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僕だけのマドンナ

作者: Tom Eny

僕だけのマドンナ


会社の休憩時間、健太はいつものように同僚たちの会話に耳を傾けていた。話題は、社内一の美人でマドンナ的存在の優美のことだ。彼女の話題で盛り上がる同僚たちを横目に、健太は内心うんざりしていた。確かに優美は美しい。だが、それだけだ。健太には、なぜそこまで熱狂できるのか理解できなかった。


健太はいつものように、仕事終わりにスマホを手にダラダラとライブ配信を眺めていた。今日の気分は、顔出しなしで雑談している配信者の声に耳を傾けることだった。いくつかチャンネルをザッピングしていると、ふと手が止まった。


画面に映るのは、鮮やかな色のビキニを身につけ、楽しそうに笑う女性。背景には南国の海が広がり、彼女はカメラに向かって手を振っている。「いつもありがとうー!」「みんなと繋がれて嬉しいな!」コメントを拾いながら、彼女は屈託のない笑顔を振りまいている。


健太は、その笑顔に見覚えがあるような気がした。いや、声もどこかで聞いたことがあるような……。しかし、会社にそんな派手な女性はいないはずだ。健太の部署にいる女性社員といえば、皆どちらかといえば地味で、おとなしいタイプばかりだ。特に、隣の席の田中さんは、いつも地味な色のブラウスとスカートで、体のラインを拾わないゆったりとした服ばかり着ている。話す声も小さく、休憩時間もほとんどデスクで過ごしている、目立たない存在だ。


健太はもう一度、画面の女性と田中さんの顔を頭の中で比較してみた。服装もメイクも全く違う。ライブ配信の女性は、髪も明るく巻いていて、肌も小麦色に焼けている。田中さんは、いつも前髪をまっすぐに下ろし、ほとんどすっぴんのような薄いメイクだ。


だが、ふとした仕草や、笑った時に少しだけ口角が上がる癖、そして何よりも、声のトーンと話し方が、田中さんに妙に似ているのだ。まさか、そんなはずはない。健太は首を振った。田中さんが、こんな水着姿でライブ配信なんて、想像もできない。


その日の夜、健太はなかなか寝付けなかった。田中さんの顔と、ライブ配信の女性の顔が交互に脳裏に浮かぶ。結局、健太は再びその配信チャンネルを開いた。アーカイブに残っていた過去の配信をいくつか見てみた。どれも、彼女は楽しそうに、そして少し挑発的なポーズでカメラに微笑みかけている。会社では見たことのない、堂々とした立ち居振る舞いだった。


翌日、会社で田中さんと顔を合わせた時、健太はいつも以上に田中さんを観察してしまった。やはり、どこからどう見ても、あのライブ配信の女性とは結びつかない。田中さんはいつも通り、小さな声で「おはようございます」と挨拶し、自分の席に座った。その日の田中さんは、珍しく少しだけ髪を巻いていた。そして、ふとした瞬間に、ライブ配信で見たあの笑顔が、健太の脳裏にフラッシュバックした。


「……田中さん?」健太は思わずつぶやいた。田中さんが不思議そうに健太の方を見た。


「何か、健太さん?」


健太は、何も言えなかった。確信はない。だが、どこか確信めいたものが胸に広がり始めていた。会社の田中さんと、ライブ配信のグラビアアイドル。まさか、そんな二つの顔を持つ人が、自分のすぐ隣にいたなんて。健太の日常は、少しだけ色鮮やかなものへと変わり始めていた。


同僚たちの噂とマドンナの視線


「それにしても、おまえさ」一人の同僚がニヤニヤしながら健太に言った。「いつも隣の田中さんに優しいよな。もしかして、好きなのか?」


健太は思わず言葉に詰まった。田中さん。あのライブ配信の女性。会社では地味で目立たないが、夜には華やかなグラビアアイドルに変身する彼女。健太は最近、田中さんを見る目が変わっていた。会社での大人しい田中さんと、配信で見せる自信に満ちた笑顔。そのギャップが、健太の中で少しずつ、だが確実に興味の対象となっていた。


