第二十一話
アーテが目を覚ましたのは、遠くからさざ波が聞こえる程度の静かな夜だった。
暗い部屋の中、ぼうっとしながらゆっくりと両目を瞬いていると、クラトが覗き込む。首を傾げた為に、蜂蜜色の髪がさらりと揺れた。
「目は覚めたかい、少年」
しばしの間があった。その間に、クラトは傍らの机に置かれていたランプに火を灯す。小さなものだったが、互いの顔を見る為の不自由はなくなった。
アーテが眠たげに目を擦る猶予もあったが、ゆっくりと息をする時間は急激に失われる。アーテは目を見開き、勢いづいて上体を起こすと目の前に居るクラトの腕を縋るように掴んだ。
クラトも分かっていたのだろう。無碍に腕を解くことなく、アーテが口を開く前に顎で自身の後ろを指し示した。
「ロノスならまだ寝ているぞ。まだ熱はあるが、あの症状は落ち着いている」
「……っ! ほんとか?」
すぐ近くに配置された別の寝台には、ロノスが眠っていた。
その姿を認めたアーテはクラトの腕を離し、ふたたび身体を寝台へと沈ませる。目が覚めてから吸ったものをすべて、というくらいには長い息を吐き出した。
良かったと何度か繰り返し、息を整えてから再び上体を起こすが、ロノスへ近寄ろうとは思わなかった。
「……俺、の魔術ってさ……危険なもの、だよな」
あの時、ロノスの様子が可笑しくなったこと、扉の向こうに居るはずのクラトへ声が届かなかったこと。その現象はアーテの魔術によって引き起こされたものだ。
もしも、クラトが居なかったら。彼の声すら聞こえなかったら、と考えるだけでも寒気がして、アーテは自身を抱きしめた。
独り言と捉えたのか、クラトは何も応えなかった。無言ということは肯定されたのだろうか。アーテが恐る恐るとクラトを見上げると、彼は片手で大口の欠伸を隠していた。
こいつ、聞いていなかったなと腹を立てながら、アーテはクラトへと詰め寄る。恐怖なんて、何処かへ引っ込んでしまった。
「……おっ、おま……お前なぁ! 俺、ほんとに、ほんっとうに怖かったんだぞ、ていうか今も怖えし、悩んでるんだぞ! それを……お前なぁ!!」
アーテの大声に今度は片手で耳を塞ぎ、隠さない欠伸をもう一度。またしたなと文句を垂れる大声を聞きながら、クラトはふたつの寝台の間にあった椅子へと座り込む。
「煩いぞ少年。ロノスを起こすつもりか?」
「んなわけ!! …………、ない、けど……さ」
背と共に徐々に小さくなるアーテの声が可笑しかったのか、クラトは喉を鳴らして笑う。お前こそ起こすつもりかとアーテが睨みつけると、ようやく一息を入れて首を振った。
「いや、すまない。四日も寝ていないものでな」
「……四日って」
アーテとロノスが倒れてから、四日が経過していたらしい。
見渡してみれば、今居る部屋は元々使っていた客室とも、手当てのためにと用意された部屋とも違っていた。この部屋には寝台がふたつしか存在せず、寝ていない彼が何をしていたかは明白だった。
「……俺達のこと、ずっと看病してくれてたのか?」
まあな、と頷きながらクラトは壁に背を預けた。
そのまま眠ってしまうのかと思ったが、瞼は閉ざされることなく、緑色がアーテを見ていた。
「状況を伝えておこう。……あの夜以降、行方不明になった者は居ない」
魔術が使われた痕跡もない、とクラトは付け加えた。
アドアは遊び場も潮時と言っていたが、敵の言葉を鵜呑みにすべきではない。この街から撤退したとみていいのか、数日程度では判断することは出来なかった。
看病と警戒を兼ねて、クラトは眠らなかったのだろう。せめて、どちらかが目覚めるまではと。
「それから、あの場に居た男だが……」
「ラト、それは……」
クラトはあの男を兄上と呼んでいた。
既にステリーには聞かれてしまっていたかもしれない。そうでないのであれば、聞かれる危険は避けるべきだ、とアーテはクラトの言葉を止めようとした。
ステリーに聞かれてしまえば、そのまま父である伯爵に伝わるかもしれない。瞳狩りに血縁者が居る、ましてやこの街で狼藉を働いた者という事実は知られない方がいいだろう。
そう、アーテは思っていたのに。
「あの人はボクの兄だ」
あまりにもあっさりと、クラトは名言した。
アーテの口がまん丸と広がっていく。
「え、え、おい。言っていいのか? 聞かれてたらどうすんだよ!」
「そんなことはどうでもいい。少年に言っておきたかっただけだ。それに、カラマ殿にはもう伝えてあるしな」
