第三話
レフカティカ王国に比べ、エマテリア王国は領土が広い。
その為、アリア山を抜けたからといって、すぐにリストリアへ向かうのは難しい。リストリアに向かうには、アリアの森よりも大きな森を越えなければならない。
それに、その森はアリアの森と違って大樹とやらの加護は存在しない。時間を問わず森全体に霧が広がり、その上で魔獣が住み着いている。
少なくとも、戦う術を持たぬ者が不用意に立ち入るべき場所ではない。
ずしゃ、と大きな音を立てながら、熊によく似た魔獣が倒れ伏す。びくりと痙攣した後、ひとつしかない瞳から光が失われていった。これが元々は動物であったのか、人間であったのか。それは分からない。魔獣から生まれた魔獣の可能性もある。
魔獣と戦う術をもつ者たちにはある共通の心構えがあり、それは魔獣の正体を考えないことだった。アーテが旅に出た際も、ロノスから注意されたことだ。
「本当に魔獣が多いな、ここ」
「アリアの森に比べたら、そうだろうな」
それより、とロノスが続ける。その顔を見て、アーテは少し後ずさる。小言を言われる、と身構えた。魔獣と戦った後は、大抵なにかを言われる覚えがあったのだ。
もちろん、自分の為だとは分かっているし、間違ったことをしているのであれば、それを正さねば危険なことも承知している。
「前に踏み込みすぎだ。もう少し相手の様子を見ろ。今に怪我をするぞ」
アーテは思いきり顔を顰めた。ロノス以上に、眉間に皺が寄っている。眉間というより、顔をぎゅっとさせた感じだ。不服である、と全力で表している。怪我をする。そうだろうな、とアーテは思う。
けれど、彼の中では譲れないことがあった。
「だって、お前がもし怪我したら治りも遅いし、回復魔術だってあんまり効かないんだぞ!」
ロノスが怪我をするくらいなら、自分の方がマシだ。ロノスが戦うよりも、自分が先に戦って、相手を倒してしまえば良い。そう考えていた。
その考えを浅はかだと捉えられたのだろう。深い溜息をつかれてしまった。
「…………もう少し慎重になれ」
あきらかに言葉を濁したロノスへ言い返そうとして、でも、と食ってかかった言葉の後に続く文句も浮かばずに、アーテは口を尖らせた。そしてそのまま眉尻を下げる。
「……剣の扱いを覚えるのは速かったんだ。お前ならできるさ」
「本当か!?」
たったそれだけで顔を綻ばせたアーテに、また別の心配を抱いたことは言わないでおこうとロノスは誓った。
「よし、リストリアに急ごうぜ!」
◇ ◇
レフカティカ王国が緑の国というのであれば、エマテリア王国は鉄の国だろう。
大きな鉱山をもつエマテリア王国は採掘から鉄工業まで取り扱っており、その技術は確かなものだ。
この世界にあるほとんどの鉄を扱った道具は、この国で採られた鉄から製造されているといっても過言ではない。故に、国は非常に豊かだ。
国内にある街、リストリアも例に漏れず栄えており、あちらこちらから鉄を打つ音が聞こえてくる。エマテリア王国の首都ではこれの上をいくというのだから、もしかしたらこの国の住人は、ちょっとやそっとの大きな音では騒音とは感じないのかもしれない。
しかし、慣れない身であるアーテやロノスにとっては騒音に違いなく、鉄を打つ音に合わせて大声で話す街を行き交う人々の勢いに気迫すら感じていた。
「……すげーな」
「……そうだな」
ふたりして目をまんまるとさせていれば、この国を訪れるのは初めてですと言っているようなものだ。
お節介な住人が案内を買って出る前に、ふたりはフィロアリアで出会った店主の友人を探すことにした。
「そういえばアーテ、店主の覚書にはなんとあるんだ」
「え? えーっと、骨董品屋をしてるってさ。街の中心からは離れてるっぽい」
ポケットに大切にしまい込んだ紙切れは、すこし皺が寄っていた。紙の端を広げてロノスへと渡すと、彼は周囲を軽く見渡した。
おそらく、自分たちが居る場所を確かめているのだろう。紙切れには非常に簡易的ではあったものの、街の地図が示されていた。
「こっち……だろうな」
ロノスが示せばアーテはそれに続く。
どこへ行っても騒がしい街だったが、さすがに中心から離れるにつれ、その喧騒は落ち着きを見せ始めた。
ところで、とロノスが振り返る。
「老人の友人とやらの名前はきいてあるのか?」
「……あ!」
その一言とあんぐりした口で察したロノスは内心でだろうな、とこぼした。店さえ見つけてしまえば問題ないだろう。そう判断することにした。
