表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京都、百万遍リセット  作者: おてんば松尾


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/9

「……彼への愛など、いりません」


そう言った途端、私の額に触れる桂さんの指先がじんわりと熱を帯びた。

店内の空気はふっと静まり、まるで時間さえもが息をひそめたかのようだ。

揺れる明かりの下で、気配が一段と重く沈み込む。

桂さんは、低く静かな声でささやいた。


「……愛する気持ちを、質に入れるんやね」


その瞳が、暗い紫へと変わる。

それは、優しさと冷たさのちょうど真ん中にあるような色だった。


「……冷たくされても、結婚するんだからって、ずっと我慢していました」


桂さんは、何も言わずにうなずいた。


「本当は、ずっと分かっていたんです。私は大切にされていないって」


「質に入れた想いはな、返してほしいと願えば戻る。……どうする?」


「いいえ」


私は首を振った。


「もういりません。彼を愛していた自分ごと、捨てます」


その瞬間、桂さんの瞳が火のように揺れた。


「なら……預かろう」


静かな声だった。


「あんたが五年間育てた、『愛情』っていう縁。ここに置いていき」


桂さんは私の胸元に手をかざした。触れられていないのに、心臓の奥がじわじわと熱くなる。


「もう必要ないのなら、その愛情は……質流れや」


私は息を吸い、震える指をきつく握りしめる。


「もう、いらない。今日で終わり。彼を愛していた自分に、二度と戻りたくない」


桂さんは、お祝いでもするかのように微笑んだ。


その時だった。


胸の奥にずっとあった、あの重苦しい痛みが、すっと消えた。

穴が開いたというより、最初から何もなかったかのように、身体が軽い。


亮への愛が、たしかに「質に入れられた」のだと、心の中で理解した。


桂さんは、私から切り離された「それ」を、目に見えない何かとして両手で受け止めた。

それから、静かに言った。


「……愛情、たしかに預かったわ」


一拍置いて、続ける。


「その代わりに、あんたに渡すもんは……そうやな」


明かりが揺れ、桂さんの横顔が浮かび上がる。


「一応、現金でもええけど。ここでは、他のものも選べる」


そう言って、黒い箱の中から一巻の巻物を取り出した。

そこには、いくつかの言葉が並んでいた。


厚顔無恥:恥ずかしいと思わず、図々しくなれる


破廉恥:恥を気にせず、思い切った行動ができる


傍若無人:周りを気にせず、勝手に振る舞える


鉄面皮:何を言われても動じない、図太い心


「ここから、好きなのを選び」


「……これを選ぶんですか?」


正直、どれもあまり欲しくない言葉ばかりだ。


「遠慮せんでええ。これは『スキル』みたいなもんや。必要なときに、あんたを助けてくれる」


断るという選択肢は、最初からなさそうだった。

私は少し考えてから、口を開いた。


「……じゃあ、『厚顔無恥』にします」


四つの中では、比較的クセが弱いものを選んだつもりだ。


「図太い性格ではないので……もう少し、自分に自信が持てるようになりたいです」


桂さんは、にこりと笑った。


「ええ選択や。人間、少し厚かましいくらいが、ちょうどええ」


そして、私をまっすぐ見つめて言った。


「誰かに選ばれるのを待つんやなくて、自分で自分を選べる強さ。それがな、あんたに一番足りなかったもんや」


その言葉は、不思議とすんなり胸に落ちた。


「愛情を手放した分だけ、心に空き場所ができたやろ?」


桂さんは、私の胸のあたりを指さした。


「そこに、自信を入れなはれ。それが、この店の取引や」


胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「自信はな、持ちすぎると鼻につく。ちゃんと自分でコントロールしなさいよ」


