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京都、百万遍リセット  作者: おてんば松尾


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8/10

詩織がいなくなって、一ヶ月が過ぎた。

最初は、生活が少し不便になるだけだと思っていた。


掃除の行き届かない部屋、溜まる洗濯物、夜になって気づく空の冷蔵庫。

それは、想像していた「不便」などという生易しいものではなかった。


家事代行と外食に頼った結果、ひと月の出費は二十五万を超えた。

明細を見た瞬間、思わず目を疑った。


詩織が五年間で使った金額は三百万強。

一ヶ月にすれば五万円ほどだ。

あれだけのことを任せて、この金額だった。


「……安すぎる」


投資用に積み立てていた金融商品をすべて現金化し、指定口座へ振り込んだ。

画面を閉じても、胸に残ったのは達成感でも解放感でもない。


俺は、本気で詩織と結婚するつもりだった。

友人の前では冗談めかして「家政婦みたいなもんだ」と言っていたが、あんなふうに尽くしてくれる女は他にいないと、心の底では分かっていた。


派手さはないが堅実で、余計な贅沢をしない。

無駄のない動きで家事をこなし、料理も上手かった。

自己主張は控えめで空気が読め、俺の生活を俺以上に理解していた。


子どもができたら……そんな想像をしたことも、一度や二度ではない。


容姿も悪くなく、学歴も仕事ぶりも申し分ない。

真面目で思いやりがあり、結婚相手としての条件は十分すぎるほど揃っていた。


なのに、なぜこうなったのか。


答えは簡単だ。

俺が彼女を大切にしていなかったからだ。

「詩織を失う」なんて、考えたこともなかった。


彼女は俺との結婚を望み、その気持ちは変わらない。

そんな思い込みに甘えていた。


愛されることも、尽くされることも、当然だと信じていた。


静まり返ったリビングで、誰もいないキッチンを見渡す。

ため息がひとつ落ちた。


詩織は便利でも、代わりが利く存在でもなかった。

結婚相手としては申し分ないが、楽しむための女ではないと評価していた時点で、俺は決定的に間違えていた。


その事実に気づくには、あまりにも遅すぎた。



舞が部屋に来たのは、そんなことを考えていた夜だった。


ドアを開けた瞬間、散らかったリビングを見渡した彼女は、わざとらしくため息をつく。

床には酒の空き缶、コンビニ弁当のゴミ。


「……情けないわね」


その一言に、苛立ちが走った。


「詩織さんなんて、大した彼女じゃなかったでしょう? 根暗でダサくて、話もつまらなかったし」


「堅実で真面目で、派手さがなかっただけだ」


元カノをここまで貶されて、腹が立たないわけがない。

厚化粧でごまかしている舞より、詩織のほうがよほど美人だった。


「わたしみたいな子が、本当はタイプだったんでしょう?」


舞は当然のように腕に絡みついてくる。

甘ったるい香水が鼻についた。


そんなわけがあるか、と心の中で吐き捨てる。


「いいじゃない。また前みたいに遊べば。最近付き合い悪いって、みんな言ってるよ」


舞は空気も読まずに続ける。


「またここでパーティーしようよ。元気出す会、ね?」


まとわりつく腕を振り払った。

外食、出前、パーティー?

