《ひかげとひなたと紙ヒコーキ》
[4-2]
辺りは夜の闇に包まれている。
うらぶれた路地裏だ。街灯などまばらで、他に人通りはなかった。
喧嘩をするのに、人目を気にしたことはあまりない。
喧嘩なんてものは、ヒトの感情の高ぶりによって自然と引き起こされるものだ。気がついた時には、自分か相手、どちらかが血を流している。そんなもの。
――だから、と言うのもある。刑事事件に発展せずに済んでいるのは。
人目があれば、大抵の人間は無茶をしないし、無茶をする前に某かの横槍が入る。そうして結局は、決着が付く前に三々五々、方々に散って行くことになるのだ。
だから、この時間、この場所を選んだ。
別に、事件になるような無茶をしたかったわけではない。
けれど、余計な横槍を入れられるのは避けたかった。
これは、ただ無軌道な暴力を振るうだけが目的ではなかったから。
先にあったのは抑えられざる激情だったとしても、果たさねばならないことがあったから。
……暴力に目的を持つなんてのは、全く以て俺らしくもない。
こんなもんは、どこまで行っても肯定されるべきモノなんかじゃねえんだ。目的を持つなんざ、愚かしくて、おこがましい。んなことは分かってる。
だから――だから。
そんなもんは鼻で笑って、捨てて、忘れて、自ら踏みつけにしてきた。
これはただの暴力だ。それが真理で、それでいい。認められようなんざ思わねえし、そもそも、認められちゃいけねえもんだ。
自分が進むために、他人を押し退ける行為に言い訳なんかできない。それは善じゃあない。正しいことじゃない。
……だから、俺は悪党で良かった。ヒトに後ろ指を指され、忌み嫌われるだけの奴で良かった。理由なんかいらない。ただの暴力で良かった。それで良かったのに。
――身体は、止まらなかった。
「――こいつに見覚えがあるだろ?」
獲物とは逆の手に持った白いモノを見せながら、俺は地面に蹲る虫けら――……自らの同類に、問うた。
「ハアッ!? しるかよっ!」
考える素振りも見せず、虫は答える。
軽く、一蹴り。
「ぶはっ!」
無様な悲鳴。見れば、虫は鼻血を流している。
笑いそうになった。
「見た目通りのミニマム脳味噌な野郎だな、少しは考えろよ」
笑いを堪えながら、俺は続けた。
「日曜日だ。病院のエレベーターホール。入院患者のガキの前で、何をした?」
俺の手の中にあったのは、他でもなく紙ヒコーキ。勿論、あれと同じものじゃないが。
「……ああ、アレか」
ようやく思い出したのか、つまらなそうに虫は吐き捨てた。
目障りだったので、踏みつけた。
「ぐぼっ……! ぐえ……っ……」
詰まったホースみたいな音を立てながら、転がり回る虫。
なんか、そう言う玩具みたいだな、と思った。
「そうだな。お前らにとってはその程度のことだ。俺だって、よく知らねえガキのことなんざ道端の小石程度にしか思わねえし、お前らにとって、その小石がどうしても邪魔だったってんなら、それを退けることを責める気はねえよ。――けどな」
今一度、足を振り上げる。
「げはっ……!」
吐瀉物と血をまき散らしながら、虫は地面を転がり回る。
俺は歩み寄りながら続けた。
「てめえで避けられるもんなら、避けた方がいいことだってあるんだぜ? 一見ちっちゃな小石に見えても、地面の中には巨大な岩が埋まってるかも知れねえ。小石は蹴散らせても、岩は無理だろ? お仲間みてえに、足が折れるぜ? なあ」
もう一蹴り。
「ぶあっ! ……っ……くっ、もっ、やめっ……やめてっ……」
血反吐をまき散らしながら、懇願するような眼で虫は呻いた。
……それに、少しだけ頭が冷えた。
「……止めてやってもいい。俺の言う通りにするならな」
言うと、虫は続きを求めるように怯えた眼をした。
軽く嘆息して、俺は続けた。
「――もう、あの病院には近づくな。金輪際、二度とだ。……あそこは、お前みたいな汚え染みが足を踏み入れていい場所じゃない」
自分でも驚くくらい、迷い無く、そんな言葉がすらすらと出てきた。
けれど、虫には今ひとつ、ヒトの言語が理解できていないようだった。
だから、付け足した。
「別に考えなくたっていいんだよ。お前は――お前らは。ただあの場所に近づかなければいい。それだけだ。……でなければ、また、今日と同じ目に合うことになる。お前も……お前の仲間も、な」
ぎろり、と。最後に一つ、睨み付けた。
「――!! ひぃっ……!」
頼るべき仲間すらも最早無事ではない。その事実が決定的な畏怖となったのか、程なくして虫は――男は。ぼろぼろの身体を引き摺りながら、薄汚れた闇の中に消えた。
――嘆息する。
疲労感が、どっと押し寄せた。
身体が重い。何も考えたくない。
足に残る、あいつを蹴り上げ、踏みつけた感触が気持ち悪かった。
……だけど。考えないわけにはいかないのだ。
「――分かっているさ」
誰にともなく、俺は呟いた。
分かってる。こんなことをしても、誰も救われない。精々、俺の気が晴れる程度。……それすら、一瞬でしかない。
ならば、どうすればいいのか。何をすればいいのか。
――今の俺に考えられたのは、一つだけだった。
【つづく】