第二十三話 前編
——耳が聞こえていないのだろう?
クラトの口は、確かにそう動いていた。
ロノスが目を覚ました時、目の前に居るアーテが口を動かしているにも関わらず、声が聞こえなかった。起き上がった時に擦れたであろう布の音も、街で発生しているはずの生活音や海からのさざ波もまったく届かない無音だった。
そんな中、己の喉は目の前にいる少年の血が欲しいと貪欲に訴えた。それをどれほど憎んだか。
「アーテには伝えないつもりか? あいつの勘が良いと言ったのはお前だろう」
「それは……」
口籠ったロノスに眉根を顰め、クラトは椅子から立ち上がる。その間もロノスは絡んだ視線を外せなかった。目を背ければ、何を言っているのか読み取れなくなってしまう。上から見下す男の口が小さく開閉したのは、恐らく溜息を吐かれたのだろうと判断した。
ややあってから、クラトの唇は再び動き出す。
「今はお前の不調も熱のせいだと片付けるだろうが、いずれは悟られるぞ」
言い返す言葉も見つけられず、ロノスは寝台の上で拳を握る。右手の甲に生えた鱗が僅かに犇めいても、その音すらロノスには聞こえない。不快な音にクラトの眉間に皺が刻まれていく。
クラトは何も言わないロノスを見下ろした。目覚めたばかりで、話す機を失ってしまった事も理由にあるだろう。それを幸いとし、アーテを不安にさせるぐらいなら、話す必要は無いとロノスは平然を装い続けた。
アーテへ吸血衝動を打ち明けたくせに、血を摂取する姿を見られまいとする彼の事だ。少年に異常を隠す事が習慣化しているのだろう。隠せば隠すほど、互いに気を揉む羽目になることが分からないのかとクラトは苦心する。
「……とはいえ、今は様子見が正解かもしれんな」
クラトから視て、ロノスの身体にはアーテの魔力が未だに残されていた。
彼の身を纏う魔力は四日と半日の間で徐々に薄らいでいった。それでも、普段に幻影魔術を掛けた状態と比べれば、空の眼窩へ何も映し出されていない今の方が十分に濃い状態だ。
「お前はその耳も魔獣化症状の一部だと捉えているかもしれないが、おそらくはアーテの魔術による影響だ」
「アーテの?」
クラトは頷く。
魔獣化によってロノスの身は味覚が変異し、血肉を求めるようになった。聴覚と嗅覚も発達し、体格は一回り大きく、爪と歯は硬質で鋭利な形へと変化した。
そして今、カラマから借りた衣服に隠れてはいるが、ロノスの背は紫紺色の鱗に覆われている。縦長の菱形が項からやや右寄りに腰の半ばまで侵蝕していた。左肩は以前とほぼ変わらないが、右肩は外側から覆うように手の甲にまで鱗が及んでいる状態だ。魔獣化の症状は深刻と言える。
しかし、聴覚が失われた原因は他にあるとクラトは考えていた。
「あの夜、アーテが魔力の暴走を起こしてな」
その途端、アーテの身を案じたロノスが物言いたげな顔を浮かべたが、口を挟む隙は与えない。クラトが口を動かすだけで反対にロノスは口を閉じ、唇の動きを見ることに注力する。
「俺が駆けつけた時、部屋にはアーテの魔力が満ちていた。まるで外側を拒絶するかのような、鋭い魔力だった」
魔力が籠もった部屋を閉ざす扉を前に、クラトはドアノブに触れなかった。どうせ開けられはしないという直感と同時に、触れてはならないとも予感していたのだ。触れてしまえば、何かしらの影響を受けてしまうと。
だから、そのままアーテへと声を掛けた。
「声を掛けても、あいつの声はおろか、物音すら何も聞こえなかった。だが、確かに魔力が揺らいだ」
揺れたのはアーテが動揺したせいだ。つまり、こちらの声は聞こえていると踏んで、クラトは声を掛け続けた。暴走した魔力の止め方など知らなかったが、言う通りにすれば助かると思い込ませることに成功し、結果的にアーテの魔力暴走を止めることが出来たと話す。
「その時に生じた魔力の残滓、とでも言うべきか。それがお前に残っている」
「……後遺症、ということですか」
ロノスは自身の左耳に触れる。指の腹が耳朶を擦り、穴を塞ぐような仕草だった。ほんの一瞬。目も伏せていたが、手を下ろして正面を向き直すまで、そう時間は掛からなかった。
