《ひかげとひなたと紙ヒコーキ》
[3-3]
腑に落ちないことがあった。
「……何故、止めた?」
誰もいない屋上。黄昏時の朱色を浴びながら、俺は問うた。
「? 何が?」
きょとんとして、女は言った。
俺は一度嘆息して、続けた。
「あいつらがあんたにぶつかった時、呼び止めようとした俺を止めたろうが。意味わかんねーぞ。あん時のあんたに落ち度はなかったんだ、呼び止めて文句の一つも言ってやるのが筋だろうが」
そんな、憤りを込めた俺の言葉に、女は優しく苦笑した。
「だから、ダメだってば」
「何が」
「私だって馬鹿じゃないんだよー? あの時たっくん止めてなかったら、絶対ケンカになってたでしょ? 病院で殴り合いのケンカなんて、それこそおねーさん怒っちゃうんだから」
「なっ、んなこと――」
なかった、とは言えなかった。
言葉を飲み込んで、俺は自嘲気味に嘆息した。
「……確かにな。あいつらみてえな奴らと俺じゃ、喧嘩にならないわけがねえ。……あんたの行動は、間違っちゃいなかったんだろうな」
病院で殴り合いなんて、みっともないどころの話じゃない。
……それに。
「あっくんのことも……あったからね」
……そう。あんなあいつの前で、無様な喧嘩なんざするわけにはいかなかった。
あの時、ヒコーキを追ってエレベーターホールに消えた敦。
直後に到着したエレベーター。
おそらく、ヒコーキはエレベーターのすぐ前に落ちていたのだろう。
俺達がその姿を見た時、ヒコーキは酷い有様だった。ただ足形が付くに留まらず、ぼろぼろの紙くずのようだった。
……何故そんな状態になったのかは、想像に難くない。どうすれば、踏みつけた後、どう足を動かせばそうなるのかなんて、子供でも分かるだろう。
――それが、あからさまな故意であると言うことも。
犯人は分かっていた。俺達とすれ違った、いかにも軽そうな男の二人連れ。華奢な女を突き飛ばしても、気づきもせずに笑っていられるその無神経さが、何よりの証拠。
やはり、女の制止を振り切ってでも、あいつらを呼び止めておくべきだったのかもしれない、と思う。そうしたら、少なくとも俺は、こんなにも腹立たしい思いをせずに済んだ。
――いや。だからこそ、女は俺を止めたのか。あの時点で既に、敦と紙ヒコーキに何があったのかなんて察していたのだ。溢れ出す激情を抑えられたはずなど無い。
……血が、流れたと思う。この清浄な白い世界を汚す、赤い色が。
必死で慰めようとする女。何を言うべきかも分からなかった俺。
――『だいじょうぶ、だよ……ぼく、だいじょうぶ、だから』
そう言って笑った、あいつの顔が忘れられない。
――苦々しい。こんな軟弱な感情、疾うの昔に忘れ去ったはずなのに。
……らしくない。鬱陶しい靄を吹っ切るように、俺は頭を振った。
何を思っているのか、手すりに身を預けて、じっと遠くの夕陽を眺めている女。
その隣に、俺は手すりへ背を預けるようにして並んだ。
「……? なに、それ?」
女の問い。それは、掲げられた俺の手に引っかかった物に対して。
「渡せる雰囲気でもなかったからな……あんたに預けておくよ」
それは、小さなビニール袋。何の変哲もない、どこにでもある袋。……中には、何の変哲もない、子供用の折り紙セットが一つ、入っている。
女は一瞬驚いたような顔をして、だがすぐに笑顔になり――しかし、最後は寂しげな顔になった。
「……本当なら、とても素敵なことだったのに。……残念、だね。……ほんとに、残念……だよ……」
いい年をして、泣きそうな顔をするな。
そう言ってやりたかった。
……けど、言葉なんて出てきやしなかった。
何故だか息苦しくて、胸が痛くて、逃げるように俺は女から離れた。
「たっくん……?」
不安そうに、女が俺を呼ぶ。
俺は振り返らずに、軽く手を挙げた。
「今日は帰る。これ以上ここにいる理由もないからな」
できるだけ無感情に、できるだけいつもの俺のように吐き捨てると、女は少しだけ寂しそうな声で、
「そっか……じゃあ――またね、たっくん」
そう言った。
その声が、余りにも弱々しかったからか。
「……ああ、またな」
そんな言葉を、無意識に返していた。
――腑に落ちない。何もかもが。俺に柔らかな言葉を吐かせる感情。どうしようもない激情を抱かせる苛立ち。
そんなものは知らない。そんな俺は知らない。……そんなもの、忘れたはずだ。……そんな俺は、捨てたはずだ。
腑に落ちない。これは何だ? 俺はどうしたんだ? 俺は何がしたかった? どうしたかった?
――否。俺は何がしたい。どうしたいんだ。
誰か、答えを教えてくれ。
――進むべき路を、照らしてくれ。
【つづく】