろうか。

「そんなの。だから今日はのぞむーのところに行く」

「そっか。それじゃあしょうがないよな……。信頼できないやつの側にいても不知火は安心出来ないだろうしな。返すよ、のぞむー」

 海市は眼鏡を外すと真夜樫の顔に掛けてくれた。

 ……ものすごく乱暴に。鼻に思い切り鼻当てが当たり、耳に耳掛け部分が刺さりそうになり、眼鏡って凶器だったんだということを真夜樫は初めて知った。

「手ぇ出したらどうなるか分かってるよな、のぞむー?」

 怖い。笑顔ってこうも怖いものだっただろうか。こんなホストみたいなお兄さんにいじめられるなら美少女にいじめられた方が何億倍もマシだということを嫌でも実感した。

 不知火のお兄さんが不知火似のきれいなお姉さんだったら幸せな気分になれただろうに。

「じゃ、明日駅でなー。かいさーん」

 こうして今日は大人しく解散することとなった。

 眼鏡もちゃんと返してもらったし、家で不知火と二人でゆっくり彼女の名前の組み合わせでも考えるとしよう。

 でも一晩過ぎればまた不知火の怖いお兄さんに会わないといけないと考えると、明日なんか来なくて良いと少し憂鬱になった。

 そしてこのままずっと同じ部屋で不知火と一緒に生活したいだなんて、恥ずかしくてわがままなことを思ってしまうのだった。

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