宵の兆―朧宮の神託―
この国は、姫巫女の神託によって統治されている。だが、神託の言葉は“誰か”の意図的な解釈によって――歪む可能性を孕んでいた。
香炉の煙がゆるやかに立ちのぼる。白く、細く、宵の帳に――溶けてゆく。
薄闇に包まれた神託の間。その中心、沈黙を守る者が座していた。
――姫巫女。
朧宮において神の言葉を受ける唯一の媒介。名を持たず、ひとひらの落葉から、神の兆しを読み取る、巫の姫。
神秘性を保たれ、この国の未来を担う存在。
その唇が重々しく開かれ、言葉を紡ぐ。
【ひとひらの梧桐 水面に沈み 風、東より 火を孕みて昇らん】
それが、今宵の神託。
落葉として現れる“言葉なき予言”は、姫巫女の口から語られ、すぐさま白奏院へと手渡される。
「――“風、東より”、ですか」
「これは……東方の動乱を示しておられるのかと」
「いえ、“火を孕みて昇らん”――むしろこれは、我らに兆す“備えの時”かと」
次第に声が交わり始める。白奏院は、神託の“解釈”を担う部門。姫巫女の言葉をひも解き、それを国政の指針とする。
控えの間には、淡く薫る香をまとった女が黙して立っていた。藤色の長い髪が肩をすべり、衣擦れさえ静けさを破らない。
「……御前にお持ちしますか?」
新たな香を手に、寝処の入り口に設けられた薄布越しに姫巫女へと問いかける。
「いいえ。今宵の葉は、まだ静かです。明日までは……」
柔らかな声。藤色の香りを残して、女は静かに一礼して奥へと退いた。
白奏院の者たちは神託をめぐり、議論が過熱する。
“東方の火”とは何を指すのか。
“水面に沈む”は何の喩えか。
“梧桐の葉”が示すものとは。
だが、その声のいずれもが解釈に過ぎない。
姫巫女の神託は巡り巡って言葉になっていく。
この国では誰もがその言葉を疑わない。
香が満ちてゆく。音もなく、ゆるやかに。
やがて夜は深まり、都は静けさの底へと沈んでいった。
白き衣の年若き女――姫巫女は、掌に乗った小さな葉を見つめていた。
ひとひらの、まだ落ちきらぬ、色づく前の葉。
まるで、その葉が“言う”のを待っているように――。
朝靄の漂う中庭、その中央に立つのが白奏院。昨夜の神託についての議が再び開かれていた。
「“火を孕みて昇らん”は、やはり東の諸国の緊張と結びつけて考えるべきでは――」
「いや、“水面に沈む”という言が、むしろ朧宮内部の揺らぎを示しているとすれば……」
声は穏やかだが、どこか張り詰めていた。
近年、神託が曖昧になりつつあるとの噂が絶えない。受け手である姫巫女は変わらず言の葉に乗せて神託を紡いでいるが、それを言葉に変える者たちの間で解釈が割れていた。
「いずれにせよ、“梧桐”という語が出た以上、御巫様のお心に近いところからの兆しです」
誰かがそう言った。
梧桐――朧宮においては特別な象徴だ。姫巫女の神殿前にだけ植えられた神秘の樹。
その名が託宣に現れるのは、滅多にないことだった。
「……さて、彩術管掌からの報せを携え参りました」
やわらかな声が、議の流れをすっと断ち切った。
藤色の香りを纏った女が、掌に一巻の帳面を携え、静かに佇んでいた。
「昨夜、東方境にて動きあり。市井を通さず、外部の術具が持ち込まれたようです」
「また、密流か……」
「はい。ただ、今回は他と異なる不審な彩術具が含まれていたとのこと」
ざわめきが生まれる。
彩核の流通は厳格に管理されているはず。それが“正体の定かでない核”と共に入り込んでいる。――つまり、それは模造か、あるいは異なる“出処”を持つということ。
「フジ殿、流通経路に何か動きは……」
「今はまだ断定できません。が、注意深く調べておられるとのこと」
フジと呼ばれたその女は、静かに目を伏せた。
その声には波もなく、誰もが彼女の穏やかさに安心する。
