第七話
「もうなんともないのか?」
寝床から起き上がり、ひとまわり大きくなった身体を確認するように、腕の関節や脚の関節を動かすロノスへアーテが問う。
あの時、魔獣化の症状でロノスは体格に変異があった。苦悶の表情と声が今も脳裏から離れない。肉と骨の変化がどれほどの苦痛をもたらしたのか、アーテには想像も出来なかった。
「大丈夫だ。心配をかけたな」
「べつに、なんともないならいいんだけどさ……」
不安げにこちらを伺うアーテの頭を、すこし大きくなった手がぽん、と一度だけ撫でる。視線を上に流すだけでよかったのに、今では顔も少し上げなければ視線が上手く交わらない。
感じてしまった歯痒さを誤魔化すように、アーテは眼帯とセルネから受け取った衣服をロノスへ手渡す。
セルネが直したという衣服は目を凝らしたとしても然程不自然なところはなく、少女の腕は確かなものであることが伺えた。魔獣が住まう霧深い森の中に存在する家で、針ひとつで仕上げたというのだから驚きだ。
「そういえば、首飾りは? 千切れたりはしてなかったと思うけど、大丈夫だったのかよ」
すっかり見慣れた格好となったロノスへアーテが問いかけた。
彼が首から下げている革紐には、指輪が通されていた。それは、ふたりが出会うよりも前、ロノスが一人で旅をする理由になった女性と分け合った指輪のひとつである。
かつて、旅人として自身の故郷にやってきたロノスへしつこく旅の話をせがんだことは、今でも色濃く記憶に残っている。
それでも、彼は自身のことをあまり語る方ではなかった為、以前どういった場所に住んでいたのか、どんな生活をしていたのかという話を耳にする機会は殆どなかった。せいぜい聞けたのは、かつて住んでいた場所はとても寒い場所だったということぐらいだ。
だから、アーテもその女性のことをよく知っているわけではない。
アーテが住んでいた村は二度、魔獣の襲撃を受けている。二度目こそアーテにとって苦しい記憶が残る、片目を失った自分へロノスが瞳を差し出すという出来事があったわけだが、一度目はそんな大事には至らなかった。
魔獣との本格的な戦いに慣れない村人たちを庇い、多少の怪我を負いはしたが、彼は見事に村を救ってみせた。その時に、アーテはロノスがふたつの首飾りを身に着けていたことを知った。
それが、女性と分け合ったという指輪を革紐に通したものだった。女性の名をエスローラと呼んでいただろうか。
所謂幼馴染というやつで、恋人でもあったという。生まれた時から病弱だった彼女は既に亡くなっているらしく、彼女を喪ったロノスは傷心を癒す為に旅へ出た。
言ってしまえば、アーテから見ても一見は気難しそうに見える男に恋人が居たという話には驚いたものだ。
ふたつある首飾りのうちひとつは服の下に通し、もうひとつは服の上へくるように身に着けていた。上にあるものが、かつて彼女の指に嵌められていたものらしい。
時折、ロノスがそれを指で優しく撫でていることをアーテは知っていた。彼にとって思い入れのある首飾りというわけだ。
「ああ、なんともなかった」
そう言いながら、彼はまた指輪を撫でている。無事で良かったという想いだろうか。口元を緩めていた。これでいて、おそらく全てが無意識なのだ。
にんまりと笑うアーテへ怪訝そうに何だ、と睨みを利かせている。それをものともせず、アーテは鼻歌でも歌い出しそうなご機嫌さを表情にも浮かべ、別になんでもと返した。
それから、カーテンの向こうへ歩いていく。
「ほら。セルネが朝飯つくってくれたっぽいし、行こうぜ?」
◇ ◇
アーテたちが眠っている間に、大きな切り株の机の周囲にふたつだけあった切り株の椅子が、机を囲うように増えていた。四人で座っても空きがある。
どうやら、久々に家具を作ると意気込んだリオスが作りすぎてしまったらしい。
寝床もいつのまにか増えており、たった一晩でここまで出来たのかと問えば、セルネとリオスは顔を見合わせる。
「ふたりとも、ぐっすりねていたもの。おはようってしたら、かわいそうとおもって、そのままにしていたのよ」
