プロローグ
百万遍の交差点から、一本だけ、細く静かな路地が伸びている。
昼間であっても、そこはひどく薄暗い。
路地に入ると、学生の笑い声も、信号を待つバスのエンジン音も、路地の入り口を越えた途端に薄れていく。
まるで別の空気の層に入り込んだような錯覚を覚える。
都会の喧騒から、ほんのひと息分だけ切り離された場所。
そこに質屋「焔魔堂」はあった。
静寂。神秘。そして、なにやら不穏な空気。
……と思えるのは、最初の三歩までだ。
「ちょっと!えんまさん!おるんでしょ、開けなはれ!」
ガタガタと建付けの悪い引き戸を揺らすのは、近所のミツさん(推定60歳)である。
「……閉まってます。今日は臨時休業やわ」
「嘘言いなはれ。鈴の音が聞こえたわ。さあ、開けた開けた!」
観念して桂が戸を引くと、そこには「これ、質に入れに来たわ」と、どこからどう見ても『履き古した安物の健康サンダル』を突き出すミツさんの姿があった。
店内には年代物のカメラや精巧な指輪が並び、奥のガラスケースには「祟りの石」だか「聖僧の霊骨」だか、怪しげな骨董品が鎮座している。
ここは普通の質屋とは違い、品物に宿る「因果」ごと預かる店だった。
本来なら、因果と代償が交差する、厳粛なる「焔魔堂」のはずだった。
「ミツさん、うちは質屋です。そのサンダルに、一体いくらの値をつけろと?」
「ええやんか。それより聞いてぇな。うちの人、また勝手に高いサボテン買うてきてな! 玄関がメキシコみたいになってんねん」
桂は、美しくも冷徹な顔立ちで、深いため息をついた。
長い睫毛に縁取られたその瞳は、本来、人の業を見抜くためのもの。
しかし今、彼が視認しているのは、ミツさんの口の中で輝く、あまりにも白すぎる入れ歯だけだ。
「……サボテンの話は、お向かいの佐藤さんにでもしてください」
「佐藤さんとこは今、嫁姑問題で揉めてるからなあ。あ、そういえばあそこの若奥さん、最近夜中にこっそり出歩いてるらしいわ。あれ絶対、不倫か、さもなくば……深夜の特売狙いやと思うわ」
「どっちでもいいです。帰ってください」
店主・桂。
性別不詳、年齢不詳。
白い指先で真贋を見極める姿は、まさに「裁判官」の風格そのもの。
だが実際は、近所の奥様たちの愚痴を聞くだけの、ただの御用聞きのようなものだった。
夕方を少し過ぎた頃、理髪店の奥さん、田中さんがやって来た。
「えんまさん、あんたもそんなシュッとした顔してんと、もっと笑わなあかんえ。これ、お裾分けの柴漬け。冷蔵庫入れとき」
「……質草ですか?」
「おかずや言うてるやん。あ、その代わり、この前、うちの知り合いが持ってきた怪しい古文書、あれどうなったん?」
桂は心底、この「生活の雑音」をシャットアウトしたいと願っている。
けれど皮肉なことに、彼女たちの垂れ流す「どうでもいい噂話」が、時として役に立つこともあった。
新聞がまだ世の中に出回っていない時代は、ふすまの下地に地張りとして文書が貼られていた。そういったものが質屋に持ち込まれることがある。
200年位前のものまであるが、ほとんどの中身は借用書だ。
「……あの古文書なら、ただの昔の誰かの借用書でした。まあ、特に価値のないものです」
「まあ、今さらあのときの金返せゆえへんもんな……あ、もうこんな時間やわ!晩御飯の支度せんと、うちの『粗大ゴミ(夫)』がうるさいわ。ほな、また明日来るわ!」
嵐が去った後の店内。
静寂が戻ってきたはずなのに、桂の耳にはまだ「サボテン」だの「粗大ゴミ」だのという単語がこびりついている。
「……因果も代償もあったもんやあれへん」
今日も近所の奥様しか来なかった焔魔堂。
「遅まで店開けてても、客は誰もこおへんわ」
桂が独りごちて、店の明かりを消そうとした、その時。
再び鈴が鳴った。
今度はご近所さんのような破壊力はない。
「……すみません。なんか表の通りで誰か倒れはって……」
入ってきたのは、顔色の悪い若い学生だった。
「倒れた?」
「じ、事故かと思ったんですけど……怪我はしてないみたいで」
桂の店には、商売とは無関係な厄介ごとばかりが転がり込んでくる。
それでも桂は、慣れた調子で腰を上げた。
「そうですか……ほな、ちょっと見に行きましょか」
ここは因果と代償が交差する、厳粛なる「焔魔堂」。
年代物の古物を預かり、相応の代価と引き換えに金を貸す店である。
だが近頃は、古物よりも、トラブルや人生の悩みを抱えた者のほうが多く訪れるようになった。
そのためか、店には自然と、どこか怪しげな気配が居ついている。
そして今夜もまた、一人の迷い人が焔魔堂へと流れ着いたのだった。




