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「急にいなくなるし、連絡も取れないし……説明くらいあってもよかったんじゃないか?」
関係のない人という認識しかない。
彼はまだ、自分が説明を受ける立場だと思っている。
「ここでする話じゃないわ」
「でも、五年だぞ。俺たち。あんな終わり方、納得できるわけないだろ」
「納得できないのは、あなたでしょう?」
静かに言う。
「私は、もう整理がついているわ」
亮は一瞬言葉に詰まるが、すぐに続ける。
「今ならちゃんと話せる。俺も反省したし、お前がいない生活がどれだけ……」
「亮」
名前を呼ぶと、彼は言葉を止めた。
「ここは仕事の場よ。個人的な話をする場所じゃない」
「じゃあ後で。連絡先、変わってないだろ?」
必死な様子に、疲れを感じる。
「ブロックしているわ」
はっきりと言う。
「もう個人的に連絡を取るつもりはない」
亮の顔が歪む。
「……なんで、そこまで拒むんだよ」
「拒んでいるんじゃない。終わっているだけよ」
それでも亮は動かない。
「俺、本気で結婚しようと思ってたんだぞ」
「そう。でも私はしたくない」
「本気だったんだ!」
声が大きくなり、周囲の視線が集まる。
恥ずかしい。TPOもわきまえない人だとは思っていなかった。
私は首を振って、その場を離れた。
***
俺は必死だった。
目の前にいたのは、間違いなく詩織だった。
「……詩織!」
俺は反射的に手を伸ばし、彼女の手首を掴む。
力は込めていない。それでも、離す気はなかった。詩織の身体が、ほんのわずかに引き戻される。
「……っ」
彼女が顔をしかめる。
逃げられると思った。いや、逃がさないつもりだった。
「話、終わっていないだろ」
さっきまで取り繕っていた余裕なんて、もうどこにもない。
焦りと執着が、態度に出てしまっている。
だけど、どうしようもない。
行くな。まだ、俺の話を聞け。
もう一度手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「……失礼」
低く落ち着いた声が割り込む。
気づいたときには、見知らぬ男が一歩前に出ていた。
派手な仕草はない。
自然に半身をずらし、結果として詩織を背に庇う位置に立っていた。
「彼女が嫌がっています」
穏やかな口調。
だが、言葉ははっきりしていた。俺の手は、宙で止まる。
「……なんだよ、お前」
苛立ちを隠す余裕すら、もうなかった。
初対面のはずだ。
それなのに、まるで昔から彼女を知っているかのような距離感が、妙に癇に障る。
睨みつけたが、男は俺をまっすぐ見、視線を逸らさない。
「ここは業界向けのレセプションです。個人的な揉め事を持ち込む場所じゃない」
淡々とした声。
感情を交えない分、余計に正論だった。
その背中越しに、詩織が見えた。
俺は、この洗練された空間の中で、ひどく場違いだった。
「詩織、俺は」
言いかけた言葉を、遮られる。
「亮、触らないで」
その一言で、すべてが終わった。
周囲がまったく見えていなかった。
口を開いたまま、言葉が出てこない。
拒絶は、これ以上ないほど明確だった。
「大丈夫ですか?」
男が、詩織にだけ向けて尋ねる。
「はい」
即答だった。
俺を見ることすらない。
ああ、そういうことか……
二人は並んで歩き出した。肩が触れない程度の距離。
近すぎもしないが、その間に割って入る余地は、どこにもなかった。
きっと彼らは長い関係があるわけじゃないだろう。
それなのに、俺よりずっと自然だった。
詩織の背中が、人の流れの中に消えていく。
ネイビーのワンピースが、会場の照明に紛れて見えなくなった。
追おうと思えば、まだ間に合った。
数歩、足を出せばいい。
名前を呼んで、無理やり振り返らせることもできたかもしれない。
けれど、追いついたところで、もう俺の居場所はないのだ。
彼女の隣には、さっきの男がいた。
見ず知らずの相手でありながら、一線を守って彼女の前に立った男と、取り乱した俺。
どちらが大人か、どちらがふさわしいか。
考えるまでもなかった。
会場に残る理由がなくなり、俺はゆっくりと出口に向かって歩きだした。
ここは、俺の世界ではないのだ。
ホテルを出た瞬間、すべてが終わったと悟った。
胸の奥に残っていたのは、怒りでも悲しみでもない。
ただ「遅すぎた」という、どうしようもない事実だけだった。
***
それから半年が過ぎた。
俺の転落は、あっという間だった。
家に帰れば、広すぎる部屋がただ待っているだけだ。
明かりをつけても、どこか暗い。
詩織がいなくなってから、この部屋は生活の場ではなく、空っぽの箱になってしまった。
家賃の引き落とし通知が届く。
残高不足、再引き落とし、そして期限。
