5
エレベーターの扉に映る自分の顔を見て、少し驚く。
思っていたより、ずっと落ち着いている。
昨日までの私なら、このマンションに来るだけで胸がざわついていたはずなのに、今は不思議なほど何も感じない。
亮との接触は、できるだけ避けたかった。
この時間帯なら、まだ彼が眠っている可能性は高い。
そう願いながらカードキーをかざすと、小さな電子音を立ててロックが外れた。
昨夜は遅くまで飲んでいたはずだ。
起きてこなければ、荷物だけまとめて、何事もなかったように出ていける。
玄関の扉を開けると、リビングには昨夜の酒の匂いがどんよりと残っていた。
「……やっぱりね」
思った通りの状態にため息が出た。
「昨日のまんま。見事なまでに散らかってる」
テーブルには空のワインボトルと料理の残骸。
汚れた皿が放置され、床には紙ナプキンが散らばっている。
私が片付けるのが当たり前だった。
いつもなら彼はこう言うのだ。
『俺がいると邪魔になるから、掃除は任せるよ。いつもありがとう』
感謝の言葉だけは口にするが、亮が手伝ってくれたことは一度もなかった。
以前の私なら、素直に何の文句も言わず片付けていただろう。
ただ、「良い奥さんになる」と思われたくて。
「前の私は、頭がどうかしてたわ」
私はスーツケースを広げ、黙々と作業を始めた。
洗面所の歯ブラシに化粧品。キッチンのミトンやエプロン。
自分のものだけを選び取り、手早く詰めていく。
ここで捨ててもいいけれど、ゴミですら、私の私物に彼が触れること自体がひどく気持ち悪かった。
「……全部、持って帰ろう」
そのとき、背後でずるずると足音がした。
「……ああ……詩織?」
眠たげな声がしたかと思うと、振り向くより早く背中に生ぬるい体温が触れた。
腰に腕を回され、耳元で甘えるような声が響く。
「おはよ……」
自分に非があると感じたとき、亮はいつもこうだ。
優しさと自己弁護を混ぜた甘えた声。
「結局、朝方までバーで飲んじゃってさ。悪かったね、置いてきぼりにして」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
吐き気がする。
私は彼の腕を振り払い、一歩前へ出て距離を取った。
「……お酒くさいんだけど」
亮の動きが止まる。
けれど彼は、私の態度の変化に、まだ気づいていないようだった。
「なあ詩織、しじみの味噌汁作ってくれない?二日酔いに効く、いつものやつ」
「え、嫌だけど」
即答して、背を向けた。
「ああ、マジで飲みすぎた……」
亮は私の拒絶が耳に入っていないのか、ソファにだらりと体を投げ出した。
私は気にせず、黙々と作業を続ける。
ペアで買ったマグカップ、私専用の箸。それらを次々と詰め込んでいく。
「部屋の片付けは後でいいって。ていうか、いつもならその日のうちにやるだろ?」
「そうね」
短く答える。
亮は眩しそうに片目だけを開け、喉を鳴らして弱々しくつぶやいた。
「……頭、割れそう。なあ詩織、二日酔いの薬、あっただろ?」
無視。
その声は、もはやただの雑音にしか聞こえなかった。
「自分の荷物を持って帰るから、寝室に入るわね」
背後から亮の声が追いかけてくる。
「おい、昨日は俺も飲みすぎたんだ。悪かったって」
返事はしない。
「……でも、ちゃんとLINEしただろ? いつまでも拗ねてないで、機嫌直せよ」
私は足を止め、ゆっくりと振り返った。
「拗ねてなんていないわ」
淡々と、事実だけを告げる。
「ただ、くさいだけ」
亮は意外そうに目を丸くした。
「そ、そう……先にシャワー浴びてくるわ」
袖口の匂いを嗅ぎながら、彼はバスルームへ消えていった。
私はその背中を見送ることもなく、再び作業に戻る。
寝室のクローゼットから着替えの服を取り出し、スーツケースに詰め込んだ。
もともと私物は少なかったおかげで、荷物は驚くほどコンパクトにまとまった。
キャリーケースの車輪が、ごろごろと音を立てる。
床に傷がいきそうだけど、私には関係ない。
「……なあ」
シャワーを終えた亮が声をかけてきた。
タオルで髪を拭きながら、まだ散らかったままのリビングを一瞥する。
「……手際、悪くないか?」
返す言葉すら無駄に思えて、私はそのまま玄関へ向かった。
スーツケースを見た亮が、不思議そうに言った。
「なに、旅行にでも行くのか?」
その声には心配も怒りもない。
ただ予定を確認する上司のような、他人事の態度だ。
「もう戻ってこないから。私物を取りに来ただけよ」