しかし、この場でそれを口にするわけにはいかない。「そんなことないですよ」健太は努めて平静を装った。「後輩として、普通に接しているだけです」


同僚たちは、健太の言葉に納得したような、しないような顔で、再び優美の話題に戻っていった。その間、健太は気づかなかったが、優美は、同僚たちの会話と、健太の一瞬の動揺に、鋭い視線を向けていた。彼女の表情には、一瞬、不機嫌そうな影が差した。健太が田中さんに特別な関心を持っていることに、彼女は気づいていたのだ。


健太は、胸の中に小さな罪悪感と、それから、田中さんへの抑えきれない好奇心が湧き上がってくるのを感じていた。


芸能事務所の影と募る視線


健太は会社からの帰り道、ふと前を歩く田中さんの姿を見つけた。いつもより少しだけ足早な彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めていると、田中さんはあるビルの前に立ち止まった。そして、吸い込まれるようにそのビルの中へと入っていく。


健太は、何となく気になってビルの看板に目をやった。そこに書かれていた文字を見て、健太は思わず息をのんだ。「〇〇プロダクション」。それは、健太が知る限り、業界でも有数のグラビアアイドル専門の芸能事務所の名前だった。健太の頭の中で、会社での地味な田中さんと、ライブ配信で見た華やかなグラビアアイドルの姿が、一つの線で繋がろうとしていた。


家に帰り、健太はその夜もライブ配信を開いた。画面に映し出されたのは、やはり同じグラビアアイドルの女性。今日も彼女は鮮やかな水着を身につけ、明るく視聴者に語りかけている。そのプロポーションは普段会社で見慣れた田中さんの姿からは想像もつかないほど豊かだ。メイクも普段の田中さんの薄化粧とはまるで異なり、目元は特に強調され、華やかな印象を際立たせている。しかし、健太が目を凝らすと、その表情の作り方、楽しそうに笑う時の口元の癖、そして何よりも、会話の合間に見せる独特の間合いや声のトーン。それらが、まるでパズルのピースがはまっていくかのように、田中さんのそれと重なり始めた。健太は、知らず知らずのうちに、田中さんの持つ二つの顔に深く引き込まれていた。この夜、健太の中で、「田中さんではない」という可能性は、ほぼ消え失せていた。健太は、念のため芸能事務所のホームページを見たが、まだ新人なのか売れていないのか、田中さんの情報は載っていなかった。


健太にとって、田中さんのライブ配信を見ることは、単なる暇つぶしを超えて、日々の生活に彩りを与えるものとなっていった。地味なオフィスでの一日の終わり、画面の向こうで輝く田中さんを見つめる時間は、健太にとって唯一の現実からの逃避であり、同時に、彼女の秘めたる才能を独り占めしているような、ささやかな優越感を与えてくれた。彼女のコメントに一喜一憂し、彼女の笑顔に癒される。まるで、遠い親戚の活躍を見守るような、温かい感情が芽生えていた。


ある日会社で、健太は無意識のうちに田中さんの姿に見入っていた。田中さんがグラビアアイドルかもしれないという疑念が頭から離れず、ついつい彼女の体つきや雰囲気にも注目してしまっていたのだ。その視線に気づいたのだろうか、田中さんが顔を上げ、健太の方を向いた。「どうかしましたか、健太さん?」優しい、しかし少しだけ探るような田中さんの声に、健太はハッと我に返った。心臓が大きく跳ね上がる。「い、いや、なんでもないです!」健太は慌てて目をそらし、手元の資料に視線を落とした。


休憩中、健太は淹れたてのコーヒーを片手に一息ついていた。と、そこに同僚がニヤニヤしながら近づいてきた。「なあ、健太。おまえ、最近田中さんの胸元ばかり見てるって、もっぱらの噂になってるぞ」同僚の言葉に、健太は思わず持っていたカップを落としそうになった。胸元ばかり見ている? そんなつもりは全くない。自分の視線が、周りにそんな風に捉えられていたことに、健太は大きなショックを受けた。