そんな余裕、どこにある。



「……うるさい。お前も少しは料理の勉強でもしろ」


舞は目を丸くし、すぐに笑う。


「いらないし。その分、稼げばいいだけじゃない」


その言葉に、喉が詰まった。


このマンションの家賃は正直かなり高い。

問題なく払えていたのは、自分の収入が多かったからじゃない。

詩織に相応の収入があり、生活費の大半を負担してくれていたからだ。


エリートを気取って遊び歩いていれば、貯金などできるはずがない。

気づけば毎月の支払いは限界で、余裕なんてどこにもなかった。


今になって、想像以上に厳しい現実を突きつけられている。


舞はソファに腰を下ろし、何気ない調子で言った。


「そういえばさ。詩織さんって大手に勤めてたよね? 専門職だって言ってたし。結構もらってたんじゃない?」


「ああ……」


曖昧にうなずく。

詳しく聞いたことはなかった。

というより、聞く必要がないと切り捨てていた。


だが最近になって思う。

もしかしたら詩織は、俺よりずっと高収入だったのかもしれない。


そう考えると、どれだけ自分がうぬぼれていたのか、嫌でも思い知らされる。



「今度、取引先のレセプションパーティーがあるじゃない?」


舞が思い出したように言う。


「詩織さんの勤め先も参加するって、リストに書いてあったわよ?」


一瞬、心臓が跳ねた。

そういえば、大型プロジェクトのコンペ絡みで、そんな回報が社内に流れていた。


「ああ……確か、営業が出席するんだったか」


「そうじゃない? 詳しくは知らないけど」


舞はそう言って、俺の首に腕を回してきた。

以前の俺なら、そのまま受け入れていたはずだ。


だが今は、その距離がやけに鬱陶しい。

俺は彼女の腕を乱暴に振りほどいた。


「……レセプションパーティー、ね」


あれから何度もメッセージを送ったが、返事はなかった。

既にブロックされていることに気づいた。


詩織のアパートも引き払われていた。

友人伝てに連絡を試みても、誰も彼女の居場所を教えてくれない。

まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えていた。


「なに?」


舞が不思議そうにこちらを見る。


「いや……詩織が今どこに住んでるのか分からなくて」


「未練タラタラじゃん。ウケるんだけど」


その軽い口調が、ひどく耳障りだった。

知的で落ち着いた詩織とは、あまりに違いすぎる。


「なに、急に恋しくなったの? 亮はまだ三十二で一番モテる時期じゃん。仕事も金も住む場所も一流なんだから、もっと遊べばいいのに」


うるさい、と心の中で吐き捨てる。


「私は結婚なんて絶対イヤ。稼いだお金は全部自分のために使いたいし、帰って夫のパンツ洗うとか無理。なんで自由を人のために捧げなきゃいけないのよ」


本当にどうでもいい。

根本的に価値観が違う人間と同じ空間にいること自体が不快だった。


舞と一緒にいて楽しいと思っていた過去の自分が、情けなくなる。


「詩織とは五年一緒にいた。生活も将来も共有していた。俺は本気で結婚を考えていたんだ」


そう言えば言うほど、彼女が何の迷いもなく離れていった事実が理解できなかった。


「は? 結婚する気ないって言ってたの亮じゃん。あんな家政婦みたいに扱われて、嫌にならない女なんていないわよ。もう諦めたら。女々しいんだけど」


「……帰ってくれ」


舞は一瞬きょとんとし、すぐに顔を歪めた。


「都合よく呼びつけて、飽きたら追い出すわけ?ほんと最低」


どたどたと玄関へ向かい、勢いよくドアを開ける。


「そんなに詩織さんがいいなら、今さら泣きつけば?」


ドアが乱暴に閉まる音が響いた。


静まり返った部屋の中で、俺の意識はもう別の場所に向かっていた。


レセプションパーティー。


仕事の場だし、参加できるかどうかは会社に行ってみないと分からない。

だが、もし詩織が来るのなら、偶然を装って声をかけることくらいはできる。


冷静に話す機会も作れるはずだ。


会えば、きっと思い出す。

あの五年間のことを。


詩織は俺を愛していた。

それだけは確かだ。


俺が少し歩み寄って、やり直したいと伝えればいい。

傲慢だったことも、感謝を口にしなかったことも、認めて謝ればいい。


そうすれば、きっと分かってくれる。

元に戻れる可能性は、まだ残っている。


……そうだ。まだ終わっていない。


これはただの行き違いで、少し大きな喧嘩をしただけだ。

俺はそう結論づけた。


それが希望ではなく、ただの醜い執着だとは……


まだ気づけずにいた。

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