最初は「なんとかなる」と思っていた。今までも、そうやって生きてきた。
だが、今回はならなかった。
家事代行を減らし、外食を控えても出費は落ちない。
数字がそれを容赦なく突きつけてくる。
生活を回していたのは俺ではなかったのだ。
クリーニングを先延ばしにし、コンビニ弁当が続き、床には洗濯物が溜まる。
エリート、勝ち組。
そんな肩書きは、もう空虚な飾りにすぎなかった。
管理会社からの連絡は丁寧で、冷たい。
支払いの相談、猶予、そして最終通告。
時計を売り、使っていない家電を処分しても、まだ足りない。
段ボールに荷物を詰めながら、この部屋がどれほど無駄だったかを思い知る。
詩織が使っていた収納スペースだけが、ぽっかりと空白のままだった。
最初から、俺一人ではここに住める器ではなかったのだ。
引っ越し当日。
カードキーを返し、エントランスを出る。
ガラス張りのロビーに映る自分は、このレジデンスには似合わない男になっていた。
振り返ったところで、戻る場所はない。
あの日、詩織がスーツケースを手に部屋を出ていった時点で、すべては終わっていた。
駅へ向かう足取りは重い。
けれど、彼女が背負ってきた五年という歳月の重みに比べれば、きっと大したことじゃないのだろう。
俺は負けた。仕事でも、生活でも、そして何より、人として。
その事実をようやく認められたことだけが、この長い転落の中で手に入れた、唯一の収穫だった。
***
【エピローグ】
百万遍の交差点を渡る。
足取りは、数年前よりもずっと軽くなっていた。
信号が変わるのを待ちながら、私はふと空を見上げる。
雲は高く、秋の気配を含んだ風が心地よく頬をなでていった。
あの路地の奥にある焔魔堂は、今も変わらずそこにある。
細く静かな道の先、濃い影の落ちる場所に。
けれど、初めて足を踏み入れたときのような心細さは、もうどこにもなかった。
路地の奥では、古びた木の看板が昔と同じように風に揺れている。
長い年月を黙って受け止めてきた、傷だらけの板。
質屋、焔魔堂。
引き戸を開けると、鈴がひとつ鳴った。
その音は、以前よりもやわらかく響いた。
「こんにちは」
声をかけると、カウンターの奥から桂さんが顔を上げた。相変わらず中性的で、年齢の分からない不思議な雰囲気。
でも、視線が合った瞬間、ほんの少しだけ目元がやわらいだ。
「お久しぶりやね。元気そうで、何よりや」
「ええ。今日は、確認に来ました」
私はそう言って、奥のガラスケースに視線を向ける。
奥のガラスケースには怪しげな骨董品が鎮座している。
私がここに預けたのは、指輪でも手紙でも、品物ですらなかった。
五年間かけて育ててしまった、亮への執着という名の縁。
桂さんは私の意図を察したように、静かにうなずいた。
「質受けしたい、とは言わはらへんな」
「はい」
即答だった。迷う理由など何ひとつない。
桂さんは帳面を取り出し、何かを確かめるように指先を滑らせる。
「はな、質流れや。きれいさっぱり」
体も心も、驚くほど軽かった。
「もう、重さは残ってへんやろ」
「ええ。不思議なくらい」
私は笑った。
かつてあれほど心を占めていたものが、今はただの思い出せる過去に変わっている。
「それでええ」
桂さんは、いつもの淡い笑みを浮かべた。
「手放したもんが戻らへんのはな、失ったからやない。もう、要らんようになっただけや」
その言葉を、私は静かに受け取った。
店を出ると、路地の影は相変わらず濃い。
けれど、その先には確かに午後の光が差し込んでいる。
私はスマートフォンを取り出した。付き合い始めた彼からの通知が届いている。
〈もうすぐ着くよ。コーヒー、いつものでいい?〉
〈ええ。ありがとう〉
返信して、前を向く。
仕事は順調だった。
忙しさはあるが、心が擦り減ることはない。
隣には、同じ歩幅で歩く人がいる。
言葉を尽くす必要も、耐え忍ぶ理由も、自分を証明し続ける必要もない関係。
過去はすべて手放した。
傷も失敗も、きれいさっぱり質に流れた。
あの店は地図には載っている。
だが、スマートフォンの案内は決して正しい道を示さなかった。
歩けば歩くほど、なぜか同じ場所をぐるぐる回ることになる。
焔魔堂は、まるで現実から少し沈んだ場所にあるようだった。
やがて、百万遍の喧騒がゆっくりと現実の色を取り戻す。
学生の笑い声、車の音、いつもの午後。
私は一度だけ振り返った。
路地は薄く霞み、そこに何があったのかさえ曖昧なほど静かだ。
焔魔堂は、手放せない想いを抱えた者が迷い込むかぎり、
現実の裏側にひっそりと在り続けるのだろう。
私は、もう二度と訪れない。
今の私は、何も預ける必要がない。
両手が空いているからこそ、誰かの手を取ることができる。
午後の光の中へ。
自分で選び取った人生のほうへ。
私はゆっくりと歩き出した。




