地味な薬草係のまかない飯が、騎士様の胃袋を救っていたようです
王宮薬草園の一番奥には、小さな台所がある。
そこは本来、薬草を煎じたり、湿布を作ったり、乾燥させた根を粉にしたりするための場所だった。王宮の華やかな厨房とは違い、磨き上げられた銀の皿も、砂糖菓子を飾るための高い台もない。
あるのは、使い込まれた鍋と、少し欠けた木べらと、窓辺に吊るされた薬草の束だけだ。
けれど、ニナ・エルムはその場所が好きだった。
王宮の中で、そこだけが静かだったから。
「また、そんなものを作っているの?」
背後から声がした。
振り向かなくても誰かは分かった。同じ薬草係のミレーヌだ。子爵家の娘で、薬草園にいても手袋を汚さないし、口は悪い。
けれど、薬草棚に少しでも湿気があれば誰より先に気づくし、乾燥室の火が強すぎれば、文句を言いながら必ず調整してくれる人でもあった。
ニナは鍋をかき混ぜながら答えた。
「昼食です」
「昼食? それが?」
ミレーヌは鍋をのぞき込み、鼻先にしわを寄せた。
「豆と鶏肉のスープ? ずいぶん地味ね。あなた、一応は男爵令嬢でしょう?」
「一応、ですね」
「そういう返事をしているから、軽く見られるのよ」
ニナは木べらを止めた。
ミレーヌは、ふいと目をそらした。
「王宮は、優しい場所じゃないわ。地味で、断れなくて、何でも自分で抱える人から順番に使われるの」
「ミレーヌ様」
「だから、もう少し貴族らしくしなさいと言っているの。馬鹿にされないために」
言い方はきつい。
けれど、その言葉の端には温かみがあった。
ニナは小さく笑った。
「ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことは言っていないわ」
ミレーヌはそっぽを向いた。
ニナの母は、食べられない人のために料理を作る人だった。
「食べられない人に、食べなさいと言ってはいけないよ」
幼いころ、母はよくそう言っていた。
「食べてもいいかもしれない、と思えるものを出すの。それが料理の入口だからね」
母はもういない。
けれど、母の言葉は今もニナの手の中に残っている。
地味でも、温かいものは温かい。
それで救われる日だって、きっとある。
その日の夕方、薬草園の端で、ニナは一人の騎士を見つけた。
黒い騎士服に、銀の飾緒。背筋は伸びていて、姿勢だけなら絵画の中の騎士のようだった。
ただし、その騎士は花壇の横のベンチに座り、片手でみぞおちを押さえていた。
顔色が悪い。
王宮では、顔色の悪い人ほど「大丈夫」と言う。ニナはそれを知っていた。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、騎士は驚いたように顔を上げた。
灰色の目が、夕暮れの光を受けて揺れる。
「……大丈夫だ」
「そうは見えません」
騎士は一瞬黙り、それから小さく笑った。
「正直だな」
「薬草係なので」
「薬草係は正直なのか?」
「少なくとも、症状には正直でいた方がいいです」
騎士は笑おうとして、少し顔をしかめた。
ニナは持っていた器を見た。自分用に残しておいたスープだった。
相手は高位の騎士に見える。王宮の端にいる没落男爵家の薬草係が、台所の鍋からよそったスープなど差し出してよい相手ではない。
けれど、彼の指先は冷えていた。唇の色も悪い。
ニナは器を差し出した。
「よろしければ、少しだけどうぞ。薬ではありません。食事です」
騎士は器を見て、それからニナを見た。
「毒見は?」
「私が食べる予定だったものです」
「それは信用していいのか」
「少なくとも、私は自分を毒殺する予定はありません」
今度こそ、騎士は声を出して笑った。
そして、器を受け取った。
ひと口。
騎士の表情が変わった。
華やかな驚きではなかった。美味に感動した、という顔でもない。
ただ、深く息を吐いた。
まるで、ずっと握りしめていたものを、ようやく手放したような顔だった。
「……温かい」
「はい」
「苦くない」
「はい」
「喉を通る」
ニナは少し胸が痛くなった。
この人は、ずっと食べられなかったのだ。
騎士はゆっくりとスープを飲み干した。最後の豆まで、匙で丁寧にすくった。
空になった器を返すとき、彼は少し恥ずかしそうに言った。
「明日も、ここに来れば食べられるだろうか」
「薬草園の奥でよろしければ」
「では、来る」
