第六話
ほのぼの回です。
目の前に現れたのは、小柄な少女と額の右側から角を生やした巨体の男だった。
少女は見るからにか弱そうに見えるが、その少女と手を繋ぐ男はどうだ。がっしりとした巨躯でありながら、少女と手を繋ぐ為に随分とその身体を斜めに傾かせている。その気になれば繋いだ手を少し払うだけで少女だけでなく、アーテすら吹き飛ばせてしまいそうだ。
しかし、男は少女の顔を伺うばかりでこれといった動きはない。
「だいじょうぶ! あなたたちにひどいコトをするつもりはないの。だから、安心してセルネたちについてきて」
そう言うと、少女は男の手を引いて歩き出す。男はそれに続きながら、アーテへ視線を寄越した。付いて来い。そう言っているような視線だった。
このまま森の中に居てもどうすることも出来ない以上、助けてくれるというのなら、それに乗るしかない。ロノスを背負い直し、アーテは少女たちに続く。
時折立ち止まってこちらを伺う様子を何度も目にしている内に、まるで誰かのようだと感じてアーテの警戒心は薄れていった。
そうして歩き続けた先、湖が見えた頃。ようやく少女と男の歩みが止まる。
此処が目的地なのだろうか。先には湖が広がるばかりで、アーテには行き止まりにしか見えなかった。
霧の向こう側まで広がる湖の果ては見えず、中央だと呼べそうな場所には巨大な木が聳えていた。大樹と呼んでも差し支えがなさそうなそれは、見上げても霧のせいでどこまで伸びているのか検討も付かなかった。
こんな場所で何をしようというのか。疑問を問う為におい、と声を掛けようとしたその口は、あんぐりと広がることになる。
男がしゃがみ、少女を肩へ座らせたかと思うと、男が湖の上を飛んだ。そうして大樹の根元に足を着かせたではないか。
少女を降ろすと、男は再び飛び上がりこちらへ戻って来る。どすん、と重い音がすぐ傍に着地した。
「まさか、飛べって? そんなの——」
男が、ロノスを背負ったアーテごと片手で担ぎ上げる。てっきり、飛ぶように言われると思っていたアーテが面を食らっている間に、男は少女の元へ戻っていった。
笑う少女に、ようやく我を取り戻したアーテがはっとした顔で降ろしてくれと言えば、男は言う通りにアーテを支えながらそっと降ろした。
戸惑いながらもアーテは周囲を見渡す。魔獣の気配は感じられなかった。この湖の底がどこまで深いのかは知れないが、男が泳がずに飛び越したということは、相当の深さがあるのかもしれない。この森に住まう魔獣は泳げない、あるいは、例え泳げたとしても、魔獣がこの男を恐れているのか。
ともかく、当分の間は魔獣の心配をする必要はなさそうだ。
「えっと、リオスとセルネ……だっけ。ありがとな」
改めてふたりを見てみれば、不思議な組み合わせだった。
少女、セルネは子供にしても小柄の部類に入る体つきだ。薄茶色の髪はぼさりと膨らんでいて、肩についた髪がくるりと曲がっている。服装はところどころ布を継ぎ足して補修を試みた跡こそあれど、髪に比べればきれいなものだ。緑色のくるんとした双眸は大きく、睫毛もばっさりとしている。総じて、人懐っこそうな顔立ちをした子供である。
対して男、リオスは非常に大柄だ。身体も筋肉質で、逞しいという言葉が似合う仕上がりだった。髪はセルネ同様ぼさぼさで、乱雑にまとめられた毛先は使い古した箒のようだった。服装もところどころ穴はあるものの、やはりというべきか、補修された形跡がある。
ひとつ気がかりを挙げるとすれば、額の右側から角が生えていて、くすんだ赤色の前髪が口元まで伸びていることだ。まるで瞳を見せようとしない風貌だった。
この世界で瞳を隠すことは禁忌に等しい。例えば、眼帯をした者が他者からそれを外せと言われれば外す以外の選択肢は無い。拒めば半魔と見られ、その場で斬られても文句は許されない。
だからこそ、ロノスと共に街に入る時、彼は眼帯を着けず、アーテが幻影魔術で瞳がそこにあるように見せかけているのだから。
彼が眼帯を着けるのはアーテと行動を共にせず、街にも入らず、アリアの森の時のように外に独りで居る時くらいだ。
空の眼窩が奇形しないようにと、時折アーテが回復魔術を施してはいるものの、晒したままではさすがに衛生的ではないと仕方無しに着ける。そういった具合になるほどには、瞳を隠すという行為は避けるべき行いである。角が生えている時点で答えは出ているようなものだったが、確認は必要に思えた。
アーテが問おうとしたことを察したのか、セルネが先に口を開く。
「あなたがふあんにならないために、先に言っておくわね」