……だが、彼女が何を見て、何を思っているか、誰も知らない。
「続報があればすぐに」
そう告げて、彼女はまた静かに去っていった。
残された淡い香りだけが、部屋に滞り、議の続きを一瞬躊躇わせた。
――水面に沈みし、ひとひらの梧桐。
その兆しが、どこまで届いているのか。
それは、まだ誰にも分からない。
宵闇が早くも地を包む頃、朧宮の外郭、霧見の関では番が交代の刻を迎えていた。
霧深き境界の地は、昼と夜の境が曖昧で、そこに立つ者たちは常に不確かな輪郭の中にいた。
「……また夢を見ているような空だな」
「空だけならまだいい。昨日は、影が人のように歩いていたと報告があった」
「影、ね。言い伝えの“影喰らい”か、密輸者か……。いずれにせよ気味が悪い話だ」
ふたりの宵衛が、櫓の上でぼそりと話す。
そこへ、静かに足音が近づいてきた。
「報告を」
低く、落ち着いた声。現れたのは、年若い衛士の中でも異彩を放つ青年――ナグモ。
感情の起伏が少なく、表情も平坦なこの若者は静かに告げた。
「南方よりひとり、白き衣の旅人が現れました。手持ちの文には矛盾なし。ただ、ひとつだけ……腰に携えた木筒に梧桐の葉紋が刻まれています」
――梧桐の葉紋。
それは朧宮にあって、巫女のそば以外には存在しないはずの紋。
「御巫様の御召しの御方かもしれん、ってことか」
「あるいは偽造品かと」
「通すか?」
「……今、上に伺いを」
そのとき、不意に微風が吹いた。
風に乗って淡い花の匂いが鼻をくすぐる。
「香……?」
ナグモが目を細めた。視線の先には、まだ誰もいないはずの霧の中。
「“香が先に届く者”――」
彼の脳裏に、あの藤色の髪の女が過った瞬間、耳元で声がした。
「――通してもよいわ。彼女は姫巫女様の御召し人、いまの朧宮には重要となる人物よ」
まるで霧の奥から語りかけられるような、穏やかな声音。
ナグモは気配を探るように視線を巡らせたが、姿はない。だが確かに、香りだけが残っていた。
「命を受けました。通してよいとのこと」
旅人は名も告げず、面を伏せ、言葉なく関を越えた。
ナグモは、霧の中へ消えていくその背を、いつまでも見つめていた。
――その声は、遠い水面から揺れて届く。
ひとつ、ふたつ。透明な羽音。
まぶたの裏で揺れる葉が、青く、深く、また落ちてゆく。
世界が沈む。その果てに、言葉が現れる。
【梧桐に 一葉おつれば 風ふかむ 風ふけば 月 雲にまぎる】
それは、夢か現か。あるいは神の啓示か。
姫巫女の胸元に“梧桐一葉”の字が光り、静かに目を開いた。
まばゆい朝の光が、薄絹の帳越しに揺れる。
香炉の煙が細く立ちのぼり、部屋を満たす沈香の香りに包まれながら、姫巫女は半身を起こす。
「……また、“月”の詩。三度目」
控えていた侍女が、すぐに神託記録の巻紙を広げた。
姫巫女の告げた神託は速やかに記録され、白奏院へと送られた。
神託とはいえ、“月が雲に紛れる”とは――不穏の徴。
姫巫女自身もそれを感じていた。
けれど、姫巫女は神託を伝えるだけ。政には関与しない。
その解釈と方針を決めるのは、あくまでも白泰院の役目。
「……ミヲをここへ」
すぐに現れたのは、薄墨色の衣を纏った老女。
白奏院の筆頭にして、“古言継ぎ”のひとり、ミヲ翁。
「この神託、どう読みます」
「姫、これは……季の変わり目。政に影がさす兆しにございます。されど月は雲に紛れる――すなわち、災いは遠く、姿はあれど届かぬ。静観、が妥当と存じます」
ミヲ翁の声音は落ち着いていたが、その目は、すでに結論を決めているように冷ややかだった。
彼女は幾度も神託の詩を、“己の解釈で読み直してきた”。
神託の純粋さは人の意によって解釈され、そして初めて、公のものとなる。
「……そう、ですか」
姫巫女の言葉には力がなかった。
そのままミヲ翁が辞したあと、ふとつぶやく。