それが始まりだった。
翌日も、騎士は来た。
その翌日も来た。
ニナは彼のために料理を作るようになった。
豆と鶏肉のスープ。香草を少し混ぜた麦粥。白身魚の蒸し物。胃を温める根菜の煮込み。
騎士はいつも、最初のひと口を慎重に食べた。
まるで、食事に裏切られることを恐れているように。
けれど、食べ終えるころには、少しだけ顔色が戻った。
「君の料理を食べると、午後の書類が読める」
ある日、騎士は真面目な顔で言った。
「それはよかったです」
「昨日は、遠征申請書が二十七枚あった」
「多いですね」
「団長が、朝になってから『そうだ、ついでに山岳訓練も足そう』と言い出した」
「ついでで山に行くのですか?」
「うちの団長は行く」
騎士は遠い目をした。
「その前日は、団長が王太子殿下の前で『我が騎士団は今すぐ三日三晩走れます』と言ったせいで、本当に走る計画書を作らされた」
「三日三晩」
「もちろん却下した。人は寝るものだ」
「正しいと思います」
「だが、団長から『副長なら何とかしてくれる』と言われた」
「副長様なのですか?」
騎士は、しまった、という顔をした。
そして、少し居住まいを正した。
「名乗るのが遅れた。アルベルト・レイン。王宮騎士団副長を務めている」
ニナの手が止まった。
アルベルト・レイン。
王宮騎士団副長にして、レイン侯爵家の次男。冷静沈着で、有能で、礼儀正しいと評判の騎士である。
ニナは慌てて立ち上がりかけた。
「失礼いたしました。副長様に、このようなものを」
「このようなもの、ではない」
アルベルトの声は静かだった。
「私が食べられるものだ」
その一言で、ニナは動けなくなった。
侯爵家の次男で、騎士団副長なら、豪華な食事はいくらでも用意されるはずだった。肉も、魚も、酒も、甘い菓子も、望めば並ぶだろう。
けれど、それを食べられることと、体が受け入れることは違う。
アルベルトは器を見つめたまま言った。
「宴席では肉を食べろと言われる。騎士なら飲めと言われる。団長は善意で皿を積む。悪い人ではない。むしろ、部下思いだ」
「はい」
「ただ、量が多い」
「……はい」
「そして声が大きい」
ニナは少し笑ってしまった。
アルベルトも、つられたように口元を緩めた。
「私は、侯爵家の人間としても、騎士団副長としても、弱っているところを見せるわけにはいかないと思っていた。だが、君のスープを飲むと、少しだけ思う」
「何をですか?」
「弱っている時は、弱っている人用の食事をしてもいいのだと」
ニナは胸の奥が熱くなった。
それは、母がずっと言っていたことだった。
「はい」
ニナは静かにうなずいた。
「弱っている人は、弱っている時の食事でいいんです」
アルベルトは目を伏せた。
「ありがとう、ニナ」
名前を呼ばれただけなのに、鍋の湯気が少し熱くなった気がした。
だが、穏やかな時間は長く続かなかった。
噂は、ほんの小さな隙間から入り込む。
「没落男爵家の薬草係が、侯爵家の騎士団副長に取り入った」
「薬草入りのまかない飯で、騎士を骨抜きにしたらしい」
「地味な顔をして、なかなかやるわね」
その噂を最初に聞いた時、顔色を変えたのはミレーヌだった。
「誰がそんなことを言ったの」
声が低かった。
廊下にいた令嬢たちは、面白がるように笑った。
「だって本当でしょう? 薬草園の奥で、副長様に毎日何か食べさせているって」
「薬草入りなんでしょう? 何が入っているのか分からないわ」
ミレーヌは扇を閉じた。
乾いた音が、廊下に響いた。
「薬草を何だと思っているの。知識もないくせに、よくそんな下品なことが言えるわね」
「ミレーヌ様?」
「それに、ニナが人を惑わせる? あの子にそんな器用な真似ができるなら、もっと前に自分の待遇を良くしているわ」
それは褒め言葉なのか悪口なのか分からなかった。
けれど、確かにニナを守る言葉だった。
ミレーヌは薬草園に戻ると、台所の入り口で立ち止まった。
ニナは鍋の前にいた。
けれど、火はついていなかった。
「……聞いたのね」
ミレーヌが言うと、ニナは小さくうなずいた。
「はい」
「言ったでしょう。王宮は優しくないって」
「はい」
「侯爵家の有望騎士様なんて、相手が悪すぎるのよ。噂で傷つくのは、だいたい立場が弱い方なんだから」
ニナは木べらを握りしめた。
「私が笑われるのはいいんです」
「よくないわよ」
