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京都、百万遍リセット  作者: おてんば松尾


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6/8

「何を考えてんだ、詩織……」


俺は壁に拳を叩きつけた。

鈍い音が部屋に残り、反動が拳に返ってくる。痛みよりも、胸の奥に溜まった苛立ちの方が強かった。


「急に……」


スマホを手に取る。

画面は暗いまま。通知も着信もない。

時計を見る。十分、二十分、一時間。


どうせ、すぐ連絡してくる。


そう思っていた。

詩織はそういう女だ。

感情的になっても、最後には折れる。

五年も一緒にいた。今さら一人になる勇気なんて無いだろう。


「生意気にも、俺に反省させようとしてるのか?」


鼻で笑う。

だが、社員旅行の話なんてしていただろうか?

今までは予定が入ったら必ず俺に報告していた。


「……聞いてないし」


喉の渇きを覚え、立ち上がった。


冷蔵庫を開けてお気に入りのミネラルウォーターを一本取り出し、ふたをくるりとひねる。


一口飲んで、リビングを見渡す。


昨夜のホームパーティーの残骸がそのままの状態だった。

散らかったテーブル。

空のワインボトル。

床に落ちた紙ナプキン。


以前なら、その日のうちに詩織が片付けていたはずだ。

胸の奥にじわりとした居心地の悪さが広がっていく。


「……気持ちわりぃな」


誰にともなくぼそりと呟き、ため息をひとつ。仕方なくテーブルの皿を重ねた。


「食洗機が全部やってくれるだろ、こんな楽な家事をグダグダ言って」


ガチャガチャと乱暴に中へ放り込む。

その瞬間、嫌な音がした。


カン。


一拍遅れて、パリン、と乾いた破裂音。


「……あ?」


食洗機の中に白い破片が散っている。

詩織が大事にしていた皿だ。


「これは欠けやすいから……」と彼女が言った言葉が、ふと記憶の端に浮かんだ。そんなに気をつけなきゃいけない物なら、彼女が洗うのは当たり前だ。それを俺にやらせようとするなんて、おかしな話だ。


「割れて当たり前だろっ!」


吐き捨てるように言い、破片を拾い上げた拍子に指先を切った。


「ッ……クソ」


指先に滲む血。

それだけで、やけに腹が立った。


「だから家事なんか、意味わかんねえんだよ」


食洗機に突っ込めば、後は自動でやってくれると思っていた。

仕方なく、キッチンを離れ、洗濯機の前に立った。


「ボタン押すだけだろ、こんなの」


洗濯物を無造作に放り込む。

白も色物も区別なし。

洗剤も、目についたボトルを適当に傾けた。


「誰がやっても同じだっての」


スタートボタンを押そうとして、手が止まる。


……どれだ?