良くないだろう、と言いかけたアーテの言葉を止めたのはクラトの手だ。掌を貸せ、と手招きしている。誰にも聞かれたくない本題はこちらなのだと認め、アーテは手を差し出した。
クラトの指は、こう語っていた。ゼスが 魔術師であるとロノスが気付いていない場合、黙っていてくれと。知られたくないと続いたが、理由までは綴られなかった。
どうしてと問われる前にアーテから離れたクラトは腕を組み、瞼を閉ざす。
「ボクはもう寝るぞ」
へ、とアーテから気の抜けた声が漏れる。
構わずにクラトは続けた。
「無理にとは言わんが、こんな夜中だ。少年ももう一度眠ることを勧めておこう」
眠るのであればと寝台を譲ろうとしたが、クラトは既に寝息を立て始めてしまった。アーテはやり場のなくなった手をぐっと握り込む。いつまでそうしていたか、彼にその自覚はない。やがて、ゆっくりと手を開いた。それからもう一度手を握り、開くと何度か繰り返す。
大丈夫だ。今は魔術を使っていないと自身に言い聞かせて、アーテは寝台から降りた。床を軋ませないようにと慎重に歩きながら眠るロノスへと近づいていく。
熱に魘されているのか、時折小さく呻く姿にアーテは顔を歪める。彼が今苦しんでいるのは、すべて自分のせいだと己を責めた。
ごめん、と何度口にしてもそれに応える者は居ない。自分が魔術を使わなければ、と後悔ばかりがアーテの内を占めていく。
ロノスは未だ眠り続けている。今、彼が着ている見覚えのない清潔な服はカラマから借りたものだろう。
(森の時は、セルネが直してくれたんだよな)
あの時に無事だったロノスの首飾りも今回は鱗に裂かれたのか、千切れかかった革紐が二本、傍らの机上に置かれていた。そのすぐ隣には綺麗な小さい布の上に指輪がふたつ。ランプの中で燃える火を薄っすらと反射していた。
「……そうだ」
アーテはズボンのポケットからするりと青い羽根を取り出した。
キャノラスの街で鳥から貰った贈り物。なにかに使えないかと期待したアーテへ機会があれば、となにか作ってくれることをロノスは約束してくれていた。
結局、そんな暇もないまま此処まで来てしまったのだが。
「ラトは幸運のお守りとかいってたけど」
これまでの旅に幸運などあっただろうか。それとも、知らぬ内になにか助けてくれていたのか。そうであるなら、これからはロノスを守って欲しい。自分よりも彼に必要なものだ。そう願って、アーテは青い羽を机に添えた。
そこで、アーテは羽根の変化に気付く。
「……あれ、こんな色だったっけ」
海を連想させる青に染まっていた羽根が一部、黒ずんでいた。目を閉じて、鳥の姿を思い出す。確か、名前はキュアだったはずだ。全身が青色なわけではなく、腹部は白色で口元の周囲やくちばしが墨色だった。それでも、羽根は美しい青色のはずで、黒ずんだ部分などなかったと記憶している。
「ポケットにいれてたからかなぁ……」
黒くなってしまっていたから、幸運が訪れなかったのだろうか。ならば、彼に渡しても意味はない。残念な気持ちになりながら、アーテはふたたび羽根を手にした。
羽根以外はなにも入れていないはずなのに、と思いながらも別のポケットへと仕舞い込む。
そこで、くあと欠伸が漏れた。眠気がじんわりと寄ってくる。
本音を言えば、ロノスが目覚めるまで起きていたかった。
「ラトも寝ておけっていってたしな。それに……寝ないとロノスに怒られそうだ」
苦笑いを浮かべ、ランプの火を消した。
◇ ◇
ロノスの視界は白一色に閉ざされていた。
轟々と叫んでいるのは風だろうか。それにしては、身体を突き抜けるあの感覚が一向に訪れない。髪が揺れた様子もない。
この何も無い空間に風を遮るものがあるのだろうか。考えていると、次第にぼんやりと周囲に色が象り始めた。ひとつではなく、様々と浮かんでいく。それらの形は未だはっきりとしないが、此処が室内である事は理解できた。備えられている家具も、すべて見覚えのあるものだった。
まず、壁に掛けられている織物は絵柄からして普段使いのものではない。普段使用されているものと比べると羊毛が贅沢に使われており、より厚く仕上げられている。悪天候によって続く極寒を和らげる為に用意されたものだ。その証拠に、窓の外では轟々と風が叫び、景色は吹雪によって遮られていた。
次に、目前の机。机の上にはティーポットが一客、カップが三客。それらに統一して刻印されている模様から、茶器の持ち主も伺えた。
そこまで見えてしまえば、此処が何処であるのか理解できた。