「でも、薬草を疑われるのは嫌です」
ミレーヌは黙った。
「母から教わったものを、誰かを操る道具みたいに言われるのは、嫌です」
その声は小さかった。
けれど、震えていた。
ミレーヌはため息をついた。
「本当に、あなたはそういうところだけ頑固ね」
その日、アルベルトが薬草園に来ても、ニナはスープを出さなかった。
「ニナ?」
「申し訳ありません。もう、お食事はお出しできません」
アルベルトの顔から、表情が消えた。
「なぜ」
「噂になっています。私の料理に薬が入っていると。副長様を惑わせていると」
「そんなもの、放っておけばいい」
「副長様は放っておけても、薬草園はそうはいきません」
ニナは初めて、少し強い声を出した。
「薬草は、信頼で使うものです。疑われたら終わりです。私は、母から教わったものを、そんなふうに扱われたくありません」
アルベルトは黙った。
沈黙が落ちた。
ニナは言い過ぎたと思った。相手は侯爵家の騎士団副長だ。薬草係が意見してよい相手ではない。
けれど、アルベルトは怒らなかった。
むしろ、苦しそうに眉を寄せた。
「君は、私のためだけに作っていたわけではなかったんだな」
「はい」
「君の料理には、守っているものがあった」
ニナは答えられなかった。
その時、台所の入り口からミレーヌが言った。
「そうですわ、副長様」
ニナは驚いて振り向いた。
ミレーヌは腕を組んで立っていた。
「この子は地味ですし、要領も悪いですし、放っておくと自分の分の昼食まで人に渡します。けれど、薬草の扱いだけは真面目です。そこを疑われるのは、私も不愉快です」
「ミレーヌ様……」
「褒めてはいないわ」
アルベルトは一度ミレーヌを見て、それからニナに向き直った。
「分かった。なら、君の料理を、噂ではなく仕事にしよう」
「仕事、ですか?」
「騎士団に必要な仕事だ」
その三日後、騎士団の食堂で小さな試食会が開かれた。
集められたのは、騎士団副長アルベルト、侍医長、王宮料理長、薬草園長。そして、噂好きの貴族や騎士たちだった。
ミレーヌもいた。
そして中央には、王宮騎士団長グレゴール・ヴァイスが腕を組んで立っていた。
大きな体。大きな声。大きな笑顔。
いかにも「三日三晩走れる」と言いそうな人だった。
「アルベルト!」
グレゴールは食堂に入るなり叫んだ。
「聞いたぞ! お前、薬草園でうまい飯を一人で食っていたそうだな!」
アルベルトは額に手を当てた。
「団長。本日はそういう会ではありません」
「そうなのか?」
「違います」
「だが、飯は出るのだろう?」
「出ます」
「なら同じだ!」
違うと思います、とニナは心の中で思った。
ニナは白い前掛けをつけ、料理を並べた。
豆と鶏肉のスープ。香草入りの麦粥。白身魚の蒸し物。根菜の煮込み。蜂蜜を一滴だけ落とした薬草茶。
どれも地味だった。
騎士団の食堂に並べると、肉料理や濃いソースの皿に比べて、ますます控えめに見えた。
誰かが小さく笑った。
「騎士団の方々に、こんな病人食みたいなものを?」
ニナはうつむきかけた。
その時、グレゴール団長がスープをひと口飲んだ。
食堂が静かになった。
団長は目を見開き、もう一口飲んだ。
そして叫んだ。
「うまい!」
声が大きすぎて、窓が少し震えた。
アルベルトが疲れた顔で言った。
「団長、声量を」
「アルベルト!お前、こんなうまいものを一人で食っていたのか!」
「ですから、本日はそういう会では」
「いや、分かったぞ!」
グレゴールは器を掲げた。
「取り入った? 薬で惑わせた? 違うな! うちの副長は、この娘の飯がなかったら、とっくに書類の山の下で干からびていた!」
食堂に、妙な沈黙が落ちた。
アルベルトが目を閉じた。
「団長……」
「何だ!」
「表現はともかく、ありがとうございます」
グレゴールは豪快に笑った。
侍医長が薬草茶を飲み、深くうなずいた。
「薬効が前に出すぎていない。毎日続けられる量だ。胃腸が弱った騎士や、遠征帰りの者には非常によい」
王宮料理長も麦粥を口にした。
「派手さはない。だが、弱った体にはこういうものが要る。騎士団の食堂には、力をつける料理はあるが、回復させる料理は少ない」
グレゴールは根菜の煮込みを食べながら言った。
「つまり必要だな!」
「はい」
侍医長と料理長が同時に答えた。
アルベルトはニナを見た。
「私は彼女に誘惑されたのではない。救われたのです」
