《ひかげとひなたと紙ヒコーキ》
[4-4]
最初から、あいつの思い出を取り戻してやれるなんてことは思ってなかった。
それは、言葉にするのも、心に描くことすら烏滸がましいことだ。不当な暴力によって失われてしまった思い出は、この先、二度と元通りになることはないのだろう。
ならば、俺には、ヒトには、いったい何がしてやれるのか。
それはきっと、誤魔化してやることくらいなのだ。悲しみを。寂しさを。
誤魔化しで、何が変わるのかなんて分からない。それは、分の悪い賭だった。確証など何もなかったし、賭に勝った時のあいつの姿も、己の姿も、想像することはできなかった。
だからそれは、ただの自己満足だったのかも知れない。自分の中に湧き起こる無力感、やり切れなさを、何とかして誤魔化したかったのだ。
自分はこれだけやったのだ、だから誰も俺を責めないでくれ――そう、訴えたかっただけなのだ。
……だから、あいつの笑顔を期待した訳じゃない。想像した訳じゃない。
――それでも。
ひなたや神山、他の子供達に――あの女。その輪の中で、楽しげに笑うあいつの笑顔は、暗い日陰に沈む俺のココロを、確かに慰めてくれた。
俺の脳裏に焼き付いた、寂しげに笑うあいつの顔を、一時、忘れさせてくれた。
――願わくは。あいつ自身も、また。あんな笑い方など、忘れてくれれば、と。
初夏の眩しい陽光と、その熱さを和らげるさわやかな風を頬に感じながら、俺は独り、そんなことを思っていた。
レクリエーションルームの外。
扉一枚隔てた廊下の、開け放たれた窓の前。
俺はそこにいた。
部屋の中では、今も皆が楽しげに折り紙教室の真っ最中なのだろう。
それは、確かに俺が企画したものだし、望んだ光景ではある。
しかし、やはり居心地の悪さは否めない。ああ言う『あっとほーむ』な空気と言うのは、俺には向いていないのだ。
――何より、許されない。俺は、あそこにいて良い人間ではない。白い世界を黒く染める、汚濁した染みなのだ、俺は。
自嘲的に思いながら、俺はズボンのポケットに手を伸ばす。
取り出したのは、掌大の四角い箱。見慣れた嗜好品の紙箱だ。
そこから、すっかり慣れてしまった手つきで、中の一本を取り出そうとして――……箱を、握り潰した。
馬鹿なことをしているような気がした。滑稽で、無様で、情けないことをしている気がした。そんな自分が気恥ずかしくて――許せなかった。
くしゃくしゃに潰れた紙箱をポケットに戻し、嘆息一つ。
同時に、背後で扉の開く音がした。
「あ、たっくん見ーっけ♪」
そう言って、のほほんとした笑顔を覗かせたのは、他でもない、あの女だった。
「んふふっ♪ こんなとこにいたのねー」
気持ちの悪い含み笑いを漏らしながら、女はさも当然のように俺の隣に並ぶ。
「どこにいようが俺の勝手だろ」
吐き捨ててやると、女は殊更くすくすと笑った。
「分かってる分かってる、あっくんの笑顔が照れ臭かったんだよね♪」
「はあっ!? んで俺がそんなことっ――……」
訳知り顔で言う女にかっとなって、思わず叫びかけた。が、寸でで思い留まった。
そう言うことじゃない。そうじゃないんだ。
「……分かんねえだろ」
嘆息して、続けた。
「どんなに笑顔だって、ヒトはナカに何を抱えてるか分かんねえ。あいつだって、笑ってんのは上っ面だけかも知れねえ……」
「――そっか。たっくんは、不安なんだね」
眩しい笑顔で、女はそう言った。
その笑顔があまりに眩しすぎて、俺の唇は空を切る。皮肉の一つも出てきやしなかった。
「たっくんだけじゃないよ。みんなそう。結果がカタチとして見えないモノは、不安で不安で仕方がないものだもの。どんなに自分が精一杯やったとしても……表面上は、上手くいったように見えても」
その言葉は、脳天気なこの女が口にしているとは思えないほど、不思議な重みがあった。
何も言えないでいる俺に、女は今一度微笑んだ。
「――大丈夫だよ、たっくん。キミがしてくれたことは、間違いじゃない。あっくんの笑顔は、間違いじゃない。キミは、暗い日陰で泣いていたあの子を、明るい日向に引っ張り出してくれた。それはとても尊くて……嬉しい、ことだよ」
その言葉は、俺のココロに掛かる黒い霞の幾らかを払ってくれた。
けれど、完全には拭えない。……いや、或いは、この暗い気持ちは、ヒトの生涯について回るモノなのかも知れない。
そう結論付けようとした時、女はふと言った。
「……まだ不安だって言うなら――お姉さんが、ご褒美をあげるよ」
「え?――」
意味を計りかねて声を上げたが――その時には、もうことは済んでいた。
――チュッ。
