《ひかげとひなたと紙ヒコーキ》
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病院は嫌いだ。
白を基調とした場所。混じり気のない純粋な世界。一切の汚れを排除した無菌の空間。
――うらぶれた弱者共の吹き溜まり。
吐き気がする。こんな場所が世界に存在することも、自分が今、こんな場所にいることも。
シクシクと痛む頭の傷と、大げさに巻かれた白い包帯が忌々しかった。
小うるさい監視役がいなくなった隙に、重々しい沈黙が支配する待合室を後にしたのは当然のことだった。
特に行く当てがあった訳じゃない。この病院で過ごしたことはない。院内の構造など分かる訳もなく、ただ人目を避けるように静寂な白い廊下を進んだ。
人気の無さと比例して増大する静寂は、ヒトの陰鬱な気持ちを増幅する。
けれど、陰気で弱々しい弱者の群れが視界から消えただけでも、幾分ココロは晴れやかだった。
辿り着いた先は、皮肉なほどに眩い陽光が降り注ぐ緑の庭。あまり入院患者も寄りつかないような、小さな中庭だった。
――人々に忘れられた、小さな安らぎの空間。
気がつけば、建物のほど近くに植えられた、背の高い木の根元に腰を下ろしていた。
湿気と熱気を帯びてきた初夏の風が、頭上で微かな葉擦れの音を奏でていた。
それは、この静寂にあっては心地好いざわめきで、安らいだココロは、自然とポケットの中に忍ばせた大人の嗜好品へと手を伸ばさせた。
掌大の四角い箱の中から一本を取り出して、口元へと運ぶ。
共に取り出したライターに灯を点そうとして――
動きを止めた。
別に、年端もいかぬ身の上でそれを嗜むことに、罪悪感があった訳じゃない。そんなものがあれば、端からこんなもの吸ってはいない。
動きを止めたのには――否、動けなくなったのには、理由がある。
頭上の心地好い葉擦れの音。
しかし、それが心地好かったのは、実は一瞬のことだった。
ポケットからそれを取り出してすぐ、頭上の葉擦れは奇妙なほどに騒々しいものに変わっていた。
そう、まるで、生い茂る葉をかき分けて、何かを探しているような。
――何を馬鹿な。こんな都会の真ん中で、野生動物でもあるまいし。まして、地上数メートルはあろう自らの頭上で、捜し物などする人間など居ようはずがない。
誰だって、そう思うだろう?
だから、それを口に銜えたまま、視線だけで上を見上げたのは、何も誰かの存在を見つけようと思ったからじゃない。
……にも関わらず、だ。
――彼女の姿を、そこに見つけた。
見つけようなどと思わなくても、その衝撃的な姿は、否応なく視界に飛び込んできた。
入院患者なのだろう。寝間着姿の、おそらくは二十代前半ほどの女性だった。彼女は、建物のすぐ近くにあるその木に向かい、二階の窓から目一杯に身を乗り出していた。
木と建物は、ほど近くにあるとは言え、それでも女子供が手を伸ばして届く距離ではない。だから、女性はもう、本当に目一杯。正に、窓から――窓枠から、身を乗り出していたのだ。
――あ、落ちる。
と。
……どうやら、間近に迫った危機感を感じた時、ヒトは身動きが取れなくなるものらしい。
ライター片手に間抜け面で頭上を見上げたまま――現実的な重みを持った危機感を、俺は全身で受け止めることになる。
そうして、俺――境守起陽と、彼女――緋蔭優は出会う。
――それは、ひかげと、ひなたと、紙ヒコーキがもたらした、とある初夏の日の出来事だった。
【つづく】