新たな波乱:恋のライバル登場とマドンナの確信


健太が田中さんの秘密を知り、そのギャップに複雑な感情を抱く中、会社の日常にも新たな動きが起こった。ある日、健太の部署に、新しくイケメンで社交的な男性社員の佐藤が配属されてきたのだ。爽やかな笑顔と、誰とでもすぐに打ち解ける気さくな人柄で、あっという間に部署のムードメーカーとなった。佐藤は田中さんに対しても分け隔てなく優しい。


休憩時間、健太が田中さんの様子をそれとなく伺っていると、佐藤が田中さんの席の近くで、楽しそうに話しかけているのが目に入った。佐藤の笑顔と、それに少し照れながらも応じている田中さんの姿。健太の胸に、これまで感じたことのない焦りがじんわりと広がった。


「そういえば、最近、健太さんって田中さんのこと、すごく気にしてるみたいね?」


優美の声だった。まるで何気ない世間話のように、優美はにこやかに同僚に話しかけた。健太の心臓がドクンと跳ねた。やはり噂は広まっていたのだ。同僚たちは「やっぱり!」とばかりに顔を見合わせ、楽しそうに笑っている。


優美は、そんな同僚たちの反応を満足そうに眺めながら、さらに続けた。「私、この前たまたま見たんだけど、田中さんのバッグからすごく派手な水着がチラッと見えちゃって……あとは、なんだか舞台メイクみたいな道具も持ってたわ。普段の田中さんからは想像できないから、ちょっとびっくりしちゃった」優美の声には、一見悪意はないように聞こえるが、その言葉の端々には、田中さんが注目されることへの微妙な面白くなさや、あるいは**「普通じゃない」ことへの好奇心**がにじみ出ているようだった。


広がる影とマドンナの確信


健太の懸念は、現実となりつつあった。優美が意図せず放った「派手な水着」や「舞台メイク」といった言葉は、社内に漠然とした興味の種を蒔いた。そして、その種は、田中さんのグラビアアイドルとしての活動が徐々に人気を集め始めたことで、あっという間に芽吹き始めたのだ。


健太は残業組だった。いつものように定時で帰る田中さんを見送った後、健太はデスクで残業に勤しんでいた。疲れた目を癒やそうと、何気なくスマホを手に取ったときだった。同僚たちの間で話題になっていた、あのグラビアアイドルの配信チャンネルを、ふと開いてしまった。そこに映し出されたのは、まぎれもない現実だった。鮮やかなビキニ姿で、画面越しに明るく笑いかける女性。背景には南国の景色が広がり、そして、優美が言った通り、田中さんのバッグからチラ見えした水着と全く同じデザインのビキニを、その女性が身につけていたのだ。


「…おい、これ、マジかよ…?」


健太の隣で、別の残業組の同僚が呆然と呟いた。健太も、彼のスマホを覗き込む。そこに映る田中さんは、会社での姿とはまるで別人のようだ。「でも田中さん、こんなに明るかったっけ、スタイルもいいし、違うかも?」戸惑いの声も上がるが、その疑問も長くは続かない。


昼休みが終わり、午後の業務が始まる直前、優美が、休憩室で数人の女性社員に囲まれて話し始めた。「ねぇ、みんな。私、確信しちゃったんだけど…」優美の声には、決定的な響きがあった。「さっき、更衣室で田中さんと一緒になったの。そしたらね、彼女が服を着替える瞬間に、ちょっとだけ見えちゃったんだけど…本当にびっくりしたわ。普段は地味な服ばかり着てるから全然分からなかったけど、実は彼女、とんでもないプロポーションしてるのよ! グラビアアイドルと全く同じ、というか、それ以上のメリハリボディで…正直、目を疑ったわ」優美の言葉に、女性社員たちから驚きの声が上がる。この目撃情報は、男性社員たちの曖昧な疑問を一蹴する、決定的な証拠となった。


