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京都、百万遍リセット  作者: おてんば松尾


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3/8

二十七歳。それが私の現在地だった。


大学を卒業して分析ラボに就職し、微生物検査員として働いてきた。

派手なメイクや装飾品とは無縁の職場。

向き合うのは人間ではなく、ひたすら無数のデータと、静かに増殖する菌。

そんな地味で、けれど確かな日常を、私は淡々と積み上げてきたつもりだった。


五年前、大学時代の先輩が亮を紹介してくれた。

彼は、本来なら私とは一生関わるはずのない世界の人間だった。


「理系の女性は頭が良く、論理的で、静かに落ち着いているからいいよね」


初対面のときから、亮はそう言って私に興味を示した。


「結婚するなら、君みたいな子が理想だな。派手に遊び歩く女性は、正直疲れるから」


その言葉を、私は一欠片の疑いも持たずに信じた。


「仕事が落ち着いたら、結婚しよう」


そう言われた瞬間、一生分の運を使い果たしたのではないかと思うほど、私は幸福の絶頂にいた。


だからこそ、この五年間、彼を支え続けることに迷いはなかった。

社交的で人当たりが良く、激務も難なくこなす亮。

その背中を一番近くで支えてきたのは自分だという自負。

彼が順調にキャリアを歩んでいることが誇らしく、いつしかそれが私の生きがいそのものになっていた。


約束された未来を、一ミリも疑わなかった。

優先順位の最後尾に置かれていると分かっていても、都合の悪い事実からは目を逸らし続けた。


自分のやりたいことも、築くべきキャリアも、すべて後回しにした。尽くして、我慢して、彼の色に染まっていれば、いつかは報われる。

今夜のパーティーも、彼のために最高の場を用意すれば、その先に「幸せ」が待っていると信じて疑わなかった。


まさか、あの冷たい廊下で、あんな残酷な真実を突きつけられるなんて。


レジデンスを飛び出し、冷たい夜気の中へと駆け出した。


「……亮」


かすれた声が、涙でぼやける視界に溶けていく。

岡崎の街灯が水面のように揺れ、胸の奥が焼け付くように痛んだ。

うまく呼吸ができない。それでも足は止まらず、夜のアスファルトを蹴り続けた。


東山の稜線が夜空に黒く沈んでいく。

私はただ、無我夢中で走り続けた。岡崎疏水の水面に映る街灯の光が、今の私には刃のように冷たく突き刺さる。


「……信じていたのに」


独りごちた瞬間、喉が震え、再び涙が溢れ出した。


気づけば、鴨川まで辿り着いていた。

冬の川風が容赦なく頬を刺し、その痛みで意識がようやく現実に引き戻される。

そのまま川端通りを北へと歩いた。街の空気が、少しずつ変質していく。


観光地の華やぎが薄れ、代わりに学生街の匂いが混じり始める。

足は意志とは無関係に前へ進み、出町柳の駅前を曲がると、やがて百万遍の交差点が視界に入った。


昼間の喧騒が嘘のように、夜の百万遍は飲食店の灯りが静かに灯っている。

大通りを滑るヘッドライトの帯が、路面に映る人の影を不自然なほど長く引き伸ばしていた。


亮とは別れる。彼の本心を知れたことは、幸運だったと思うべきなのだ。

裏切られ、嘘を重ねられていた。長く一緒にいたのだから、本当は違和感に気づけたはずだった。

そのサインを無視し、自分を欺き続けていたのは、他ならぬ私自身だ。


ふと、亮の部屋に置きっぱなしにした私物のことが頭をよぎった。

二度と戻りたくない。けれど、荷物をあそこに残しておくことも耐え難い。

帰らなければならない場所がある。その事実が、どうしようもなく惨めで、悲しかった。


横断歩道の前で立ち止まり、深く息を吸った、そのときだった。


「……あ」


視界の端から鋭い閃光が差し込み、甲高いブレーキ音が夜の静寂を切り裂いた。


身体がふわっと浮き、次の瞬間、冷たいアスファルトに叩きつけられる。

遠のいていく意識の中で、最後に響いたのは、皮肉にもあの言葉だった。


『仕事が落ち着いたら、結婚しよう』


嘘で塗り固められた、甘く優しい声。

強い衝撃のあと、私は深い闇の底へと、静かに落ちていった。



***



どれくらいの時間が経ったのか、分からなかった。


消毒液の匂いも無機質な機械音もなく、代わりに、古びた木材の乾いた香りと灯油ランプの微かな匂いが、ゆっくりと意識を呼び戻していった。


重いまぶたを持ち上げると、煤けた梁と白い漆喰の天井が視界に入る。