そう言って、少しだけ声を和らげた。


「それじゃあ……新しい自分のために、生きなはれ」


その言葉が、静かに、深く、私の中に染み込んでいった。



***



昨夜、焔魔堂でそのまま眠ってしまった私は、結局、彼のマンションには戻らなかった。

翌朝、自分のアパートへ帰り、部屋に入るなりコートを脱いでベッドに腰を下ろす。


スマートフォンはバッグに入れたままだった。

まだ、亮からの通知を開く勇気が出ない……わけではない。

単に、見る価値を感じなかっただけだ。


昨夜、私は「お酒を買いに行く」と言って出たきり、姿を消した。

普通なら、戻ってこない恋人を心配して、何度も電話をかけたり、探し回ったりするものだろう。

それが私の想像する「恋人」の姿だった。


一応、スマホを確認してみる。


「……やっぱりね」


亮からメッセージは来ていた。

けれど、私の身を案じる言葉は一つもなかった。


『詩織が遅いから、これからバーで飲み直すことになった』

『帰りは遅くなるから、先に自分のアパートに帰っていいよ』


以前の私なら、この文字を見て胸が締めつけられていただろう。

「お酒を買う」という役目を果たせなかった自分を責めていたはずだ。


でも、今は違った。


「は?」


思わず、鼻で笑ってしまった。


「人を寒空の下に追い出しておいて、自分たちはさっさと飲み直し?」


画面を見つめたまま、低くつぶやく。


「……ふざけないでよ」


怒りが湧き上がるかと思ったが、実際には驚くほど冷めていた。

なんで今まで、こんな男に尽くしてきたのだろう。馬鹿馬鹿しくて、呆れてしまう。


「愛情がなくなれば、亮なんてどうでもいい存在だわ」


口に出すと、言葉が不思議なほど軽かった。


「きっと、彼の部屋は昨日のままね」


飲み会の後片づけは、いつも私の役目だった。

亮は自分では掃除をしない。

散らかしっぱなしの部屋を、翌日私が片づけるのが当たり前の流れになっていた。


週に三日は彼の部屋へ通い、掃除も洗濯も完璧にこなした。

食事も、栄養バランスを考えて彼のために用意した。


「……まさに、無料の家政婦ね」


乾いた笑いが漏れた。家事の報酬なんて、一度ももらったことはない。

それどころか、食材費や洗剤などの消耗品、クリーニング代まで、そのほとんどを私が負担していた。


「家政婦のほうが、お給料をもらえるだけマシだわ」


その労力を仕事に回していたほうが、よほど有意義だった。

私の給料は、同年代より悪くない。

地味な専門職だが、貯金だってそれなりにあったはずだ。

それを彼の生活に注ぎ込んでいたなんて、今となっては信じられない。


「……そういえば、昨日のパーティー代も私が払ったわね」


財布からレシートを取り出し、家計簿アプリを開く。

入力を進めるうちに、ふと思いついた。


「どうせなら、今まで彼のために使ったお金、全部まとめて請求してやろうかしら」


五年分の記録を遡り、計算を始める。

……三百二十万円。


画面に表示された数字を見て、思わず息を呑んだ。


「こんなに使ってたんだ……」


このお金があれば、エステにも美容院にも行けたし、もっと自分に投資できたはずだ。


ふと、理性が頭をもたげる。

自分も一緒に食べていたのに、材料費を全額もらうのは図々しいのではないか。

だが、すぐに思い直した。これが「厚顔無恥」の効果かもしれない。


「いいえ、問題ないわ。買い出しも調理も私がやったんだから、手間賃だと思えばいい」


もし割り勘を主張されたら、彼の友人たちに言いふらしてやろうと思ったが、あいつらも全員亮の仲間だった。

なら、もっといい方法がある。


「……プライドの高い亮のことだもの。上司にでもメールを送ってあげようかな」


彼女に食費まで出させていたと知られたら、彼はさぞかし恥ずかしい思いをするだろう。


私はクローゼットの奥から、大きなスーツケースを引きずり出した。ほこりを払い、ファスナーを勢いよく開ける。


やるべきことは、もう決まっている。

彼のマンションに置きっぱなしの荷物を、すべて回収すること。

それだけだ。


スーツケースを転がし、私は駅へと向かった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