《ひかげとひなたと紙ヒコーキ》
[1-5]
出会ってからまだほんの僅かな時間だが、突拍子もないことをする女なのだな、と言うことはよく分かった。
――だが、さすがに今の状況は度し難い。
そこは、病院の屋上だった。
見上げれば、すっかり夏の顔を見せる、真昼の太陽が照りつけている。
正直鬱陶しいことこの上ないが、地上七階に位置するので風通しは悪くなく、少し強い風が熱を持った肌に心地よい。
据え付けられた物干し台に揺れる純白のシーツからは、洗濯後のさわやかな香りが漂っていて、居心地は悪くなかった。
そして、そんな場所のベンチに腰掛ける俺と女。
お礼のつもりなんだそうだが――何故か、手の上には、丸くて緑色の冷たい物体が乗っかっていた。
「……何だ、これは」
「えーっ!? たっくんコレ知らないの!?」
もの凄く意外そうな声が帰ってきた。
……いや、まあ、コレが何であるかは分かっているんだがな。
「こんな美味しいもの知らないなんて可愛そうに……って、ちょっと待って? もしかしてこれって、じぇねれーしょんぎゃっぷってやつなのかしら? ……よよよ、おねーさんも、もうそんな年なのね……」
なんて、泣き真似などして見せる女。
嘆息しつつも、俺は言った。
「……自己完結しているところ悪いがな。コレがメロンシャーベットだってことは分かってるし、一応は食ったことだってある。――つーか、そんなに上手いモンじゃないだろ、コレ。メロンっぽい色素と風味を加えただけの安っぽい氷菓子だし」
「まあっ! なんてこと言うのこの子は!」
吐き捨てた俺に、女は柳眉を逆立てて身を乗り出した。
「これは素晴らしい食べ物なのよ! サクサクとした食感に滑らかな舌触り、そしてほのかな甘みを湛えた優しいメロンフレーバー! これだけのクオリティを実現しながら、価格は何と一個60円! ――そして何よりこの外観よ! ちっちゃなメロンを模したこの愛らしい姿! 和むじゃないっ!!」
……さいですか。
「まったく、これだから物が豊富な時代に生まれた子は……あむっ」
言いながら、一口シャーベットを口に含む女。
……つーか、あんただって物のない時代の生まれなんかじゃないだろ。
「……はぁ」
嘆息しつつも、俺は女に倣って、身体に悪そうな色のそれを一口含む。
記憶の通り、駄菓子じみた安っぽい甘みが舌の上に広がっていく。
……けれど、まあ。
……思っていたより、悪くはないかも知れない。
初夏の太陽が照らし、さわやかな風の吹く屋上で、時間にも捕らわれず、どこか懐かしい甘みに酔いしれる。
気のせいか、以前口にした時よりも、幾分旨いと感じられる。
――或いはそれは、隣にいる誰かの影響なのかも知れなかった。
……悪い人間ではないのだろう。多少不躾で強引だが、明朗快活で、人当たりの良さは疑いようがない。
子供に人気があろうことは疑いようがないし、それ以外にも受けが良いのだろう。俺の存在に配慮してか話しかけては来ないが、先ほどから、通るヒト通るヒト、彼女に笑顔で挨拶をして去っていく。
「……人気者みたいだな、あんた」
無意識に、そんな言葉が口をついて出ていた。
「ん?」
木製のへらを銜えたまま、きょとんとした眼を向ける女。
「…………」
正直余計なことを言ってしまった。
だが、今更撤回するわけにも行かず、俺は押し黙った。
女はしばらく、俺の真意を測るようにこちらを見ていたが、やがてそっと微笑むと、穏やかな声で言った。
「う~ん……人気者かどうかは分からないけど、知り合いは多いかもね。ここでの暮らし、結構長いから」
「……? 長いって?」
ほとんど条件反射で尋ねていた。
女は一瞬、ばつが悪そうに苦笑して――
「ん、一年くらいかな。いやー、年を取ると病気の治りが遅くてねー、あはは」
――だが、そう言った時には、すでにあっけらかんとした笑顔に戻っていた。
少しだけ不審には思ったが、俺なんかが踏み込むべきことではないと思った。
だから、それ以上はもう何も言わなかった。
それに倣うように、女もしばらくは黙っていたが、少しして、遠慮がちに問うた。
「……たっくんは、人気者じゃないの?」
思わず吹き出しそうになった。
「そんな風に見えるかよ? 俺みてーなのに、好き好んで寄ってくるような奴はいねえって」
「そうなの?」
女は、心底意外そうに眼を丸くした。
「そうなのって……そこ聞き返すところか? 俺が嫌われモンなのは、話してれば分かるだろ」
「ええー? そんなことないよー。むしろ、こうして話してるからこそ思うんだもん――たっくんは、優しい子だって」
その言葉に、嘘はないようだった。
……だからこそ、俺は自嘲的に笑った。
「……ねーよ、馬鹿。俺は、身体の芯から嫌われ者さ。そもそも、俺に話しかけてくる奴なんて――」
言いかけて、思わず言葉に詰まった。
……思い出してしまったから。
「……? 奴なんて?」
問われて、苦笑した。
「いや、何でもない」
吐き捨てるように言って、俺はシャーベットの最後の一口を口中に放り込んだ。
――脳裏には、一人の女の姿。
それは、こんな俺の側に、実に十年以上も居続ける、馬鹿な女。
……本当に、馬鹿な女の姿だった。
【つづく】