阿賀北ロマン 七つのテーマに聖籠町から網代浜から 1/2
阿賀北ロマン 七つのテーマに聖篭町網代浜から 2/2
テーマ ちから
タイトル 牛の力 教育の力
二〇一三年一月二日、長兄が横浜から帰省した。
夏は義姉と二人だが、冬は兄貴一人だ。帰省にはそれなりに費用がかかることと両親が高齢なためなるべく顔を見せたいことを勘案、妥協して年に一回は義姉同伴で、もう一回は兄貴一人で帰って来る。
新潟駅南口で兄貴をピックアップして、バイパスを新発田方面に向かう。私には走り慣れたルートで、リラックスして運転する。
「煙突が見えてきたな」豊栄の競馬場を少し過ぎて兄貴が言った。
東港火力発電所の煙突が、兄貴に帰省の実感を与えるようだ。確かに海沿いの平地に立つ煙突は、遠くからでも目立つ。
「七号線を降りたらスーパーに寄ってくれ」
兄貴はバイパスを七号線と言う。兄貴が新潟市の工高に通っていた頃から多少ルートが変わっても、新潟―新発田間は七号線なのだ。
バイパスを降りて直ぐのスーパー、プラントに寄って買い物をした。義姉が一緒の時は料理の材料を買うが、兄貴だけの時は酒のつまみになる。
たまに長男が顔を見せに来るからといっても、七九歳の母には買い物も容易ではない。さらに困難なのが料理だ。母の料理には全く期待できない。今なら高齢だからという理由を付加しても良いが、元々能力が無い。
兄貴は私のために缶ビールを一パックと、自分の為にバーボン一瓶もカートに入れた。
「何か食いたいものはあるか」と兄貴が訊き、私はいつものように答える。
「なんでもいいよ、お袋の料理よりはましだから」
「そうだな」兄貴が同意した。
亀代郵便局の近くにある実家に到着した。
昔の局長が、この郵便局は北緯三八度線上にあると言って、自慢をこいていた。元々一つだった国家を分断している北緯三八度線を、売り物にするセンスが良くわからない。新潟の海岸から日本人を拉致していった北朝鮮には反吐が出るし、反日を政権維持の手段にする韓国にはうんざりする。両国家の罪は深いが、家族を南北に分断された両国民は悲惨だ。
車を庭に停めると犬のチビが盛んに吠える。散歩をせがんでいるのだろう。
三、四ヶ月前から父はチビを散歩させていない。チビに引かれて転んでから、危ないので止めたのだ。農作業を苦も無くこなしてきた父も加齢によって、犬の力にも敵わなくなった。
チビの吠えるのを聞いて父が玄関を出てくる。
「哲史、帰ってきたか、疲れただろう、早く上がれ」
「うん」ただ一言そう答えて、兄貴はバッグと買い物袋を持って玄関に向かう。私も残りの買い物袋を持って後に続いた。
数年前から足腰が弱って立ったり座ったりが容易ではないため、茶の間で待っていた母が言った。
「腹空いてないか、哲史」
母親が久しぶりに会った息子に掛ける言葉としては分からなくもないが、時間を考えていない。午後三時半は昼飯には遅すぎるし、晩飯には早すぎる。なんといっても、仮に腹が減ったと兄貴が言ってもうまい料理があるわけではない。しかし、高齢の母を今更いじめても仕方がない。
「ウィスキーを買ってくるか、飲むだろう」父が言う。
「買ってきたよ」兄貴が答える。
「哲史、一杯飲めよ。空きっ腹に飲む酒はうまいものだ。修史、いや純史、コップ持ってきてやれ」父が言う。
私の名前は純史で、修史は次兄の名前だが、父は時々言い間違う。長兄を呼び間違うことはないが、次兄と私は良く呼び間違われる。言い間違うのだ。そして直ぐに言い直す。私が子供の頃からそうだった。
私は兄貴のためにコップと氷と水を、自分のために缶ビールを台所から茶の間に運んだ。
兄貴は自分の好みの濃さで水割りを作る。私は缶ビールのプルタブを開けた。兄貴は乾杯などとありきたりなことは言わずに、私の方を向いて水割りを軽く上げて一口飲んだ。私も缶ビールを軽く上げて応えた。
八八歳の父は一五年ほど前、心臓を患って次兄の妻の運転で通院していた。そこで、嫁に迷惑をかけるのは最小限にしようと、心臓に悪いことは明白な酒と煙草を止めた。なかなか立派な心がけだ。自分の体を考えてではなく、息子の嫁に世話になってまで酒や煙草をやるのはいけないと考えたのだ。
母は酒も煙草もやらない。
兄貴も父と同じ頃煙草を止めたが、酒は好きだ。
今朝から一家で妻の実家に帰省している次兄は、煙草は吸ったことがなく、酒はやる。
私は煙草も酒もやる。
兄貴の酒はウィウキーだけだ。次兄はビールもウィスキーも飲む。私はビールも飲むがチューハイが一番だ。煙草も酒も三兄弟で嗜好はそれぞれだ。
テレビの音が大きい。父は若いころ漁船の機関長をやっていて、耳が少し遠い。船のエンジンルームでディーゼルエンジンの直ぐそばに何年もいれば、やむを得ない。最近はさらに加齢による聴力低下で、テレビの音量は一段と大きい。
酔いが回るにつれ、テレビの音に負けずに兄貴の話声が大きくなってくる。
父はテレビを見ているわけではないが、かといって消すこともボリュームを下げることもせずに、我々兄弟の話を聞いている。
話すところを見ている、と言った方が正確かも知れない。兄弟が何を話しているかではなく、仲良く話しているところを見ているだけで良いのだろう。そしてきっと、ここに次兄の修史がいないことを残念に思っているのだろう。
母は先ほどまで柿の種やさきイカなどをつまみにしろと順々に持ってきていたが、今はそばに座って黙って我々の会話を聞いている。
兄貴がスーパーで買ってきた刺身や唐揚げなどを並べてあるところに、乾き物を出すのが母のセンスなのだ。それとも、母の愛とでも言ってやろうか。夏は、ウィスキーを飲んでいる兄貴に西瓜を切ってきたこともあった。せめて茄子の漬け物にしてくれ、と兄貴が言っていた。
父母に対しては口数の少ない兄貴が、一〇歳違う末弟の私には気安く話す。酒が入ってなおさら饒舌だ。そして、理屈っぽくなってくる。
「今だから笑い話だけど、貧乏だったな。あの頃はどこの家も貧乏だったけど、うちは特に貧乏だったな」
兄貴の話が続く。
昭和四〇年前後、都会と田舎の経済格差は相当あって、さらに網代浜でも農作業用のトラックのある家もあれば、耕運機の家もあったけど、うちは牛だったな。多分、網代浜で最後の一頭か二頭じゃなかったか。
知っているか、牛は荷物を満載した牛車を引いて上り坂を上れなくなった時、それでも手綱でケツを叩くと前足を折り曲げて、つまり肘を地面に着けるんだ。後ろ足はそのままで前足だけ折りたたむと、重心が低くなって後ろ足に力を入れやすいんだな。きっと引っ張りやすいんだ。
しかし、見ているとかわいそうなものだ。本気で、必死になって、口から白い泡を吹きながら、涎を垂らしながら、前足を折って牛車を引っ張る姿は。健気で、ある種の感動もあった。よく坂を上ったな、と思った。
牛車に稲を山ほど積んで、舗装してない上り坂を上るんだから、すごい力だよ。稲は手で刈っていたから、濡れていてものすごく重かった。牛が坂を上れる限界を考えて積荷の重さは調整していたんだろうか。
牛の前に回って手綱を引くと、手綱は鼻輪に結ばれているから、牛も痛くてたまらないだろうから必死になるけど、限界を超えた重さなら結局一部降ろさなければ上れない。牛が坂を上がってから、降ろした稲を人間が担ぎ上げるのは大変だから、そんなことはしなくて良いように積荷は調整していただろう。
西瓜は牛車の上で積み重ねるにも限度があるから、牛には楽な荷物だったと思うけど、稲はよくあれだけ重ねるなと思うほど積み重ねて、落ちないようにロープで固定する。牛の歩きで何回も田と家を往復するのは時間がかかるから、ぎりぎり積めるだけ、なんとか坂を上れるだけ積むんだろう。牛車に稲を積み重ねる親父の力も大したものだったけど、それを黙って引く牛の力も大したものだった。
稲を家に運んだ後は乾燥させるために一把ずつはさに掛けるんだけど、よく手伝わされた。
その前に、はさを作るのも手伝った。縄を地面に直線的に張って、その線上に三メートルくらいの間隔で一メートルくらいの深さの穴を掘って、そこに柱を入れて埋め戻す。
柱を立てたら竹竿を渡して柱に縛るんだけど、その竹竿を運んだり縛る方の反対側を持って水平にしたり、高いところは下の竹竿に登って水平に持っていないといけない。だから、一人じゃはさは作れない。縛る方の反対側を脚立や梯子に乗せて水平にするやり方だと、かなり効率が落ちる。
竹竿は七段くらいあったんじゃないか。下の三段くらいは、俺が稲を一把ずつ手で親父に渡して、親父がはさに掛ける。それより上になると親父が脚立に座って、俺が下から親父に投げ渡す。さらに上段になると親父が脚立に立つ。投げても届かないから、稲束の結束してあるところを竹竿で刺して持ち上げる。
うんざりしたよ。力を出すから肩と腕がだるくなる。やってもやっても、減らない。子供にはそう感じたな。牛車一台分は膨大な量だった。まだ小学生で、遊びたかったしな。それでも親父に褒められながらやってたな。
稲の手伝いは首筋が藁屑でチクチクしてかゆくなる。『はしこい』とか『はしけ』と言うんだ。もう言わなくなって何十年も経つから、よく覚えていたと思う、我ながら。
それから台風が来る前に、せっかく掛けた稲をはさから外して小屋にしまうこともあった。雨だけならビニールシートを掛けるだけで済むけど、風が強いと稲が風を受けてはさが倒れるから。実際に倒れたはさを見たこともある。
外したり、運んだり、また出してきて、掛けたり、百姓の仕事は大変だった。全部力仕事だ。
外した稲を小屋にしまうときは、鉄の船に積んで牛に引かせた。砂地に車輪の無い船を引かせるから、摩擦に打ち勝って引っ張らないといけない。この時も牛の力はすごいと思った。
小屋とはさを立ててある場所とは一階と三階くらいの高低差があってかなり急坂だったし、牛車はブレーキが無いから危なくて使えなかったんだろうな、多分。船なら地面との摩擦で牛が力を抜いてもそのままそこで止まっているけど、牛車なら坂を落ちていくから。
手で稲を刈っていた頃は脱穀機も籾摺り機も持ってなくて、持っている家から借りていた。農協に出荷するのは玄米だから、精米するのは自家用だけだったけど、精米機も借りていた。
順番はよく覚えてないけど、バインダーで刈るようになり、脱穀機も籾摺り機も精米機も買った。それからコンバインになって脱穀機は要らなくなったけど、乾燥機が必要になった。
牛車が耕運機になり、それからトラクターになったけど、トラックは結局買わなかった。親父は免許も持ってなかったけど、酒飲みだから買わなくて良かったとお袋は言っていた。耕運機やトラクターは移動手段にはならないけど、トラックなら移動手段になる。無ければ、飲酒運転することは無いから。
人間の移動手段にはならないが、荷物の運送手段として、耕運機で西瓜を新発田まで売りに行ったことがあった。
兄貴より一〇歳年下の私には、牛の記憶は無い。耕運機ならなんとか覚えている。田畑を耕すのはトラクターで、農産物を運ぶのはトラックでやっている家が多かった。
耕運機はトラックとトラクターの組み合わせより効率が落ちるから、その分だけ人間の力が必要になるが、一台で耕と運を兼用できるので投資が少なくて済む。耕耘機という見慣れない字を書く場合もあるようだが、機能からして耕運機で良いだろう。
どこの家も同じ作物を栽培して、同じ肥料を農協から買い、同じような時期に撒いて、同じ農薬を農協から買い、同じような時期に撒いて、同じ天候で、品質と単位面積当たりの収穫量には大差が無いと考えられるなら、収入の多寡は保有する農地の広さに比例することになる。早くからトラクターやトラックを保有していた家は、広い農地を持っていたのだろうか。
そういえば、肥料は撒く、農薬はふる、と言っていた。どういう漢字を書くのだろうか。振りまく、の振る、それとも漢字は無くて、方言なのか。
親父が晩飯にと取ってくれた出前の寿司をつまんだり水割りを飲んだりしながら、兄貴の話は続いている。
私は缶酎ハイに切り替えた。
稲も重かったけど、西瓜も重かったな。稲を手伝う前に西瓜を手伝っていた記憶がある。
田は泥でぬかるから子供には敷居が高くて、畑の方を先に手伝うようになったんだろうな。
収穫は夏だ。暑い。畑の砂は焼けているし、日は照りつけているし、西瓜は子供には重かった。大人は三つも四つも一度に運ぶが、子供の力には一つでも重かった。
西瓜がよんでいる(熟している)かどうかは、指で西瓜をはじいて音で判定する。今でも俺は出来ると思うけど、実際に判定して捥ぐのは親父の仕事だった。
捥いだ西瓜は、分かりやすいように畝と畝の間に置いておく。それを牛車や耕運機が入る道路まで人力で運ぶ。
親父とお袋は、藁で作った、名前が出てこない、藁で編んだかごに二本の縄が付いている、俵ぼでといったか、その縄に肩ね棒を通して担いで運んでいたこともあった。六つか七つくらい入れたんだろう。一つ四キロなら七つで二八キロ、俵ぼでと肩ね棒で三〇キロを超えるだろう。肩が痛かっただろうな。
子供は身長差のために、大人とペアでは肩ね棒を使えない。子供同士でも、重すぎてダメだろうけど。それでも、子供も一つでも運ばなければならない。大人は両手に抱えて、同時に四つ運ぶこともあった。
畑によっては、坂になっているところがあった。転がしたら楽だろうと思ったが、乾いた砂地だから転がらない。固い地面なら転がるだろうが、乾いた砂地には西瓜がめり込む。
運んでも運んでも、減らない。子供なんか飽きやすいから、三つか五つも運べばかなりやった気になるし、疲れる。しかも暑い。いくら運んでも減らないと感じるんだな、きっと。
三キロか四キロある西瓜を持って数十メートル歩く。乾いた砂浜のような畑だから足が砂にぬかって、ただ歩くだけでも疲れる。
一つの畝が終わっても、次の畝がある。地平線まで西瓜畑のような気がした。今なら幼児虐待だよな。それは冗談だけどさ。そうするしか無かった。親父とお袋の二人は、必死になって働いていた。
畑は一カ所じゃないし、収穫は一回では済まない。何日かするとまた次の西瓜がよんで、、捥ぎに行く。
飲み水は、一升瓶に入れて持って行った。直ぐにぬるくなるが、うまかった。それしか無いから。でもやっぱり、うちに帰って飲む井戸水は冷たくてもっとうまかった。
井戸の底にモータとポンプを設置して、蛇口を回せば水が出るから水道と変わりないけど、公共の水道じゃなかった。地下から汲みたてで、冷たかった。網代浜に本当の水道が布設されたとき、水には白い細かい泡が溶けていてぬるくて気持ち悪かった。
畑で、西瓜を鎌で切って食うことがあった。畑に包丁なんかわざわざ持っていかない。西瓜収穫用のノコギリ鎌を使う。冷えてないけど、甘くてうまかった。一瞬の休憩が終わるとまた西瓜運びだ。良くやったと思う。
だから、そういう力仕事のせいで、俺が一番背が伸びなかった。おまえが一番背が高くて、修史も俺より高いから、あとから生まれて手伝いをしない奴ほど背が伸びたな。
重さでいえば、稲はひと束どれくらいあっただろう。一キロくらいか。二キロなら二リットルのペットボトルだから、そんなにはなかったか。五〇〇シーシーのペットボトル二本分くらいはあった気がする。濡れているからな。それを多分七束か八束でひとくくりにして、それを担いで田から道路まで運ぶんだ。
稲刈りの時、ビニール水田の水は抜いてあるからぬからないけど、重くてはしけくて、あれも辛かったな。でも大人は、運ぶ前に腰を曲げて稲を刈って束ねるという仕事があるわけだ。
バインダーを買ってからは、刈って束ねるまでは自動だ。すごい機械だと思った。二条刈りだったけど、人間何人分だったのか。
刈るのはバリカンみたいな歯が往復運動するだけで単純なんだけど、一定量を刈るとそれをビニールヒモで束ねて、ヒモをカットして結束機構からはじき出すんだ。良く出来てる。動きが速いから、どうやって結束するのか仕掛けが分からない。
バインダーでの稲刈りは俺もやった。たまにヒモが切れない時もあった。
稲の代わりに、代わりでも無いけど、逃げ遅れたアメリカ蛙を切ったこともあった。
劇的に楽になったのはコンバインを買ってからだ。コンバインは乗って刈れる。バインダーのように歩かなくて良い。
刈った稲はそのまま脱穀して袋詰めだ。藁はカッターで切って田に捨てる。捨てるといっても来年の肥料になるんだけど。だからコンバインは、バインダーと脱穀機とカッターが一体になっているんだな。
袋詰めした籾を家に運ぶ。これはやっぱり耕運機だったか、それともトラクターにトレーラーを引かせたかな。とにかく稲束じゃ無いから、はさに掛ける必要が無い。
濡れている籾は乾燥機に掛けて、石油バーナーを焚いて強制的に乾燥させる。火の用心もあるし乾燥度合いのチェックもあって、夜中でも親父はしょっちゅう小屋に乾燥機を見に行っていた。昼は激しい肉体労働をやって、夜中も乾燥機のチェックで熟睡できない大変な仕事だよ。
小学校の何年生までだったか、秋休みが一週間あった。稲刈り休みとも呼んでいた。家の手伝いをするようにという意味の休みで、当時の農村社会では小学生も働き手と認識されていたんだろう。その分、夏休みが短かったのかも知れないけど、どうだったかな。今だったら国連が児童労働はダメだって言うだろう、なんてな。
今日の兄貴は随分と調子が良い。体調良くウィスキーが飲めて脳に回っているらしく、稲の話がまた出てきた。
親父は少し前に寝てしまった。晩飯が済むと直ぐに寝床に行って、少し本を読んで寝てしまい、二時か三時に目を覚まして本を読んで、眠くなるとまた寝る。それでも五時には起き出してくる。昼寝もするし、猫のように好きなときに起きて好きなときに寝ている。
兄貴の話しを聞くと、両親は現役の時は死ぬほど働いたようだから、引退した今は死ぬほど楽をすれば良いと思う。
私の二本目の缶酎ハイはあと少ししか残っていない。だいぶ良い気持ちになってきたが、兄貴はまだまだ行けそうだ。
火の番といえば、煙草を作っていたときもそうだったな。煙草の葉を摘んできて専用の乾燥室に入れて、石油バーナーで乾燥させる。緑の葉がカサカサの茶色になるまで乾かす。巻いたらそのまま葉巻になるかもな。その時も、睡眠を小刻みに分断して乾燥室の温度や葉の乾燥具合を見に行っていた。
煙草の収穫は手伝った覚えが無いけど、葉を縄に付けることはやった気がする。縄の綯い目に煙草の葉の茎の部分を挟み込むんだ。その縄の両端には、針金を曲げて作ったS字型のフックを付けてある。
針金を買って来て、ペンチで切って、S字に曲げて作っていた。縄も、農作業の無い冬に家の中で綯っていた。脱穀した後の藁だから、稲を手で刈っていたかバインダーで刈っていた頃だ。いや、バインダーの時はもう煙草の栽培は止めていた気がする。
まぁとにかく、そのフックを乾燥室の壁にあるレールに引っかけて、洗濯ロープのように張るわけだ。煙草の付いた縄をぎっしり並べて、バーナーで温風を送って乾燥させる。
煙草の葉を縄に付ける作業は、えいといって、労働力を持ち回りしてやっていた。どこの家に何日借りたとか返したとか、記録していたのかどうか知らない。記憶だけでやっていたのかも知れない。
煙草はおんしょくとしぼりっぱという二種類があった。どういう字を書くのかは知らない。もしかすると訛った言い方で、標準語では別の言い方かも知れない。煙草を始めたばかりの頃は乾燥室が無くて、小屋で自然乾燥だった。自然乾燥と強制乾燥の加工の違いで呼び方が違うのか、それとも煙草の品種だったのか、分からない。
とにかくどっちも乾燥したら縄から外して、何枚かずつまとめて縛って、出荷の形にするのにまた手がかかった。乾燥した煙草は滓が飛び散るから、煙草を吸わない人は大変だった。 喉が痛くて、お袋も俺も咳がよく出た。親父はその作業中でも煙草を吸っていた。
乾燥する前の緑の葉に触ると、ヤニでべとべとして手が真っ黒になって、喉もいがらっぽくなった。それを、火を点けて吸うというんだから、どういうことかと子供の時は思った。でも、成人してからは俺も二〇年以上は吸ったな。セブンスター、セブンスター・カスタムライト、フィリップモリス・スーパーライト。
そうだ、煙草は専売品だからだと思うけど、栽培する数が決められていて、煙草の苗を何本植えたか数える検査があった。検査の前に自分で数えておかなければならない。畝一本ずつ全部数えて、それを合計してその畑の苗の栽培数を出すのもやらされた。電卓なんか無いから筆算だよ。申告数より実数が多いと、その分は抜かれたらしい。
なんだかいろいろ思い出すな。一升瓶の水でもう一つ思い出した。親父は田で水だと思って、一升瓶に入れておいた予備燃料のガソリンを一口飲んだことがあって、具合が悪くなって二、三日寝込んだ。