どうやら、あれから二日経っていたらしい。次の日のつもりだったアーテは大層驚いた。二日間でリオスは家具を作り、セルネはロノスの服を修繕してみせた。
そればかりでなく、眠ったままのロノスやアーテの様子も伺っていたのだとすれば、どれだけ世話になったのか分からない。
ロノスはセルネとリオスの名を呼ぶと、ふたりに向けて頭を下げた。
「世話になってしまったな。ありがとう」
「俺からもありがとな! にしても、ほんとにすっげぇよな。ふたりとも手先が器用なんだもん」
ふたりからの礼に、セルネがぺこりとお辞儀をする。
それから、どういたしましてと胸を張った。リオスも口元を綻ばせながら、前髪を指で遊ばせている。照れてる、と少女が笑えば頬を少しだけ膨らませ、そっぽを向いてしまった。
そこで、セルネがまるで思い出したかのように、そんなことよりもと両手を広げると、ぐるりとリオスがセルネの方を向いた。先程よりもすっかり頬が膨れている。
そんなリオスの様子を知ることもなく、セルネはぱんと両手を合わせた。
「はやくご飯をたべましょう!」
食卓を飾るのは、葉に巻かれた獣の干肉と木の実だった。
木の実と葉は違う樹木から採ったらしく、セルネ曰く木の実はこの森で唯一、日が当たる場所で採ってきたものだそうだ。
葉の方は森をよく見渡せばどこかしらにはある木のもので、調理する甲斐があるものの、採取する際にはすこし鼻をつまんでしまうという。薬としても使える葉らしく、匂いはそのせいかもしれないと話した。
他の樹木とは違う匂いを放つと聞いて、心当たりがあるといった顔をしたのはロノスだ。
「森に入ってから気にはなっていたが、あれか」
「え、なんかしてたっけ? 気になるような匂い」
一方でアーテは首を傾げた。ロノスと違って心当たりがなかったのだ。匂いに敏感という訳では無いが、鈍感なつもりも無い。
「……たしかに、お散歩していても、ずっとにおいがするわけではないとおもうのだわ」
じ、とセルネがロノスを見つめる。どこか咎めるような視線だった。
それでもロノスは顔色を変えず、眉ひとつ動かさない。
食事の手を止めたリオスは、そんなふたりを見て手を上下させるような動きをしている。いつもであればセルネが彼の言葉を代弁しただろうに、少女はそうしない。
「ロノス、アーテにほとんどはなしていないんでしょう」
「まて、なんの話だよ」
自然とアーテはロノスを伺う。食い入るような視線を当てられても彼はそちらを見ようともしなかった。
ややあってから目を伏せて、ひとつの短い溜息を吐き出した。ゆっくりと開いた瞳で、ロノスはアーテへ視線を流す。
「……魔獣化症状の一種だ。日増しというわけでもないが、あの日から聴覚と嗅覚が発達し続けている」
アーテが短く息を呑む。聞いていないと声を荒げる。
「じゃあ、あれか? リストリアで南の集落の話が聞こえたっていうのも……」
アーテはロノスに対し、初めて会った時から耳が良いという印象を抱いていた。
しかし、共に旅をするようになってからそれは度を越したのだ。魔獣の気配に敏感で、いつだって魔獣よりも先手を取っていたのは彼だった。訪れた村や街でいつの間にか情報を仕入れていたこともあった。
まさしく、リストリアの街がそれだ。あの鉄の喧騒の中、ロノスはアーテの傍を一度も離れていない。耳がきんきんすると口を尖らせるアーテの傍らで聞きつけたのだ。
「なんで言ってくれなかったんだよ! お前、他にもなにかあるんじゃないのか!」
どうしてとアーテに疑問が浮かぶ。自分は知らなかったのに。何故、出会ったばかりのセルネが知っている様子だったのか。疑問は焦燥へと姿を変えていく。
アーテは思わず立ち上がり、ロノスの両肩を掴んだ。それでも彼は視線を外さなかった。
「……そうやって、すぐに取り乱すからだ」
「……っ!」
ロノス自身、いつかは話さなければならないと思っていた。アーテは半魔や魔獣化の話となるとすぐに冷静さを見失う。それだけ彼が自分を救おうとしてくれていることはロノスも理解していた。魔獣化が進行していると知れば、きっとアーテは深く思い悩む。先日倒れたことだってそうだ。不安を押し殺させてしまっている。
