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「何を考えてんだ、詩織……」
俺は壁に拳を叩きつけた。
鈍い音が部屋に残り、反動が拳に返ってくる。痛みよりも、胸の奥に溜まった苛立ちの方が強かった。
「急に……」
スマホを手に取る。
画面は暗いまま。通知も着信もない。
時計を見る。十分、二十分、一時間。
どうせ、すぐ連絡してくる。
そう思っていた。
詩織はそういう女だ。
感情的になっても、最後には折れる。
五年も一緒にいた。今さら一人になる勇気なんて無いだろう。
「生意気にも、俺に反省させようとしてるのか?」
鼻で笑う。
だが、社員旅行の話なんてしていただろうか?
今までは予定が入ったら必ず俺に報告していた。
「……聞いてないし」
喉の渇きを覚え、立ち上がった。
冷蔵庫を開けてお気に入りのミネラルウォーターを一本取り出し、ふたをくるりとひねる。
一口飲んで、リビングを見渡す。
昨夜のホームパーティーの残骸がそのままの状態だった。
散らかったテーブル。
空のワインボトル。
床に落ちた紙ナプキン。
以前なら、その日のうちに詩織が片付けていたはずだ。
胸の奥にじわりとした居心地の悪さが広がっていく。
「……気持ちわりぃな」
誰にともなくぼそりと呟き、ため息をひとつ。仕方なくテーブルの皿を重ねた。
「食洗機が全部やってくれるだろ、こんな楽な家事をグダグダ言って」
ガチャガチャと乱暴に中へ放り込む。
その瞬間、嫌な音がした。
カン。
一拍遅れて、パリン、と乾いた破裂音。
「……あ?」
食洗機の中に白い破片が散っている。
詩織が大事にしていた皿だ。
「これは欠けやすいから……」と彼女が言った言葉が、ふと記憶の端に浮かんだ。そんなに気をつけなきゃいけない物なら、彼女が洗うのは当たり前だ。それを俺にやらせようとするなんて、おかしな話だ。
「割れて当たり前だろっ!」
吐き捨てるように言い、破片を拾い上げた拍子に指先を切った。
「ッ……クソ」
指先に滲む血。
それだけで、やけに腹が立った。
「だから家事なんか、意味わかんねえんだよ」
食洗機に突っ込めば、後は自動でやってくれると思っていた。
仕方なく、キッチンを離れ、洗濯機の前に立った。
「ボタン押すだけだろ、こんなの」
洗濯物を無造作に放り込む。
白も色物も区別なし。
洗剤も、目についたボトルを適当に傾けた。
「誰がやっても同じだっての」
スタートボタンを押そうとして、手が止まる。
……どれだ?
標準、念入り、ドライ、エコ。
意味のわからない文字が並んでいる。
「いやいや……」
乾いた笑いが漏れる。
「このドラム式だって数十万したんだし、機械が自分で衣類を判断するやつだ。なんかそんなこと言ってたし」
適当に一番上のボタンを押す。
ピー、と音が鳴った。
しばらくしても、動く気配がない。
蓋を開けると、水すら入っていなかった。
「……は?」
もう一度押す。
今度はエラー音。
「意味わかんねぇ……」
蓋を閉めたり開けたり、何度も試す。
それでも洗濯機は動かない。
「……こういうのは女の仕事だ」
吐き捨てた言葉が、妙に空回りする。
いつも勝手に回っていたものが、今日は動かない。
「クリーニングに出せばいいだけだし」
自分に言い聞かせるように呟き、ソファにどさっと身体を投げた。
「そうだ。詩織じゃなくても家事なんて業者に頼めばいいだけだし。それに……」
それに、詩織は俺を愛している。
自分が全部やっていたと言いたいんだろうけど、それは誰にでもできることだと知らしめてやるいい機会だ。
「自分にしかできないなんて思ってるんだったら、甘いんだよ」
そう呟き、ソファの背にもたれたままスマホを手に取った。
家事代行業者、と検索欄に打ち込む。
表示された料金表を見た瞬間、胸の奥で何かがぎしりと音を立てた。
高い。
二時間で八千円。そこに交通費、急ぎのオプション。
軽く一万を超える。
思っていたよりずっと高額だった。
だが、動揺したら負けだと思い、平然と画面を指でなぞった。
「まあ……プロに任せるなら、こんなもんか」
声に出したのは、その一言だけだった。
業者選びに時間をかけるのは癪だった。
口コミを読めば読むほど、どれも信用できない気がしてくる。
ふと、浅倉舞の顔が浮かんだ。
彼女も一人暮らしが長い。
仕事で忙しくしているから、家事代行も利用しているかもしれない。
舞に連絡してみようと思った。
〈なあ舞。家事代行で、いいところ知らない?〉
すぐに返事が来た。
〈あるよ。私、よく使ってる〉
〈高いけど、急ぎでもやってくれるよ〉
一瞬だけ目を細めた。
「高い」という単語が、やけに引っかかる。