マドンナの直接攻撃:副業禁止の宣告と部長の知られざる真意


翌日、オフィスは明らかに重い空気に包まれていた。噂は確信へと変わり、田中さんを見る同僚たちの目は、好奇心と探るような視線に変わっていた。


そんな中、午後の休憩時間、優美が、複数の同僚が見守る中、田中さんのデスクへと真っすぐ向かっていった。「ねぇ、田中さん。この会社って、副業禁止よね?」優美の言葉に、オフィス全体にピリピリとした緊張が走る。田中さんは、突然の優美の言葉に、顔色をサッと変え、ただ俯くばかりだ。優美の視線は、田中さんの顔から、意図的に彼女の胸元へと移る。その場はそれで終わり、重苦しい空気がオフィスに漂い続けた。


その時、部署の部長が部屋に入ってきた。「さあ、みんな、仕事に戻って!」部長の一言は、一時的に場の緊張を和らげた。しかし、その日の午後、部長が席を外した隙に、健太は部長のデスクのパソコンに、偶然開かれているブックマークを見つけた。そこには、健太が田中さんのライブ配信を見るときに使う、あのグラビアアイドルのサイト名が記されていたのだ。


健太は意を決して部長に声をかけた。「部長、少しお話しよろしいでしょうか」部長は静かに応じた。健太が田中さんのグラビア活動について切り出すと、部長は一つため息をつき、静かに語り始めた。「健太君、君も気づいていたか。実はな…」部長は、彼の兄が、田中さんが所属する芸能事務所の社長だということを明かした。「田中君は、グラビアの仕事だけでは正直、生活が苦しかったんだ。兄から相談を受けてな、うちの会社で募集があったから受け入れたんだ。副業禁止の件は、私も知っていたが、彼女の事情を考えると、見て見ぬふりをするしかなかった」健太は呆然とした。


マドンナの真意:嫉妬と裏切り


部長との会話の中で、部長は重い口調で付け加えた。「優美君のことも、実は知っている。彼女も、私の兄の事務所に所属している。かなり前からだが…残念ながら、鳴かず飛ばずで、あまり芽が出なかった」優美は、自身もグラビアアイドルとしての成功を夢見ていた。しかし、長年努力しても報われず、その一方で、後から入ってきた田中さんが着実に人気を集め、事務所の**「パワープッシュ」**を受ける存在になった。


優美の美しさ、そして社内のマドンナという地位は、彼女が抱える**「グラビアアイドルとしての挫折」と、田中さんへの「拭い去れない嫉妬とひがみ」**を隠す仮面だったのだ。そして、健太が田中さんに特別な視線を向けていることに気づいた優美は、自分に向けられるはずだった健太の関心が田中さんへと向いていることにも、強い不満と嫉妬を覚えていた。彼女が田中さんのバッグの中身やプロポーションに異常なまでに注目し、執拗に副業禁止の噂を流したのは、田中さんの成功を妬み、彼女を引きずり下ろそうとする、明確な悪意によるものだった。


田中さんの消滅と健太の献身


翌朝、健太は重い足取りで出社した。優美の悪意、部長の秘密、そして何より田中さんの立場を思うと、会社に行くのが億劫だった。しかし、彼を待ち受けていたのは、さらなる衝撃的な事実だった。田中さんのデスクには、彼女の私物は一切なく、がらんとしていた。


「…田中さん、辞めたらしいよ。朝、人事部に辞表が出されてたって」


同僚の一人の言葉に、健太は絶句した。まさか、こんなにも突然に。優美からの執拗な嫌がらせ、そして同僚たちの好奇の目に耐えかねたのだろうか。それとも、グラビアアイドルとしての活動が本格化したため、会社にいることが難しくなったのか。田中さんは、誰にも告げることなく、ひっそりと会社から姿を消したのだ。