話すべきか、話さないでいるべきか。考え倦ねている内に沈黙を選んでしまっていた。失言だったとロノスは密かに自責する。
「セルネの意見だけれど」
幼い声が、ふたりの間に入る。自然とアーテの視線は少女へと移った。
「リオスもね、はじめに身体がかわったとき、かくそうとしたの」
セルネを心配させないために、と付け足しながら椅子から降りると、静かにリオスの方へと歩いていく。すぐ傍らまで寄ると彼は背を屈め、低くなった頭を少女のちいさな手が撫でた。
でもね、と少女が続ける。
「リオスはうそがヘタクソだから。すぐにわかっちゃったのよ」
その時のことを思い出しているのだろうか。セルネの眉尻は下がり、それでも口元はリオスと同様にぎこちなくも笑みを浮かべていた。
「アーテはなにがあっても、ロノスといっしょにいるつもりなんでしょう?」
「当たり前だ。俺はこいつの魔獣化を止める為に旅をしてるんだ」
アーテはもう一度、真っ直ぐに目の前の男を見据えた。徹頭徹尾、これだけは変わらない、譲ることは出来ないと瞳で語る。その眼差しに射抜かれたのか、ロノスの金色が僅かに揺れた。肩へと置かれたアーテの両手に、逸らすことは許さないと力が籠もる。
「だったらね、アーテはもうすこしお兄さんになること。ロノスはアーテをあまやかしすぎないこと!」
小さく短い人差し指が、その名の通りにふたりを指し示す。
お兄さんになること。その言葉にアーテは瞬いた。瞬く度に、鋭かった目付きがが丸みへ変わっていく。
「というわけで、お兄さんのアーテにおねがいがあります」
「……へ?」
◇ ◇
セルネからのお願いはリオスと共に食料の調達に行ってほしい、というものだった。口の利けない彼とどう行動すれば良いものか、アーテの不安をよそにリオスはずんずんと森を進んでいく。それでもふたりの距離は変わらずにいた。
「あのさ、リオス」
気まずさからつい、といった感じにアーテが声を掛けるとリオスの歩みが止まる。
こちらへと振り返ったリオスは首を傾げていた。やや間があり、なかなか続きを切り出せないアーテに対し、髪に殆ど隠れたその影できょとんとした顔をしている。
「魔獣化の症状って……やっぱり、苦しいのか?」
口に出した途端、これは良くないとアーテは顔をしかめた。リオスに聞いてどう答えてほしいと言うのだ。答えなんか決まっている。なにを聞いているのだと自分を内心で叱りつけた。
そもそも彼に訊ねておきながら、思い浮かべているのは彼ではない。
それでも訊いてみたかった。なにせ、一度たりともロノスから直接その言葉を聞いたことなどなかったのだから。
「——ごめん。なんでもない」
冷静さをすぐに見失うという、その指摘は正しいのだろう。理性がアーテの表情を曇らせていく。俯いてしまったアーテを伺うように、リオスがしゃがみ込む。
「俺さ、あいつが村に来るまで……ずっと暇してたんだよな」
故郷に居た頃、アーテは子供達と上手く過ごせず、大人達にも馴染めなかった。
自分と遊ぶのはつまらない。そう言っていた彼らの幼き頃の顔を思い出す。遊び方をすぐに覚えてしまうお前はずるいと言われたのだ。
誰かの気を引きたくて、大人の手伝いをした時も同じだ。畑仕事を手伝った時、老人に教わったはずのやり方を間違える大人にそれを指摘すると、大人からは色をなして生意気だと捲し立てられた。
そうして老人たちを手伝いながら、おおよそは草原で昼寝をして十七年間過ごしてきたのだ。
そこへロノスが現れた。文字を知らないアーテ達に文字を教え、一番に覚えたアーテを唯一褒めてくれた存在。
村が魔獣に襲われた後には剣も教えて貰った。飲み込みが早いとまた褒められた。
(ロノスはあいつらと違って、俺と一緒でもつまらないって顔をしなかった。楽しそうにしてくれたんだ)
再び魔獣に村が襲われた時、剣術を覚えたからとアーテは呼び止める声も聞かずに剣を片手に飛び出した。これで、ようやく村の為になにか出来る。そう思っていたのだ。その結果、アーテは左目を失った。
激痛と同時に暗転した意識を取り戻すと、目の前には左目を失ったロノスが居た。