ガソリンエンジンの機械は何だったんだろう。田に水を入れるためのポンプを回すのは、耕運機か別の単体のディーゼルエンジンを使っていたと思う。だから燃料は軽油か重油だ。軽油はほとんど透明で、重油は黒っぽかった。
テイラーだったんだろうか。テイラーは耕運機より小さいエンジンで、燃料はガソリンだったと思う。農薬の噴霧機かも知れない。でも、ガソリンは着色してあるとか。じゃ、飲んだのは軽油かも。
噴霧機は小さいエンジンが付いていて、エンジンで風を起こして、風に粉末の農薬を混ぜて吹き出す機械だ。吹き出し口には一〇センチか二〇センチくらいの間隔で穴の空いた太いビニールの長いホースのようなものが付いていて、農薬はそのビニールの穴から吹き出る。
ビニールの反対側は誰かが持ってないといけない。ビニールは長いんだ。一〇メートルか一五メートル位あっただろう。エンジンを背負っている親父とビニールの端を持ってる俺が一緒に歩きながら農薬を噴霧するんだけど、考えてみると汚いというか、毒だな、絶対。あの頃はどんな農薬でも使われていただろうし、マスクもしないで作業していたから。まぁ、でも、病気にはなっていないけど。
手動式の噴霧機もあった。これは液体を霧状にして噴霧するやつだ。農薬が入った液体タンクを背負って、それには手動ポンプが付いている。霧吹きと同じ原理だ。
右手でポンプを上下させながら、左手に持った噴射器を左右に振って歩きながら噴霧する。要するに、両手、両足を使う作業だ。すごい時代だったな。アメリカじゃ飛行機で種や農薬を撒くなんて話があって、聞くだけで痛快だった。そんな時代だよ。
それから液体用噴霧機は進化して、牛車や耕運機に農薬の入ったドラム缶を積んで、エンジンでポンプを回して、長いホースを引っ張りながら噴霧するようになった。しかし、この作業は二人がかりだ。一人はホースを伸ばしてやったり、巻き取ってやらないといけない。
それでも背負って歩くよりはかなり効率が良くなったんだろうな。そうでないと、ポンプやエンジンに投資する意味が無い。
そうだ、このエンジンの燃料もガソリンだ。馬力の小さいのがガソリンで、大きいのはディーゼルだった。耕運機やトラクターの動力はディーゼルで、噴霧機とか小さいポンプを回すのはガソリンだ。
親父がガソリンか経由を飲んだのは、田じゃなくて畑だったかも知れない。
なんだかんだと、だんだん農機具が普及してきたんだな。親が歳を取って体力が落ちてくることに対応するように機械化が進んできた気がする。それとも、農家も少しずつ豊かになってきたから機械が買えるようになったか。ま、両方だな。
でもな、農機具の使用時間はめちゃくちゃ小さい。一年で使うのはほんの一瞬だよ。機械によって一年に数十時間から二百時間以下しか使わないのに、一軒一軒が全部の農機具を保有するってのは効率が悪いよな。
農協で保有してレンタルすることも可能な気がするけど、それだと農機具メーカーが儲からなくて成り立たないか。
しかし、ドラム缶やポンプを牛車や耕運機に載せるのも人力だ。ポンプとエンジンを一つの台に固定してあって、重いエンジンの方を親父が持って軽いポンプの方を俺が持っても、持ちきれなかった。
親父一人じゃ重さの面でも大きさの面でも積めないからどうしても手伝いが必要で、しかし子供の力じゃ持てない。怒られた気がするな、もっと力を出せって。
耕運機のエンジン部分に荷車を接続したり外したり、耕すためのロータリーを付けたり外したりするのも力仕事だった。牛に鋤や牛車を付けたり外したりは、大した力が要らない。鋤や牛車は軽いから。でも、耕運機に重いロータリーを一旦付けたら、牛よりずっと効率が良い。
人類には狩猟や採集をやっていた時代があって、それから農耕や牧畜に進化して食料が安定的に手に入る様になったわけだ。だけど、今でも狩猟はある。漁業だけど、養殖を除けば狩猟のうちだよな。どっちが物理的な力が必要だろうか。漁業も網を上げたり竿で釣るのも昔は人力で、徐々に機械化されてきただろうから農業と同じだろうか。
狩猟や農耕に比べたら、サラリーマンは力を全然使わない。かといって頭を使うかといえば、慣れてしまえばルーチンワークとかスタンダードワークだから使わない。創造的な仕事なら頭を使うけど、サラリーマンはそうじゃない。
一次産業は力も使うけど、気も遣う。頭を使う程度はサラリーマンと大差ないだろうけど、天候に対しては心配しなければならない。
台風が来たら風で稲が寝てしまう(倒れる)からその前に刈るか、刈るには早すぎるから寝るのを覚悟で台風のあとにするか、干してある稲は、はさから外すか、雨だけならビニールを掛けるだけで済むか、大雨が降るなら田の水を抜きに行くか、まだしばらく雨が降りそうもないなら田に水を入れたり畑に水を撒きに行くか、いつ何の防虫剤を撒くか、いつ何の肥料をやるか、いろいろある。
大雨の時、田の水を見に行くのは野次馬根性では無く、生活のためだ。台風の日に出かけて事故に遭って、をバカみたいに言うヤツもいるけどそうじゃ無い。遊びじゃ無い。生活がかかっている。失敗したとき、申し訳ありません、では済まない。
今のようにネットで二四時間予想とか四八時間予想とか台風の進路予想とか、そういう情報が入る時代じゃない。テレビの天気予報だけだった。心配してもどうにもならないことをやっぱり心配するしかないわけだ、百姓は。
農作物にもはやり廃りがあって、油を取る菜種を作っていたことがあった。あの小さい黒い種から油が出るのかと不思議だった。ながらしと言っていた気がするけど、方言なのか、記憶違いかも知れない。畑一面黄色だった。
西瓜は、最初は縞が薄い品種が標準で、今の縞が黒い西瓜を縞西瓜と呼んでいた。しばらくすると縞西瓜が、ただの西瓜とよばれるようになった。昔西瓜といって、丸くない、長い西瓜を自家用に少し作っていたこともあった。黄色い西瓜も少し作った。
瓜もメロンも作っていた。自家用だけだったと思うけど。
煙草も作ったし、サツマイモもジャガイモも作っていて、掘る手伝いをした。爪先に砂が詰まって真っ黒になる。足だって草履だから、裸足みたいなものだ。石けんで手足を洗った記憶が無い。水で流しただけで、よく病気をしなかったものだ。だから、花粉症になどなるはずが無い。飯に振りかけて食っても大丈夫だ。医学的には知らないけど。
西瓜と煙草の話はさっき出たのに、酔っ払ってきたな、兄貴。
米はずっとやっていた。品種はいろいろ変わったけど。農林何号とかださい名前から、越路早生とか越みのりとかあった。コシヒカリはそのあとだな。
茄子やトマト、キュウリ、瓜、メロン、ネギ、ゴマ、まだ他にも野菜は枝豆とかいろいろあったな、自家用は。
落花生も作っていた。ばあさんが抜けなくて、俺が一、二年生の時だったか抜いて褒められて、子供だからまた抜いて、結局手伝いだな。婆さんは、親父の母親のこと。お前をいつも負ぶっていた婆さんだよ。
婆さんは、バスに乗らないで何時間でも歩いた。そういう体力はあっても、落花生を抜く力は無かった。
我ながら良く覚えている。歳を取ると昔のことは思い出すけど、新しいことが覚えられないというのは本当だ。
抜いた落花生も、稲みたいにはさに掛けて乾かすんだ。
乾いたら豆を茎から捥いで、煎る。
円筒形の、煎るための、鍋とはいえないか、なんていったか、器具が部落で回されていた。それだと一回で大量に煎ることが出来る。多分、直径が三〇センチ、長さが五〇センチくらいの大きさで、回す取っ手が付いていて、その円筒を載せる台もセットだった。
順番が回ってくると、落花生を入れてよろびじ(囲炉裏)に掛けて手で回して煎る。あんまり早く回すと、遠心力で内壁に落花生が張り付くから音が出ないし、熱が豆に伝わらないから煎れない。ゆっくり回すと、落花生が中でかき回されている音が出て、煎れる。纏めて煎っておいて、そんなものが冬のおやつだった。
煎ってすぐの暖かいのは、咬むとしんなりしてうまくない。冷めてから、やっとカリカリの食感になる。
家庭にも豆を煎るフライパンのようなものはあった。名前は忘れた。薄っぺらい、トタンよりは少し厚かったか、そんな金属の皿のようなものに、フライパンと違って木の柄が付いていた。少量ならそれで煎る。
よろびじだったんだよ、その頃は。煮炊きにガスを使うようになったのは、何年生の時だったか。そのあとも魚を焼いたり暖房はよろびじで、体の前だけ熱くて背中は寒くてな。
屋根の煙抜きの穴から、冬は雪が家の中に降ってくる。そんな家で暮らしていた。
焚き物として、ガスを海に拾いに行っていた。秋か、冬の始まりか、風が強くて波が高い日、波に乗って木の切れっ端というかそんなゴミが浜に打ち上げられてくる。それを拾うんだ。でかくて目の粗い捕虫網のようなもので、波から掬ったりもした。あの頃は、プラスチックゴミはほとんど無かった。
それを牛車に積んで家に運んで、乾かしてから燃料にした。それをガスと言った。多分滓から来た言葉じゃないか。海から打ち上げられるゴミだよ。
松林に松葉を拾いにも行っていた。ビンビラという竹の先端を割いて曲げたもの、手を開いて指先を曲げたような形の、熊手の柄が短いものだ、それで松葉を集めて牛車で運ぶ。
松葉は燃えやすいから最初の点火に使用して、次にガスを燃やして、それから火持ちの良い薪を燃やしていた。
火の起こし方が悪くて煙が出ると、けぶて(煙い)と婆さんに怒られた。かといって、燃えやすい松葉ばかり燃やすと、もったいないと怒られた。
よろびじで余った熾は瓶に入れて蓋をして消炭にして、あとでこたつに使った。
飯はおはちに入れて、こたつで保温していた。
今思えば究極のエコだな。率直に言えば貧乏、だけど。
この家を建ててから、やっと石油ストーブになった。俺が五年生だったかな。
落花生に砂糖と醤油を入れてすり鉢で潰して、おかずにもした。あれは結構好きだった。今、スーパーでピーナッツ味噌って売ってるけど、あれとは違う。
そういえば、味噌まで作っていた。
部落から回ってくるでっかい鍋、ドラム缶の三分の二くらいある鍋とそれ専用のかまどがセットになっていて、薪で大豆を煮る。
煮た大豆を手回しの機械で潰す。手でハンドルを回すと大きなねじみたいなものが回って、それが大豆を前に送っていく。その先に穴が一杯あいたシャワーヘッドのようなものがあって、大豆より小さい穴だから大豆が潰れて出てくる。
これがまた手伝わされると、重くて。両手で回しても直ぐ肩がだるくなる。
そこから先はよく知らないけど、多分発酵させるために麹を混ぜて塩も混ぜて丸くして、ボーリングのボールよりは少し小さいくらいだった。それを樽に入れて二、三年寝かせる。多分二、三年だ。
味噌汁にすると、潰れきれていない大豆の滓が一杯沈んでいる。味は、うまくない。味噌がうまくないから、味噌汁もうまくない。あれだけは料理が下手じゃなくて、味噌が悪い、と言ってもいい。
さすがに醤油は作らなかったけど、きっと味噌より数段難しいんだろう。
兄貴の話は尽きない。気分良く飲めて、いつもより多くアルコールが体に染み込んで行く日がたまにある。数年に一回だが、そんなときは私も記憶が怪しくなるほど飲む事もある。今日は兄貴に好きなだけ喋らせてやろう。
ゴマはまずさやを乾燥させる。それから叩いてさやを割る。最後は箕で頭の上から落として、風でもって重さの違うさやとゴマを分けるという原始的なことをやっていた。さやは大きくて軽いから風に飛ばされ、ゴマは小さくて同じ大きさならさやより重いから風に飛ばされないで足下に落ちる。別の言い方をすれば、質量分析。大角豆などの豆類も同じだった。
さやを割るのに、叩く代わりに自転車で踏みつぶすこともやったけど、直ぐ飽きたな。もっとやれって言われてやると手伝いだから嫌になるんだな、きっと。
生活のための親の力仕事というのは、考えてみればすごいものだった。牛が涎を垂らしなら前足を畳んで牛車を引いて坂を上るのと同じだ。その生活の中には俺たち三兄弟を育てる、ということも入っていたわけだ。
親父は青森で漁船の機関長を続けていた方が体は遙かに楽で、収入は遙かに多かっただろうし、お袋は専業主婦でのんびりしていられただろう。但し、危険はあったらしくて、船の知り合いが何人も遭難して、怖くなって、二人目の修史が生まれて直ぐに船を辞めて新潟に帰ってきたらしい。
新潟で百姓をやるようになって、両親はありったけの力を出して生活をし、俺たちを育てた。当然とも言えるが、偉大とも言える。
それだけがんばっても、限界まで力を出しても、貧乏だったな。それが、東港の開発でいくらか畑と田を県に売って、簡単に金が入った。家を新築して余るほどの金だ。人間の力より土地の力が遙かに強いということか。
東京で、銀座で、一平方メートル何千万円という値段は、その面積で収穫する野菜の価値にしたらとても釣り合わない。麻薬でもダメだな、きっと。それでも商業を行う土地としては釣り合うから、そういう値段になるんだろう。
でも、土地の力というのは金に換算して計れるものだけじゃなくて、米や野菜を育ててそれを食うことで人間を生かす力、という意味でもある。
両親は田畑を売った金を使い切っていないから、今は引退して経済的には不自由なく暮らしている。これも東港開発の力の延長線上にあるということだな。
東港開発が無ければ農地なんか売ろうにも売れず、家は建てられず、親の生活も年金だけではどうなっていたのか。とすると、個人の力というものは卑小で、東港開発を決めた政治権力は強大だということか。
親もがんばったけど、俺も子供なりの力で手伝いはした。どれだけ役に立ったか知らないけどそうやって家族が生活をして、地域社会を形成して、ひいては国家を成立させている。だから国家権力だって存在し得るわけで、そう考えれば主権在民なんてのは簡単に実感できる。
個人の生きる力が国家の基本で、主権は個人にこそ在る。国家なんてのは、その個人の寄せ集めに過ぎない。生存のために便宜上群れを作っている人間の、国家や権力は手段でしかない。
父母が一時代を支えて、今は我々の世代が支えて、それもあと少しだけど、次を子供たちが支えつつある。
聖籠村は亀代村を合併したけど、新潟市も新発田市も聖籠村を合併しなかった。旨みが無く、むしろ予算の投入が増えるだけだから当然なんだろう。
それが、東港が出来てから、新潟市も新発田市も聖籠町の税収が目当てで、合併したくてしょうが無くなった。まさに、現金なものだ。
そのころ、聖籠町長の交際費は大都市の市長以上の金額だったと親父が言っていた。
平成の大合併も聖籠町は独立したままやり過ごして、北蒲原郡なんていう住所はもう無意味で、新潟県聖籠町で実質問題無いだろう。北蒲原郡にはもう聖籠町しか無いんだから。
そういうのは金の力だけど、聖籠町の人間がこの力をずっと有効に維持活用していけるかどうかが課題だな。
金の力に頼り切って個人の力を無くしてしまっては本末転倒で、町が、即ち町民自身が衰退してしまうだろう。
聖籠町にあるのが破滅的な原発ではなく、東港や国内最大級の火力発電所、LNG基地であることは幸いで、これらをうまいことオペレーションして行かなければならない。
その為には投資が必要だ。次の世代を、子供を教育するという投資だ。教育が唯一の力になる。今、潤沢な税収がある。それで次の世代を教育する。
これは正のスパイラルになる。投資がさらに町民に利益を生み、利益が投資の原資になる。日本全体が負のスパイラルにあるとき、これはすごいことだ。
日本人全体が原発は安全だと騙されてきたことを繰り返さないように、火力発電所やLNG基地の安全性を聖籠町は確認していくことが必要だ。原発ほどでは無いにしてもLNGタンクが一つ燃えたらどうなるか、半径何キロの酸素が無くなるのかなど。一つ燃えたら当然回りのタンクに延焼することも考えなければならない。
燃える、あるいは爆発も含めて安全性、危険性、被害規模、避難方法などを検討する必要がある。安全性と危険性というのは同じ事を言っている様でもあるけど、両方の視点から考えることが重要じゃないか。こういう対策があるから安全、じゃなくて、逆に、こういう危険性は無いのか、と考えてみる。
例えば、洗濯機の蓋が閉まっていないと脱水の高速回転が出来ないのは、安全だ。しかし、脱水中に蓋を開けられるのは致命的欠陥だ。蓋を開けたことで脱水のブレーキがかかっても、停止するまでの数秒間が危険だから。高速回転中は蓋を開けられないようするのが、本当の安全なんだ。
東港開発がスタートした頃、聖籠村公害阻止連絡会議という組織があった。いつの間にか無くなった。どれだけ作用したか知らないけど、今、目に見える公害は無い。今の世代はこの状態を維持して、次の世代に渡す義務がある。
聖籠町は、税金を納めて貰っているからと大企業の言いなりにならず、監視すべきは監視しなければならない。
経産省が東電より原発を知らなかったから、規制する側が規制されるべき側の言うがままになっていたこと、つまり『規制の虜』が福島第一爆発の原因の一つだと国会事故調は結論した。聖籠町は、発電所やLNG基地の虜になってはダメだ。要するに、町民は企業の力に負けてはならない。
教育を受けた人間が、企業に対して必要な監視や指導を行う。最小限のリスクで最大限の税収を得る、というオペレーションだ。その教育、監視、指導のコストは全て税収で賄われる。
兄貴は酔っ払って、随分と大風呂敷を広げた。
そのあとで、今度はさきイカを一本つまんで随分と細かいことを言い出した。
「俺は高校生の時、弁当のおかずにさきイカを入れられたことがあった。さきイカしか入ってなかった」
「醤油がかかっていただろう、俺もあったよ」と私が応じた。
「マジか」兄貴が驚き、うれしそうに笑い出した。
「すごく塩っぱかったな」私は味まで覚えている。
「塩っぱいのは乾燥しているさきイカに醤油が染み込むからだな、きっと。お袋は一〇年経ってもおんなじことをやっていたんだな」兄貴が言って、二人で大笑いした。
母は笑顔であるが、弁当のおかずがさきイカであることがおかしいとは思っていないようだ。
「仕方ないだろう、家にあるもの入れたんだ」母の言葉にまた兄貴と笑った。
親父が起きてきて「うるさいからもう寝ろ」と怒った。
(終わり)
テーマ 家族
タイトル 苦いコーヒー
その日の朝も、いつも通り耐熱ガラスのポットに水を入れて電子レンジにかけた。ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、MJBの缶を開けた。コーヒーが切れていた。缶を逆さにして残っていた全ての粉をフィルターに落としたが、スプーン半分しかない。薄いコーヒーをカップ一杯飲むか、カップ半分をいつもの濃さで飲むか、つまらないことを一瞬迷った。
ポットのお湯が沸いた。お湯を、粉全体にかけて一分待ってから、さらにカップ半分の量だけ素早く注いだ。貴重なコーヒーができ上がった。香ばしいかおりがする。一口飲む。ほどよい苦みが口中に満ちる。うまい。目が覚める。いつもの濃さにして良かった。
出かける直前、机の上に飾ってある敬和学園大学のマグカップが目に入った。娘の陽美が、入学してすぐに大学の生協で買ってくれたものだ。
陽美は、敬和学園大学人文学部英語文化コミュニケーション学科キャリア英語コースの三年生だ。新発田で一人暮らしをしている。父母の離婚後、陽美は学校に近い所での一人暮らしを望んだ。以前は、月に一回でも二回でも一緒に夕食を食べようと誘っていたが、いつの間にか応じなくなった。最近は、大した用も無いなら電話もかけないでほしいと言われた。嫌われているなら、それを受け止めるのも私の人生の一部だと思う事にしている。例え嫌われていても、陽美は私の唯一の遺伝子であり、娘だ。人生で一番大切な存在だ。
大学を卒業し就職すれば、陽美は自由になる。私に頼らなくても、生きていける様になる。自分の稼げる範囲でどこにでも住めるし、欲しいものも買える。どんな生活もできる。母と暮らしたいなら、そうしても良い。私と会いたくないなら、それもできる。悲しいが、陽美がそう望むなら仕方がない。自立して、自由に自分の人生を利用して欲しい。それが私の、娘を愛するが故の偽りのない気持ちだ。
私はガス発生装置メーカーのセールスエンジニアだ。今日は山形県鶴岡市の水道局へ水素発生装置、ゼロエア発生装置、窒素発生装置の納入に来た。装置を搬入口から設置場所に運んでいる時、プライベートの携帯が鳴った。滅多に無いことだ。
「もしもし、市塙ですが」
「市塙さんですか。こちら新発田警察署です」警察から電話を受ける心当たりは無い。
「お嬢さんが亡くなりました」えっ?娘が死んだ?そう言ったのだろうか?
