《ひかげとひなたと紙ヒコーキ》
[2-3]
ケンカの時に気をつけるべきことは二つある。
一つは、必ず先手を取ること。ルールなどない路上の格闘に於いては、最初にダメージを与えた方が圧倒的に有利だからだ。
もう一つは、深い傷を負わないように立ち回ること。もう少し具体的に言うと、最低限、医者に掛からないで済むようにすること。
……今更確認するまでもないことだとは思うが、今回俺は、その二つ目を全うできなかったわけだが。
医者に掛かる傷を負うと、色々と面倒なことになる。
あのお節介馬鹿のこともそうだが、何より面倒なのが通院だ。縫合傷など負ってしまえば、抜糸や経過確認で何度も通院しなければならなくなる。
――まあ、そんなわけで。
煩わしい抜糸を済ませた午後のことである。
そこは中庭だった。
俺は芝生の生える木陰に腰を下ろし、何をするでもなく、ぼうっと夏の陽光に揺れる景色を見つめている。
遠くには、数日前に出会ったあの少年。紙ヒコーキを片手にはしゃいでいる。
隣には、同じく数日前に出会ったあの女。にこにこと楽しげに笑っている。
傍らには、小さなメロンを模したシャーベットの容器が三つ転がっている。
――どうしてこうなった。
カミサマなんてものがホントにいるのなら、そう問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。
しかし、本当にどうしてだったか。
……確か――そう。
あの少年が、外来近くの廊下で紙ヒコーキを飛ばしていたのだ。それを俺が軽い気持ちで咎めて、そしたら何故か一緒に中庭へ出ることになり、気がついたら、メロンシャーベットの入った売店の袋を下げたあの女が笑顔で隣に立っていた。
何を言ってるのか分からねーと思うが言ってる俺が一番分からない。
まあとにかく、後は流れでシャーベットを三人ナカヨク貪り、現在に至ると言うわけだが。
「……しかし、マジでどっから現れたんだ」
「ん?」
ぽつりと漏らした俺の言葉に、女は小首を傾げて顔を向けた。
俺は、遠くの少年に視線を向けたまま続けた。
「あんた、何か変な能力でもあんのかよ。やなとこにいきなり現れやがって……」
それは深い意味など無い、愚痴の様なものだったが、女は思案するように顎へ指を当てて、
「……うーん、強いて言うなら、しあわせオーラを感じる能力かしらね?」
戯けるように、そんなことを言った。
「はあっ?」
思わず、俺らしくもない高い声が漏れた。
その台詞があまりにも陳腐過ぎたからか、本気で意味が分からなかった。
女は更に思案するように首をひねって、
「何て言うのかなあ、楽しい感じとか嬉しい感じとか、そう言う――優しい、穏やかな雰囲気かな?」
「それを嗅ぎつける能力があるってのかよ? ……変な虫みたいな奴だな」
それは心底呆れ果てた言葉だったが、女は脳天気に笑った。
「あはは、素敵な虫さんだねー」
「何勘違いしてるか知らねえが、俺が言ってるのは蝶みたいな可愛いもんじゃねえぞ。他人の幸せを目敏く見つけては根刮ぎ食い尽くしていく、大量発生したイナゴの如き害虫だ」
そう吐き捨ててやると、さすがのこの女も眉を寄せた。
「えー、それはちょっとひどいよー。私、ヒトのしあわせ食べちゃったりしないもーん」
「そうか? 百歩譲って、さっきの俺から『しあわせオーラ』とやらが出ていたとしても、今はそんなもん、すっかりどっかにいっちまったけどな、あんたがここに来たおかげで」
皮肉たっぷりに言ってやった。
だが、女は凹むどころか、
「そんなことないよ」
満面の笑みで、そんなことを言った。
予想外の反応に眼を白黒させていると、女は俺の鼻面にぴっと人差し指を当てて、確信を持った笑みで言った。
「今も出てるよ、しあわせオーラ」
「……ねーよ、馬鹿」
何と言うか、反論するのも馬鹿らしくなって、俺はそっぽを向いた。
――だけど、本当は。
「……なあ」
もしかしたらそれは、照れ隠しだったのかも知れない。
「あいつ、何であんなに紙ヒコーキが好きなんだ?」
顔も向けずに問うと、俺の胸中に気づいているのだか無いのだか、女はさして変わった様子もなく答えた。
「何でって……なんで?」
きょとんとした声を出す女。
俺は嘆息しつつも付け足した。
「……そりゃ、ヒトそれぞれだけどな。よくよく考えたら、俺がガキの頃ならともかく、今は入院してたって楽しいことは他にもあるだろ。ゲームするとかよ」
言うと、女は合点が行ったように笑って――……寂しそうな眼を、遠くの少年に向けた。
そうして、深く噛み締めるように、静かな声音で言った。
「あの子にとって、紙ヒコーキは……とても特別で、大切な――思い出、そのものだから」
――その言葉の意味を、俺は未だ知らなかった。
【つづく】