セルネの隣に、リオスが跪く。何もしない。そう示すように、リオスは微動だにしなかった。少女の小さな手が、そっと彼の前髪を捲る。
「きづいているとおもうのだけれど、リオスは半魔よ。でも、だれかを傷つけるつもりはないの」
セルネに似た緑色の瞳が左側だけに収められて残されていた。額から生えていると思っていたそれは、右の空洞となった場所から生えていたのだ。
もしも彼が瞳を得たとして、彼は半魔から脱することは出来るのか。アーテには分からなかった。触れてはならないことに触れてしまった。そんな後ろめたさを覚えてしまう。
「その……」
「だいじょうぶよ、リオスも気にするなっていってるもの!」
アーテが首を傾げる。
考えてみれば、先程から喋っているのはセルネとアーテばかりだ。気を失っているロノスはともかく、リオスの声を耳にしたことがなかった。
しかし、セルネはリオスの声が聞こえているかのように振る舞っている。半魔かどうかと問うことに比べれば、その問いはするりと口にすることが出来た。
「リオス、喋ってないよな。セルネはわかるのか? リオスの言いたいことが」
「もちろん! だってセルネたち、ず~~っと一緒にいるのよ!」
セルネが両手を広げてみせた。あまりにも大きく広げたせいか、転倒しかけている。すかさずにリオスが少女の背を腕で支えた。
少しだけ不機嫌そうに口が山の形をしたリオスへごめんなさい、と謝ってから少女はアーテを見上げた。
「さ、いくわよ! セルネたちのおうちは、この上なのよ!」
「へ? うえって……どういう——」
ぐんと、上に引かれる感覚がした。それなりに強い力だ。リオスの仕業か。そう気付くと、目の前には木で造られた民家があった。
まさか木の上に——というよりはあの大樹がくり抜かれた中に造られた空間なのだが——そこに家があるなど誰が思うだろうか。
横を見やれば、どこか得意げな顔をしたリオスが居り、この家も彼の仕業らしいことが伺える。
目をぱちぱちと瞬かせるアーテを置いて、彼は下へと飛び降りた。かと思えば、すぐにセルネを連れて戻ってきた。全く以て、あの体格は頼もしい。
アーテに出来たことは、背負ったロノスを脱力したせいで落とさないことだけだった。
「ふっふん。ここがセルネとリオスのおうちなのよ! ほら、入って入って!」
促されるままに家へ入ると、思いの外に家具が備えられていた。
大きな切り株の机がひとつ、小さな切り株の椅子がふたつ。収納棚のような何か。
継ぎ接ぎの布で作られたカーテンの向こうには葉が何枚も敷いてあり、その上から一枚の大きな布が被されていた。
その布をよく見てみれば、何枚もの布がカーテンとおなじく継ぎ接ぎされたものだった。
「えへへ、セルネはね、こういうのがとくいなの!」
それぞれの家具、布製はセルネが、木製はリオスが用意したという。
ここが彼らの家であるということは、ここで生活しているということになる。魔獣の住む森で生活するという、本来であれば無謀な行いも、湖と大樹、セルネとリオスさえ居ればなんの問題もない様子だ。
「あそこ、つかっていいよ。おねつをだしてるんでしょう、その子」
セルネが指差したのは葉と布で作られた、あの場所だった。
今も尚、アーテの背で時折苦しげに呻くロノスは眠り続けている。体温が上がり続けていると感じるほどに、彼の身体は熱かった。
葉と布で作られた寝床にロノスを降ろし、セルネから受け取ったしっとりと濡れたちいさな布切れを彼の額に乗せる。
アーテの背中からひょっこりと顔を出したセルネがなるほど、と声を溢した。
「おようふく! ……こほん。おようふく、これくらいなら直せるわよ。そっくりの色したぬのがあるもの」
魔獣化の症状によって身体が伸びたせいで、彼の服はところどころが破けていた。それを直すのだという。
大きくなりかけた声を小さくしようと両手で口を覆うセルネに、小さく笑いながらアーテが頷く。
頼んだ。そう伝えれば嬉しそうに両手を上へ伸ばし、二回ほどその場で廻ってみせた。素直に、可愛らしいと感じた。あの黒い子供とは大違いだ。
「そうだ、あなたもよ! 休んでおいたほうがいいとおもうわ。そっちにもうひとつあるでしょ」
少し離れた先に、同じようなものが用意されていた。大きさからして、おそらくセルネの寝床だろう。
いいのかと、そう問う前にセルネはカーテンの向こうへと走り去ってしまった。
セルネだろうか。向こうでごそごそと音を立てている。そうね、とリオスと話す声が聞こえた。それからは、しんと静まり返った。
小さな寝床に寝転び、伸ばしきれない身体を丸め込む。なぜだかその格好がひどく落ち着いた。
(ロノスが寝ているところ、はじめてみたかも)