信じられない。そんなこと、あるはずが無い。耳ではそう聞こえたが、それは現実では無いはずだ。あり得ない。きっと夢だ。夢にしても最悪だ。目を覚まそう。もし仮に現実だとしたら、どうやればキャンセルできるのか。何か方法があるはずだ。何かの方法、どうしても受け入れられない事に対しては、時間を戻すなり、状況を取り消す何かの方法があるはずだ。無ければ、おかしい。
しかし、無論そんなことはできない。私はあり得ないこと望んだ。混乱した。今聞いたことが、周囲が、状況が、現実なのかそうでないのか分からない。警察は、遺体の確認のために新発田署まで来て欲しいという。電話は終わった。
そうだ、まだ確認されてないのだ。陽美であるはずが無い。警察は、陽美とどうやって知ったのか。学生証か。それとも健康保険証か。誰かが陽美の学生証か保険証を持っていたのだろうか。その殺された子が、何故陽美の学生証か保険証を持っていたのか、それはは分からない。あとで陽美に訊けば分かるだろう。とにかく新発田署に行って、陽美でないことを確認しなければ。
学生証には写真も貼ってある。ということは、やっぱり陽美だろうか。いや、違う。いや、ここで考えていても仕方がない。とにかく新発田署に行ってみよう。そうだ、考えてもしょうがない。考えない方が良い。考えるべきじゃない。考えると、現実になりそうだ。そんなことがあって良いはずがない。人生で一回くらい、こんな間違いがあるかも知れない。あとになって、笑い話になるか、思い出になるか、だ。
私は急用が発生したと顧客に告げ、新発田署に急いだ。遅い様な早い様な三時間が過ぎて新発田署に着いた。受付で事情を話して一、二分待つと刑事と思われる男が現れた。
「ご苦労様です。刑事課の青木といいます。では、早速ですがこちらへどうぞ」
意外にも警察署のビルから出て、敷地内の小屋のような所へ案内された。金属のドレインパンの中に人が仰向けになっているようだ。むしろが被されている。いくら何でも、むしろはひどい。胸がドクンと脈打って、心臓の辺りが一瞬痛くなった。
青木は、ご確認をお願いします、と言ってむしろを剥がした。
陽美だった。陽美が寝ていた。寝ているだけだ。なんだってこんなところで寝ているのか分からないが、寝ているだけのはずだ。死んでいるはずが無い。警察の言うことを受け入れたら陽美が死んでしまう。そんな気がした。だから、寝ていると信じることに決めた。陽美、起きて帰ろう。アパートまで送っていく。久しぶりに、途中で晩飯を食おう。そう思った。声に出さないと聞こえないな、と思い直した。
「陽美、帰るぞ。起きろ。飯食って、それから送って行くぞ」直ぐそばにいる青木は無言だ。彼も、寝てるいだけだと認めているのだ。
しかし、顔色が悪い。血の気がない。息をしていない様だ。そんな馬鹿なことがあるか。私は陽美の頬に軽く触れてみた。冷たかった。まぁ、頬が冷たいことはあるだろう。額に触れてみた。冷たかった。首に触れてみた。冷たかった。どうして冷たいんだ。手を握ってみた。冷たかった。もしかして、本当に死んでしまったのか。
ちょっと待て・・・客先で装置搬入中に警察から電話が来て、娘さんの遺体の確認に来てくれと言われた。直ぐに客先を出て新発田署に来た。入るとき、確かに新発田警察署という表示を見た。自分の名前を言って、ここに案内された。警察に呼ばれたのは確かに自分だ。そしてここに寝ているのは陽美に間違いない。例え頭がおかしくなっても、陽美の顔を見間違えることはない。陽美は冷たい。本当に死んでしまったのだろうか。これは現実なのか。訊いてみよう。
「あの・・・娘には間違いないのですが、本当に死んでいるんですか?」自分が喋っている気がしなかった。
「お気の毒です」と言うことは、死んでいるという意味だ。
俺が声に出して訊いて、確かにこの耳に返事が聞こえた。陽美、死んだのか?どうしたんだ?なんで死んだんだ?
「娘はどうして死んだんですか?」
「いわゆる通り魔に刺されました。腹部を刃物で刺されて、出血多量でした。救急車で病院に運ばれたときは心肺停止状態でした」陽美の服が血で汚れていたことに今気づいた。
「殺されたんですか?通り魔ですか?娘はたまたま運悪く殺されたと言うことですか?何もしてないのに」
「まだお若いのに、本当にお気の毒です。しかし、犯人はその場で逮捕しました」犯人が逮捕されたって意味がない。陽美は生き返らない。どうしてくれるんだ。
「どんなやつですか?」
「二〇代の男です。供述が曖昧で、詳しい取り調べはこれからです」
胸に穴が空いた、というのはこんな気持ちを言うのだろうか。体中から力が抜けた。体が軽くなった様に感じた。俺は今、立っているのだろうか。だるい。次の瞬間、体が重くなったような気がした。何が何だか分からない。陽美をどうすればよいのか。連れて帰れるのか。
「娘は、連れて帰ってよいのでしょうか?」
「いえ、あの、決まりで、解剖させていただかなければなりません」
そうか、犯罪に巻き込まれて殺されたから、解剖されるのか。また、切り刻まれるのか。ひどい話だ。刺されて死んだのが分かっていて、刺したやつが捕まっていても、まだ解剖しないとだめなのか。どうなっているんだ。私は解剖されるまで陽美に付いていたかったが、明日になると言うことだった。青木に促されて警察署を出た。
冷たい鉄の皿に寝かされて、むしろを掛けられて、物のような扱いだった。陽美がたまらなくかわいそうだった。私は、吐き気を感じていた。
帰宅したときは二一〇〇時を過ぎていた。食欲など無い。酔えば少しは楽になるだろうか。グラスに氷を入れてウィスキーを注いだ。喉に流し込んだ。いつもほどに刺激は無い。酔える気がしない。酔いたい。少しでも陽美がいなくなったショックを、ウィスキーで誤魔化したい。だが、酔えない。胃が重くなったが、それだけだ。
小さい頃の陽美を思い出した。それから、最近までの陽美を順番に思い出した。理不尽に殺された怒りが際限なく膨張した。思わずグラスを壁に投げつけた。グラスは砕けて散った。涙が頬を流れ落ちた。
陽美、死んでしまったのか。まだ二一歳だ。陽美には夢があったはずだ。高校二年生から勉強に身を入れだして、敬和学園大学に推薦で入って、学校が楽しそうだった。二年生で英検の準一級も取った。将来に何か目標があっただろう。彼氏はいたのか。恋はしたのか。友達は沢山いたのか。どうして死んでしまったんだ。明日はまた解剖で切られるのか。かわいそうに。運が悪いじゃ済まない。済ませられない。どうして陽美だったんだ。他の人なら良かったとは言いたくないが、陽美でなければよかった。
許せない。殺してやろうか。犯人を殺してやろうか。くそったれ、殺してやるか。おまえは何だ。どうして陽美を殺した。なんだっていうんだ、この野郎。ダメだ、おまえは生きている資格が無い。生きているべきじゃない。死ななければならない。俺に殺されるべきだ。俺が殺してやる。陽美と同じように刺してやる。できるだけ痛いように、苦しいように、刺してやる。目には目をというが、それじゃ足りない。殺された陽美に対して、おまえを殺してもまだ足りない。全く足りないが、おまえを殺してやる。おまえは留置場にいるのか。名前は何だ。どんな顔をしている。殺してやる。
犯人はその場で逮捕されたと警察は言っていた。探さなくてもよいのだ。そうだ、近づくことさえできれば、殺せる。
眠れない夜が明けた。新聞とテレビで、犯人は神崎恭輔、二四歳と知った。二四にもなって、やって良いことと悪いことも判断できないのか。ガキじゃないんだ。やってしまったことの責任を引き受けさせてやる。
犯人について考えてみた。現行犯逮捕であったこと、ナイフを握っていた右腕を中心に返り血を浴びていたこと、刺したことを認めていることから、犯人は神崎に間違いない。警察は当然、神崎の浴びた返り血の血液型と陽美の血液型も照合しただろう。DNAまでも照合するのだろうか。まさか、血液型が違っていたが神崎を犯人にでっち上げたという事は考えにくい。白昼、人の多い場所で、人を刺し、周りの人たちが目撃し、その中の誰かが警察に通報し、複数の警察官が現行犯逮捕し、血だらけのナイフを握っていたのだ。状況からして、常識的に考えて、神崎が犯人であることは疑い無い。
いつ、どうやって神崎を殺すか。刑務所に入ったら、出てくるまで待たなければならない。裁判が終わる前にやるしかない。時間は無い。
午後、新発田署から電話が来た。「お嬢さんの解剖が終わりましたので、引き取りにいらしてください」
「わかりました」それしか言えなかった。
陽美、刺し殺されたあとに解剖までされてしまったのか。かわいそうに。全部神崎のせいだ。許せない。復讐してやるからな、陽美。人生を奪われたおまえの復讐と、娘を奪われた父の復讐だ。
私は葬儀屋を手配し、陽美を警察から連れ帰った。この日、陽美が久しぶりに父である私の元に戻った。体だけではなく心も戻ってきたような気がした。遅い反抗期のようなことがここ数ヶ月あったが、それも終わって穏やかな陽美に戻ったようだ。陽美の心が私に戻った日がお通夜だ。私はやり切れなかった。
翌日の葬儀には、私の知らない大学の同級生や職員が大勢来てくれた。陽美の母には連絡先を知らないために知らせられなかったが、本当に悲しんでくれる人たちが沢山来てくれた。泣いている女の子もいっぱいいた。陽美に親しくしてくれた友達だろう。彼女達を見て、私も涙を我慢できなくなった。いいさ、娘のために泣くんだから恥ずかしくはない、泣いてやろう。
そして陽美は骨になってしまった。いなくなってしまった。虚しい。体中の力が抜けた。
メディアが神崎の精神障害の可能性を伝え始めた。精神障害がこの犯罪の原因なのか。しかし何故、人を殺すほどの障害者が一般社会に放たれているのか。どうして、病院に入れておかなかったのか。誰の責任なのか。精神障害ということになると、正常な判断ができないという理由で、神崎の罪が軽くなったり無罪になることがあるのだろうか。いや、精神障害は理由にはならない。
第一に、人間の何パーセントが生涯に一人でも意志を持って人を殺すか。極めて少ない、異常と言ってよい割合だ。加えて、正常な人間が、正常なまま意志的に人を殺せるはずがない。つまり、人を殺す人という行為は全てが異常者によって行われるか、正常者であっても殺す瞬間は異常な精神状態にあるのだ。
第二に、犬が人を咬み殺したらその犬は殺処分となる。犬は善悪の判断ができないが、それでも責任は取らされる。
要するに、精神障害やそれに伴う善悪判断能力の欠如は罪を減免する理由にはならない。精神障害を持ったことは神崎の責任ではない。むしろ彼の不幸だ。しかし、陽美を殺したことは神崎の罪だ。誰の罪でも無いということはあり得ない。私は許さないと決めた。法律の判断と自分の判断は違ってよい。法律と自分では立場が違う。判断も違うだろう。法律が神崎を許しても、俺は神崎を許さない。たとえ精神障害を持っていても、たとえ善悪の判断ができなかったとしても、許さない。
精神鑑定というものは、そもそも信用できない。再現性があるのか、統一性があるのか、非常に疑わしい。一定のライセンスを持つ専門医が、同じ時期に同じ対象者に対して鑑定を行ったら、同じ結果が出るのでなければ意味が無い。科学とは言えない。再現性の無い非科学的な精神鑑定で、陽美を殺した罪が少しでも減ったり無くなることは、絶対に認められない。
精神状態によって責任能力が無い事を許すのであれば、更生する能力も無いということだ。更生できないなら、死ぬまで刑務所に入れておくか死刑にするしかない。犯罪を実行したときだけ判断能力が無く、逮捕された後は更生する能力が戻ったなどという余りに都合の良い戯言は聞くわけにはいかない。
機械が暴走しての事故ではない。自然災害でもない。人間にやられたのだ。やった人間に責任を取らせてやる。法律が何故精神障害を特別扱いするか、私はどうしても理解できない。法を無視してでも、私が自分で神崎を裁く事を決めた。法律は法律で勝手にやればよい。
仮に逆の立場で、娘が他人を傷つける可能性があるなら、かわいそうだが病院に入れておくのもやむを得ない。それは親である私の、社会に対する責任である。私はそう思う。だから私の復讐はフェアであり、間違ってはいない。そう確信できる。
どうしたら、あるいはいつになったら神崎に近づけるのか。裁判を傍聴に行けば、見えるところに神崎はいるだろう。そうだ、傍聴に行けば神崎の野郎に近づける。やれるかも知れない。裁判中に法廷でやるしかない。
裁判についてネットで調べた。裁判所のウェブサイトがあった。裁判の傍聴は誰でもできる、申し込みはいらないが抽選になることもある、というだけのあっさりしたものだ。
判決まで裁判は何度も行われるだろうから、そのうちの一回だけ傍聴できればよい。娘と私にとっては大事件だが、社会的にはありふれた事件だ。有名人の裁判ではないから、抽選になるほど傍聴人が集まることもないだろう。あとは、いつ、どこで裁判が行われるかだけ分かればよい。その裁判を被害者の遺族が傍聴することは不自然でもなんでもない。
私は法廷の様子を知るために裁判を傍聴してみることにした。実際の裁判所には、本やネットの情報では得られないものがあるだろう。法廷の広さ、裁判官、検事、弁護士、被告の位置、被告に近づくことに対する障害物などを知っておくべきだ。
新潟地方裁判所に入る時、何の手続きもなかった。
ロビーに掲示されている裁判のリストを見た。『一四二〇―一五一〇時、新件、二号館一〇一法廷』暴行傷害事件だ。
法廷に入った。携帯品の検査はなかった。法廷にはカメラなど持ち込みを許されていない物があり、検査があるだろうと漠然と思っていた。何の検査もないことは意外だ。
法廷の内部配置が分かった。正面の奥が裁判官席、その手前に書記官席、左が被告および弁護人席、右が検事席、裁判官席正面の最も離れたところに傍聴席がある。傍聴席の前には高さ一メート程度の柵がある。乗り越えるのは簡単だ。
裁判官が一人、女性書記官が一人、被告。被告の両脇には制服の男とスーツで首にバッジを提げた男がいる。制服は法廷警備員だろうか。スーツの男が首に提げているバッジは警察手帳か。彼は刑事かも知れない。そして弁護人一人と検察官が一人。
被告が証人席に移ると、法廷警備員と刑事と思われる二人も移動して、常に被告を挟む位置になる。被告が暴れたときに対処するためだと思うが、傍聴人が傍聴席から柵を越えて被告に近づくときは二人に妨害されるだろう。私が神崎に近づくとき、法廷内で最も障害になるのがこの二人だろう。
裁判所に入るときも法廷に入るときも携帯品検査はなかった。何でも持ち込める事は分かった。これは今日の大きな収穫だ。法廷に入るドアの横には、服装を整えて、という掲示があったが、スーツを着る必要がないことも分かった。服装を工夫すれば、かなりの大きさのものでも隠して法廷に持ち込むことができる。ナイフや拳銃などは、簡単に持ち込めるということだ。
検事の起訴状朗読、裁判官による被告の氏名、本籍、現住所の確認、黙秘権の説明のあと弁護人から被告にへの質問が始まった。
「頭突きをやったあと何回殴りましたか?それはゲンコツですか、平手ですか?」
「ゲンコツで四、五回だったと思います。その後、これはあとで取り調べの時に思い出したんですが、平手でも五、六回殴りました」
「思いっきり、力一杯殴ったのですか?」
「いいえ、ゲンコツの時もある程度手加減はしていました。それから、ゲンコツはまずいと思って、平手で殴りました」
「反省はしているんですか?」
「はい、申し訳ないことをしたと思っています」
「今後、繰り返すようなことはありませんね?」
「はい、絶対やりません」
検事から被告に質問が始まった。
「何故、示談が成立しないのですか?」
「三,一八五,〇〇〇円を請求され、とても自分に払える金額ではないからです」
「何故、未だに謝罪さえもしていないのですか?」
「示談金で折り合いが付かず、その後逮捕されて会うことができなくなったからです」
「会えなくても、謝罪の手紙くらいは書けるのではないですか?そうしないのは、反省していないからではないですか?謝罪の気持ちが無いからではないですか?」
「・・・・・すいません。手紙は、気がつきませんでした。本当に反省しています」
「取り調べの時、最初は、頭突きのあとはゲンコツで殴っただけと言い、翌日になってから、平手でも殴ったと認めたのは何故ですか?」
「気が動転していて、冷静ではなくて、忘れていました」
「気が動転していて、冷静ではなく興奮していたのに、ゲンコツで殴ったとき手加減が本当にできたのですか?」検事は怒りを込めた口調で追求した。
「・・・・・」被告は答えられなかった。
傍聴席にいた被告の姉が、弁護側証人として証人席に立った。傍聴席と審理席を分ける柵とスイングドアはわずか一メートル程度の高さしかない。柵を乗り越えなくても、スイングドアを開けて審理席に入るができる。スイングドアは押しても引いても開く。最前列左端の傍聴席からスイングドアを通って被告に近づくのに、五秒はかからない。
証人は宣誓のあと弁護人からの質問に答える形で被告の今までの生活態度、性格などを述べ、今後は家族一同で再発防止のために注意していくと結んだ。
次に、検事から証人に質問が行われた。
「今後、家族が被告を監督していくと言うが、今回のように夜中の三時に飲みに出る被告をどうやって監督するのですか?」
「・・・・・そんな時間に出歩かないように注意します」証人は検事の追及に詰まって、しばらくの沈黙のあとにやっと答えた。
弁護人は執行猶予を求め、検事は懲役一年六月を求刑した。裁判官が被告人に、最後に言いたいことがあるかと確認し、被告が反省の言葉などを口にした。
次に裁判官は弁護人に判決の日時を二週間後の一一五〇時として都合を確認し、ほぼ時間通りに裁判は終わった。