街を歩く途中、誰かとすれ違うことは大いにあるだろう。
そして、それは大して気にもとめないような事柄だ。
しかし、それが目を惹く容姿をしていたり、見慣れない服装であったり、どこかしら奇抜な通行人であれば意識は自然とそちらへと向く。
今回のそれは白いフードのついた、同じく白いローブを着た人物だった。
背丈はアーテよりも小さく、非常に小柄だ。不思議な匂いを纏っており、おそらく香水かなにかを付けてるのだろう。だからといって、それだけでは性別を伺うのは難しい。
その小柄な人物がすれ違いざまに立ち止まった。
じ、とこちらを、というよりはアーテを見ているようだった。ややあって、今度はロノスを見た。くす、と幼い子供のような笑い声がしたのは気のせいだろうか。
「お前、迷子か?」
アーテの問いにも答えずに、ふたりの様子を交互に見ている。まるで、なにかを値踏みするように。フードを目深に被っているせいで、どんな表情をしているかは分からない。どことなくアーテはそれを不快に感じた。
そうしてそのまま、白いフードの人物は何事もなかったかのように歩き去っていった。
「なんだよ、あいつ」
「さぁ、な……」
変わった奴もいるもんだな、とアーテは悪態をこぼしてから、もしかしたら人見知りだったのかもしれない。そうであったなら返事も難しいか、とひとりで勝手に解決した。
どのみち、もうすぐ骨董品屋に着くのだ。相手はしてられないと、アーテは先を急ぐように走り出した。
白いフードの人物が消えた方をしばらく見つめてから、ロノスもアーテに続く。
骨董品屋はすぐそこにあった。
すっかり街の喧騒も遠く、静かな場所だった。
裏通りのさらに奥、といったところだろうか。あまりにも静かなので、店も閉まっているのではとアーテは表情を曇らせたが、よく耳を澄ませてみれば、店内から微かに音が聞こえた。どうやら、人は居るようだ。
「おじゃましまーす!」
骨董品屋には似合わない、元気な声だった。
「お前、店では静かにしろ」
ロノスの尤もな意見にアーテは不満げな顔を浮かべる。
そんなふたりを出迎えたのは、しわがれた笑い声だった。笑い声は、いかにも高価であろう壺や棚、茶器など様々な道具の向こう側から聞こえたものだった。
「元気のいい若者がくるのは珍しいねぇ」
しわくちゃの顔で、背の曲がった老人が笑っていた。
店内は絢爛豪華なものが並んでいるというのに、老人が自身を支えるべく使っている杖はとても質素なものだった。どこにでもありそうな、ちょっと太い枝。それに適当な加工を施した。そんな感じだ。
「えっと、フィロアリアに住む本屋のじいさんから聞いて……」
老人の目がぎょろりと音がしそうなほど見開いてから、にぃ、と横に細められた。ほお、と嬉しそうに息をこぼすと、杖を鳴らしながらアーテへと歩み寄る。
「あいつ、まだ生きておったのか。お互いしぶといものよな」
それでどうした、と老人はアーテに問う。
「ガラノシアにまつわる羊皮紙の話を聞きたいんだ。どこで手に入れたんだ?」
「ああ、あれか」
ふむ、と老人は顎下に生えた髭を撫でる。視線を右から左へと流し、なにか思案しているようだ。ややあって、老人は再び口を開いた。
「あれはな、わしがまだ王宮で庭の世話をさせて頂いた頃に貰ったものだ」
ほほ、と老人が笑う。本屋の店主とよく似ているな、とアーテは思った。
老人はよく笑うものなのだろうか。故郷に居た彼らもそうだったか、思い出す前に老人が話し出す。
「ある御方に『処分してくれ。方法は問わない』と言われてな」
どうやら、ある人物から処分するように授かったものだったらしい。はじめこそ、燃やしてしまおうかと考えていたそうだ。
しかし、骨董品を好む老人にとって、貴重品であると感じたその羊皮紙を処分することに気後れしてしまったようだ。
散々と迷っている間に、例の店主が買い取りたいと申し出た。処分を頼まれたものを譲るのは如何なものか、とても頭を悩ませたという。
しかし、店主の熱意と友情に揺れて譲ってしまった、という顛末を老人は話してくれた。自分の手から離れ、隣国とはいえ他国に渡るのであれば、処分したと言えるのではないか、と。自分のような庭師に託したくらいだ。貴重であれど重要ではないと考えたのだ。
「ある御方って?」
「そりゃあお前さん、さすがに話せんよ」