「風が……来る」
お告げの中、梧桐の枝から落ちた一葉が、風に吹かれて揺れていた。
その風は、優しくもなく、穏やかでもない――予兆の風だった。
そして今、姫巫女の胸には言い知れぬ不安が芽吹いていた。
まるで、己の口から洩れた詩が、自分の意図とは異なる“形”で動き出すような感覚。
「――待ち人はすぐそこに……」
空の向こうでは、霧が濃くなり始めていた。
朧宮の空は、次第に白く霞み、誰かの気配を飲み込もうとしていた――。
白奏院の最奥、薄紅の帳に守られた間にて、姫巫女は、香の煙に沈むように瞳を伏せていた。人払いは済ませてある。
彼女の瞼の裏には、何度も同じ情景が浮かぶ。 夢の中、降りしきる白の帳。編笠。被衣。声なきままに去っていく、名もなき旅人。
「“絆を繋ぐ者、白き姿にて現れん”……」
神託は、詩の形で現れる。解釈を誤れば民は誤り、政治は惑う。けれど、神託のままに国を導くなど、もはや叶わぬ理想だ。
――ただの器。言葉を語る傀儡――それでも……。
姫巫女の語る神託の言葉に嘘偽りはない。ただ、夢の続きは語らない。
瞼を開ける。煙の向こうに佇む影――それが今日、フジによって導かれた“旅人”であった。
白の被衣に包まれ、編み笠を深く被ったその者から、表情はうかがえない。けれど、姫巫女の胸は確かに震えた。
――この者こそ、夢に見た絆を繋ぐ者……。
旅人は編笠を取ることもなく、静かに膝をついた。
「白き風に乗り、この身、御夢に導かれまかり越しました。御前に立つは恐れ多く、ただの影とお笑いくだされば幸いにございます」
その声は、風の底で囁くように、その場に沈み込んだ。
柔らかくも澱みのない声。その気配に、姫巫女の表情がわずかに和らいだ。
姫巫女は立ち上がり、淡く揺れる衣が、帳の香をはらう。言葉を紡ぐ口元は、静かに震えていた。
「この国は、もう止まりません。歪んだ神託が、歪んだままに力を集め、歪んだ未来を求める。私はそれを止められません。ただの“声”でしかないから……」
「けれど、私は願います。この国が、かつての静謐を取り戻す未来を」
再び瞳を閉じ、そして旅人へと向ける。
「――風は巡り、木の葉は交わる。遠き魂、見えざる絆を持ちて、かの者へ至る。“以心”の子と、“楚歌”の姫。このふたり、めぐりあうこと、天の示す理なり」
「あなたに“出会ってほしい”のです。“以心伝心”と“四面楚歌”。二つの孤独が、運命の鍵を握る。始まりと終わり、その邂逅を、どうか――」
姫巫女の言葉にわずかに嗚咽がまじる。
旅人は静かに歩み寄り、膝をついた。その瞬間、編み笠の下、見えぬはずの目と目が交差する。
「……言葉は要りません。願い、受け取りました」
風が、梧桐の枝を揺らす。
梧桐の木の下に、ひとりの女――フジが藤色の長い髪を静かに揺らし、閉ざされた御簾の向こうを見つめていた。
「……姫巫女様はどんな夢を見たのでしょうね」
――その夜。旅人は、すでに朧宮を離れていた。
風の道を選ばぬ白き影は、姫巫女から託された一枚のアオギリの葉を手に、ただ北を目指す。
そしてその背を白鷺がひとつ、ふわりと追って羽が舞った。
――風は巡り、葉は落ちる。
だがその落葉は、やがて火を孕み、大地をも揺るがすだろう。
物語は静かに、しかし確かに、この梧桐の都から、世界へと広がっていく。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
“言葉”と“策謀”にゆれる物語を、少しでも楽しんでいただけていたなら幸いです。
この物語の余韻が、あなたの胸に小さな火を灯せますように。
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次回もまた、物語の片隅でお会いできることを願って。
――平 修