裁判は二回で終わることがあると分かった。何年もかかるような裁判は異例なのか。すると、私が裁判所で神崎に近づく事ができるチャンスは、最小の場合では審理と判決のたった二回と考えた方がよい。これを知らずにいたら、少ないチャンスを逃してしまうところだった。私は今日の裁判の判決も傍聴することにした。最後まで見て、知って、計画を立てた方がよい。できる準備は全てやっておいた方がよい。
傍聴した裁判の判決までの二週間、神崎に何を使うかを考えた。簡単に手に入るのは、ナイフや包丁などの刃物だ。千枚通しの様な細いだけのものは、ナイフなどより与えるダメージが少ないだろう。急所を刺せれば効果的だろうが、状況的に急所を正確に刺すのは無理だ。斬ることもできない。
拳銃は入手する方法が分からない。爆発物は作れるはずもないし、手に入れることもできない。それに、自分はともかく巻き添えを引き起こす。それは許されない。無関係な人を傷付けることは、神崎と同じレベルに墜ちることだ。硫酸や塩酸よりはるかに危険なフッ酸という薬品があるが、爆発物と同じく入手と、なにより巻き添えの問題がある。
毎日人を殺すことばかり考えている自分は正常なのか、間違ったことをやろうとしているのではないか、と思う時もある。そして、事の起こりは神崎が娘の陽美を刺し殺した事だということに行き着き、やるしかない、やるべきだ、という結論になる。そしてまた、殺すための手段を考える。
毒物を注射するなら巻き添えは避けられる。しかし、注射する前に自分が抑えられるだろう。ハンマーを神崎の頭に力一杯振り下ろすか。頭蓋骨を割って、中の脳にまで損傷を与えることはできそうだ。例え殺せなくても、廃人にはできるかもしれない。ハンマーなら入手も法廷への持ち込みも簡単だ。釘を打つ為の平らなハンマーより、先の尖ったピッケルが良い。頭蓋骨を叩き割って、やつの腐った脳に先端を打ち込んでやる。
現実的に入手できて法廷に持ち込めるのは、ナイフかピッケルだ。刺すか、殴るか。いずれも至近距離に接近しなければならない。傍聴席から柵を乗り越えて神崎に近づき、刺すにしろ殴るにしろ一回しかチャンスはないだろう。
周囲の人間を怯ませるためには、ピッケルよりナイフの方が効果的だ。扱いにくいほどではまずいが、ある程度大きい方が周囲に対する威嚇効果がある。光っていて、一目で切れそうな大きな刃物だと思わせるものが良い。
ナイフを容易に抜き出せるように工夫しておく必要がある。最初はナイフを抜かずに神崎に近づく。周囲の人間に制止されそうになったら、ナイフを抜き、振り回して威嚇する。怯んだ隙に神崎をやる。一撃でよい。急所を刺してやる。腹だ。手足ではだめだ。神崎の腹にナイフが埋まっていく手応えを感じてやる。それが、陽美の復讐の手応えだ。
殺しても飽き足りないという言葉があるが、意味がよく分かる。まさに私が神崎に持つ感情だ。ただ殺しただけでは全く不足だが、最低限殺す。目には目を、では足りない。陽美を返せ。できないならおまえが死ね。死んでも許さないが、死ね。死んでしまえ。殺してやる。俺の陽美を奪いやがって。絶対に許さない。いつまでも許さない。
次に私は、腹部のどこを刺すのが致命的かを調べた。心臓が理想的が、肋骨に守られている。一瞬で狙いを付けて、肋骨を避けて心臓を刺すことは不可能だ。運良く肋骨の間をナイフが通るまで何度か刺す、という時間はないだろう。着衣の上から心臓を狙っても、正確性は無い。肝臓と腎臓は刺すと大量出血するという。肝臓は肋骨の下にある。これもだめだ。腎臓は左右にひとつずつある。腹の真ん中でないため狙いにくい。
少なくても一度深く、できれば二度、腹のど真ん中を狙うのが、たとえ致命傷でなくても相当のダメージを与える最も確実な手段のようだ。もし冷静でいられたら、そして時間的に余裕があったら、腹を二度刺したあとで首を切ってやる。頸動脈を切ってやる。
判決の日が来た。判決は懲役一年六月、刑の執行を三年間猶予するというものだった。判決は数分で終わった。殺人事件の裁判も二回で終わるのかどうかは分からないが、最短では二回で終わる可能性がある。チャンスは一回目の法廷しか無いということだ。
二回の傍聴で法廷内の様子が分かった。裁判の進行も分かった。裁判所の雰囲気には慣れた。携帯品の検査が行われないことが分かった。これが最も大きな収穫だ。可能性が開けた。殺された陽美の復讐を実現できる可能性、娘を奪われた私の復讐が成し遂げられる可能性、神崎の息の根を止められる可能性。
傍聴の帰り道、私はナイフを見るためにアウトドアショップに寄った。ショーケースに入ったナイフが陳列されている。ビクトリノックスのスイスアーミーナイフ、折りたたみナイフ、刃の部分も黒いナイフなど数十本ある。折りたたみ式のナイフは、刃を開いてグリップを握ったとき、誤って刃のストッパーを押してしまいそうだ。そうなると刃が折りたままれて使い物にならない。折りたたみ式ではなく、さやに収めるタイプが良い。しかし、直感的に使えそうだ、と思えるものはなかった。
包丁は刃の幅が広い分だけ、刺すときの抵抗が大きいように思われる。深く刺せない危険性がある。背にも刃があるナイフが刺しやすいだろう。刺したあとに手首をねじって刃を九〇度だけでも回転させてやれば、更に与えるダメージは大きくなる。
刺すとき体の抵抗に負けないように、刃とグリップの間に日本刀のツバのようなものがあった方が良い。ナイフはホームセンターやアウトドアショップを回れば、適当なものが見つかるはずだ。神崎の裁判までに見つければよい。何も焦ることはない。
ナイフのグリップは手になじんで滑りにくい材質と形状であることはもちろんだが、念には念を入れて手袋をするのも良いアイデアだ。手袋からは、滑り防止という実用的な機能に加えて、手作業を行うときに手を保護しているという心理的な安心感も得られる。それによって、思い切って作業することができる。
刺すトレーニングもやる。頭で思い浮かべるだけと一度経験しておくとでは、実行するときの速度や達成度に雲泥の差が出るだろう。なるべく実行内容に近いドレスリハーサルを、自分なりに安心できるまで繰り返しておくつもりだ。
まず確かめたいのは、刺すときの物理的な抵抗がどれほどあるのかだ。つまり、抵抗が大きければ腕を大きくテイクバックしてナイフを加速して刺す必要がある。それでは狙いを定めにくい。腕の力で押すだけで衣服と皮膚と皮下脂肪と筋肉と内臓を貫けるのであれば、狙いを付けたところにナイフの先端を押しつけてから、腕の力で押し込めばよい。めり込ませるように、だ。
私は神崎を一回だけ、多くても二回刺せれば良いと思っている。それ以上時間を掛ける間には制止されてしまうだろうから、法廷にいる全員の不意をついて一回、あるいは二回刺すことに専念する。頸動脈を切ることは諦めてもよい。欲張り過ぎは失敗に繋がる。切ることに比べれば、刺す方は脂肪の抵抗はずっと少ないだろう。だから二回は刺せるはずだ。いや、刺してやる。陽美の分と俺の分だ。
刺すときの抵抗がどれほどあるのかを、食用として販売されている豚や牛のブロックを買って試してみる。ナイフを数種類買って刺す実験をやれば、目で見ただけの判断ではなく、実用上最適な形状のナイフを見つけ出すことができる。
二、三日すると、私はまた自分は正常なのかと疑った。娘、陽美を殺した犯人の神崎を殺そうとしている。殺したいと願っているのではなく、殺そうと具体的に準備を進め、詳細な検討を行っている。実験もしようとしている。本当に殺すのか、殺して良いのか、殺したあとは取り返しがつかないがそれでよいのか、と考えてみる。
神崎の親は健在か、兄弟はいるのか。神崎を殺すと彼らは悲しむのか。それとも、やっかい払いができたと安心するのか。逆に、世間から同情されるかも知れないとでも期待するのか。今度は、神崎の親兄弟が私を恨むのか。復讐したいと思うのか。仕方がないと諦めるのか。いや、親兄弟には諦めて貰う。俺は神崎に復讐する。
神崎自身は刺されて死ぬまでの間に、何故刺されたか理解できるのか。それとも、ただ痛い、苦しいとだけ感じで死んでいくのか。それでも殺す意味があるのか。
意味。神崎を殺すことの意味。自分の復讐心を満たすだけか。確かに、殺された陽美は復讐を望むことはできない。復讐したとしても、陽美はほんの僅かの気が晴れることもない。殺されてしまった陽美にとっては、何の意味もない。
神崎の弁護士は、神崎の精神上の不全を主張するだろう。それによって、いくらかでも刑を軽くしようとするだろう。最悪の場合、彼らにとって最良の場合は、無罪だ。そんなことは許さない。犯罪としては無罪になっても、病院で拘束されることにはなるのだろう。しかし、それだけで良いはずがない。人を殺しておいて病院に入るだけか。陽美は病院に運ばれたときはどうしようもなかったという。ふざけるな。
刑罰は、犯罪者に更生のチャンスを与えるためだけのものなのか。見せしめにすることによる抑止力としての意味もあるだろう。加えて、犯人に対して、被害者に代わって国家が復讐する意味もあるべきだ。見せしめの意味も含めて、犯罪を実行したことに対して、代償を支払わせる意味もあるべきだ。その代償があまりに不足なときはどうすべきか。
代償が充分か不足かは、立場によって違うだろう。被害者本人の立場、被害者の関係者の立場、加害者の立場、加害者の関係者の立場、無関係な人の立場、裁判官の立場、検察の立場、弁護人の立場、国家機関である裁判所の立場、法務省の立場、裁判員の立場。これらの中で最も優先されるべきは、被害者の立場だ。突然、無関係な犯人から命を奪われた、全ての未来を奪われた被害者の立場だ。しかし、被害者の陽美はもういない。陽美の無念を晴らせるのは、父親である自分だけだ。被害者の代理としての私、被害者の父としての私が二番目に優先されるべき立場にいる。その私が、神崎は即刻死刑でも代償は小さすぎると信じている。
たとえ死刑の判決が確定しても、執行までは数年もかかるのだろう。心神耗弱を主張して、精神鑑定をして、控訴して、上告して・・・と時間を稼ぐことも許せない。最終的に死刑が確定するにしても、確定するまでは神崎は生きていけるのだ。死刑が確定しても、死刑が執行されるまでやつは生きていけるのだ。突然殺された娘に比べれば、それだけでも神崎を許せない。
私は、殺された娘の復讐として、同時に娘を殺された父の復讐として、犯人の神崎を殺すことが、権利であるとまでは言わないが、不条理なことでは絶対に無いと思っている。私は、ただ娘がかわいいだけなのだ。その気持ちを行動で表すだけなのだ。
私が異常なら、異常でもかまわない。もう考えずにやるしかない。そう私は決めた。そして、腕や肩の筋肉を鍛えるために腕立て伏せを始めることにした。神崎を刺すための筋肉を増やすのだ。
「ご起立願います」法廷書記官が告げた。裁判官が入廷し、法廷内の全員が一礼して着席した。私は傍聴席の最前列、左端に席を取っている。スイングドアの前だ。
いよいよだ。裁判予定時間は一時間五〇分。この間に決着をつけてやる。
神崎の左には法廷警備員、右には私服の刑事がいる。やはり二人付いたか。
検察官席と弁護人席の間には証言台があり、裁判官席を向いている。証言台にはイスがあり、証言台の後ろにベンチがある。以前傍聴した法廷と同じ状況だ。
よし、俺は冷静だ。そう自分に言い聞かせた。
裁判官が神崎に命じた。「ただいまから被告人神崎恭輔の裁判を始めます。被告人は前に立ってください」
神崎の左にいる法廷警備員が指示して、証言台の前に神崎を立たせた。刑事は、神崎の右側に位置するように証言台の後ろにあるベンチの右側に移動した。神崎の左にいた法廷警備員は、被告席のベンチの刑事が座っていた位置に移動した。証言台に立つ神崎は、両脇を刑事と法廷警備員で固められた形だ。いつでも被告を制止できる体制を維持するためだろう。逆に、神崎を保護する様にもこの二人は働くのだろう。邪魔になる。
俺はテレビや雑誌で神崎の写真は見ていたが、直接顔を見るのは初めてだ。間の抜けた顔をしやがって。こいつが陽美を殺したやつか。直ぐにおまえを殺してやるかな。
人定質問、検察の起訴状朗読が終わって、裁判官が神崎に黙秘権についてわかりやすい言葉で説明した。色々質問をするが答えたくなければ答えなくてもよい、答えた内容はあなたに有利なものも不利なものも証拠となる、という趣旨だ。俺にとって神崎は既に有罪だ。残っているのは刑の執行だけだ。一時間以内に執行してやる。いや、もう執行の手続きは始まっている。
足にぴったりのスニーカーを履いてきた。ヒモはきつめに締めてある。蝶結びではなく、解けない固結びにして、余ったヒモは邪魔にならない様切り捨ててある。ストレッチ性のある動きやすいパンツを穿いてきた。上半身はポロシャツとスイングトップだ。
スイングトップの内側にはナイフを固定してある。鞘のスナップをひとつ外せば直ぐに抜ける。刃の長さは一五センチ。二〇センチは長すぎて扱いにくい。一〇センチでは、全部刺しても一度では致命的ダメージを与えられない懸念があった。
ナイフは、切るより刺すことを目的にした形状を選択した。即ち片側は刃、反対側は切っ先から三センチが刃で、残りは根本までノコギリ刃になっている。グリップは丸ではなく四角い形状で、手首のひねりで刃を回しやすい。グリップと刃の間にはツバがあり、グリップを握った親指と人差し指で刺すときの抵抗を受け止められるようになっている。ナイフ自体には何の改造も必要なかった。
六軒の店を回り、四軒の店で七本のナイフを買った。その中で最良の一本を決めた。手に持ったグリップの感触、握りやすさ、滑りにくさ、全体の重さのバランス、長さによる使いやすさ、豚肉の塊への差し込みやすさ、刺すときの切れ味、刺す抵抗を受けるツバの大きさ、そして手首をひねっての回しやすさを、手袋をはめた手で確かめて決めた。
グリップエンドには穴があり、その穴にヒモを通してある。落下や奪取を防止するためのストラップだ。このストラップに手首を通し二個のストッパーを締めれば、ナイフは簡単には奪われない。手のひらを開く羽目になっても、ナイフはストラップで手首に繋がっている。誰も刃を摑んでまでナイフを奪おうとはしないだろう。
付属品である鞘を、スイングトップの内側に二カ所縫いつけて固定した。ナイフは、鞘のスナップを外さない限り抜け落ちることはない。ナイフを抜いて神崎に近づくか、抜かずに近づくかはその時に決める。いずれの場合も手袋は直前にはめる。抜かずに近づくときは、鞘のスナップを外しておくか外さないでおくか、決断が必要だ。
(陽美、もうすぐだ。おまえの復讐をしてやるからな。痛かっただろう。あいつを、同じだけ、いや、もっと痛い目に遭わせてやるからな。)俺は、危うく声に出すところだった。
裁判官が神崎に訊いた。罪状認否だ。「被告人は、今朗読された公訴事実をその通り認めますか。それとも、何か違うところがありますか」
神崎が答えた。「僕は無罪です」
裁判官がわずかに右を向いて言った。「弁護人はいかがですか」
神崎の弁護人が答えた。「被告人が申しましたとおり、無罪を主張いたします。詳細は冒頭陳述の際に述べたいと思います」
裁判官が正面の神崎に向き直った。「被告人は席に戻ってください」
神崎の野郎、無罪だと言いやがった。弁護人の入れ知恵だろうが、ぬけぬけと無罪だと、よくも言えたものだ。許せない。何人もおまえがやったことは見ている。おまえに刺されたのは陽美一人だけじゃない。俺が有罪と判決して、罪に見あった刑をくれてやる。
検察官の冒頭陳述では、少々精神的な成長に遅れがある可能性に触れながらも、犯行時に於いては責任能力ありと断じた。そうだろうとも。当然だ。例え心神喪失であっても心神耗弱であっても、特別扱いをする理由にはならない。全ての責任は神崎にあるのだ。
検察官が証拠を提出した。傍聴席からはよく見えないが、陽美を刺したナイフもあった。いずれ証人として証言するだろう目撃者もおり、写真もあり、神崎がやったことに間違いはない。
裁判官は弁護人に、提出された証拠の採用に異議があるかどうかを訊いた。弁護人は、しかるべく、と答えて全ての証拠を受け入れた。それでも無罪を主張したということは、後で弁護人から心神喪失状態であったという証拠を申請するか、あるいは精神鑑定を要求するつもりなのだろう。そうするとまだ何回も裁判が行われるかも知れないが、そんな時間を与えるつもりは無い。やった、ということの証拠を認めただけで充分だ。理由や言い訳や責任逃れは、俺には意味がない。
たとえ判決が死刑であっても、控訴も上告もするかも知れない。死刑が確定しても、いつ執行されるか分からない。何年も先だろう。その間、神崎は生きることができる。死ぬ覚悟もできる。陽美は、突然殺された。二一歳だった。大学を楽しんでいた。人生が始まったばかりだった。未来しかなかった。死など考えもしなかったはずだ。殺されるという残酷な現実は、あるべきではなかった。
予定残り時間は四五分だ。もうよい。そろそろやってやる。やつをやることに集中しよう。靴のヒモは緩んでも解けてもいない。スイングトップの右ポケットには手袋がある。手に汗はかいていない。手袋は簡単にはめられる。スイングトップの左内側にナイフを固定してある。鞘のスナップは閉まっている。ナイフのグリップにはストラップが付いている。体調は良い。
無関係な人は絶対に傷付けないために、ナイフは闇雲に突いたり振り回したりはしない。これだけは自分への誓いだ。無関係な人を傷つけたら神崎と同じになる。これだけは許されない。そうするくらいなら、この復讐は失敗する方がましだ。無関係な人を傷つけては、この復讐は下卑たものになる。俺は、失敗することをどこかで期待しているのではない。陽美の復讐はしたい。しかし、神崎のやったことが許せないだけに、同じ事を自分は他人に対して絶対にしてはならない。ただひとつの、最低限のルールを自分に科して、神崎と自分との境界を明確にして、その上で陽美の復讐をやり遂げる。