健太は、重い足取りで家路についた。自分の無力さに打ちひしがれ、後悔の念ばかりが募る。彼女は今、どこで、何をしているのだろうか。


悲劇の結末、そして病室での再会


その日、健太は会社からの帰り道、いつものように駅へ向かって歩いていた。ふと、健太の足が止まった。見慣れた芸能事務所のビルが、視界に入ったのだ。以前、田中さんが吸い込まれるように入っていった、あのビル。


健太が何気なくビルの入り口に視線をやった、その時だった。


見覚えのある横顔が、ビルのエントランスから現れた。マスクと帽子で顔のほとんどが隠されているが、そのすらりとしたスタイル、そして一瞬見えた瞳の奥に宿る独特の輝きに、健太は心臓を掴まれたような衝撃を受けた。田中さんだった。


以前、会社で見かけた時と同じ、派手さを抑えた地味な服装。しかし、そこにはライブ配信で見せたグラビアアイドルとしてのオーラが、確かに漂っていた。彼女は、周囲に気づかれないように素早くエントランスを出て、タクシーを捕まえようとしていた。


その瞬間、背後から突然、優美が飛び出した。その手には、夕闇に鈍く光るナイフが握られている。彼女の目は憎悪に燃え、その標的は、まさに田中さんだった。


「田中さん!」


健太の叫びは、優美の耳には届かない。優美は、狂気に満ちた形相で田中さんに襲いかかった。田中さんは、突然のことに驚き、硬直したまま優美の凶刃にさらされようとしていた。


その瞬間、健太の体は、考えるよりも早く動いていた。


「やめろ!」


健太は、地面を蹴り、優美と田中さんの間に割って入った。鋭いナイフが、容赦なく振り下ろされる。健太は、田中さんを守ろうと腕を広げた。


ズブリ、と鈍い音がした。


熱い痛みが、健太の脇腹を貫いた。優美のナイフが、健太の体に深々と突き刺さったのだ。鮮血が、制服のシャツにじわりと広がっていく。健太の視界が、一瞬にして歪んだ。


「健太さんっ!」


田中さんの悲鳴が、夜空に響き渡る。優美は、予想外の健太の行動に驚き、ナイフを刺したままの姿勢で硬直した。その顔には、狂気と混乱が入り混じっていた。


健太は、その場に膝をついた。激しい痛みと共に、意識が遠のいていく。しかし、彼の目は、田中さんの無事を確認するように、しっかりと彼女に向けられていた。田中さんの顔は、恐怖と絶望に染まり、その瞳からは大粒の涙が溢れ落ちていた。


優美の凶行は、あっけなく終わりを告げた。健太を刺した後、その場に呆然と立ち尽くしていた優美は、通報で駆けつけた警察官によって、間もなく現行犯逮捕された。彼女の顔には、もはや憎悪の表情はなく、ただ虚ろな光が宿るばかりだった。


健太は、救急車で病院へ搬送された。脇腹の傷は深く、大量の血を流したが、幸いにも命に別条はないとのことだった。数時間後、手術を終えた健太は、ぼんやりとした意識の中で目を覚ました。


白い天井が目に入り、消毒液の匂いが鼻をくすぐる。まだ体は重く、痛みも残っていたが、ゆっくりと意識が覚醒していく。健太が体を起こそうとした、その時だった。


視界の端に、人影を捉えた。


ゆっくりと顔を向けると、そこには、憔悴しきった表情の田中さんがいた。彼女はベッドの脇の椅子に座り、健太の手をそっと握りしめていた。その瞳は赤く腫れ、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。会社で見せる地味な姿とも、ライブ配信で見せる華やかな姿とも違う、痛々しいほどに素の田中さんがそこにいた。


健太は、声を出そうとしたが、うまく言葉が出ない。しかし、田中さんが優美の凶刃から傷つくことなく無事であったことに、心から安堵の息を漏らした。自分の身を挺して守った甲斐があった。その事実に、健太の胸にはじんわりと温かいものが広がった。


田中さんは、健太が目を覚ましたことに気づくと、握りしめていた健太の手を、両手でそっと包み込んだ。そして、震える声で、絞り出すように言った。


「健太さん…本当に、ごめんなさい…私のせいで…」


彼女の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。健太は、そんな田中さんの手を、かすかに握り返した。