笑ってみせる老人にアーテが頬を膨らませる。
結局手がかり無しか、と落胆して項垂れるアーテを横目に、ロノスが老人に問う。
「エマテリアはかつて、ガラノシアと尤も友好的な国だったと聞いたことがある。それとなにか関係が?」
今でこそ他国と関わりを絶ち、鎖国状態のガラノシアだが、以前は他国と交友があった。その中でも懇意にしていたのがこの国、エマテリアである。この事実は、少なくともエマテリア王国に住む国民ならほぼ周知しているだろう。
世界の各地を歩き渡る冒険者も、どこかで耳にしていても可笑しくはなく——尤も、閉じた村で育ち、冒険を始めたばかりのアーテは知る由もない訳だが。
ともかく、老人に託したという人物を直接探れずとも、接点の確認は大切だ。
ロノスは懐から一枚の金貨を取り出すと、老人へと差し出す。この店の雰囲気に溶け込みそうな、古めかしい金貨だった。
「あー! 賄賂ってやつだ!」
「……アーテ、お前な……」
目を輝かせるアーテをよそに、ロノスから金貨を受け取った老人はそれをしぶしぶと見つめた。光にかざして表裏を確かめ、重さを測るように手首を上下させる頃には、アーテ以上に目を輝かせていた。
おお、だとか。ほお、だとか。そんな声を漏らし続けている。
「むかし、リミクリー王国で使われていたものか?」
「あなたがそう見るなら、そうなんだろう」
ふむ、と老人はひとり頷く。金貨を懐にしまい込むと、姿勢を正し、改めてふたりに向き直った。
「そうさな、ある御方はガラノシアの者と文通を交わしておったそうでな。その中で受け取ったものだそうだ」
エマテリア王国には郵便馬車があり、定期的な郵送がある為に日数はかかれど国内と隣国のレフカティカ王国であれば文通が可能だ。
しかし、それ以外となれば話は別だろう。個人的の頼みとして海を渡る者に預けて届けてもらう。そういった場合もあるだろうが、王宮の人間がおいそれと個人に頼むとは考えづらい。となれば、交友があった頃、取引か贈りものとして国へ届けられた荷の中にあったのか。
いずれにせよ、ガラノシア行きの船が出ておらず、あちら側からの船も出ていない今、文通は交わされていないのかもしれない。
「鉄と砂漠の王はなかよし、ということさ」
老人は細い目でウィンクをしてみせた。
これ以上、語るつもりはないのだろう。あの羊皮紙がガラノシアの由来のもので、文通のやりとりをしていたのは誰か、それが分かっただけでも十分な情報だった。
感謝する、と頭を下げるロノスの横で、アーテだけが不思議そうな顔をしていた。
識字率の低かった村に住んでいたアーテにとって、文通という文化自体に馴染みがなく、文を交わしていたからといってなにがあるのか、理解が及ばないのだろう。
分からないなりに、ロノスが頭を下げたのならば得るものはあったのだろう、と察してアーテも自分の頭をやや大げさに下げた。
また好きな時に来なさい。そんな老人の言葉を背に、ふたりは店を後にする。
夕暮れ時に差し掛かった裏通りはそれなりに暗いもので、通りの向こうから差し込む夕日に眩しさすら感じた。その逆光を遮るように、ひとつの影が二人の前に立ちはだかる。
あの白いローブを着た小柄な人物だった。なにが面白いのか、小さく笑っている。
「ねえ、アンタたち」
小さな影に似合いの子供の声が嗤う。それでも、未だにその身は白に閉ざされて見えないままだ。
子供は一歩だけ、ふたりに歩み寄る。
「その瞳、ちょーうだい」
たったその一言で、アーテの顔色が変わる。背中へと手を回し、剣を抜き取ってと前へと構えた。こいつは敵だ。心のなかで吐き捨てると、すっとなにかが冷えていく感覚がした。
「また半魔かよ!」
「アーテ、待て!」
ロノスの静止も聞かずに、アーテは子供へ斬りかかる。
しかし、まるで足元に伸びる自分の影に飲み込まれるよう、子供は姿を消した。
アーテの背後から、金属音が響く。振り返れば、ロノスが子供を剣で弾いたようだった。子供の袖口から、黒い爪が伸びていた。子供の体躯の半分はあるであろう、細長い爪だ。ロノスが弾いたのは、子供の爪だったのだろう。
折れた様子もなければ、欠けた様子もない。子供はその歪な爪を合わせ、かちかちと鳴らせて見せる。
「ふふ、ふふふ! 違うよぉ」
アーテから半魔と呼ばれたのが面白かったのか、子供は声を震わしていた。
その子供らしい楽しげな声が告げる。
「青髪のお兄さんと同じ——魔術師だよ」