《ひかげとひなたと紙ヒコーキ》
[3-2]
「――あー、たっくーん! やっほー!」
病院の正門を潜った瞬間、脳天から突き出るような声が俺の耳を打った。
見れば、入り口近くのタクシー乗り場に、一人の女の姿。
――言うまでもなく、お馴染みのあの女だ。
人目も気にせず、ぶんぶんと手を振る女に嘆息しつつも、俺は歩み寄った。
「……何だ? どっか行ってた……ってわけでもなさそうだな」
女は、いつもの寝間着姿。とてもタクシーでどこかへ行く格好とは思えなかった。
「あ、うん。さっきまで友達が来ててねー、その見送りに来てたんだー」
そう言って、嬉しそうに笑う女。なるほど。それならば、寝間着姿のままこんなところに居るのも納得が行く。
……まあ、どうでもいいんだが。
俺は適当に相づちを打って、入り口へと向かう。……当たり前のように俺の隣に並んでくる女については、ノーコメントでお願いしたい。
院内には、いつもの騒がしさはなかった。
「世間的には日曜日だからね。……静かで驚いた?」
俺の僅かな戸惑いを察したのか、俺の顔を覗き込むようにして、女は言った。
俺は嘆息して、
「……別に。俺も、この空気を知らない訳じゃない。ただ……久しぶりだったからな。少し感傷的になっただけさ」
少しだけ戯けるように言った。
持って回った言い回しに女はきょとんとしていたが、俺はそれ以上何も言わなかった。
……喋り過ぎだと思った。
だってそうだろう? こんな静かな落ち着いた場所で、やかましく騒ぎ立てるなど情緒がないってもんだ。
ついでに言えば、常識ってもんもない。病院てのは、日頃の喧噪があろうと無かろうと、騒がしくして良い場所じゃない。
――もちろん、紙ヒコーキを飛ばす場所でもないのだが。
「あー、あっくんだー」
俺の視線を追って、女がその名を口にした。
「……ったく、あいつまた……」
うんざりして、俺は嘆息した。
俺達の行く先、少し離れた廊下に敦の姿があった。……紙ヒコーキを飛ばしながら、廊下を行ったり来たりしている。
ヒトが柄にもなく注意してやったってのに、何にも分かってなかったらしい。まあ、言っても聞かねえのが子供って奴なのかも知れないが。
「しょうがない子だねえ、せっかくたっくんが注意してくれたのに」
自分の気持ちが代弁されたのを合図に、俺は再び進み始める。
だが、声をかけようかと思った頃、敦の姿はふいに俺の視界からいなくなった。
と言っても、からくりは簡単だ。廊下から少しくぼんだ位置にあるエレベーターホールに、紙ヒコーキを追って行っただけだ。
俺も女もそんなことは承知の上だったから、気にもとめずに歩を進める。
そんな俺たちの耳に、ふいなチャイム音。何の変哲もない、耳慣れた音だ。どうやら、エレベーターが到着したらしい。
休診日とは言え、ヒトの往来がない訳じゃない。むしろ、入院患者の見舞いなどで、外来患者以外の来客は増える傾向にあるだろう。事実、病院に来て早々、女と出会ってしまったのもそのせいだと言える。
だから、それもまた、別段気にすることではなかった。
ただ一つ、気になることがあったとすれば、それは――
《んだあ? このガキィ》
――聞こえてきた声が、酷く不快だったと言うことだ。
《こいつが欲しいんじゃねーの?》
《ああ、これお前のなの? へぇ》
声の主は二人だった。
へらへらとした口調。他人を敬う気など欠片ほども感じさせない声。そいつらがどんな人間であるのかは想像に難くなかった。
だが、そこで――眼に映らないその場所で、一体何が起きているのか、俺たちには分からなかった。
《そりゃ残念、コレじゃもう飛ばせねえなあ、ほれほれ》
《ぎゃはは、ひっでー》
この場所には到底似つかわしくない、騒々しい、下卑た声が癇に障る。
やがてその異端者は、耐え難い悪臭を放ったまま、俺達の前に姿を見せる。
謙虚さなど皆無な傲岸不遜の歩み。
俺は道を譲る気などさらさら無かったが、女は違った。彼女は俺より一歩下がって、身体半分ほど、横に身をずらした。
だが、避け幅が足りなかったのか。
「きゃっ……」
小さい悲鳴を漏らして、女はよろめいた。
――理由など分からない。それは、ほとんど条件反射だった。
「おい待――!」
待てよ、と。怒りに任せたその言葉。
――だが、それは最後まで続かなかった。
怒号を上げかけた俺の袖を、何かが引いたからだ。
他でもない。女が、押し退けられた張本人である女が、俺の袖を掴んでいた。
「……だめ。だめだよ、たっくん……」
その言葉は、さして大きな声ではなかったし、袖を掴む力も強くはなかった。
――けれど、逆らえなかった。
その理由も分からないまま、
「今は、あっくんの方が心配だよ。何かあったのかもしれない」
そんな言葉に従った。
俺自身、嫌な予感は感じていた。けして無事では済まない、不穏な空気。清浄な白の世界を汚す、不快な黒い染み。
軽い焦燥を覚えながらも、俺達はそこに向かう。あの無邪気な笑顔が今もそこにあることを信じながら。
――しかし。
ある意味、予想通りと言うべきなのか。
そこに、紙ヒコーキを手にはしゃぐ、あの無邪気な少年の姿はなかった。
【つづく】