(あれからのことは、正直あまり覚えていない。俺の意識が戻るまでだとか、村の誰かが言っていた気がする)
村人たちと共に部屋を後にしようとするロノスが、自ら命を絶とうとしていたことは確かだ。そんな彼に縋り付いて、やめてくれと泣き叫んだことは覚えている。
悲痛に染まったロノスの顔も覚えていた。
(——あいつは多分、魔獣化を止める方法を見つけないとまた同じことをする)
「だから、どうしても助けたいんだ」
言葉と共に前を向くと、リオスの笑った口元が目に入る。ずっと見られていたのかと思うと、座に堪えないとアーテは後ずさった。
「えーっと、へんなこと言い出して悪かったな。気にしないでくれ」
二歩、三歩と下がるアーテをリオスの腕が追いかける。その場から動かずとも、リオスが腕を伸ばすだけでアーテはあっという間に捕まった。
捕らえた頭をリオスの大きなてのひらがぽふり、と撫でた。わしゃわしゃと青い髪が乱されていく。アーテの身体すら揺れていた。
「な、なんだよ! 別に落ち込んだりしてねぇよ! 言っとくけど俺、セルネよりだいぶ年上なんだからな!」
まるで幼子としてあやされているようで、それは違うぞとアーテは未だ撫でようとする手を跳ね除けて反論した。
「ほら、とっととセルネに言われた物、取りに行くぞ!」
◇ ◇
不満を瞳で訴えるアーテと、任せてくれと言わんばかりのリオスを見送り、青年と少女は同時に息をついた。
「気を遣ってもらってばかりだな」
「たぶんだけれど、アーテってあたまがか~~ってあつくなっちゃう子でしょう」
そういうときは一度冷やさせてあげたほうがいいのよ、とセルネはまた人差し指を立てた。その通りだなとロノスが頷く。良くも悪くも、アーテは真っ直ぐすぎるというのが出会った時から抱いていた印象だった。
「でも、ごめんなさい。ほんとうは魔獣化の症状のこと、はなすつもりはなかったのでしょう?」
「いや、機会をくれて助かった。どう切り出せばいいか、正直迷っていたからな」
それに、とロノスが続ける。ここまで気遣いのできる少女のことだ。例えリオスが未だに隠していたとしても、既に知っているのだろうと踏み込む。
「吸血衝動について黙っていてくれただろう」
「……リオスったらね、そのことだけはセルネにしられたくないみたいなの」
身体に小さな変化が訪れても、隠しようのない大きな変化が訪れても、リオスはそれを隠そうとした。それらを暴くと、決まって彼は申し訳無さそうにしたものだ。
隠し事はしないと約束をしてからも、吸血衝動だけは隠そうとした。それほど半魔にとっても忌避している症状なのだろう。そう判断して、セルネは気付かぬふりを続けてきた。
「……だろうな。血を見るだけで、身体が疼く。だが、口にしたところで渇きはそう簡単に癒えることもない」
血を求めるのは、魔力が帯びているせいなのだろうか。損傷した己の魔術回路を修復しようと、魔力を求めているのだろうか。たかが数口程度を吸ったところでは満たされないこの飢えが、生きている人間に向かったのならばどうなるか。
自分の身を捧げようとする人間が目の前に現れた時、抗えるのか。そこにあるのは恐怖そのものだった。この感情を口にするのも悍ましい。
「……お前たちを、傷つけたくないだけだ」
まるで、絞り出したような声だった。
「だから、ないしょで魔獣の血をすっているの?」
「……」
無言のまま、セルネの言葉を肯定する。戦闘で倒れ伏した魔獣に疼きを何度感じたことか。事実、ロノスは既にアーテに隠れて魔獣の血を口にしたことがある。どうしようもない衝動が収まった頃にやってくるのは、同じ様にどうしようもない嫌悪感だった。まるで、魔獣が血に惹かれ姿を現す習性そのものだ。
此処で口にしなければ、理性を失って人間を襲ってしまうかもしれないという恐怖が背に張り付いていた。野蛮な一面を大切な仲間へ見せるわけにはいかない。
おそらく、ロノスとリオスの考えはそう変わらなかっただろう。アーテやセルネが拒絶しないだろうということも分かっている。
それこそ、身を捧げかねないのが彼らだ。それ故の沈黙だった。
「ほんとに、せかいっていじわるなのだわ」
少女が憂いた頃、森に雨が降り始めた。