そう考えている内に、アーテの意識は微睡みの中へと沈んでいった。
◇ ◇
「だいじょうぶよ、リオス。ふたりともねていれば、すぐ元気になるのだわ」
魔獣の骨から作った手縫い針。それが、セルネの裁縫道具だった。
託された服にちくちくと針を進めながら、少女はカーテンの向こうで眠るふたりへ思いを馳せた。
切り株の机を挟んだ対面に座るリオスは、相変わらず口を動かさない。少女だけがひとり喋り、頷いている。
「セルネがじぶんでいったことを、うそにしたことある?」
出来上がった衣服を畳み、机に乗せるとセルネは対面に向かって走り出す。両腕を広げたリオスの元へ抱きつくと、彼はそっと少女を抱きしめ返した。
大きな腕を、そっとセルネが撫でる。
セルネの中の、いちばん昔の記憶ではもっとか細く、頼りない腕をしていた。背丈はたしかに彼の方が上だった。
それでも、見上げると思わず後ろへ転んでしまいそうなほどではなかった。いつだったか、時は残酷なのよと話していた夫婦を思い出す。
次いで浮かんだのは忌まわしい記憶。白いローブを着た人物が、故郷を蹂躙する光景だった。リオスの大きな手が、セルネの小さな頭を撫でる。大丈夫よ、泣かないわと声が続く。
「あなたがいるんだもの、へいきよ。さいごまで、いっしょにいるのだわ」
遠くで、獣と森の囁きが聞こえる。夜の音だ。静まり返った森で、湖面が僅かに揺れていた。
◇ ◇
アーテが目を覚ましても、ロノスは眠ったままだった。
自分が寝ている間も、セルネたちが額の布を取り替えていてくれたのだろう。ひんやりとしたそれは、随分と役目を果たしてくれていた。
眠る前に見た顔と比べると少し血の気のない顔をしているが、元はそういう色だったなとアーテは苦笑する。
視界の端で、カーテンが揺れた。
「あ、おきた? あのね、セルネったらたいへんなことにきづいたの、だからちょうどよかったのだわ!」
すすす、とセルネがふたりの方へと詰め寄る。足音を立てないように、そっと歩くのに反して声が大きい様子が可笑しくて、アーテは笑わないようにするのが精一杯だった。
かしこまったようにアーテの前でぴしりと立つセルネに何事かと思えば、少女はぺこりと頭を下げた。
「あのね、おなまえ……きいてなかったの。セルネばっかりしゃべっていたのだわ」
服の裾を掴んで、不安げに左右へ身体を揺らしている。
何かと思えばそんなことか。律儀な子供だと感心しながらアーテはセルネの前にしゃがむと、セルネへ手を差し伸べる。
「俺はアーテ。アーテ・ターチスっていうんだ。そこで寝てるのがロノス。ロノス・アゼっていう大事な仲間だよ」
差し伸べられた手に、ちょこんとセルネの手が触れる。その手をそっと握り、アーテは少女と握手を交わした。どこか温かいものを感じて、ふたりは笑い合う。
アーテにとって、年下に親しく接せられることは初めてに等しかった。
微笑み合うふたりは、ふたつの視線に挟まれていることにまるで気が付いていない。視線の持ち主達は困った顔で見つめ合い、お互いに肩を竦めさせる。
これでなかよしね、とぶんぶんと手を振っていたセルネがようやく片方に気付き、小さな悲鳴をあげた。
「もう、リオス! みてないでよ! なんだかとってもはずかしいのだ、わ……え、おきてる?」
「えっ」
セルネの言葉に、今度はアーテが素っ頓狂な声をあげる。
ロノスの方へと振り返ってみれば、いつの間に目が覚めたのだろう。意外なものを見た。そんな顔でこちらを見ているではないか。
「……案外、面倒見がいいんだな」
開口一番がそれなのか。もっと他にないのか。おはようとか、そもそも声を掛けろだとか。目が覚めたのならば、言ってやりたいことがあったのに。アーテは口を思うように動かすことが出来なかった。
上に掛けられていた布を押さえながら、彼にしては随分と鈍い動作で上体を起こし、周囲を見渡した。此処がどこなのか確認をしているのだろう。
「ロノス。こいつらが助けてくれたんだ。今はふたりの家に居る——つっても、森の中のままだけどな」
「森の……」
俄にはじられないといった顔をしていた。無理もない話だが、本当のことだ。さらに無理がある話として、この家が湖の上に聳える大樹の中にあると言えば、どんな表情をするだろうか。
「えっと、ロノス……で、いいのよね? わたしはセルネで、そっちはリオスっていうのよ!」
とたとたと、小走りで駆け寄ると、セルネはロノスへ手を差し出した。
そっと手を握り返すと、少女は満足そうに笑みを浮かべる。
「ふたりとも! あらためて、わたしたちのおうちへようこそ!」
元気な声が、朝の森に木霊した。