その声は、騎士団長のように大きくはなかった。
けれど、食堂の奥までまっすぐ届いた。
「そして、私だけではない。無理をして食べ、無理をして飲み、無理をして平気な顔をしている騎士は多い。彼女の料理は、その者たちにも必要です」
誰も笑わなかった。
ミレーヌは、少しだけ得意そうに顎を上げた。
ニナは顔を上げた。
地味な料理が、初めて居場所を与えられた気がした。
数日後、ニナは正式な辞令を受け取った。
王宮騎士団療養食係。
遠征帰りの者、病み上がりの者、宴席で胃を壊した者、そして騎士団長に振り回されがちな副長のために、薬草を用いた食事を考える役職だった。
最後の一文は辞令には書かれていない。
けれど、騎士団の誰もがそう理解していた。
噂は完全には消えなかったが、新しい噂も生まれた。
「エルム男爵家の娘のスープで、遠征帰りの騎士が食べられるようになったらしい」
「副長の顔色がよくなった」
「団長が薬草粥を三杯食べた」
「それは療養食なのか?」
「団長だから仕方ない」
その夕方、ミレーヌが薬草園の台所に現れた。
顔色が悪く、片手で腹を押さえている。
「……昨日の夜会で、食べすぎたの」
ニナは何も言わず、鍋に火を入れた。
ミレーヌは気まずそうに目をそらした。
「先に言っておくけれど、謝りに来たわけじゃないから」
「はい」
「でも、あなたの料理を地味だと馬鹿にしたのは、少しだけ悪かったと思っているわ」
「少しだけですか?」
「かなりよ」
ニナは思わず笑った。
ミレーヌは顔を赤くして、そっぽを向いた。
「それと……侯爵家の副長なんて、相手が悪すぎると思ったのよ。あなた、そういうところ鈍いでしょう。噂で傷つくのは、だいたい立場が弱い方なの」
「心配してくださっていたんですか?」
「違うわ。薬草園の評判を守ろうとしただけ」
「そうですか」
「何よ、その顔」
「いえ。スープに蜂蜜を少し入れますね」
「子ども扱いしないで」
「胃には優しいです」
ミレーヌは少し黙ってから、ぼそりと言った。
「……なら、少しだけ入れなさい」
それから、また数日後。
夕方の薬草園に、アルベルトが来た。
いつものベンチに座ると、彼は少し困ったように言った。
「君の料理が正式な仕事になったのは嬉しい」
「はい」
「だが、少し困ったことがある」
「何でしょう」
「これからは、私だけのものではなくなる」
ニナは瞬きをした。
アルベルトの耳が、ほんの少し赤かった。
「今度、仕事ではなく、私と食事をしてくれないか」
ニナは鍋の蓋を持ったまま固まった。
「それは、療養食の相談ではなく?」
「違う」
「胃の調子の確認でもなく?」
「それも少しあるが、主な目的ではない」
「では、何のために?」
アルベルトは、ゆっくり笑った。
「君と、同じ食卓につきたい」
ニナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
侯爵家の副長だからではない。
最初に薬草園のベンチで、スープを飲んでほっと息を吐いた人だからだ。
弱さを隠すことに疲れていた人が、今、自分の言葉で願いを伝えている。
ニナは静かにうなずいた。
「豪華なお料理ではありませんよ」
「それがいい」
「胃に優しいものになります」
「それがいい」
「緊張すると、私の方が食べられなくなるかもしれません」
アルベルトは笑った。
「その時は、君が食べられるものを一緒に考えよう」
ニナも、つられて笑った。
その時、薬草園の入り口から大きな声が響いた。
「アルベルト!ここにいたか!明日の訓練だが、やはり全員で早朝から湖まで走るのはどうだ!」
アルベルトの笑顔が固まった。
ニナは静かに鍋へ手を伸ばした。
「副長様」
「何だろう」
「胃に特別優しいスープを、用意しておきますね」
アルベルトは深く息を吐き、それから少しだけ笑った。
「お願いする」
地味な服。
地味な仕事。
地味な料理。
けれど、地味なものは、目立たないだけで、不要なものではなかった。
強い香りではなく、そっと戻ってくる香り。
眩しい皿ではなく、手の中で冷めにくい器。
勝つための食事ではなく、明日も立つための食事。
王宮薬草園の小さな台所から、今日も湯気が上がる。
それは、騎士団長に振り回されがちな副長様の胃袋と、少し疲れた誰かの一日を救う、王宮で一番地味で、一番ほっとする匂いだった。




