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京都、百万遍リセット  作者: おてんば松尾


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9/10

玄関のドアが閉まった瞬間、私は一度だけ深く息を吸った。

胸いっぱいに吸い込んだ空気は、驚くほど軽い。


静かだ。

亮のマンションに通っていた頃、こんな静けさを意識したことはなかった。

足音、テレビの音、酔った声。

常に彼の気配に神経を張りつめていて、そこにある静寂は「平穏」ではなく、単なる「緊張」に過ぎなかった。


「……自由だ」


思わず、声が漏れる。


最初の数日は、不思議な感覚だった。

朝、アラームを止めても、誰かのために起きる必要がない。

亮の冷蔵庫の中身を気にして献立を考えることも、帰り道にスーパーへ寄る義務もない。

空いた時間が、確実に増えていった。


私は、その時間を、今まで後回しにしてきた研究にあてた。

専門書を開き、論文を読み、止まっていた作業を少しずつ進めていく。


「……やっぱり、面白い」


深夜まで向き合っても、疲れより高揚感のほうが勝った。

誰にも邪魔されず、思うままに自分のしたいことを。


数週間後、その成果を社内のレビューに出した。


「既存の方法だと誤差が大きすぎます。こちらのほうが再現性が高いです」


会議室が一瞬、静まり返る。


「……それ、もう試しているのか?」


「はい。誤差は三割ほど減りました」


スクリーンに映るグラフに視線が集まる。


「これなら、すぐに使えるな」


その言葉を聞いた途端、胸の奥がじんわりと温かくなった。

ただ、嬉しかった。

私は、ちゃんと評価される場所にいたのだ。


仕事の商談にも参加するようになった。

以前なら少し身構えていたような、気難しい取引先。


「今度の案件ですが、正直に言います。こちらの条件では受けられません」


かつての私なら、「検討します」「努力します」と口にして、自分をすり減らすほうへ逃げていた。

でも、今は違う。


「この内容なら、こちらの提示が最低ラインです。それ以上を求められるなら、お受けできません」


声は穏やかだった。

けれど、はっきりと言い切れた。

胸の内は、不思議なくらい静かだった。


取引相手は数秒考え、やがて小さく息を吐く。


「……分かりました。条件、持ち帰ります」


ああ、これなのだ。

図々しさでも、開き直りでもない。

相手の言いなりにならず、価値を、自分で下げないというだけのこと。

それが、私が選んだ「厚顔無恥」だった。


ある日、同僚に誘われて、久しぶりに飲み会に参加した。

以前なら今日は無理と即答していたはずなのに、その日はなぜか断る理由が思いつかなかった。


仕事の話から、くだらない冗談まで、今まで聞いたことがなかった皆のプライベートな話題。

気づけば、私は笑っていた。


「詩織さん、こんなふうに笑うんですね」


隣に座っていた後輩が、何気なく言う。


「あ、意外?」

「ええ。でも、いいですね」


素直な褒め言葉を受け取って、嬉しかった。


休日はカフェでノートPCを開き、アイデアを書き留める。

ふと窓ガラスに映った自分の顔が、前よりずっと生き生きしていることに気づく。


誰かの役に立つためじゃない。

自分が面白いと思うから、やっている。

それだけで、世界はこんなにも明るくなるなんて。


ある夜、ベランダに出て街の灯りを見下ろす。

スマホは静かなままだ。


「……とても穏やかな気分だ」


そう思えたことが、何よりの答えだった。


風が頬をなでる。

これから先、どう生きようと私は自由だ。

少なくとも、もう自分を小さくして生きる必要はなかった。



***



会場はホテルの高層階にあるガラス張りのホールだった。

取引先を招いたレセプションパーティーで、簡単な発表会も兼ねている。


照明は控えめで、窓の外には夜景が広がっている。

テーブルにはフィンガーフードが並び、グラスの触れ合う音が静かに響く。


スーツ姿の人々が名刺を交換し、あちこちで笑い声が上がる。

スクリーンには会社のロゴや紹介スライドがゆっくりと切り替わっていた。


私は関係者に挨拶をしていた。

黒に近いネイビーのワンピースに、アクセサリーは控えめ。

ヒールは低いが、背筋を伸ばして立っていると、周囲の視線を感じる。


「先ほどのご説明、とても分かりやすかったです」


落ち着いた声に振り返ると、穏やかな笑みの男性が立っていた。


「澤井と申します。分析基盤の設計をしています」


差し出された名刺を受け取る。

整った顔立ちで、控えめながら知性が感じられる。


「ありがとうございます」


「実務で踏み込むのは勇気がいりますが、あの構成なら納得できます」


専門的な会話が自然に続く。

言葉を選ばなくても、同じ前提で話が進む。


「ご質問があれば、お答えします」


自分の声は思った以上に落ち着いていた。

説明する立場も、もう特別なものではない。


「ありがとうございました」


話が終わると、澤井さんは丁寧に礼を述べた。


「こちらこそ、鋭い視点で勉強になりました」


そう返すと、彼は少し照れたように笑う。


「正直、今日で一番印象に残りました。あのモデル、発想がきれいで」


「きれい」という言葉が胸にすっと落ちた。

成果ではなく、考え方を見てくれている。


「よかったら、この後、他社の展示も一緒に見ませんか」


自然な誘いだった。仕事の延長でありながら、少し個人的な距離も感じる。


「はい」


自分の声が少し柔らかい。

並んで歩き出すと、歩幅が自然と合う。

専門用語も無理なく通じ、説明を省いても会話が続く。


楽しい。そう思えた瞬間だった。



そのときだった。

会場の入り口付近が、わずかにざわついた。

視線を向けた瞬間、思考が止まる。


亮だった。

スーツ姿だが、どこか場に馴染んでいない。

知人に連れられて来たのだろう。展示の内容も、誰が中心かも分かっていない様子で、落ち着きなく視線をさまよわせていた。


胸の奥は、不思議なほど静かだった。

気にせず会話を続けていると、背後で足音が止まる。


「……やっぱり、詩織だよな」


聞き覚えのある声に、諦めに近い息を吐いた。

振り返ると、表情を強張らせた亮が立っていた。


「やっと見つけた。さっきから探していたんだ」


私は軽く首を傾げる。


「そう」


短く返す。

亮は一歩、距離を詰めた。




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