陽美を殺した神崎は、心神喪失で無罪か、心神耗弱または衝動的犯行で比較的軽い刑になるかも知れない。それに対して、単に復讐をしただけの私は、計画的犯行で神崎より重い刑になるのか。馬鹿な話だ。それが法か。納得できない。納得は不要だ。やると決めたことだ。決心は少しも鈍っていない。俺は自分に確認した。
弁護人の冒頭陳述が始まった。被告人には刑事罰よりも治療が相当である、心神耗弱を証明するために精神鑑定を請求する、と述べた。そしてその理由をとうとうと語り出した。
もう、いい。うんざりだ。俺の心に迷いは無い。例え神崎には理性や知性が全く欠落していて、動物のような状態で人を殺したとしたら、神崎も不幸だ。それでも、本人はやったことの責任は取らなければならない。
俺にとって、陽美はかけがえがなかった。俺は、ただ娘のために、娘を奪われた自分のために復讐する。そう決心して、今日ここに来ている。
俺は最後のイメージトレーニングを行った。傍聴人席に座ったまま両手に手袋をはめる。右手首にストラップを通してナイフを抜く。左手でストラップを締める。立ち上がり、スイングドアを押して傍聴人席を出る。神崎に近づく。神崎の腹にナイフの切っ先を当てる。勢い良く押し込む。手首を九〇度右にねじる。ナイフを抜く。再び切っ先を腹に当て、押し込む。ねじって抜く。可能なら首をなぐ。たったこれだけだ。
弁護士は、被告人の利益のために働く義務があるという。例え被告人の言うことが信じられなくても、無罪を主張するのであればその通り全力で弁護しなければならない。被告人に対する弁護士の誠実義務というものだという。原則としては必要な制度なのだろうとは思う。しかし、陽美の件に限っては不要だ。神崎がやったということが分かれば良い。やった理由や言い訳は要らない。責任逃れは許さない。
犯した罪を償うことは、どうやってもできないのだ。刑務所に何年かいたくらいで償ったことにはならない。ましてや病院に入ったくらいでは。ぬけぬけと無罪を主張しやがって。いいさ、殺してやる。おまえを殺してやる。今、殺してやる。
陽美が殺された。それは許せない。陽美にとっても、俺にとっても許せない。だから、やる。おまえは責任を取らなければならない。死ぬべきだ。死ぬだけでは全く足りないが、それ以上が無いから、仕方ない。最低限死ぬべきだ。
おまえを殺すと、俺の人生も破滅だ。今、まだ俺の人生は残っているのか。残っている人生に意味があるのか。陽美が殺されて、もうこれから子供を持つことは無い。あとは老いぼれるだけなら、陽美の無念と俺の無念を晴らしてやる。その方が意味ある人生になる。
おまえが人だとしたら、俺も人殺しになる。おまえと同じレベルに墜ちる。俺は、それで良いのだろうか。そして、陽美は人殺しの娘になってしまうのか。いや、神崎は人じゃない。動物だ。動物を殺すだけだ。だから、俺は人殺しにならない。陽美も人殺しの娘にはならない。
俺はやるべき事をやるだけだ。やらなければならないことをやるだけだ。迷うことはない。やらないと一生後悔するだろう。後悔する人生には意味がない。俺の大事な娘を奪いやがって。おまえの命じゃ全く足りない。糞野郎め。
陽美、かわいかったな。生まれたときは小さかった。色が黒かった。泣き声が大きかった。伝い歩きが素早かった。歩けるようになっても、歩くことに臆病だった。泣き虫だった。マンガを描くのが好きだった。
陽美、中学生になったら無口になった。塾にも行かなかったし、習い事もしなかった。家でばかり遊んでいた。高校二年生になったら勉強を始めた。卒業式では伝統行事なのか、みんなと一緒に笑いながら後輩にお菓子を投げていた。
陽美、推薦で敬和学園大学に合格してうれしそうだった。入学式の日に二人で記念写真を撮った。二年生の七月に英検準一級を取ったと知らせてきた。大学生活は楽しそうだった。
そして、あいつに殺された。許せるはずがない。こんな現実が許せない。現実を否定する。だから、俺の残りの人生という現実も否定する。俺は、どうなってもよい。あいつを殺してやる。
よし、やるか。
俺は、手袋をはめた。そして、右腕をスイングトップの胸に入れ、ナイフを握りしめて立ち上がり、左手で傍聴人席のスイングドアを押す。
ずっと使わずに飾っておいた、陽美がくれた敬和学園大学のマグカップ。今朝、初めてそれでコーヒーを飲んできた。うまかった。
もう、考えることは無かった。
考えることは無い。そのはずだった。だが、できなかった。私はできなかった。ナイフを握った右手をスイングトップから抜けなかった。私は法廷警備員によって傍聴席に押し戻された。
その時私の頭をよぎったのは、私の両親の名前も住所も写真までもネットで晒されることだった。テレビなどの表の報道には乗らなくても、ネットでは加害者本人だけではなく親の情報も公開される。次は両親が社会的に抹殺される。聖籠、小さい町だ。両親は自殺するかも知れない。孫を殺され、息子が殺人犯となり、自分達は自殺しなければならない。そんなことはさせられない。私の理性でもなく良心でもなく、ネットが抑止力になった。ネットの暴力性が逆に抑止力となって、次の暴力を止めた。
私は、復讐できなかったことを娘にも自分自身にも恥じている。だが、両親が健在であることに対しては両親に感謝している。私の復讐を止めたことに対してではなく、単純に親が生きていてくれることが子には嬉しい。私を本当に止めたのは、ネットなどではなく両親の存在だ。
私が殺人を犯そうとしたのは娘という家族のためであり、それを阻止したのも両親という私の家族であった。
神崎には、陽美を殺しただけではなく、私を殺人犯とし、私の両親を殺人犯の親とし、自殺させたかも知れない、そういう現れなかった罪もあるのだ。
私には、ナイフを抜かなかったことで殺人未遂は構成されないとしても、神崎を殺そうとしたという現れなかった罪があり、加えて、復讐を果たせなかったことによる娘への贖罪と自分自身の無念があり、これらをどう抱えて生きていくか、これから検討しなければならない。
(終わり)
テーマ 色
タイトル 欲望の色
一
私は亀代中学校を卒業後、新潟市の東工業高校に進学した。当時、どれだけ深く考えてそう決めたか、今となってはよく覚えていない。一九七三年、もう四二年も前だ。覚えているのは、大学まで行くとなるともう七年も勉強しなければならない、それはぞっとしない、かといって中卒では人生の選択が狭まることくらいは知っている、高卒で就職するなら普通科より職業科の方が多少有利だろう、程度だ。それに、電気に興味を持っていた。
通学に、まずは網代浜の家から佐々木駅まで自転車で三〇分かかった。その時間はどうということはないが、雨の日、風の日、雪の日はその強さに応じて辛かった。
父は学用品としてバイクを買ってやる、と言った。大正生まれの男としては随分と理解のある、先進的と言っても良い父だ。
一年生の秋に自動二輪免許を取った。直ぐにカワサキの一二五CCを買って貰った。佐々木まで行くだけなら五〇CCでも自転車に比べればお釣りが来るほどで、一二五は学用品を超えた贅沢品だ。豊かでもないのに、父は母の反対を押してよく買ってくれたと思う。尤も、父の言う学用品とは通学に必要な物であって、それで暴走するようなバカなことはするな、という意味だった。
二月の雪の日、圧雪道路の車の轍を低速で佐々木駅に向かった。革手袋をしていたが五分もすると指が冷たくなり、次に痛くなり、それから感覚が無くなった。
ダンプカーが対向車線に見えた。道路は雪で狭くなっている。ダンプの車幅がプレッシャーだった。なるべく左に寄ろうとして、前輪が轍の雪の壁に接触し、バランスを失って左側に倒れた。
身体が寒さで固くなっていて、とっさの回避行動が取れなかった。左足がバイクと道路の間に挟まれた。左足首が痛い。かなり痛い。寒さが痛さを倍増させている。
立つことはできたが、左足に体重をかけられないためバイクを起こせない。周囲は田んぼばかりで、民家の電話を借りるにも数百メートル歩かなければならない。
どうしたものかと左足首の痛さと手の冷たさに耐えながら考えていると、通りかかった車が止まった。運転していたおばさんは私と一緒にバイクを起こして道路脇に寄せてくれ、さらに私を佐々木駅まで乗せてくれた。親切な人だ。
佐々木駅に着いたが倒れたときより足首の痛みが増して歩くのが難しくなり、学校に行くことを諦めた。
バイクを預けている駅前の駐輪場の公衆電話で、家に状況を連絡した。
車を持たない父は親戚に頼んで駅まで私を迎えにやる手配をして、自分は蓮潟から私のバイクを二キロ以上も引きずって家に持ち帰ってくれた。ギアをニュートラルに入れる方法を知らないため、回転しない後輪をまさに引きずって帰ったという。バイクのカタログ重量は一〇五キロだから、雪道でいくらか滑るとはいえ大変な体力だ。
私は親戚の車で新発田の病院へ連れて行かれた。捻挫と診断され、足首をギプスで固定された。
その夜は布団を掛けるとその重さで足首に負担がかかって痛くて、しかし掛けないと足が寒くて眠れなかった。
結局その日から三学期は全部休んで、期末試験も受けられなかった。三学期の成績は一、二学期実績の七〇パーセントの点数をくれるということで、幸いにも赤点は無かった。
翌年の冬から、一月と二月は新潟市内に下宿した。毎週金曜は一週間分の洗濯物を持って家に帰り、日曜夕方に下宿に戻った。
新潟バスセンター発次第浜行きのバスが一一三号線を蓮野辺りまで来ると、東港にある発電所の赤と白の煙突が見える。もう家は近い。たかが一週間ぶりだが、家に帰るのは楽しみだった。
この頃から赤と白の煙突は、私にとって我が家のランドマークとなった。
二
工高三年生、具体的に進学するか就職するか決定する時期となった。私は就職するつもりだった。勉強には飽きていた。もちろん充分勉強したという意味ではなく、それ以上の勉強が嫌なのだ。どんな仕事をするかを決めなければならない。
一九七六年はアメリカ独立二〇〇年祭のある年で、行ってみたかった。就職して、貯金して、行けるかどうか考えた。行けたかも知れないが、もっと確実に海外に行く方法を考えた。
そこで、船乗り、外国航路貨物船の船員を思い付いた。飛行機より船の方が現実的だ。父が漁船の機関長をしていたことも少なからず影響したと思う。
甲板部か機関部か無線部か。工高の電気科だから無線が近道だろうと思った。
まずは船会社に就職し、仕事をしながら勉強して資格を取得、通信士になる可能性を検討した。その結果、甲板部や機関部の普通船員をやりながら通信士の国家試験を突破することは不可能と知った。過去の試験問題集を購入して確かめたところ、とても工高電気科の知識では無理と打ちのめされた。そしてこの時点で、アメリカ独立二〇〇年祭は諦めた。だが、海外に行くことは諦めなかった。
やむなく進学に変更し、自分で学校を探した。東工には無線通信士あるいは船舶通信士を目指した例が無く、先生から有用な情報が得られなかったからだ。
水産高校専攻科、電波高専、専門学校、大学などいろいろあったが、最終的に決めたのは徳島県にある雇用促進事業団が運営する職業訓練校だ。決め手は国家試験合格率の高さと、卒業後の国家試験科目免除の多さ。
生徒の国家試験合格率が高いという実績があるから、卒業することで一部科目が免除されるという認定校なのだ。卒業による免除科目数は仙台、詫間、熊本電波高専以上であるが、防衛大学にだけは及ばなかった。
入学試験は数学と英語の二科目。午前中に学科試験があり、午後に面接があった。面接では、どちらかといえば数学より英語の方が解答できたと思う、と答えたら、自分が思うほど英語もできてないよ、と言われた。
それでもなんとか合格した。
工高の三年間で電気の基本は勉強したはずだが、そんなものは一学期の途中で通り過ぎて、どんどん難しくなった。学校の中間試験、期末試験の勉強もあるが、国家試験の勉強もあり、内容は必ずしも一致しない。
我ながらよく勉強した。外国航路貨物船の無線通信士になるという目標はぶれず、その為に国家試験に合格するという目的は明確であり、私を勉強させた。
一年後に第三級、その半年後に第二級無線通信士免許を取得した。三通では漁船だが、二通があれば貨物船に乗れる。将来が拓けた気がした。
二通取得と同時に一通は全九科目中三科目の科目合格をしたので、卒業直前の三月期の試験で残り何科目合格できるかが重要となった。六科目全て合格することは多分無理だろうと思っていた。三月期と、次の九月期の二回で残りの六科目を合格できれば、と考えていた。
ところが、二年生三月期の在学中最後の国家試験は運が良いことに、受けられなくなった。乗船が決まったのだ。
オイルショックによって海運市況は低迷していたが、私に求人が回ってきた。職業訓練校に晴海船舶という会社から、二月に乗船できる人がいるかとの問い合わせがあり、二月乗船では卒業できないので、いないと回答、その後、三月に乗船できる人はいるかと再び問い合わせがあったと、半年前に二級を取得して一貫して船舶通信を希望していた私に先生から説明があった。
当然、乗ります、と答えて、無線通信科のみ三学期の期末試験を一週間早く実施してもらい、三月上旬に乗船した。期末試験後の二週間は欠席、卒業式にも出られなかったが、卒業はした。
船舶通信士を希望していた二通保持者は他にも一人か二人いたが、結果的に何故か私にチャンスが与えられた。人生に運を感じた。船舶通信士になりたいという欲望が、勉強嫌いの私を勉強させたと共に、運を呼び寄せたのかもしれない。
入学試験時の面接によって、私はぎりぎりの成績でこの学校に合格できたと思っていたが、二年後には最初に無線通信士の花形である船舶通信士の職を得た。こんなことも人生にはある。
定員三〇人のところ、予備を入れて三四人入学、一八人卒業した。一人は学資を稼ぐために一年を終えて休学し、残りの一五人は二年間のどこかで退学した。理由は成績不良。その主な原因は、船舶通信士の求人が絶望的に少ないという現実にやる気を失ったことにあったと思う。
徳島にいた頃、夏休みと冬休みは高松から宇野、あるいは徳島から大阪か神戸にフェリーで渡り、そこから列車で新潟、白新線で新発田、バスで網代浜に向かうときの発電所の煙突は、やはり赤と白に塗られていて、私を迎えた。
三
デビュー船、八戸港八太郎岸壁で乗船した新陽丸はひどく錆びていた。載貨重量トン数二二,〇〇〇トン余り、全長一六〇メートル超。錆びてはいたが、大きかった。
とうとう夢を実現した。私は外国航路貨物船の二等通信士になった。この船に乗り、この船で生活をし、この船で仕事をし、この船で外地へ行くことになった。
清水通信長から、前の一航海は二等通信士欠員で航海したと聞いた。それまで乗船していた二等通信士が、一通の国家試験を受けるために下船したという。二月に求人があり、さらに三月に求人があった理由が分かった。彼の交代要員が私だったのだ。
一週間で約二〇,〇〇〇トンのニッケル鉱石を揚げて出港した。
プロの通信士として最初の無線通信は、電電公社銚子無線局JCSへのTR(動静通知)だ。『シンヨウマル、ハチノヘハツニューカレドニアユキ、二四ヒチヨ(新陽丸、八戸発、ニューカレドニア行き、二四日着予定)』
三月上旬の八戸は寒かった。一週間南下して暑くなった。船内は暖房から冷房になった。
船は海上の気象観測を行い、データを最寄りの無線局に送信する。ニューカレドニア航路で内地から遠ざかったあとは、グアム島アメリカコーストガード無線局NRVにOBS(気象電報)を送信した。これが私の最初の国際通信だった。
往航二週間は大して揺れはしなかったが、それでも船酔いでだるくて食欲がなかった。嘔吐感でタバコは吸う気にならなかった。夜が眠れないわけではないが、昼も眠い。
夜、首都ヌーメアに到着、入港手続きをして直ぐに積地クワワに向かった。初めての外地だったが、残念ながら上陸する時間は無かった。
クワワで積荷に一週間停泊したが、ここでも上陸できなかった。ニッケル鉱石が出るだけのところで、上陸しても行くところが無いのだ。
復航は往航よりいくらか揺れたが、船酔いは全く無かった。身体がすっかり揺れに慣れてしまったらしい。飯もタバコもうまかった。
八戸でニッケルを揚げ、再びニューカレドニアに向かった。
今航はヌーメア入港が朝だったため、上陸することができた。翌朝八時のクワワでの荷役開始に間に合うように夕方ヌーメアを出港すれば、船の運行効率に損失が無いからだ。
初めての外地上陸。フランスの殖民地で公用語はフランス語。
三等航海士や甲板員ら数人と一緒に上陸した。免税店でいつまでも土産物選んでいる彼らと別れて、私は街を見るために一人で歩き出した。そして、迷った。
フランス系白人に港の方向を訊いたが、英語が通じない。雑貨屋でタバコを買って、道を訊いたが、英語は分からないと英語で言われた。
焦っていたところ、先住民がひと言「Ship?」と訊いてくれて、私もひと言「Ship!」 と答えた。彼は無言である方向を指さした。自分が行こうとしていた方向の反対だ。少し迷ったが、自分より彼を信じて走った。上陸した交通艇乗り場が見えてホッとした。
私が心細そうに、あるいは途方に暮れたように見えたのだろう。分かろうとすれば、分かる、分かって貰える、わかり合える、と言ったら大げさだろうか。それにしても、フランス語に誇りを持つばかりに、知っていても英語を話さないというフランス人、いつかきっとどうにかしてやると誓った。(後に、フランス人に何か訊かれたとき言ってやろうと、ジュ・ヌ・コンプラン・パ・ル・フランセ(フランス語は分からない)を覚えたが、未だに機会がない)