「魔力の残滓が消えれば、聴力が戻る可能性はあるだろうな。それまでは、アーテには黙っていてやろう。動き回るあいつの口が何を言っているか、それを知る手助けもしよう」
たたでさえ、魔力暴走を起こした後だ。
ロノスが抱える不調の原因が自分にあると知れば、どうなるか。また無意識に魔術を使われては適わない。当面の間は、ロノスへの幻影魔術も禁ずるつもりだった。魔力の残滓が消え去るまでは様子見をするべきだとクラトは考えていた。
「その代わり」
クラトの声色が下がる。
聞こえていなくとも、彼が放つ怒気をロノスも感じ取っていた。いっそ、殺気に近いそれが空気を冷やしていく。
ロノスの胸ぐらを掴み、見逃すなと言わんばかりに引き寄せた。
「俺には隠し事をするなよ」
指摘しなければ、そうする気で居たのだろうと視線がロノスを責める。責められた当人は目を逸らすわけでもなく、胸ぐらを掴む手を払おうとすらしない。
しかし、瞬きすらしないロノスは図星を突かれた訳ではなかった。
(……何を言うかと思えば、そんなことか)
そんな些細な事で怒りを隠せなかったのかと、ただ呆れていた。口を閉じていなければ、そのまま口にしてしまっていたかもしれない。浮かんだ言葉を飲み込み、ロノスは小さく口を開けた。
「……クラト様にはお伝えするべきだと、思っていましたよ。周囲の様子を探る手段が減れば、今後に支障が生じますから」
紛れもない、本心だった。嘘偽り無く平然と答えたロノスを前に、今度はクラトが呆れる番だった。ああ、自分の従者はこういう奴だったと。
隠し事が要らない間柄だと信頼されている訳でもない。含意もなく、隠す意味が無いと思われている。リミクリー王国へ戻るまで、旅路に必要な報告としか考えていない。実にアゼ家の人間らしい思考だ。彼らの精神性は骨の髄まで染み込んでいる。
(本当に、反吐が出る。己はただの瞳だからと、王族から身を案じられているなど考えもしない)
従者からの報告を受けた主はそうか、とだけ返答する。
掴んでいた胸ぐらも解放した。乱れた襟元を正すロノスの姿を見下ろしたまま、クラトは背に隠した拳を強く握りしめる。
「……ひとまず、お前は寝ていろ。もうじき、アーテが戻ってくる」
「カラマ殿への報告はどうなさるのですか」
ロノスの目は、何の為に回りくどい手でアーテを使ったのかと訴えていた。発熱した病人をその席に座らせる訳もないのに。
どうあれ、クラトは使いに出した少年が目的を果たせずに、今頃は困るか腹を立てているであろうことを予期していた。
「カラマなら今、隣のキノ領に居る。早くとも、話し合いは明後日以降だ」
◇ ◇
あれから、何度廊下を曲がったか。
広い屋敷内を足早に歩きながら、アーテはふつふつと怒りを覚え始めていた。
高い天井、長い廊下。何もかもが無駄に広く、大きい屋敷。ひとつの階だけで、故郷の家が縦にふたつは入ってしまいそうだった。本邸はこれよりも大きかったなと思い出したことで、思わず立ち止まってしまう。廊下の窓から中庭を見下ろして、顔を曇らせた。
地面は遠い。この高さ、或いはこれ以上から突き落とされたにも関わらず、ロノスは平然としていた。怪我の具合を訊いた時、彼は少しと答えた。とてもじゃないが、背に硝子の破片が突き刺さり、腕には魔獣に噛みつかれた傷を持つ男の発言には思えなかった。
「なにが『腕と背に少し』……だよ。全然、少しじゃねぇだろ!」
ぐぐ、と眉間を寄せ壁を蹴り上げようとしたが、足は力なく床へと戻された。俯き、アーテは額を窓へ押し当てる。窓に映し出された幼い顔がくしゃりと歪んでいく。
(結局、魔獣化も進んで……)
両目を閉じて、ロノスの背を喰む鱗を思い出す。
そんな彼へ何か魔術を使ってしまった。そのせいで、余計に苦しめてしまったかもしれないと、アーテはぎちりと歯を食いしばる。
もしもあの時、クラトが来なかったら。彼の声すら聞こえなかったらと考えだしてしまい、止まらなくなる。不甲斐なさが少年の肩を震わせた。
ロノスが目覚めてからも、アドアの名が出るだけで目の前が赤くなりかけた。全てはあの子供が悪いのだと。あんな奴が居るからと憎んでしまう。
