表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京都、百万遍リセット  作者: おてんば松尾


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/8

エレベーターの扉に映る自分の顔を見て、少し驚く。

思っていたより、ずっと落ち着いている。

昨日までの私なら、このマンションに来るだけで胸がざわついていたはずなのに、今は不思議なほど何も感じない。


亮との接触は、できるだけ避けたかった。

この時間帯なら、まだ彼が眠っている可能性は高い。

そう願いながらカードキーをかざすと、小さな電子音を立ててロックが外れた。


昨夜は遅くまで飲んでいたはずだ。

起きてこなければ、荷物だけまとめて、何事もなかったように出ていける。


玄関の扉を開けると、リビングには昨夜の酒の匂いがどんよりと残っていた。


「……やっぱりね」


思った通りの状態にため息が出た。


「昨日のまんま。見事なまでに散らかってる」


テーブルには空のワインボトルと料理の残骸。

汚れた皿が放置され、床には紙ナプキンが散らばっている。


私が片付けるのが当たり前だった。

いつもなら彼はこう言うのだ。

『俺がいると邪魔になるから、掃除は任せるよ。いつもありがとう』

感謝の言葉だけは口にするが、亮が手伝ってくれたことは一度もなかった。


以前の私なら、素直に何の文句も言わず片付けていただろう。

ただ、「良い奥さんになる」と思われたくて。


「前の私は、頭がどうかしてたわ」


私はスーツケースを広げ、黙々と作業を始めた。

洗面所の歯ブラシに化粧品。キッチンのミトンやエプロン。

自分のものだけを選び取り、手早く詰めていく。

ここで捨ててもいいけれど、ゴミですら、私の私物に彼が触れること自体がひどく気持ち悪かった。


「……全部、持って帰ろう」


そのとき、背後でずるずると足音がした。


「……ああ……詩織?」


眠たげな声がしたかと思うと、振り向くより早く背中に生ぬるい体温が触れた。

腰に腕を回され、耳元で甘えるような声が響く。


「おはよ……」


自分に非があると感じたとき、亮はいつもこうだ。

優しさと自己弁護を混ぜた甘えた声。


「結局、朝方までバーで飲んじゃってさ。悪かったね、置いてきぼりにして」


その瞬間、背筋に冷たいものが走った。

吐き気がする。

私は彼の腕を振り払い、一歩前へ出て距離を取った。


「……お酒くさいんだけど」


亮の動きが止まる。

けれど彼は、私の態度の変化に、まだ気づいていないようだった。


「なあ詩織、しじみの味噌汁作ってくれない?二日酔いに効く、いつものやつ」


「え、嫌だけど」


即答して、背を向けた。


「ああ、マジで飲みすぎた……」


亮は私の拒絶が耳に入っていないのか、ソファにだらりと体を投げ出した。


私は気にせず、黙々と作業を続ける。

ペアで買ったマグカップ、私専用の箸。それらを次々と詰め込んでいく。


「部屋の片付けは後でいいって。ていうか、いつもならその日のうちにやるだろ?」


「そうね」


短く答える。

亮は眩しそうに片目だけを開け、喉を鳴らして弱々しくつぶやいた。


「……頭、割れそう。なあ詩織、二日酔いの薬、あっただろ?」


無視。

その声は、もはやただの雑音にしか聞こえなかった。


「自分の荷物を持って帰るから、寝室に入るわね」


背後から亮の声が追いかけてくる。


「おい、昨日は俺も飲みすぎたんだ。悪かったって」


返事はしない。


「……でも、ちゃんとLINEしただろ? いつまでも拗ねてないで、機嫌直せよ」


私は足を止め、ゆっくりと振り返った。


「拗ねてなんていないわ」


淡々と、事実だけを告げる。


「ただ、くさいだけ」


亮は意外そうに目を丸くした。


「そ、そう……先にシャワー浴びてくるわ」


袖口の匂いを嗅ぎながら、彼はバスルームへ消えていった。


私はその背中を見送ることもなく、再び作業に戻る。

寝室のクローゼットから着替えの服を取り出し、スーツケースに詰め込んだ。

もともと私物は少なかったおかげで、荷物は驚くほどコンパクトにまとまった。


キャリーケースの車輪が、ごろごろと音を立てる。

床に傷がいきそうだけど、私には関係ない。


「……なあ」


シャワーを終えた亮が声をかけてきた。

タオルで髪を拭きながら、まだ散らかったままのリビングを一瞥する。


「……手際、悪くないか?」


返す言葉すら無駄に思えて、私はそのまま玄関へ向かった。

スーツケースを見た亮が、不思議そうに言った。


「なに、旅行にでも行くのか?」


その声には心配も怒りもない。

ただ予定を確認する上司のような、他人事の態度だ。