新陽丸ではこの航海の揚げ荷のあと広島のドックで船体、エンジン、無線機の定期点検整備を行い、韓国のクンサン(群山)へ向かった。ところが数時間後エンジンが不調となり、ドックに戻って修理、再びクンサンに向けて出港した。
クンサン、インチョン(仁川)、プサン(釜山)で鋼材やベニヤ板を積んで、カナダ・バンクーバー、アメリカ・ワシントン州バンクーバー、カリフォルニア州ロングビーチで揚げた。
カナダ・バンクーバーには、帆船日本丸と海王丸が入港していた。見学を頼んだが、今日はやっていないとのこと。しかしデッキには、カナダ人の見学と思われる人がいた。
ロングビーチではサードオッサー、セーラー等とバスでディズニーランドに行き、帰りは広い駐車場で迷った。バス道路がどこか分からなくなったのだ。
次の航海はアラスカ・ケナイで肥料を積み、シンガポールでバンカー(燃料補給)、インド・マドラスで揚げた。
マドラスは港湾設備が貧弱なため、揚げ荷に四か月かかった。沖待ち(沖にアンカーを入れて荷役の順番待ち)が二ヶ月、荷役に二ヶ月だ。アメリカでは四日で積んだ二一,〇〇〇トンの貨物なのだが。
食糧が無くなり、インドで補給した米や副食で乗組員は全員下痢をし、体重を減少させた。
マドラスを出港し、フィリピン・リオツバに入港した。本船の姉妹船太陽丸に運んでおいて貰った内地のササニシキは、おかずが要らないほどうまかった。
実はフィリピンは米の輸入を禁止していたが、太陽丸は頻繁にニッケル積み取りに入港しており、税関やニッケル鉱山との良い関係もあり、このような事ができた。
内地の食糧で生き返り、ニッケルを積み、八戸に入港して、私の一〇ヶ月に亘るデビュー船の航海が終わった。七カ国、一二港を回った。
七年の船員生活で七隻の船に乗った。
二隻目、材木船からの改造自動車兼用船富山丸では、カナダから北海道への飼料輸送を二航海行った。この二航海は、新陽丸で乗り合わせた清水通信長に再びお世話になった。
清水通信長が陸上休暇下船して、北村通信長が乗船した。この人が、昨年三月期の第一級無線通信士国家試験を受けるために新陽丸を下船したため、一航海欠員となり、そのあとに私が乗ることになったのだ。しかも、徳島総合高等職業訓練校高等訓練課程無線通信科の先輩でもあると分かった。
北村通信長があのタイミングで一通国家試験を受験したが為に、私が船乗りになれたのかもしれない。
飼料の次は、中古車約六五〇台を内地から中南米・カリブ海七カ国・七港揚げだった。
カリブ海諸国で中古車を揚げたあと、フロリダで肥料を積み、まずは富山浜で揚げた。会社から留守宅へのハガキで本船動静を知った父母は、富山まで会いに来てくれた。大きな船だと言ってくれたが、私が乗った中では一番小さい、一番古い船だった。
次に小名浜で揚げた後、清水で浮きドック、つまり造船所の乾ドックに入らず船を海に浮かべたままの点検整備を行い、残りの肥料を田子の浦で揚げた。
次航はまた中古車約六五〇台を横浜、名古屋、神戸で積み、スリランカとアフリカ合わせて七カ国・七港揚げの航海となった。
中古車を揚げ終わった次の航海は、南アフリカ・ダーバンで砂糖を積み、清水で揚げた。
富山丸では九ヶ月で一五の国、二〇の港を回った。内地は含まない。
三隻目、当時世界最大のニッケル鉱石専用船洋光丸では、フィリピンまたはニューカレドニアから内地への一航海四〇,〇〇〇トンのニッケル輸送を一年二ヶ月で一四航海従事した。
四隻目、材木船洋山丸では、アメリカ・ワシントン州から北米材一九,〇〇〇トンを内地に輸送、八ヶ月で五航海した。
本船で清水停泊中に第三管区海上保安本部の国際VHF無線電話を傍受、羽田沖に日航機墜落、最初は付近の船に救助を要請、しばらくすると保安庁が救助に当たっているので付近の船は妨害とならないようにと注意、最後は墜落海域は水深が浅いので付近の船は近寄らないようにとの警告に変わった。旅客機は舶用レーダーで捕捉できるから墜落位置を特定できるし、水深は海図で分かるだろうに、しかも羽田沖、率直に言って保安庁に頼りなさを感じた。しかし、保安庁は当時Maritime Safety Agencyだったが、いつの間にかJapan Coast Guradと勇ましくなり、北朝鮮のスパイ船を沈めたことからも、随分頼りがいがあるようになったとは思う。
五隻目、自動車専用船晴洋丸では、広島からアメリカ西岸にマツダ車を九ヶ月で八航海運んだ。一航海あたり二,〇〇〇台、八航海で一六,〇〇〇台ほどになる。
六隻目、チップ船からの改造自動車専用船大進丸では、横浜と苅田で日産車を積み、パナマ運河を通ってガルフ(メキシコ湾岸)及びアメリカ東岸に八ヶ月で三航海運んだ。一航海三,五〇〇台、三航海で一〇,〇〇〇台強になる。車の売値が一台一〇〇万円とすれば、一航海三,五〇〇台で三五億円の貨物だ。
最後の七隻目、チップ専用船ネルソン丸では、アメリカ・オレゴン州から清水に三航海、ニュージーランド・ネルソンから清水に一航海ウッドチップ(材木を砕いたもの)を二,二〇〇〇トンずつ運んだ。五ヶ月の乗船だった。
船員人生の間、陸上休暇は実家で過ごした。内地の各港で休暇下船して家に帰るとき、新発田からタクシーで網代浜に向かうときは、蓮潟辺りから赤と白に塗られた煙突が見えた。
四
地元で仕事が見つかるなら、わざわざ外に出て行く必要はない。あるいは、世の中を知るという意味ではあえて出て行く価値はあるかもしれないが。
どこかにやりたい仕事があるなら、地元に住むことに拘るべきではない。しかし、何らかの理由で出て行く事ができない人もいるだろうが。
自身に仕事と地元のいずれが優先かと問えば、仕事だ。二十代後半では、まだ仕事を重要と考えたい。
仕事を優先するということは、聖籠町に限らず狭い世界で一生を終えることに恐れの様なものがあるのかもしれない。確かに船乗りを七年やって二十数カ国、四十いくつかの港に行ってきたが、私はまだ二七歳だ。
それに、船乗りから陸上への転職は七年の経験がリセットされるということだ。工業高校で三年電気を学び、職業訓練校で二年無線通信を学んだ。電気、電子の基礎知識はあるが、それしか売りになるものは無い。
無線通信士はエンジニアではなく、オペレータだ。即ち完全に動作する送信機と受信機が存在する前提で、それを操作するのが仕事であって受信機や送信機を設計できるわけではない。電気、電子の知識は多少あっても、設計などの実務経験は皆無なのだ。
元来求人件数の少ない県内で、いくつかの会社に応募した。保険相互会社や、知らずに貿易会社と言う名前の先物取引会社にまで面接に出かけたが、徒労だった。自分の若さに賭けて、同時に電気、電子系に絞ることが困難という現実もあり、広く職種を当たってみたからだが、それらの会社の面接まで辿り着いたことが良かったのか悪かったのか。
やはり東京にでも出るしかないかと考え始めた頃、思いがけない封書が配達された。船員生活最後の船、ネルソン丸乗船中にニュージーランド・ネルソン港から投函したエログラムに対する返信だ。
妻の願いで、ネルソン丸を最後に船を辞めることを決心していた私は、内地の船食屋が船に置いていった新聞の求人欄に興味を引く求人を見た。半導体製造装置のフィールドサービスだった。 『今すぐ応募できなくても人材登録制度がある』という一文を信じてネルソン港から、船を辞めたあと応募したい、とエログラムを出していた。
フィールドサービスという仕事の意味は辞典で調べてもわからなかったが、装置には電気の知識は必要で、英語もできた方が良いとのことだった。その返事が、忘れた頃に来た。
その会社の今回の募集は終わったが、半導体製造装置業界で良ければ紹介できるところがある、というものだ。返信をくれた柏木さんは、大手半導体製造装置輸入商社を辞めたあと人脈を活用してコンサルタントをしているという。
紹介して貰った会社の面接を受けて、二ヶ月の試用期間を経て採用された。
船食屋が置いていった新聞の求人欄を見てニュージーランドから出したエログラムに、返事をくれた柏木さん、人生に縁を感じた。
その会社は東京都狛江市のウェハー洗浄装置メーカーだ。本社はアメリカ・ミネソタ州チャスカにあるISF社。
日本の子会社ISFジャパンの規模は小さいが、本社から一部部品を輸入し国内で残り部品を製造し、洗浄装置を組み立てている。また、本社で製造した洗浄装置の国内半導体工場向けの改造を行っている。
ISFジャパンの目崎専務は、スーパーマンのように幅広い技術を持っている。電子回路に限ってもロジックもあればリニアもあり、CPUもある。CPUならソフトウェアも必要になる。更にメカの設計も行う。電子回路とソフトウェは装置の制御に必要な一部に過ぎず、それだけでは製品にならない、完成した装置が初めて製品として売れるのであって、電気や電子の技術だけでは不足だと考えている。
小企業とはいっても一人で全ては量的に無理で、メカの設計に一人、電気には三人いたが、私もその中に加えて貰う事になった。しかし最初から設計などできるわけもなく、洗浄装置の配線接続、コントローラの修理、客先工場を訪問しての装置修理(これがフィールドサービスだと知った)が主体だが、非常に勉強になる。
通信士だった頃、送信機の出力インピーダンスと空中線のインピーダンスを整合させる自動制御回路に使われていた、缶入りオペアンプがなんだかわからなかった。足が七本出ていたから、トランジスターが二個入っているのか、それでも一本余る、という今思えば笑えることを真剣に想像していた。
年俸契約で残業手当は出なかったが、毎晩遅くまで仕事、自分にとっては勉強と心から信じて、残業し土曜も時々出社して、半田コテとオシロスコープで遊んだ。今は製品を作っているのではなく、従ってこれが売れて会社に金が入るのではないので、残業にも休日出勤にも不満は無い。正直なところ、年俸を船の頃より少し多く決めて貰ったことも大きい。
片言の英語ができたので、ISF本社への出張の機会を得た。一度目は、ジャパンで開発したウェハー乾燥装置を本社で評価して貰うための装置立ち上げが目的だ。初めて飛行機で行く外地は緊張した。
二度目は、主力製品であるアシッドプロセッサーという酸性薬品を使うウェハー洗浄装置のトレーニングを受ける為だ。ISFの販売代理店からの二人が一緒にトレーニングを受けたので、二週間のチャスカ滞在は気楽だった。
三年後、ISFジャパンを辞めた。ジャパンの利益が出ないために本社がジョイントベンチャー設立を考えて、そのタイミングで目崎専務が独立したからだ。彼がいなくてはジャパンは立ち行かないし、他に私に技術を教えてくれる人はいなかった。
半導体業界に三年いれば古い方の半分になれる、と聞いた。別の言い方では、毎年二五パーセントほどの成長がある、ということ。いずれにしても半導体は産業の米といわれる活発な業界だ。転職には大して苦労もせず、ノーブルというプラズマCVD装置の会社でフィールドサービスエンジニアとなった。
半導体は電気回路であり、導体と絶縁体の二種類の材料が必要で、タングステンという導体やガラスという絶縁体をオングストロームからミクロン単位で薄膜生成する装置がCVDだ。
フィールドサービスよりは設計をやりたかったが、それは贅沢な望みだった。いずれ装置改造部門に移ることができれば、簡単な設計もできるだろうと期待は捨てなかった。
ところが、次に与えられたのはテクニカルサポート。
顧客からの問合せを受けて、顧客自身で修理して貰う場合はその手順を教える、あるいはどの部品を供給するか、それとも当社のフィールドサービスエンジニアを派遣するかなどを決定する仕事だ。フィールドサービスエンジニアのスーパーバイザーでもある。アメリカ本社からの技術情報入手と、フィールドサービスエンジニアへの周知も重要だ。
テクニカルサポートは忙しくもあり、やり甲斐もあったが、ISFで経験した試作の電子回路が意図したとおり動作した時の喜びは忘れられなかった。
ノーブルもISFと同じくアメリカ本社は良い会社だったが、日本の子会社のマネジメントまずかった。特にコントローラの木本という男が、フィールドサービス用の社有車を自分の通勤に使ったり、フィールドサービスエンジニアにわずか三万円の手当支給と引き替えに残業手当を廃止したりして、サービスの不満が爆発した。
私は会社の雰囲気にうんざりして、そして今度こそ設計の仕事をしたいと望んでまた転職した。
後に木本は何かの不正の証拠を本社に掴まれ、今すぐ首だ、会社から出て行け、という結末を迎えたと聞いた。
船乗りより半導体製造装置の経験が長くなってからは、半導体製造装置以外は考えにくい。今度の会社は、ブーリアンというイオン注入装置とスパッター装置のメーカーだ。
半導体製造には、極限まで不純物を取り除いた半導体材料シリコンに、特定の不純物をコントロールして注入することで電気伝導度を上げる工程がある。この工程で使われるのがイオン注入装置だ。
また、配線としてアルミの薄膜をスパッタリングという技術で生成する工程がある。この工程で使われるのがスパッターまたはPVDと呼ばれる装置だ。
ブーリアンでは最初スパッターを担当し、業界の最新プロセスを本社からのエンジニアと一緒にNEC相模原工場にデモンストレーションした。
三ヶ月後、そろそろデモも終盤というタイミングでサービス部長がNECを訪問し、装置を購入した場合にはこの様なサポート体制がある、などとプレゼンテーションをしたその翌日、スパッター部門をノーブルに売却するとアメリカ本社が発表した。
私は自動的にスパッター部門と一緒にノーブルに移籍するところだったが、断ってイオン注入装置部門に移った。不満があって辞めた会社に戻りたくはなかった。
二年後、稲川という男がイオン注入装置のサービス課長として前の会社の手下を二人引き連れて入社した。しばらくして、三人で独善的にやり始めた。
またもや日本子会社のマネジメントに失望して、四年で退職した。
次の会社は装置ではなく、部品の会社だった。クライオテクノロジーという真空ポンプメーカーだ。
真空ポンプは、それを動かすコンプレッサーも含めればひとつの装置のようにも考える事はできるが、半導体製造装置という数億円の装置からみれば数百万円の構成部品のひとつだ。
真空の定義は『大気圧よりも圧力が低い状態』である。人類は、真空という文字でイメージされる気体分子がひとつも無い状態を実現できていない。どんな小さい容器でも真の空、絶対真空にすることはできない。だが、真空は実用されている。
クライオテクノロジーの真空ポンプは、真空度マイナス九乗パスカルに到達する。構造原理は冷凍機そのもの。つまり気体分子を冷却して液体や固体にして捕まえるのだ。すると容器内の気体分子が減少するので、結果的に真空度が上がる。
面白いことに、ブーリアンのイオン注入装置が油拡散ポンプを使っていた時代、半導体の集積度が上がってきて油が半導体を汚染することが問題になり、きれいな真空を探して、同じマサチューセッツ州にあるクライオテクノロジーと共同開発したのがこの真空ポンプだ。それまでクライオテクノロジーは冷凍機メーカーで、人工衛星に搭載する無線送信機の冷却器や電波望遠鏡の冷却器などをやっていた。
残念ながら、クライオテクノロジーは一年余りで辞めることになった。リストラの嵐が吹き、一度目、二度目は指名解雇だったが、三度目は誰でも良いから七人辞めてくれと募集があった。残っても四度目、あるいは日本子会社の閉鎖があるかもしれない、今なら多少の手当も出る、会社都合の退職で失業保険の待機期間も短い、などを勘案して辞めることを決めた。
未曾有の不況で再就職に七ヶ月かかった。なんとかもぐり込んだ先はモーション&(アンド)コントロールアクセサリーズという油圧機器、空圧機器、配管部品、フィルター、ガス発生装置、エンジニアリング・マテリアルなどを幅広くやっている会社だ。
計装機器事業部で半導体製造装置用のガス圧力調整器と、同じく半導体製造装置用の薬液用バルブ、継手などの販売を技術面からサポートした。
九年後、計装機器事業部の枠を超えて太陽光発電システムの開発に携わることになった。私の技術力で開発もないのだが、電気を知っている人間が他に一人居るだけなので、私もこの会社では有用な電気エンジニアだった。
大した設計もできなかったが、この二年ほどは会社のためというより自分が楽しんだ仕事だった。数十年前にISFジャパンで学んだ技術が、モーション&コントロールアクセサリーズでは未だに使えるのだ。
五
いつだったかは思い出せないが、東港火力発電所の煙突は水色に変わり、それから今のグレーになった。その他の色もあったのかもしれないが、私が知る限りはその三種類だ。
煙突の先端では、航空機の衝突予防目的と思われるライトが点滅している。塗装色も目立つように赤・白なのかと思ったこともあったが、水色やグレーでは空や雲に紛れて見づらい日があるだろうから、色には規定がないのだろう。
帰郷するときはいつも東港の煙突が、家で言うなら玄関のように思えた。玄関を開ければ両親がいるのと同じように、煙突が見えるともうすぐそこが網代浜だ。下宿していた高校生の頃から現在に至るまで、帰郷時のこの感覚は一貫している。
網代浜の老親を見舞うべく今年二度目の帰郷だ。玄関を開けると父が喜んで、早く上がれ、早く上がれ、と言う。二泊分の荷物と、途中のスーパーで買ってきた今晩の食材と、東京の土産をレンタカーから運んで家に上がる。
父は九一歳、母は八一歳。二人の年齢だけでも、息子夫婦ができるだけ頻繁に帰郷する充分な理由にはなる。
加えて母は病を抱えている。去年の夏の帰郷時は、痛くも痒くもなかったから、場所が場所というのもあって、股にできたできものを一年も放置していた、と言っていた。もう歳だから身体にいろいろ故障も出るし、今更治療してもどうなるものでも無い、と達観したようなことも言っていた。