耳元に響く、そんな音。頬には、柔らかく、生暖かく、湿った感触。
けれど、嫌ではない感触。むしろ、飛び上がってしまいそうなほどに甘美な感覚だ。
体温を上昇させ、気分を高揚させ、全ての闇を振り払ってしまう、魔法のような感覚だ。
それが、女からのキスなのだと悟った瞬間――俺は、顔面から火を噴いた。
「なっ、なななななっ!? なにしやがルっ!?」
「あははははっ♪ 真っ赤になってるー、可愛いんだー♪」
みっともないほど狼狽する俺を余所に、女は腹立たしいほど、けろっとして笑っている。
「あっ、あっ、あっ、あんたなあっ……!」
「何って、ご褒美だよ? ご褒美もらえると、やった! って気になるでしょ?」
頭が茹だってまともに言葉の出てこない俺に、女は尚も平然と言ってのける。あまつさえ――
「いきなりでよく分からなかったかな? じゃ、もっかいしよーか♪」
何て言って、俺の首っ玉にしがみついてきた。
「やぁめぇろおおおおおおおおおおっ!」
「良いではないか良いではないか♪ 減るもんじゃなしっ♪」
「あんたはどこぞの悪代官かあああああああああああ」
何とか振り払おうと身を捩るが、女は鬱陶しいしがらみのようにまとわりついて離れない。
「ほれほれ、いい加減観念して、その唇を余に差し出せぇい♪」
「ナズェ唇になっていルンディス!?」
「細かいことはいいじゃないっ♪」
女がそう言った時だ。助けは意外なところからやってきた。
「――良くないわーっ!」
そう叫んだのは俺ではない。
見れば、いつの間にやってきたのか、精一杯に肩を怒らせたひなたが立っていた。
「あら、やっほー、ひなたちゃん♪」
なんて、自身の姿に無自覚なのか何なのか、俺の首にしがみついたままに言う女。
ひなたはずかずかと大股で近づいてくると、そのままの勢いで俺と女の体をばりばりと引きはがした。
「いったい、なにを、しているんですかっ!?」
問い詰めるように、ひなたは女に言った。
「ん? とっても良い子なたっくんに、ご褒美をあげてただけだよー」
「なっ……!? どんなご褒美ですかっ!」
いつもののほほんとした顔で、しれっと答える女に、怒号を上げるひなた。
「あらら? ひなたちゃんも興味ある? 可愛い顔して意外と……」
「そう言うことじゃないですっ! てか、意外とってなんですかっ!?」
「さーなんだろー、おねーさんわかんないなー」
「きーっ!」
…………。
突然始まった二人の言い争いは、まだまだ続きそうだった。
俺は嘆息して、すぐ後ろの窓枠に背を預けた。
……思えば、不思議なものだ。
ほんの少し前まで、俺はこんな場所、嫌いだった。弱者共の吹き溜まりと、見下していたのだ。
なのに、今は。
理由は分かっているのだ。誤魔化しようがない。今も眼の前でのほほんと笑う、あの女のせいだ。
あの女に出会ってから、俺は調子を狂わされっぱなしだ。この短期間、瞬きするほどの一瞬の間に、俺は俺らしくないことばかり重ねている。
でもそれを、俺自身、悪くないとも感じている。……それが一番、俺らしくないんだが。
――だから。
もう一つくらい、俺らしくないことが増えてもいいかな、と。そう思った。
「――なあ、あんた」
そんな俺の呼びかけに、二人は同時に振り返る。が、俺がこう呼ぶのはこの場に一人だけ。
「ん? なあに、たっくん♪」
呼びかけられたことがそんなに嬉しいのか、女は妙にニコニコとして返す。
ひなたはひなたで、恨めしいような眼で俺を見るし。
取り敢えず、そんな二人の違和感は無視して、俺は続けた。
「……あんたの名前――教えてくれよ」
ずっと。出会った時からずっと、忌避してきたその言葉。
その言葉に、女は一瞬きょとんとして、すぐに苦笑した。
「……そっかぁ。ずっとおかしいなー、とは思ってたんだぁ。たっくん、いつまでたっても私のこと名前で呼んでくれないから。……あはは、教えてあげてなかったんだねぇ」
……そんなこったろうと思ってたよ。
嘆息する俺に、女は優しく微笑んで言った。
「――緋蔭 優。それが私の名前。……忘れちゃだめだからね?」
ああ、分かってる。忘れない。忘れられるわけがない。だからこそ、忌避してきたのだ。忘れられない思い出など、持たぬために。余計なしがらみなど、持たぬために。
――それは、覚悟だった。
「……ああ、忘れないさ――……ゆう、さん」
その優しい響きを、自身に確認するように、呟く。
……忘れない。忘れないさ。あんたのこと、あいつのこと――ついでに、馬鹿な女のことも。
ずっと忘れない。この日のことを。
――ヒカゲと、ヒナタと、小さな紙ヒコーキのことを。
【朱色優陽1《ひかげとひなたと紙ヒコーキ》終】