……詩織は、これを無料でやってたんだよな。
思考がそこに向かいかけた瞬間、小さく鼻を鳴らした。
〈じゃあ、そこ頼む〉
それ以上は深く考えない。お金で片付くなら、それで十分だ。
数時間後。
インターフォンが鳴り、業者がやって来た。
エプロン姿の女性たちは、淡々とした動きで部屋に入り、無駄のない手順で片付けを始める。
割れた皿は処分され、床は拭かれ、止まっていた洗濯機が正しい手順で回り出す。
ソファに座ったまま、その様子をぼんやりと眺めていた。
ああ、こうやるのか。
誰も教えてくれなかったことを、今になって知った。
不思議と悔しさはなく、ただ少しだけ落ち着かない気持ちだった。
作業を終えるころには、窓の外がすっかり夕方色に染まっていた。
リビングは、前よりもずっときれいに整っている。
「ありがとうございました」
ドアが閉まり、静けさが戻る。
「……金で済むなら、楽なもんだな」
そう呟いた直後、再びインターフォンが鳴った。
ドアを開けると、浅倉舞が立っていた。
「終わった?」
「ああ。助かった」
舞は部屋を見回し、満足そうに頷く。
「でしょ? あそこ、外れないのよ」
「詩織がいなくても、全然問題ないな」
「それにしても、詩織さんも部屋散らかしたまま旅行に行くなんて無責任よね」
そう言って、舞はソファに腰を下ろした。
「昨日、詩織に酒を買いに行かせたまま皆で出かけただろう?」
「それで拗ねたのね?笑える」
「ああ……別に、詩織がいなくてもどうとでもなる」
余裕があるように見せるのは、昔から得意だった。
「今どき、スマホさえあれば、なんでも解決できるもんね」
舞の言葉に、軽く頷く。
「ああ。家事なんて、誰がやっても同じだ」
二時間かけてやってくれたのは掃除だけ、代わりに二万が飛んで行った。
「……腹減ったな」
整ったリビングを一瞥してから、何気ない調子で言った。
冷蔵庫には詩織が買っておいた食材が残っている。
「なんか作ってくれない?」
舞は一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、ゆっくりと俺を見る。
「え?」
「簡単なものでいいよ。冷蔵庫にあるだろ」
俺にとっては、ただの何気ない頼みだった。
詩織に言ってたのと同じ調子で。
舞は小さく笑った。
「……出前でよくない?」
「は?」
思わず、声が低くなる。
舞は悪びれもせず、スマホを取り出した。
「私、料理しないし。そもそも今日は家政婦役で来たわけじゃないよ」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
想定していなかった返答だった。
「いや、別に凝ったものでなくていいよ。冷蔵庫に食材は結構あるから」
「うん。でも無理」
舞はきっぱりと断った。
曖昧さのない、線を引く言い方だった。
「またキッチン汚れるし、時間もかかるし効率的じゃないよね」
その一言が、妙に胸に残る。
「なんでも出前あるから便利だよね。中華かお寿司。それともファストフードにする?」
舞はそう言って、すでに画面をスクロールしている。
昨日の酒で二日酔いだった。そんなデリケートな状態の胃に、油ものとか、マジ勘弁してくれ。
俺はそれでも何も言わずに、舞の手元を見た。
自分の中にあった「当たり前」が、音を立ててずれていく。
「……和食が、いいかな」
配達予定時刻は四十分後。そんなに時間がかかるなら、さっと何か作ればいいのにと思った。普通、女ならそれくらいできるだろうと。
舞はソファに腰を下ろし、何事もなかったように言う。
「ねえ亮。詩織さん、ちょっと調子に乗ってない?亮と結婚できるのが当たり前で、どんなわがままも通ると思ってるんじゃない?」
「……そうだな」
俺は軽く相槌を打って笑った。
心の中では、詩織が部屋を出るときに言った「自分の人生を生きるわ」という言葉が何度も反芻されていた。
そんなはずはないと、頭に浮かんだ嫌な予感を必死に振り払った。
「あの人、自分は完璧な彼女だって思っているだろうし、亮に認められたくて必死だったじゃない?」
「ああ」
確かにそうだ。俺に認められたくて必死だった。
「彼女がいなくても、別に何の問題もないってところを見せればいいわよ。だって、別に問題ないし」
「まぁ、すぐに反省して戻ってくるだろう」
「一週間が限界じゃない?」
そうだ。俺は優良物件。あいつから離れていくはずがない。
「そうだな……三日、だな」
きれいになった部屋。
誰も台所に立たない時間。
胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。
俺はスマホの暗い画面を見つめながら、その違和感に蓋をした。