しかし病気はいつまでもおとなしくしておらず、老いた母に襲いかかった。相当な苦痛を感じるに至って、やっと母も治療を受ける気になったのが四ヶ月前だ。
悪性の腫瘍に対処する為に点滴投薬する候補は複数あって、どれが最も効果的であるか入院してトライアル・アンド・エラーで探すという治療方針だと聞いた。方針と言うより、そのような手法しか無いのだろう。
退院した今も薬の副作用で食欲がほとんど無く、疲労倦怠感が強く、治療前より辛い状態になったと母は言う。
苦しい思いをするがそれに見合う治癒の可能性が無いならともかく、治癒が望めるらしいので母には乗り越えて欲しいと思う。
私は一八歳で家を出て、徳島県の職業訓練校で二年間無線通信を勉強した。船舶通信士をやっていた七年間は、平均すると年に三か月の陸上休暇期間だけ聖籠村で両親と暮らしていた。
結婚して船を辞めた。つぶしがきくかと第九管区海上保安本部に中途採用の願書を貰いに行ったが、受験しなかった。その理由は、民間商船より給料がかなり安かったからと記憶している。
保安庁を諦めて県内で仕事を探したが見つからず、やむなく新潟を出て東京に仕事を得た。以来三〇年、帰郷するのは精々盆と正月の二回、年によっては一回ということもあった。
煙突の色と人の年齢を重ねると、赤と白は少年、水色は青年、今の灰色は壮年にあたるだろうか。
赤と白のストライプが水色一色になったのは、ドラスティックな変化だった。これは少年が大人になるときの、著しい成長と言えるのではないか。
ところで、私はどれほど成長しただろうか。学生から社会人という意味では、人並みの成長だけはした。では、進歩はどうか。あえて言えば、自分で職業を決め、そのための学校を決め、資格を取得し、職を得、一人で外地を歩いたというのは、何事にも弱気で消極的な自分にとってはいくらかの進歩としておこう。
船を辞めたあとの最初の会社であるISFでは、会社でも家でも懸命に技術を勉強した。それ以降の会社では、それを遺産として今でも食い潰していないほどだ。尤もそれは、それ以降の会社の技術レベルにかなり依存しているのだが。私の水色の時代だ。
その後は転職する毎に、必要に応じて担当した装置の勉強くらいしかしてこなかった。管理職として役職を上げることはできず、現場の技術者として数年後の定年を迎えそうだが、これは退化だろうか。しかし、まだ最後ではない。残り数年に、いくらかでも自分を進化させることができるかもしれない。できるかできないか、ではなく、やるかやらないか、だ。やる勇気を持って、それを継続できるか、だ。私の灰色の時代だ。
煙突のペイントは塗り替えできるが、煙突自体は進化しない。人の見てくれは老いていく一方だが、人の生は何歳になってもその気になれば進化させられる。進化しようという意志が重要だ。進化しようという気概が進化の始まり、進化するための努力が既に進化の証しだ。
煙突の色の変化に伴って、聖籠村・町は進化してきたのだろうか。東港、発電所、企業誘致用地として、亀塚浜の全てと網代浜の一部が新潟県に買い上げられ、村民に金が入った。亀塚浜は無くなり、網代浜と次第浜の中間地点に亀塚として移転した。これはあの時代、あの地域では間違いなく、進化ではないが大きな変化だった。
聖籠村公害阻止連絡会議という組織があった。開発そのものに反対したのか、純粋に公害だけを阻止しようとしたのかは知らない。県から村民への説明会で、企業が使用後に浄化した水は子供が遊ぶプールに使っても問題無いという説明があり、連絡会議のメンバーが、それではあなたの子供を連れてきて遊ばせてください、と言ったら相手は沈黙したという話を、父に聞いたことがある。
早く土地を売りたかった、あるいは利権につながった人達には連絡会議の存在は目障りだったかも知れないが、連絡会議ができたこと自体は間違いなく大きな進化で、聖籠村にとっては人類が月に行ったことに匹敵する偉業と言える。あの時代、この村で、極めて一部の人ではあるが事大主義から脱却したのだから。
煙突が水色に変わった頃か、開発は落ち着き、当初見込んだ企業誘致件数は達成できないとあきらめもついただろう。
煙突が灰色になった頃からだろうか、聖籠町に限らずこの国全体が停滞している。経済の停滞、非婚、少子化、内需の減少、国が負のスパイラルダイブに陥っている。それでも聖籠町は税収によって、この国で有数の豊かな町だ。新潟にも新発田にも頼んでも合併して貰えなかった村が、今度は向こうから頭を下げて合併を頼まれたが、袖にした。
聖籠町の変遷を煙突の色で表すなら、赤と白は東港の開発によって得た欲望の色、水色はさらなる発展を期待する欲望の色、灰色は聖籠町の持つ豊かさを新潟にも新発田にも分けない独り占めの欲望の色と言えるかも知れない。
(終わり)
テーマ 音
タイトル スイカのよんでいる音で
盆の帰省。いつもは帰省ラッシュを避けるが、今年は同期会に合わせた。
同期会の案内ハガキで、会場は実家から歩いて行ける距離だと分かっていたが、両親と同居している末弟が車で送ってくれるというので甘えた。
「帰りの時間には飲んでいるから、何とかして自分で帰ってきて」
「大丈夫だ。誰かが乗せてくれるかもしれないし。ありがとう」そう言って、弟の車を降りた。
六時五分前に会場、亀塚のはまなすという居酒屋に入った。私が何も言う前から、店員がこちらですと方向を示してくれる。
店内を仕切っているドアを開け奥に進み、更に案内に従って障子を開けると、座敷には既に大勢が集まっている。席に着いている人もいるし、入口付近にかたまって喋っているのは女性達。
「秀和さん、会費お願いします」
会計を担当しているのは登志子。随分とおばさんになった、と思ったのは数十年ぶりだった前回。それからは、さすがにそう変わっていない。
会費を払って、どこに座ろうかと見渡す。席には名札がないから、どこでも良いらしい。トイレに便利な通路側、壁際の空いている席に座った。
八月一五日、四年に一度、夏季オリンピック開催の年に持たれる同期会。今回はリオデジャネイロ。
同期は三クラスで、各クラス三六人、合計一〇八人と記憶している。小学校一年生からの同期が三分の一。小学校四年生まで亀塚浜と次第浜のふたつの分校にいて、五年生から網代浜本校で同期になった人たちがそれぞれ三分の一。そしてそのまま亀代中学校の同期となった。
幹事に今回の参加者は三一人だと聞いた。残念ながら三分の一に届かない。
小学生、中学生までは保護者の庇護の元に同じ学校に通う同期生であったものが、四四年も経って初老とも呼べる五八から五九にもなれば、これまでの人生の経験においても現状おいても大きな差異が生じているだろう。三分の一でも会えるのはうれしい。
私は一八で聖籠村から離れ、二〇まで徳島の学校に行った。その間に村は町になり、聖籠町に戻って二七まで貨物船に乗っていた。陸上休暇が年間平均三ヶ月、残りの九ヶ月は乗船勤務。住んでいるとはいっても、いない時間の方が三倍となる。
二七で船を辞めたが、新潟、新発田近辺で仕事を見つけることができなかった。やむなく東京に職を得て、神奈川に移り住んだ。いくつか会社と居住地を変えながら、現在は横浜に住んでいる。
同期会幹事、誠吾の開会挨拶と当時生徒会長、洋典の乾杯音頭で宴が始まった。
出席者は女性が幾分少ない。幹事の配慮で、同性がかたまらないよう男性と女性が向かい合った席となっている。
私の対面には、次第浜の友子。頭が良くて、かわいかった。もちろん、今もかわいい。
「相変わらずきれいですね」子供の頃は絶対に言えなかったことを素直に伝える。
「ちょっと痩せた?」と返された。
はぐらかされたのか、照れたのか、あるいは四年前の印象と比較してもらえただけ喜ぶべきなのか。
十数年前私が最初に参加した同級会で彼女に会ったとき、メガネを掛けるようになっていたが、直ぐに分かった。
その時、私は離婚して間が無かった。私から訊いたわけでは無いが、彼女も離婚を経験し、再婚して今は幸せだと言っていた。そして、だから秀和さんもきっと再婚して幸せになれるよ、と慰めてくれた。
その後、同期会に参加できない年もあったが、次に会ったとき私も再婚していて、前回は慰めて貰ったね、と言ったら、彼女はそのことを覚えていた。
いまどき離婚、再婚などしても、男になら「なかなかやるね」と言われるくらい、女になら「今度はうまく行っているの?」と訊かれるくらいで、人生の一大事ではない。
私の場合、結婚したのも離婚したのも互いに他に身の振り方が無かった、程度のことかもしれない。喜ぶべきは、娘が一人誕生したこと。これは間違いなく人生の一大幸福。自らの遺伝子を残すことができたという、生物としての義務を遂行した達成感の味わい。あるいは、安心感か。
飲食よりも、席を移動しながらの歓談で会が盛り上がる。
話してみて、数年地元を離れてまた戻ってきている人が何人かいることを知った。私と同じように、現在も県外に在住している人もいる。もしかすると、海外に住む人もいるかもしれない。
遠隔地に居住、仕事の都合、健康上の問題、家族の事情、亡くなった、興味がない、あるいは積極的に郷里を捨てたいなど、それぞれの理由でこの同期会に参加できなかった、またはしなかった人が三分の二いる。
誰にとっても郷里は懐かしい、たまには帰省したいと希望している、と断じることは不遜だろう。子供の頃いじめに遭ったかもしれない、青年時代失恋したかもしれない、就職した会社がいわゆるブラックであったかもしれない、郷里の外で素敵なパートナーと出逢って郷里を忘れ去っているかもしれない。
だから、会いたかった人はまだまだいるが、あいつはなぜ来ないのか、とは誰にも訊かない。元気にしているのだろうか、とは訊いてみる。
あの人は誰だろう、と尋ねなければ分からない人も何人かいる。いくら顔を見ても、どうしても思い出せない。名前を思い出せないのではなく、顔に見覚えさえ無い。名前を聞いてさえも、確かに名前は覚えているが、子供の頃の顔と結びつかない。向こうは私を識別できているのだろうか。
単純に、老けた、禿げた、ということではけっして無い。これまでの時間の何が、彼や彼女の顔をそれほどに変えたのか。
逆に、中学卒業以来四四年ぶりでも、顔も名前も瞬時に飛び出してくる人もいる。
見覚えのある顔と目が合って、黙礼を交わす。
私の隣の席が空くと、黙礼を交わした清義がやって来た。
「覚えている?」と自分を指さして彼が言う。
「清義さん、顔を見て直ぐ分かった。よく遊んだよね」わざわざそばに来てくれた彼に、私は嬉しく答える。
「俺も直ぐ分かった。中学卒業以来か?」
「四四年ぶり。一五の時から四四年経って会えるというのは、すごいことだ」
「お互い、信じられないくらい歳を取ったね」
亀塚浜の清義とは五年生からの同期生だ。
もしラインをやっているなら電話番号教えてくれるかと言うので、私が彼の番号を聞いて呼び出した。携帯に連絡先として登録するのはあとで良い。
乾杯のビールを一杯飲んで、ビールはそれで限界の私はウィスキーの水割りに代えている。四年前は一部記憶を無くすほど飲んだので、今回は注意しようと思ってはいる。これが二杯目、これが三杯目と数えながら飲み、四杯目からソーダ割りにした。懐かしさ故に、話も弾むしグラスも空く。
私が酒を飲み始めた頃は、水割りといえばウィスキーを指した。その後、水割りを頼むと、焼酎ですか、と訊かれるようになって、ウィスキーが飲めないこともあった。店に置いていないのだ。この頃はハイボールが流行って、ウィスキーを頼みやすくなったのは歓迎するところだ。四〇年近く酒を飲んでいると、こんなことにも時代の移り変わりを感じる。
巌が来た。彼とも中学卒業以来だ。知っている顔だとは思っていた。彼が名乗ったので、直ぐに子供頃の顔と重なった。彼にも電話番号を訊かれて、私から掛けた。まだ二件、名前の登録はあとで良い。
店は三時間押さえてあるとのことだが、気が付くともう二時間経っている。会社の飲み会なら飽きてしまって二時間が限度だが、今日は時間の経つのが早い。
久しぶりでみんなと会えた楽しさ、あるいは懐かしい思い出がよみがえるばかりではなく、今日まで全く知らなかった残念な話も聞こえてくる。
病気や事故で早世した者が何人かいる。明子。秀夫。名前を聞くと、子供の頃の顔が思い浮かぶ。彼らはそのとき三〇代だったのか、四〇だったのか、いずれにしても若すぎる。惜しい。もっともっと生きて、好きなように人生を楽しんで貰いたかった。
行方不明の者もいる。俊介。彼の親が同期生に、息子を見かけたら知らせてくれと頼みに来たことがあったという。できることなら、元気でいて欲しい。さらには、いつか会えるものなら会いたい。
仕事の責任に思いを詰め過ぎて、自ら人生を閉じた者も。武。仕事に死ぬほどのことは無い、と批判するのはたやすいが、誰も彼の心を真には理解できない。彼の人生は彼自身のものだ。他人が利いた風なことを言うと、反吐が出る。
仕事だの人間関係だの、そんな単純なものでは無かったとも考えられる。もっと何か死ぬほどのことが絶対にあって、他人には些末でも本人にとっては巨大な人生の障害で、あるいは最初は本人にとっても些細なことであっても、それが種となって芽が出て最悪の果実が熟したのかもしれない。
聞いたとおりなら、彼は、仕事に命を懸けられるほどの男だったということだ。私は、彼と気が合う方だったと思っている。会いたかった。
人間は生きることが全て、生きている間が全て、死んだら何もかもが終わりで、一切残らない。名を残す、子孫に財産を残す、科学の業績や芸術の作品を残す、家族に愛の記憶を残すのは結構だが、本人にとって死は死だ。
科学では、天国が無いとか地獄が無いとか生まれ変わりは無いと証明できないが、それらが有るとはとうてい信じられない。生前に天国へ行くために悪いことをしないとして、死後に天国が無かったら取り返しが付かない。逆に、悪いことをして地獄に行く羽目になっても、あきらめが付くというものだ。ともかく、そんなものはあるはずが無い。
人体の六〇―七〇パーセントは水分だという。死後の水分は、水のままにまた別の人体に取り込まれるかもしれない。水の分子H2Oを分解したら、水素原子H二個と酸素原子O一個。人間の胃酸は塩酸だというから、水素は、塩酸HCLのHとして別の人体の胃酸の原料となるかもしれない。酸素は呼吸で別の人体に取り込まれるかもしれない。再び水素と化合して水となり、ビールとなって別の人体に取り込まれるかもしれない。科学的に生まれ変わるとしたら、この程度の可能性はある。
それ以外の、宗教で言うところの生まれ変わりだの、魂だの、霊だの、そんなものはどうにも信じられない。
彼を決して侮辱するわけではなく、その行為を冒涜するわけでもなく、私はただ、人はまずは生きるべきだと信じる。生きて人生を利用するべきだ。
死ぬなどという贅沢をする前にまず生きろ、という言葉もある。
しかし、本当にどうにもならなくなったら、最後のオプションとして残りの生を拒絶するのも、それも彼の人生の正当な用途だろう。生きるより価値があると判断したなら。そして、そうだったのだと信じる。それ以上忖度したり追究することは、他人の唾棄すべき愚劣な好奇心というものだ。
「綾は元気にしているのだろうか?」友子に訊いてみた。彼女は、目がくりっとかわいかった。
「綾はね、ちょっと結婚が幸せじゃないみたいだよ」残念な答え。
それで、前回も今回も参加していないのだろうか。会いたかった。どうしてもだめなら、友子や私のように離婚すれば良いとは思うが、これも他人が安易に口にしてよい意見ではない。
綾の代わりということではないが、博恵を見つけた。彼女も変わっていない。おしゃれなネックレスをつけていて、それがととてもよく似合っている。幸せそうで、元気そうで、何よりだ。
一〇八人いれば、一〇八の人生がある。
「あの隅にいる青いシャツを着た人は?」
「正一だよ」友子が答えた。
正一、五年生か六年生で転校してきた、結構一緒に遊んだやつだが、顔を見ただけでは思い出せなかった。もう少し線が細かったように覚えているが、さすがに六〇歳目前になるとかなりの親父顔だ。
逆に子供の頃は背が高くて気が荒い印象だったやつが、今は私と大して身長差は無く、話し方も穏やかになっていたりする。
どちらも、当然と言えば当然の変化に過ぎない。逆に私は皆にどう思われていて、今はどう変わったと感じられているのだろうか。
今、このハイボールは何杯目だろう。まだ、そう考える余裕があるから大丈夫か。ところが、そんなことをいつか忘れてしまうのが酒飲みの意地汚いところ。
この車に乗って、と言われて、連れて行かれたのが二次会会場。
隣に座ったのは康子。四年前の同期会では、新発田の会場まで彼女の車に便乗させて貰った。その時が卒業以来だったかもしれないが、それでもひと目で分かった。今回の参加女子の中では比較的若い印象だ。
「康子さん、四年ぶりだね。元気だった?」
「うん、元気よ。秀和君は?」
「順調に歳を取った。最近、初めて肩こりを実感した。こりというよりちょっと痛くて、五〇肩ってやつかもしれない」
「もう治ったの?」
「ピップエレキバンとかアンメルツとか嬶のやつを分けて貰って、二週間くらいで治った」
「嬶って奥さん?」
「うん。この呼び方が渋くて気に入っている」
「私だったら嫌だな。あいつは私のことを何と言っているんだろう?」
「あいつ、はご主人だよね?その呼び方はオーケー?」
「あいつは、もう、あいつなの。私も、私だから」
尋ねたわけではないが彼女が語るには、いわゆる仮面夫婦ということだ。互いに非公式のパートナーがいるという。
それも彼女が選択した人生で、他人が一般論や道徳論、自分の信じるところ、あるいは自分は信じてもいないが彼女のためを思って、という意味の無い言葉をあえて披露する気にはなれない。離婚した私が何を言えるものでもないし、私には彼女の人生に介入する資格は少しも無い。