亮は気に留めた様子もなく、再びソファに体を沈めた。
「へえ。会社の旅行? でも部屋はどうするんだよ。このまま片付けない気か?」
以前の私なら、『ごめんね、すぐやるわ』と答えて掃除を始めていただろう。
けれど、今は違う。
「……ふっ」
短く、乾いた笑いが漏れた。
亮が怪訝そうに身を起こす。
「じゃあさ、先に味噌汁作ってよ。それからゆっくり片付ければいいだろ」
「無理だけど」
「……え?」
「飲みたかったら、自分で作れば?」
突き放すのでも責めるのでもない。ただの事実として告げた。
「……何かあったのか? 怒ってるのか?」
ようやく、彼はそう聞いてきた。
「いいえ」
即答する。
「怒ってなんていないわ」
亮は立ち上がり、私の顔を覗き込んできた。
「詩織にはいつも感謝してるよ。料理も掃除も上手いし、俺のために何でもしてくれる。最高の彼女だと思ってる」
そう言って、彼は私を抱きしめようと腕を伸ばした。
私は左肩を引いて、その腕を避ける。
「おい、いい加減に機嫌直せよ」
「別に怒ってない。ちょっと邪魔だから、そこどいてくれる?」
「なぁ……」
亮が私の腕を掴んだ。
その瞬間、ゾッとした。
気持ちが悪くて、肌に蕁麻疹が出そうなほどの不快感が全身を走る。
「そういえば、昨日の食材費。あれ、全部私が出しているわね」
「……食材費?」
亮の腕を払い、私はコートのポケットを探りながら軽くうなずいた。わざと一拍、沈黙を置く。
「私、一口も食べていないから。全部払ってね」
その言葉に、亮は動きを止めた。
三万八千円のレシートを差し出すと、彼は少し躊躇いながらも渋々つまみ上げた。
たちまち眉間にしわが寄り、口元が下がっていく。
「……は? こんなに使ったのかよ」
驚きよりも不満が混じった声。
「それでも安い方よ。ケータリングじゃないし、全部私の手作りなんだから」
亮は納得いかないのか、無駄な買い物がないかレシートの中身を確認している。
小さく舌打ちすると、ようやくスマホを操作した。
「ほら、送った……。でも」
亮が顔を上げ、探るような目で私を見た。
「今まで、そんなこと言わなかっただろ?」
「え?」
私はわざとらしく首を傾げる。
「昨日って、あなたの友達の飲み会よね? まさか、私のおごりだと思っていたの?」
ぱちぱちっと瞬きして問い返すと、亮は露骨に顔をしかめた。
私から視線をそらし、ソファにどさっと座り直す。
「彼女だったらそういうの気にしないだろ。ケチかよ……貧乏くせぇ」
「堅実なの」
私の即答に、亮の肩がピクリと揺れた。
ここで私は、心の中で「厚顔無恥」のスイッチを入れる。
恥じることも、ためらうこともない。
堂々と、図々しく。
なんて清々しい気分だろう。
「そんな些細なことで文句言うなよ。将来はここに住めて、エリートの妻になれるんだぞ? 黙って俺を支えるのが役目だろ」
亮は勝ち誇ったように笑い、腕を組んだ。
相手にする価値さえない。
「あとで、今までの分もまとめて請求するから」
「……は?」
今度は、はっきりと亮の声が裏返った。
「パーティーのたびに、私が全部立て替えていたでしょう? 亮は一度もスーパーに来なかったものね」
「だって、俺が行っても何を買えばいいか分からないだろ! 料理をするのは詩織なんだからさ」
必死に言い訳をする彼に、私は深くうなずいてみせた。
「そうよね。だから、食材費もお酒代も、全部領収書が残っているの」
亮の喉が、ごくりと鳴った。
「だって、立て替えてたんだもの」
「……そんなこと、今まで一度も言わなかっただろう!」
声を荒らげる亮の目に、明らかな焦りが見えた。
「え、払わないの?」
私は穏やかに問い返した。
亮は言葉に詰まり、視線をさまよわせる。
「まさか……」
静かに、畳みかける。
「私のおごりだと思ってた?」
沈黙。
彼にとっては気まずいだろう空気が流れる。
「いや……そういう意味じゃなくてさ。今までずっと、普通にやってきただろ? お互い様っていうか……」
私は亮の顔を、上から下までゆっくりと眺めた。
そして、ほんの少しだけ口角を上げる。笑顔とは呼べないほど、冷ややかな弧。
「あなた……ケチなの?貧乏くさっ」
亮は、私の口からその言葉が出たことが信じられないようだった。
目をパチクリさせ、乾いた笑いを漏らす。
「私、これからは自分の人生を生きるわ」
言い捨てて、スーツケースの取っ手を引いた。
玄関の床に転がる老舗メーカーの革靴を、つま先で隅へと蹴りやった。




