《ひかげとひなたと紙ヒコーキ》
[2-4]
少年――斉藤敦の産まれ育った家は、端的に言って、幸福と言えるものではなかった。
稼ぎの少なかった父親は、そんな自分を責めるかのように朝も昼もなく働き続け、また母親も、パートで家を空けることが多く、敦は肉親の手から離れて幼少を過ごさざるを得なかった。
しかしそれでも、家庭的な幸福と無縁であったわけではない。
たまには両親が休日を会わせて、家族三人水入らずで過ごす時間というものを作っていた。
どこかに出かけるような経済的余裕など元より無かったが、両親は創意工夫して、チープながらも家庭的な幸福に満たされた時間を、幼い我が子に与えていたのだ。
そんな中で、高価な玩具代わりに与えられた物が、何の変哲もない紙ヒコーキ。
それは、色取り取りの樹脂でできているわけでも、電動で空を駆けるわけでもなかったが、敦はそれをえらく気に入ったらしい。
そして、それに拍車をかけたのが、父親の死だ。
元より朝も昼も働き詰めで、貴重な休みすら敦のために使っていたのだ。眼に見えずとも、負債は徐々に彼の身を蝕んで、とうとう限界を迎えたのだろう。
それからは、当然、女手一つで敦を育てなくてはならなくなった母親はパートを増やすことになり、趣味の悪い神の悪戯か、敦も長期療養を余儀なくされる身の上となった。
見知らぬ白い空間に押し込められ、愛しい母親とは滅多に会うこともできず、そんな中で、父親が遺してくれたその紙ヒコーキは、敦にとって、かけがえのない安らぎと幸福を与えてくれる、お守りのような物になった。
――即ちそれは、思い出、そのものだったのだ。
「ふぅん」
……ま、そんなことしか俺には言えないんだが。
「ふぅん……て、それだけー? せっかく長々と説明してあげたのにー」
なんて、分かりやすい抗議の声を上げる女。
そりゃまあ、ごもっともではあるんだが。
「いや、ま、お疲れさんとは思うけどな。生憎と、他人のお涙ちょうだい話には興味ないんでな。正直、それで? ってところだが」
オーバーアクションで、吐き捨てるように言ってやる。……自分でも、わざとらしかったかなとは思ったが。
しかし、あからさまにニヤニヤされるのは腹立たしい。
「ふ~ん……へ~……」
言いながら、ニヤニヤとこちらを見やる女。
「んだよ」
「べっつに~」
にやにや。
ふて腐れた声を出してやったが、女の態度は改まりそうになかった。
なかったから、俺は嘆息して腰を上げた。
「? 帰るの?」
驚いたように、女は声を上げる。
「……怒らせちゃった?」
ふいに、しょんぼりとした声を出す。……日頃脳天気なくせに、こういう不意打ちは正直困る。と言うか、俺の身の回りにはこんな女しかいないのだろうか。
「別に。ただ、あんまり長居してもしょうがねえと思っただけだ」
言ったが、簡単に信じてはくれそうになかった。
だから、付け足した。
「……ま、気が向いたら……その、何だ。差し入れにでも……くるさ。あいつ――敦にも……そう言っといてくれよ」
それだけ告げて、返事も待たず、俺は女に背を向けた。
……煩わしかっただけだ。別に他意はない。
背後にかかる脳天気な女の声を振り切るように歩きながら、脳裏にはあの少年のことが浮かぶ。
斉藤敦。
他人の身の上話に興味がないのは本当だ。
ヒトのナカにどんな思惑やトラウマがあろうと、そんなモノ俺には関係がない。
そんなモノを一々気にしていたら、きりがない。一つ気にし始めたら、しがらみって奴は容赦なくヒトの身に絡みついて、奈落の底に引き摺り落とす。
だから、興味など無いし、大した意味など無い。
――ただ、一つだけ意味があったとすれば。
……それはまあ、あいつの本名を知ったことくらいか。
有史以来、ヒトって奴は眼の前の物の呼称がはっきりしないと気が済まないタチだし、場合によっては色々と不都合もある。物語の中の人物名とか。
……そう考えると、不都合の固まりのような奴が身近に居た気もしたが。
「――いや、どうでもいい」
吹っ切るように、誰にともなく漏らした言葉。
そう、どうでもいいさ。あいつの名前なんて、あいつのことなんて、知らなくてもいい。
――それは、無意識から出た警告だったのかもしれない。
【つづく】