健太の告白と田中さんの返答


田中さんの涙を見つめながら、健太は痛む体に鞭打ち、ゆっくりと口を開いた。震える声だったが、伝えなければならないことが、彼の胸には溢れていた。


「田中さん…違うんです。あの…俺が、本当に…」


健太は、言葉を選びながら、これまで胸の内に秘めていた全てを語り始めた。初めてライブ配信で田中さんらしき人物を見た日のこと。会社での田中さんと、画面の中のグラビアアイドルとのギャップに戸惑い、しかし次第に惹かれていったこと。芸能事務所のビルに入っていく田中さんを目撃し、確信に変わっていったこと。


そして、田中さんの胸元を無意識に見てしまい、同僚に誤解されたこと、それが噂になってしまったこと。優美が田中さんの秘密を暴き、副業禁止を突きつけた時の自分の無力さ。彼女が会社を辞めてしまった時の、言いようのない後悔と喪失感。


「…本当に、すいませんでした。俺、田中さんのこと、ずっと見てしまっていました。そのせいで…余計な噂を立てさせてしまって…」


健太は、悔しさと申し訳なさで、田中さんの手を強く握りしめた。彼の言葉は、田中さんへの謝罪と、そして彼自身の愚かさへの自責の念に満ちていた。彼の告白は、田中さんへの純粋な想いが、未熟な形でしか表現できなかったことへの、痛ましい後悔そのものだった。


田中さんは、健太の告白を、ただ黙って聞いていた。涙を流しながらも、その瞳には、健太への驚きと、そして微かな理解の色が浮かんでいた。彼女の指が、健太の手をそっと握り返した。


「健太さん…」


彼女の声は震えていたが、その眼差しには、もう悲しみだけではなかった。深い優しさと、そして確かな感謝が宿っていた。


「私、健太さんのこと、全然気にしてなかったですよ」


その言葉に、健太はハッと顔を上げた。


「むしろ…会社では、あんなに地味で、目立たない私に、健太さんだけがいつも優しく接してくれて…。それが、本当に、嬉しかったんです」


田中さんの言葉は、健太の心に深く、温かく染み込んだ。彼が抱えていた罪悪感や後悔は、彼女の純粋な感謝の言葉によって、少しずつ溶けていくようだった。彼女は、健太の視線の意図を邪推することなく、ただ彼の優しさだけを受け止めてくれていたのだ。


「あの時、優美さんの言葉で動揺して、何も言えなかった私を、命がけで守ってくれて…本当にありがとう。健太さんが、私を庇ってくれたことは、決して忘れません」


田中さんの手は、健太の頬をそっと撫でた。彼女の瞳はまだ潤んでいたが、そこには未来への希望が灯っているようだった。健太は、自分の行動が決して無意味ではなかったことに、深い安堵を覚えた。そして、田中さんの優しさと強さに、改めて心を打たれた。


胸に秘めた想い:届かぬ告白


田中さんの優しさに包まれ、健太の心は安堵と温かさに満たされていた。彼女が自分のことを気にも留めていなかったこと、むしろ優しさに感謝してくれていたこと。その事実は、健太の心を深く癒やした。しかし、同時に、彼の中に芽生えた新たな感情が、また別の葛藤を生んでいた。


(好きだ…)


言葉にしようとすれば、喉まで出かかった。田中さんの手を握りしめながら、その温もりを感じながら、健太は心の底から彼女を愛していると確信していた。この混乱の中で、彼女を守りたい、彼女の力になりたいと願う気持ちが、いつしか明確な恋心へと変わっていたのだ。


しかし、健太は、伝えようとした言葉を飲み込んだ。


脳裏に浮かんだのは、テレビやCMで見る、まばゆいばかりに輝く田中さんの姿。そして、部長が語った「パワープッシュ」という言葉。彼女は今、まさに飛躍の時を迎えている。多忙を極め、これからさらに大きな舞台へと羽ばたいていこうとしているのだ。