(……駄目だな。いちいち腹立てたり、悩んでる場合じゃないのに)
深く、長く息を吐き出してから、ゆっくりと息を吸う。それを何度か繰り返した。
改めて窓から中庭を見下ろすと、花壇の前に使用人を見つけることが出来た。
花壇に植えられた花の世話をしているのだろう。使用人は青白い花の形を確かめるように花弁へ手袋を着けた手を滑らせていた。此処からはよく見えないが、知らない花だった。
かつてガラッサ公国がリミクリー王国から賜ったという花なのか、十五年前にクラトがカラマへ譲ったものか、はたまた全く別のものであるかもアーテには分からない。そんな話があったなと、それだけ思い出しながら窓を開ける。
舞い込む風をふわりと頬に受けながら、アーテは使用人の女へと声を掛けた。
「なあ! そこのあんた!」
声を掛けられた使用人は手を止めて周囲を見渡し、やがて上を見上げた。アーテと視線が合うと、佇まいを直してから深々と頭を下げる。
「アーテ様、どうかなされましたか?」
カラマの所在をすぐにでも問うつもりだったが、慣れない敬称にむず痒さを覚え、アーテの眉と口がぎゅっと閉まる。少しばかり首も竦めていた。
「その……アーテ様ってのやめてくれよ。落ち着かない」
「わたくしどもにとって、アーテ様はお客様でいらっしゃいますから。どうか、ご容赦くださいませ」
頭を下げる使用人に、アーテはうんと唸る。
何故、誰かしらに仕えている連中は頭が堅いのか。こちらが構わないと言っても、あちらは構うと言う。こうなると、大抵の相手は頑なだ。この際、呼ばれ方くらいどうでもいいか、とアーテは諦めることにした。
「もういいよ、それで。ところでさ、おっさ——カラマ様って何処にいるんだ? ラトが大事な話があるから呼んで欲しいって言っててさ」
「ラト様が、そう仰られたのですか?」
へ、とアーテは間抜けな声を出した。何故確認されたのか分からない。そうだけど、と返せば使用人は不思議そうに首を傾げる。
クラトからの伝言がそんなに可笑しいのかと、アーテは使用人以上に首を傾げた。
「カラマ様は留守に御座います。既にラト様もご存知かと……」
「は、え……?」
戸惑うアーテに使用人も戸惑った様子を見せた。
もしかして、なにか聞き間違えていたのだろうか。アーテは自身の記憶を疑うが、クラトの言葉を思い返しても、確かに彼は使用人にカラマを呼んで貰うように言っていた。ならば、どういうことか。
つまり、揶揄われたのか。
(……あんの、欠伸馬鹿野郎! 寝惚けてんじゃねえのか!!)
ばんと窓を閉めて、廊下を駆け出しそうになった足をどうにか留まらせる。閉めたばかりの窓をそっと開けると、ひょっこりと顔を出し、こちらを見上げたままだった使用人へとアーテは頭を下げる。
「仕事の邪魔してごめん!! とにかくカラマ様が帰ってきたら、ラトが呼んでたって伝えてくれ!」
使用人からの返事を待つことなく、窓を閉めるとアーテは廊下を駆けていく。
最初からカラマが屋敷に居ないことを知っていたのなら、何故、自分に使いを頼んだのか。苛立ちがアーテを大股にさせていく。
(人が苛つかないようにってさぁ、抑えようとしてんのにさあ!!)
部屋に戻ったら、すぐにでも文句を言ってやろうと決めていた。
アーテはこれまでに何度も曲がった廊下を曲がり直し、部屋へと一直線に戻っていく。途中、どすりと大きな音を立ててしまった自分の足を見下ろして、それからは大人しく歩いた。
クラトへ文句を突きつける前に、ロノスから廊下では静かにしろと怒られては堪らない。窓を勢いよく閉めてしまった音も届いていたに違いないと思うと、足取りも重くなる。
そろそろ部屋に着いてしまうはずだと次の廊下を曲がると、床に散らばった粥の汚れを見つけた。こんな場所に何故、とは思わなかった。
どう考えても、汚したのは自分だ。これはまずい、とアーテは眉を歪ませる。かろうじて伸びていたアーテの背も、扉を開ける頃にはすっかりと縮こまり、そのまま部屋に入るわけでもなく、そろりと頭を覗かせるに留めてしまった。
真っ先に目が合ったのは、クラトだ。