「もう戻ってこないから。私物を取りに来ただけよ」


亮は気に留めた様子もなく、再びソファに体を沈めた。


「へえ。会社の旅行? でも部屋はどうするんだよ。このまま片付けない気か?」


以前の私なら、『ごめんね、すぐやるわ』と答えて掃除を始めていただろう。

けれど、今は違う。


「……ふっ」


短く、乾いた笑いが漏れた。

亮が怪訝そうに身を起こす。


「じゃあさ、先に味噌汁作ってよ。それからゆっくり片付ければいいだろ」


「無理だけど」


「……え?」


「飲みたかったら、自分で作れば?」


突き放すのでも責めるのでもない。ただの事実として告げた。


「……何かあったのか? 怒ってるのか?」


ようやく、彼はそう聞いてきた。


「いいえ」


即答する。


「怒ってなんていないわ」


亮は立ち上がり、私の顔を覗き込んできた。


「詩織にはいつも感謝してるよ。料理も掃除も上手いし、俺のために何でもしてくれる。最高の彼女だと思ってる」


そう言って、彼は私を抱きしめようと腕を伸ばした。


私は左肩を引いて、その腕を避ける。


「おい、いい加減に機嫌直せよ」


「別に怒ってない。ちょっと邪魔だから、そこどいてくれる?」


「なぁ……」


亮が私の腕を掴んだ。

その瞬間、ゾッとした。

気持ちが悪くて、肌に蕁麻疹が出そうなほどの不快感が全身を走る。


「そういえば、昨日の食材費。あれ、全部私が出しているわね」


「……食材費?」


亮の腕を払い、私はコートのポケットを探りながら軽くうなずいた。わざと一拍、沈黙を置く。


「私、一口も食べていないから。全部払ってね」


その言葉に、亮は動きを止めた。

三万八千円のレシートを差し出すと、彼は少し躊躇いながらも渋々つまみ上げた。

たちまち眉間にしわが寄り、口元が下がっていく。


「……は? こんなに使ったのかよ」


驚きよりも不満が混じった声。


「それでも安い方よ。ケータリングじゃないし、全部私の手作りなんだから」


亮は納得いかないのか、無駄な買い物がないかレシートの中身を確認している。

小さく舌打ちすると、ようやくスマホを操作した。


「ほら、送った……。でも」


亮が顔を上げ、探るような目で私を見た。


「今まで、そんなこと言わなかっただろ?」


「え?」


私はわざとらしく首を傾げる。


「昨日って、あなたの友達の飲み会よね? まさか、私のおごりだと思っていたの?」


ぱちぱちっと瞬きして問い返すと、亮は露骨に顔をしかめた。

私から視線をそらし、ソファにどさっと座り直す。


「彼女だったらそういうの気にしないだろ。ケチかよ……貧乏くせぇ」


「堅実なの」


私の即答に、亮の肩がピクリと揺れた。


ここで私は、心の中で「厚顔無恥」のスイッチを入れる。

恥じることも、ためらうこともない。

堂々と、図々しく。

なんて清々しい気分だろう。


「そんな些細なことで文句言うなよ。将来はここに住めて、エリートの妻になれるんだぞ? 黙って俺を支えるのが役目だろ」


亮は勝ち誇ったように笑い、腕を組んだ。


相手にする価値さえない。


「あとで、今までの分もまとめて請求するから」

「……は?」


今度は、はっきりと亮の声が裏返った。


「パーティーのたびに、私が全部立て替えていたでしょう? 亮は一度もスーパーに来なかったものね」


「だって、俺が行っても何を買えばいいか分からないだろ! 料理をするのは詩織なんだからさ」


必死に言い訳をする彼に、私は深くうなずいてみせた。


「そうよね。だから、食材費もお酒代も、全部領収書が残っているの」


亮の喉が、ごくりと鳴った。


「だって、立て替えてたんだもの」


「……そんなこと、今まで一度も言わなかっただろう!」


声を荒らげる亮の目に、明らかな焦りが見えた。


「え、払わないの?」


私は穏やかに問い返した。

亮は言葉に詰まり、視線をさまよわせる。


「まさか……」


静かに、畳みかける。


「私のおごりだと思ってた?」


沈黙。

彼にとっては気まずいだろう空気が流れる。


「いや……そういう意味じゃなくてさ。今までずっと、普通にやってきただろ? お互い様っていうか……」


私は亮の顔を、上から下までゆっくりと眺めた。

そして、ほんの少しだけ口角を上げる。笑顔とは呼べないほど、冷ややかな弧。


「あなた……ケチなの?貧乏くさっ」


亮は、私の口からその言葉が出たことが信じられないようだった。

目をパチクリさせ、乾いた笑いを漏らす。


「私、これからは自分の人生を生きるわ」


言い捨てて、スーツケースの取っ手を引いた。

玄関の床に転がる老舗メーカーの革靴を、つま先で隅へと蹴りやった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