そんな彼女に、会社の同僚だった自分が、今この場で「好きだ」と告白することに、何の意味があるだろうか。それは、彼女の負担になるだけではないのか。彼女の輝かしい未来を、自分の個人的な感情で邪魔してしまうのではないか。健太は、その時、ズキリと傷跡が痛んだ。彼女のために負ったこの痛みは、決して重荷ではない。だが、だからこそ、余計な重荷を彼女に負わせたくなかった。


健太は、自分の立場を冷静に考えた。田中さんは、もう遠い存在になってしまった。彼女の夢を応援したい。そのためには、今、自分の感情を押し付けるべきではない。


田中さんの手を握り返しながら、健太は複雑な感情を胸の奥に押し込めた。言葉にならない「好き」という感情は、静かに彼の心の中にしまわれた。


陰からの応援:健太の選んだ道


退院の日、健太は田中さんと短い言葉を交わし、病院を後にした。彼女が凶刃に傷つくことなく無事だったことに、健太は心底安堵していた。しかし、彼の心は、告げられなかった想いと、田中さんの輝かしい未来への複雑な感情で満たされていた。


会社に戻った健太を待っていたのは、田中さんがいなくなったことによる部署内の微妙な変化と、優美が逮捕されたことによる重い空気だった。優美の事件は社内を騒然とさせたが、幸いにも世間にはあまり大きく報道されることなく収束した。優美が去った後の職場は、一時的に奇妙な静けさに包まれたが、時間が経つにつれ、彼女の存在は薄れていった。部長は何も言わず、ただ健太の回復を労うだけだった。佐藤は、健太の負った傷に心を痛め、彼を気遣った。だが、健太の心は、もはや会社の日常には完全には戻っていなかった。彼の心は、あの夜から、田中さんの輝きと、自分が彼女を守ったという記憶によって、別の場所に囚われていた。


健太は、田中さんに直接連絡を取ることはしなかった。病室で、彼女の未来を邪魔したくないという気持ちが、彼の告白を押しとどめた。その決断は、退院後も揺らぐことはなかった。彼女は今、本格的な芸能活動のフェーズに入り、まさに飛躍の時を迎えている。彼の個人的な感情が、その輝きに影を落とすことだけは避けたかった。


だから健太は、陰から田中さんの活動をひっそりと応援することを選んだ。


その後、人気となった田中さんのライブ配信は終了し、本格的な芸能活動のフェーズに移った。健太は、テレビで彼女がバラエティ番組に出演していれば、チャンネルを合わせた。雑誌の表紙を飾っていれば、購入しては、人目を忍んで眺めた。街頭の大型ビジョンに彼女のCMが流れていれば、足を止めて見上げた。そこには、会社では見せなかった、心からの笑顔と、プロとしての堂々たる姿があった。


手の届かない場所にいる彼女。もう二度と、会社で隣に座ることはない。直接言葉を交わすこともないかもしれない。それでも、画面の向こうで輝く田中さんの姿を見るたびに、健太の胸には温かいものが込み上げてきた。それは、寂しさであり、誇らしさであり、そして確かに、切ない愛の形だった。彼の内側で、田中さんの存在は、日々の疲れを癒し、彼自身の人生に静かな喜びと活力を与える源となっていた。


かつての地味な同僚が、今や多くの人々を魅了するスターとなった。そして、その秘密を偶然知ってしまった自分は、その輝かしい道のりのほんの片隅に、そっと寄り添い続ける。健太にとって、それが彼女への唯一の、そして最も純粋な愛情表現だった。


健太の日常は、これからも静かに続いていく。彼は、田中さんの輝きが続く限り、その光を追いかけるだろう。そして、彼の心は、一見孤独なものに見えるこの選択によって、満たされていた。それは、単なるファンとしての満足感ではなく、誰かの輝きを守り、その道を静かに照らすことで得られる、深い充足感だった。健太にとって、それが新しい「普通」となった。

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