あるいはむしろ、彼女は現状を楽しんでさえいるのかもしれないし、それほど悩んでいない様に見える。
彼女を少しも否定したり非難したりする言葉を吐かない私に、彼女は言った。
「何人かの友達はこのことを知っているけど、秀和君みたいに言う人は一人もいなかった」
「この歳になったからといって、人に意見する権利があるわけではないし、この歳になった康子さんも人の忠告を聞く義務はない。充分に大人だし、分別もあり過ぎるくらいだし、その上での判断だし、もう人生は残り少ないし、好きなように生きるべきだ。聞いたことがあるかもしれないけど、やってしまったことを後悔するより、まだやっていないことがあるならそれを後悔するべき、という言葉もある」
「秀和君も彼女いるの?」
「今までいたことはないけど、もしチャンスがあれば逃がさない。レストランに誘われて、弁当を持って来ていますから、と断るバカはしない」
「じゃ、人生の楽しみは何?」
「趣味だね。四〇になったとき何か趣味を持とうと探して、それからずっとパラグライダーを続けている。夏の胎内スキー場でも一回飛んだことがある。三、四年前から狩猟も始めた。最初は、天気が悪い日は飛びに行けないから、その代わりを探してエアライフルの射撃を始めた。せっかくだからと、狩猟も始めた。どっちも楽しいよ」
「ふーん。考え方も変わっているけど、やる事も変わっているよね」
変わっている、をどう受け取るかだが、ユニークという意味なら肯定して歓迎する。
康子にカラオケのマイクが回ってきて、私のリクエストで中森明菜を歌いにステージへ行った。
代わりにステージから戻ってきたのが友子。
彼女も二次会に来ていたのか。どうも視界が狭くなっているようで、さっきまでは康子しか見えていなかった。随分酔ったようだ。
「秀和ちゃんはカラオケ歌わないの?」
「父親から、男はそう簡単に人前で歌ったり踊ったりするものではない、と躾けられてきた」と気取ってみたが、歌は子供の頃から下手だった、というのが本当の理由だ。
「かっこ付けちゃって。酔ったでしょう?」
「酔ったとすれば、友子さんに、だよ」
「酔うとキザになるわけ?」
「いや、スケベになる」
「ははは、、、危ない。子供の頃はそんなこと言う人じゃなくて、気が弱い感じだったけど」
「子供の頃は、酒は飲まなかったけど、友子さんにはあの頃から酔っていた。それからずっと酔い続けている。二日酔いかもしれない」
「なんだかそれって、失礼じゃない?」
「確かに、言葉を間違えた。二日酔いは取り消して、陶酔でどうかな?」
「もういいわよ。それより秀和ちゃんの歌を聞きたい」
「本当は、歌えない。音楽も図工も体育も苦手だった。友子さんは全体的に成績良かったよね」
「そんなことないよ。秀和ちゃんは何が得意だった?」
友子のひと言で、ふと、結びついた。
「話はちょっとずれるけど、今日同期会に来るときスイカ畑を見て、それと今の、何が得意だった、で思い出したけど、スイカがよんでいるかどうかを指で弾いてその音で見分けることが、子供の頃はできたんだよ。スイカ畑の手伝いをした男だったらみんなできたかもしれないけど、女の子は知らないだろう?今なら特技といえるかも。今でも分かる気がする。どんな音かは口じゃ言えないけど、よんでいるスイカとよんでいないスイカを混ぜておいても区別できると思う。よんでいるのは良い音がする。良い音というのは、結果的によんでいるからそういうイメージができたって事だろうけど、澄んでいる感じ。よんでいないのは、くぐもっている感じ」
「家の手伝いをしていたんだね」
「五〇年も前の時代だからね。みんな結構やらされていただろう。音が今でも分かるかどうか、確かめてみたいな」
「スーパーでやってみれば」
「スーパーで売っているスイカは、全部よんでいるよ。メロンだったら、何日か経ってから食べ頃、というのはあるだろうけど」
「あ、そうか。じゃ、明日スイカ畑に行ってみる?」
レストランのテーブルにはほど遠いが、高級レストランに向かう第一歩にはなりそうだ。
念のために、と電話番号を訊いた。早速登録したら、幸いにもラインも繋がった。
太平洋にある台風の影響が日本海側にもあるのか、今日は曇りで照りつける暑さは避けられそうだ。
実家で飼っている犬の散歩を口実に、出てきた。
約束した午前一〇時までにはまだ一〇分近くある。康子は本当に来るだろうか。
盆休みで、幸い畑に出ている人はいない。
子供の頃、夏はスイカが甘くてうまかった。その年最初のスイカは格別だった。
スイカがよみ始める時期は、玉が同じ程度の大きさでも、よんでいるものとよんでいないものがあって、最初に真っ赤によんだスイカを食うのが楽しみだった。父親が指で弾いて、これは未だだとか、これが良いと選別していた。
どうして分かるのか、と訊いて、音を比較、説明して貰って、確かに違いが分かった。それから自分でも判定できるようなった。
もう五〇年近くも前になるのか。その音の記憶がよみがえるだろうか。
畑のスイカを手近なものから、親指と中指を使って弾いてみる。デコピンだ。
玉が小さくて、明らかによんでいないものは除外。大きめのものをいくつか弾いてみる。こんな音だったか。良く分からない。
別の、少し小さい玉を弾いてみる。さっきの玉との違いがはっきりしない。
それならと、あえてずっと小さい玉を弾いてみる。前のふたつとは違う、そんな気もするが、忘れてしまったのだろうか。
車の音が聞こえて顔を上げると、赤い軽自動車が近づいてくる。あの車かもしれない。
車が停まって、友子が降りてきた。来てくれた。
「友子さん、おはよう。本当に来てくれたんだ」
「おはよう、秀和ちゃん。私が来るかどうか心配だった?」
「昨夜はかなり酔っていて、今朝になって約束が現実か思い込みかはっきりしなくて、不安だった。それより、日の光で見る友子さんはまた一段ときれいだね」
「まだ酔っている?五九歳同士が何言っているの!」
「子供の頃にかわいかった人は、やっぱりいくつになってもかわいいよ」
「それより、スイカがよんでいるかどうか本当に分かるの?」
「友子さんが来るまでにいくつか試していたけど、よく分からない。まだ覚えている、という自信はただの期待だったのか、それとも八月中旬になるとある程度の大きさ以上は全部よんでいるから区別できないのか、焦っている」
「そんなことで焦らなくてもいいよ」
「ところで、よんでいる、というのは方言だって知っていた?新潟県全般で言われているのか、聖籠町辺りだけなのかは知らないけど。船に乗っていた頃は全国の人と乗り合わせたけど、よんでいるなんて聞いたことがなかったし、そのあと陸の会社に入ってからも社内で誰も言わないし、あちこち出張に行っても一度も聞いたことがなかった。標準語では、熟れているとか熟していると言うけど、よんでいるというのはどこから来たのかな?」
「私は高校出てから新発田に就職して、新潟の人たちとも働いたけど、みんなよんだとか言っていたよ。でもテレビとかじゃ聞かないね」
「友子さんもよんでるね。ちょっとよみ過ぎ?」
「失礼ね。帰ろうかな」
「冗談。よむ前からかわいかった」
「もう良いってば。それより、よんでいる音はどうしたの?」
友子に待ってくれるように言って、私はどこの家のか知らないスイカ畑に侵入し、何とか音の違うふたつを見つけて、もいだ。
「ふたつ、がめてきた。ちょっとどこかに持って行って、割ってみよう」
「悪いことして」
犬はここにおいていくしかない。直ぐに帰ってくるからなと頭をなでて、リードを歩道から畑に少し入り込んだところに立っている電柱に繋いだ。
スイカをふたつ持って、友子の車の助手席に乗り込んだ。足下にスイカを置いて、シートベルトを締めながら言った。
「あっちの田んぼの方に行こう」
国道一一三号線の向かい側はほとんど田んぼで、人通りも車の通りも少ない。田んぼの合間に散在する松林の近くに車を停めて貰った。
「これがよんでいる方」そう言いながら、ひとつのスイカをポンポンと中指で弾いた。
「これが未だよんでいない方」もうひとつのスイカを同じように弾いた。
「違うと言えば違うかな?」と友子が言った。
「ほんのちょっとした違いとも言えるけど、よんでいないスイカは出荷できないから、農家にとっては収入がかかっている。子供はそこまで考えないけど、それでもあの頃は明確に判別できたと思うな」
「割ってみる?」
「友子さん、当たったらキスしよう」
「何言っているの。じゃあ、外れたら?」
「諦める」
「それって狡くない?」
「いや、諦めるというのは俺にはとても辛いことだよ。四四年の想いが砕けることになる」
同期の一〇八人が一五歳でそれぞれの方向にスタートし、どれほどかは五九歳の今まで元気でいて、また会えているとはすごいことだ。日本人の平均的生存期間を基準にしたら、四四年はほぼ半分にあたる。
生まれてからの数年は赤ん坊で、次の数年はほんの子供で、子供の終わりかけに同期生として出会って、数年間を同じ学校で過ごして、青年のなりかけに卒業して、それからの四四年だから、今までの人生の四分の三にもあたる。
四年後には会えるかどうか分からない。
卒業してから一度も会えていない人も大勢いる。会えないだけなら、会いたいな、で済むし、いつか会えるかもしれないが、病気や事故やあるいは自分の意志で人生をもう終えた人もいる。
寿命なんて言葉は年寄り臭くて嫌いだし、運命なんて言葉は気取っているだけで空疎だ。そんな単語で人の生は片付けられない。
五〇代の終わりになって、死に対する覚悟を持とう、という思いがたまに浮かぶことはあるが、病気や死を受け容れる勇気はまだ持てない。
時間的猶予の無い突然の事故死は、結果において同じでも病死より残酷だろう。
自分の意志で自分の人生を強制的に終わらせるというのは、家族には耐えがたい悲しみであり苦しみだろうが、無関係の第三者には愚かと映るかもしれない。しかし、愚か、とは傲慢だ。本人にとっては、正に死ぬほどの苦痛があったことはその結果から間違い無いのだから。
死ぬより他に無かったのかとか、家族を考えたのか、と言うのは余りに安易だ。
彼をそれ以上苦しめる権利が誰にあるのか。誰にも無い。彼は自分を、それ以上の苦痛から救った。それは彼自身の権利だ。宗教の教義やありきたりの常識や手垢にまみれた道徳で、その権利を制限してはならない。
決して自殺を積極的に肯定したり、もちろん奨励するものではない。
家族、近親者、友人、同僚などの影響によってそれを避けられる場合もあるだろうし、それなら何よりだが、もう過ぎてしまったこと、もういない人を否定してはいけない。彼には抗議も反駁もできない。
同期生は、男でも二〇代前半で結婚した人が珍しくなかった。半ばでは、半分程が結婚していたのかもしれない。私は二七だった。早い遅いはともかく、結婚は当然だった。
この頃、結婚は選択になった。田舎ではどうか知らないが、私の会社では生涯結婚しないだろうと思われる男がごろごろいる。女の場合は、離婚している人が多く、未婚で中年にさしかかっている人も珍しくない。最高の条件が揃わなければ結婚しない、あるいは一度離婚したら二度と結婚しない、と選択している節がある。
少子化は国家レベルの問題で、出生率の増加は社会的には望まれるところだが、個人レベルではこれも選択だ。但し、非正規雇用の合法化、むしろ政府による奨励や正規雇用でも収入が増えない、逆に減る傾向にあることが、結婚を妨げている事実もある。社会の責任は相当あるとは思う。同時に、そのような政策、政党を選択したのも一般市民、自分達であることは否定できない。
要するに結婚できる状態で、それでもしないことは個人の自由として良いと思う。結婚しないことで維持される幸福、結婚によって得た幸福、離婚して回復した幸福、再婚して今度こそ得た幸福、もちろん得るだけではなくパートナーに与えた幸福も含めて、様々な形態がある。勧めることはあっても、強制することはいけない。
結婚生活の継続に関しても、どうしても破綻する人もいるし、仮面を被ってでも持続させる人もいる。子供が成長するまでとか、世間体とか、生活のためとか、惰性とか、復讐とか、意地とか、それぞれの事情があって、他人は干渉できない。何らの利害も責任も持たない者は、介入してはならない。彼らにとっては、ぎりぎり破綻を踏み止まって継続している今の状態が幸福なのだ。
自身を振り返ると、離婚したことで娘から未だに嫌われている。再婚したことで、最初の結婚では実現できなかった、仲の良い夫婦となり得た。離婚した経験が、今の結婚を大切にしていると思う。同じ経験をした嬶も時々そう言う。
かといって、私には悩みがない、ということではない。例えば網代浜に住む老親。八〇過ぎの母と九〇を過ぎた父が、離婚して戻った末弟と一緒に暮らしている。それぞれ持病を抱えて、健在とは言えない状態。
父は、昔は農家をなど継がずに好きなように生きて行け、と言っていたが、この頃は定年になったら帰って来い、と言うようになった。長弟も網代浜に住んでいるが、何故か長男の私に頼りたい気持ちがあるようだ。
しかし今帰郷しては、私の生活が破綻する。六五までは今の会社で働くしかない。
それよりも、横浜生まれの嬶がこんな田舎には住めないと言っている。尤もだ。二七で聖籠町を離れた私でさえも遠慮したい程だから。
人は生きている限り、どうしたって悩みは尽きない。結婚できない悩み、結婚すればしたで、子供ができない悩み、子供がいれば病弱だの、苛められているだの、非行だの、成績が振るわないだの、種は尽きない。仕事の、人間関係の、健康の、パートナーの裏切りの、あるいはパートナーに対する裏切りの、事故による加害や被害の、自然災害の悩みもあるだろう。
悩みから逃げられないなら、受け容れて、余り深く考えない、それほど気にしないように努力することが、数少ない対応策だろう。
六〇近くになれば、悩みのように思えても実は悩むべきではないことも多々ある、と気づかなければいけない。子供は成人しているから、親にはもう一切の責任はない。仮に警察のやっかいになろうとも、親の責任ではないはずだ。この国の未成熟な社会は容認しないとしても。
自分においては、頭も身体も老化しているから、健康問題には妥協するしかない。よくぞここまで生きた、と思えば気も楽になる。不老不死などあり得ないのだから。
引き合いに出すのは気が引けるが、我々より若くして亡くなった同期生に比べるなら、昨日集まった同期生は充分過ぎて幸せと言い切れる。
それでも、更に幸せを求めることを諦めることはない。健康を管理維持し、楽しみを発見実現し、生き続けるべきだ。ささやかでも充分。
「いろいろ言ったけど、要するにささやかな幸せが欲しいということ。ささやかかもしれないけど、俺にとっては奇跡かもしれない。四四年の時間を超えた奇跡。ちょっとくちびるを合わせるだけの軽いキス。それ以上の生臭いことには絶対にならない。お互い、今度こそ失ってはいけないものがあるから」
「スイカが真っ赤だったら、キスしてもいいよ。外れたら、また四年後だね」
「四年後にもう一度チャンスをくれるのか。しゃれたこと言うね。かわいいだけじゃなくて、大人のいい女だ」
子供の頃は、父母が畑に持って行った草刈り鎌でスイカを切ったものだ。手で割れないこともないが、痛そうだ。食べ物を地面にぶつけるのは不遜だが、今回は許して貰う。
「まずはよんでいない方から割るよ」
「これがよんでいたら、秀和ちゃんの負けだからね」
「もうひとつがどっちであっても、判定を間違えたことになるからか。やっぱり友子さんは頭が良いよ」
期待を込めて、割った。薄いピンクだ。明らかに、まだよんではいない。
もうひとつのスイカを持った。
「これはよんでいるはず」
「これがよんでいたら、秀和ちゃんの勝ちだね」
「いや、二人の勝ち、ということにしよう」
「うまいこと言って」
さらに期待を込めて、割った。真っ赤によんでいた。
外れたら、楽しみを四年後に延ばした、という負け惜しみも言えるが、四年後には友子と私は会えるかどうか分からないのだから、やはり今日は我々二人の勝ちだ。私は友子と、小さい勝利のトロフィーを分け合った。
こういうことがあるから、人生は生きる価値がある。
二泊三日の帰省が終わりつつある。嬶が早割で取ってくれた上越新幹線ときの指定席。盆の帰省、Uターンラッシュは昨日までか、始発駅だからか、空席がかなりある。
東京まで二時間余り。実家に向かうときは新潟駅からレンタカーを使うが、帰宅時は電車とタクシーなので、新幹線車内では二人で飲む事にしている。嬶は缶ビール、私は缶ハイボール、それに嬶が選んだポッキーと私が選んだチーズ鱈。お疲れ、と乾杯した。
率直なところ、自宅に帰ると思うとほっとする。老親や弟達と会うことはもちろん楽しいが、生活は自宅の方がずっと快適だ。
嬶は二泊三日の間、私の親の食事の世話をし、家の掃除をやり、話し相手になり、気疲れしている。それを労い、感謝の気持ちを表明し、二人でちびちび飲んだ。
やがてビールを飲み終えた嬶は、眠ってしまった。
今回の帰省で、私は同期会に参加し、翌日は実家で飼っている犬の散歩でカムフラージュして友子と会った。それは、嬶に対しての小さな裏切りだ。
後悔があるかと問われれば、無い、ときっぱり答える。
二人が思い合い、思いを詰め、思いを叶えたのではない。愛情でもなければ友情でさえない。幼馴染みという言葉があるが、それが四四年経過しての、成り行きとでも呼んでおこうか。それでも、生きていればこその、人生のささやかな愉楽だ。
あえてそれ以上前進しないことを、嘆かわしい老いとは認めても、大人の理性とは呼びたくはない。
いや、ささやかな愉楽を取り消して、代わりに大いなる充足としよう。幸いにも私の人生は、まだ生きるに値する。
(終わり)