リミクリー王国。王城にある一室で、ロノスは椅子に腰掛けていた。
机を挟んだ向こう側には、対面するようにひとりの男が座っている。彼の後ろに控える長身の男と比べ、随分と小柄な体躯をしていた。
未だ霞んでいる周囲と比べると、ふたりの輪郭は明瞭だった。
ひとりはクラトの兄であり、ゼスの弟であるビーア・ガベラス・リミクリー。蜂蜜色の髪を持ち、双眸にそれぞれ赤色と紫色を宿した生まれながらの 魔術師だ。
机の上に置かれたランプへ火を付けたのは、おそらく彼だろう。そうでなければ、いくら防寒された部屋とはいえ、暖炉を使っていない部屋がこんなにも暖かい訳が無い。
その後ろに控えている男はビーアの従者だ。アゼ家の人間で、ロノスの兄に当たる男の名はイティアス。同じ灰緑色の髪を持っているが、瞳は金色でなく、アゼ家の多くが持つとされる緑色だ。遠くの祖先は黄緑だったらしいが、それを見たのは肖像画の中だけだった。
一度、ロノスは目を伏せた。
(……あの日の……夢、か)
気が付くと同時に、ロノスの意思とは関係なく口が開く。
閉ざそうとは考えなかった。これから己が何を言うつもりなのかは知っているし、どうせ閉ざしたところで現実は変わらないのだから。
そうして口にした言葉は、予想通りのものだった。
この日、ロノスがビーアを訪ねた理由。それは、瞳を失ったクラトの行いに誘因していた。片目を補う為に彼が選んだのは、ロノスではなかった。アゼ家の瞳ではなく、エスローラの瞳を選んだクラトへ考え直すよう、説得を求めてビーアを訪ねたのだ。
しかし、ビーアは応じなかった。弟と妹が決めたことならば、自分が口を出す真似は出来ないと断られたのだ。彼ならばきっと、と勝手に抱いていた希望を砕かれてしまった。夢の中でも、それは変わらなかった。彼から全く同じ言葉を使われてしまい、あの日と同じように、目眩がロノスを襲う。
ふらつく視線が己の足元を映すのと同時に、祖母が耳元で囁いた。
「だから言ったでしょう。貴方は第三王子に仕えるべきではなかった」
ロノスは振り返らなかった。落ちた視線も、そのままにした。この部屋には三人しか居ないのだから。居ないはずの人間の声に反応する意味など存在しない。
「以前、ゼス様がお前の瞳を要求した時に応じなかったから、こうなったの」
あの日も、今も。祖母の言葉は変わっていなかった。
祖母はロノスが何処に居ようが構うことなく、傍に居ないにも関わらずロノスの耳元で囁き続けていたのだから。
数年前に病死した祖母の声が聞こえ続けているなど、誰に話せばいいかも分からない。どれだけ煩くとも、聞こえないふりをすればいいだけだ。それで十分のはずだ。ロノスは誰にも話さないつもりでいた。
(……そういえば、アーテに出会ってから……しばらくは、お祖母様の声が聞こえなかったな)
そうだ。アーテ、とロノスは思い出す。
夢を見る前はアーテと共に居たはずだ。魔獣化が進行したことは覚えているが、眠りに就いた記憶はなかった。つまり、彼の前で気を失ったということだろう。
魔獣化の症状をありありと見せてしまったのだ。
これ以上負担を掛けないように、目を覚まさなければ。そう意識すると、視界が再び白の一色に染まっていく。
すると、ビーアやイティアスの声は聞こえず、祖母の声だけが目覚めようとする意識を追いかけてきた。私の言うことが聞けないのかという言葉は、幼少の頃から何度繰り返されたかも分からない。
祖母の言葉は一部だけ正しい。というのが、ロノスの考えだった。アゼ家は王家の為に存在しているのだから、彼らの瞳であるべきだと唱える彼女は正しい。
しかし、クラトに仕えることを認めない彼女は間違っていた。ロノスがクラトへ仕えることは王家が決めたことで、背くことは許されない。アゼ家の者なら承知しなければならない決定事項だ。
けれど、祖母も始めはそうでなかったはずだ、という記憶もあった。
(お祖母様も、始めはクラト様を私の主だと認めてくださっていたのに。あの御方の瞳として恥ずべき行いはしないようにと、それこそ……毎日……)
そこで、ロノスの意識は覚醒した。
案の定というべきか、すぐ傍には悲痛な面持ちでこちらを覗き込むアーテが居り、その後ろでは密かに肩を撫で下ろすクラトも居た。
ふたりの名を呼ぼうと、息を吸い込んだ拍子。
——王位を継ぐ人間にこそ、お前の瞳は相応しいのよ。
ロノスは祖母がクラトを拒絶した理由を思い出した。