標準、念入り、ドライ、エコ。

意味のわからない文字が並んでいる。


「いやいや……」


乾いた笑いが漏れる。


「このドラム式だって数十万したんだし、機械が自分で衣類を判断するやつだ。なんかそんなこと言ってたし」


適当に一番上のボタンを押す。

ピー、と音が鳴った。


しばらくしても、動く気配がない。

蓋を開けると、水すら入っていなかった。


「……は?」


もう一度押す。

今度はエラー音。


「意味わかんねぇ……」


蓋を閉めたり開けたり、何度も試す。

それでも洗濯機は動かない。


「……こういうのは女の仕事だ」


吐き捨てた言葉が、妙に空回りする。

いつも勝手に回っていたものが、今日は動かない。


「クリーニングに出せばいいだけだし」


自分に言い聞かせるように呟き、ソファにどさっと身体を投げた。


「そうだ。詩織じゃなくても家事なんて業者に頼めばいいだけだし。それに……」


それに、詩織は俺を愛している。

自分が全部やっていたと言いたいんだろうけど、それは誰にでもできることだと知らしめてやるいい機会だ。


「自分にしかできないなんて思ってるんだったら、甘いんだよ」


そう呟き、ソファの背にもたれたままスマホを手に取った。

家事代行業者、と検索欄に打ち込む。

表示された料金表を見た瞬間、胸の奥で何かがぎしりと音を立てた。


高い。


二時間で八千円。そこに交通費、急ぎのオプション。

軽く一万を超える。

思っていたよりずっと高額だった。

だが、動揺したら負けだと思い、平然と画面を指でなぞった。


「まあ……プロに任せるなら、こんなもんか」


声に出したのは、その一言だけだった。


業者選びに時間をかけるのは癪だった。

口コミを読めば読むほど、どれも信用できない気がしてくる。


ふと、浅倉舞の顔が浮かんだ。

彼女も一人暮らしが長い。

仕事で忙しくしているから、家事代行も利用しているかもしれない。

舞に連絡してみようと思った。


〈なあ舞。家事代行で、いいところ知らない?〉


すぐに返事が来た。


〈あるよ。私、よく使ってる〉

〈高いけど、急ぎでもやってくれるよ〉


一瞬だけ目を細めた。

「高い」という単語が、やけに引っかかる。


……詩織は、これを無料でやってたんだよな。

思考がそこに向かいかけた瞬間、小さく鼻を鳴らした。


〈じゃあ、そこ頼む〉


それ以上は深く考えない。お金で片付くなら、それで十分だ。


数時間後。


インターフォンが鳴り、業者がやって来た。

エプロン姿の女性たちは、淡々とした動きで部屋に入り、無駄のない手順で片付けを始める。


割れた皿は処分され、床は拭かれ、止まっていた洗濯機が正しい手順で回り出す。

ソファに座ったまま、その様子をぼんやりと眺めていた。


ああ、こうやるのか。


誰も教えてくれなかったことを、今になって知った。

不思議と悔しさはなく、ただ少しだけ落ち着かない気持ちだった。


作業を終えるころには、窓の外がすっかり夕方色に染まっていた。

リビングは、前よりもずっときれいに整っている。


「ありがとうございました」


ドアが閉まり、静けさが戻る。


「……金で済むなら、楽なもんだな」


そう呟いた直後、再びインターフォンが鳴った。

ドアを開けると、浅倉舞が立っていた。


「終わった?」

「ああ。助かった」


舞は部屋を見回し、満足そうに頷く。


「でしょ? あそこ、外れないのよ」


「詩織がいなくても、全然問題ないな」

「それにしても、詩織さんも部屋散らかしたまま旅行に行くなんて無責任よね」


そう言って、舞はソファに腰を下ろした。


「昨日、詩織に酒を買いに行かせたまま皆で出かけただろう?」

「それで拗ねたのね?笑える」


「ああ……別に、詩織がいなくてもどうとでもなる」


余裕があるように見せるのは、昔から得意だった。


「今どき、スマホさえあれば、なんでも解決できるもんね」


舞の言葉に、軽く頷く。


「ああ。家事なんて、誰がやっても同じだ」


二時間かけてやってくれたのは掃除だけ、代わりに二万が飛んで行った。


「……腹減ったな」


整ったリビングを一瞥してから、何気ない調子で言った。

冷蔵庫には詩織が買っておいた食材が残っている。


「なんか作ってくれない?」


舞は一瞬、きょとんとした顔をした。

それから、ゆっくりと俺を見る。


「え?」


「簡単なものでいいよ。冷蔵庫にあるだろ」


俺にとっては、ただの何気ない頼みだった。

詩織に言ってたのと同じ調子で。


舞は小さく笑った。


「……出前でよくない?」


「は?」


思わず、声が低くなる。

舞は悪びれもせず、スマホを取り出した。


「私、料理しないし。そもそも今日は家政婦役で来たわけじゃないよ」


俺は一瞬、言葉に詰まった。

想定していなかった返答だった。


「いや、別に凝ったものでなくていいよ。冷蔵庫に食材は結構あるから」


「うん。でも無理」


舞はきっぱりと断った。

曖昧さのない、線を引く言い方だった。


「またキッチン汚れるし、時間もかかるし効率的じゃないよね」


その一言が、妙に胸に残る。


「なんでも出前あるから便利だよね。中華かお寿司。それともファストフードにする?」


舞はそう言って、すでに画面をスクロールしている。

昨日の酒で二日酔いだった。そんなデリケートな状態の胃に、油ものとか、マジ勘弁してくれ。

俺はそれでも何も言わずに、舞の手元を見た。


自分の中にあった「当たり前」が、音を立ててずれていく。


「……和食が、いいかな」


配達予定時刻は四十分後。そんなに時間がかかるなら、さっと何か作ればいいのにと思った。普通、女ならそれくらいできるだろうと。


舞はソファに腰を下ろし、何事もなかったように言う。


「ねえ亮。詩織さん、ちょっと調子に乗ってない?亮と結婚できるのが当たり前で、どんなわがままも通ると思ってるんじゃない?」


「……そうだな」


俺は軽く相槌を打って笑った。

心の中では、詩織が部屋を出るときに言った「自分の人生を生きるわ」という言葉が何度も反芻されていた。

そんなはずはないと、頭に浮かんだ嫌な予感を必死に振り払った。


「あの人、自分は完璧な彼女だって思っているだろうし、亮に認められたくて必死だったじゃない?」


「ああ」


確かにそうだ。俺に認められたくて必死だった。


「彼女がいなくても、別に何の問題もないってところを見せればいいわよ。だって、別に問題ないし」


「まぁ、すぐに反省して戻ってくるだろう」

「一週間が限界じゃない?」


そうだ。俺は優良物件。あいつから離れていくはずがない。


「そうだな……三日、だな」


きれいになった部屋。

誰も台所に立たない時間。


胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。

俺はスマホの暗い画面を見つめながら、その違和感に蓋をした。



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