橙色の灯火が、夢の続きのように幻想的な揺らめきを繰り返していた。

起き上がろうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走る。

けれど、それ以上に胸の奥に広がっていたのは、肉体の苦痛を凌ぐほどの深い虚無感だった。


「やっと、目え覚めたんやね」


柔らかいのに、どこか氷のような鋭さを孕んだ響き。

視線を向けると、長い睫毛と白磁のような指先を持つ、神職を思わせる佇まいの人物がじっとこちらを見つめていた。

中性的な美貌はランプの影に半ば隠れ、輪郭だけが夜の中にほのかに浮かび上がっている。


ここは病院ではない。

時代から取り残されたような応接間で、私は年季の入ったソファに身を沈めていた。

壁には年代不明の古時計や見知らぬ絵画、掛け軸がところ狭しと並んでいる。


「……ここは、どこですか?」


喉が焼け付くように乾いていて、声が掠れた。


「ここは質屋の『焔魔堂』や。百万遍の路地で倒れていたあんたを、うちが拾ってきたん。事故に遭ったみたいやけど、車はかすった程度やし、大きな怪我はないわ」


淡々とした、けれど温度の低い口調。

その瞳だけが、室内の静寂にそぐわず、小さな残り火のように揺れていた。


「何も聞かへんよ」


彼は小さく肩をすくめた。


「あんたのその顔を見たら、だいたい察しはつくわ」


湯気の立つ湯呑みが、そっと差し出される。


「今夜はここで休み。もし明日の朝、あんたが新しく生まれ変わりたいって言うんやったら……力、貸してもええよ」


新しく、生まれ変わる。

その言葉が、空っぽになった胸の奥で静かに反響した。


窓の外には、深い夜の闇が沈殿している。

けれどこの部屋の中だけは、守り火のような灯りが、現実と夢の境界線をそっと照らし出していた。

あのレジデンスも、亮も、そこにいた人々の嘲笑も、すべては遠い異世界の出来事のように思えた。


今の私には、この古びた店のランプの灯りのほうが、ずっと眩しく、そして信じられるものに感じられた。


温かい番茶を一口含むと、こわばっていた胸の奥がふっとほどける。

私は初めて、亮のためでも、誰かの期待に応えるためでもなく、自分自身のために涙を流した。


百万遍の焔魔堂で、私の本当の人生が、確かに動き始めようとしていた。



***



翌朝。

私は昨夜の出来事を、不思議なくらい自然体で話していた。

自分の情けない姿も、積もり積もった不甲斐なさも。

この店主に対してだけは、澱んでいたすべてを素直にさらけ出すことができた。


「……復讐、ですか」


掠れた声で問い返すと、店主は悪戯っぽく、けれど慈しむような眼差しで微笑んだ。


「復讐なんて安い言葉で、あんたの五年間を汚すのはもったいないわ」


彼は棚の奥から、緻密な彫金が施された古いルーペを取り出す。


「うちは桂。焔魔堂の店主や。ここは、人や品物に宿る『因果』ごと預かる店なんや」


話を聞くにつれ、桂さんが単なる質屋の店主ではないことが肌身で理解できた。

彼は、人の想いや願いに微かな調律を加え、相応の代価と引き換えに、運命に再び命を吹き込むのだという。

自らを「境界の修復師」だと、静かに説明した。


理屈では到底、咀嚼できない。

占い師とも陰陽師ともつかない、名もなき何かが彼の中に宿っている。

晴明神社のような結界の象徴からは物理的に離れているはずなのに、京都という街は、そうした非現実との距離感をいとも簡単に曖昧にしてしまう。


「手、見せてみ」


荒れた私の指先を、桂さんがそっと包み込む。


「五年間、誰かのために尽くしてきた手やな。その指先には、あんたが積んできた『徳』が染み込んどるわ」


薄い笑みを浮かべて、桂さんは続けた。


「せやけど、ここは質屋や。何かを預けへんことには始まらん。たとえば、縁や思い出……そんな目に見えんもんでも、うちでは立派な質草になるんや」


彼の言葉の真意を、慎重に手探りする。

私は胸の奥に残った最後の疼きを確かめるように指先をなぞり、ゆっくりと口を開いた。


「……縁。それなら」


一度、深く息を吸い込む。


「私の『愛情』を、質入れすることはできますか?」


桂さんの睫毛が、わずかに震えた。

それは驚きではない。むしろ、ずっとその言葉を待っていたかのような、確信に満ちた静かな反応だった。


「……愛情、ね」


ランプの灯火がふたりの間で揺らぎ、焔魔堂の空気が、ゆっくりと濃密な色に変質していった。

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