第二十話
流血、痛みに関する描写がございます。
苦手な方はご注意ください。
そこには色が存在しなかった。何度瞬いても視界が変わる兆しもない。
何処かに存在する、何処かの狭間は変わらない黒色で構成されていた。
いくら歩こうと足が地に着く感覚すら訪れない。足音さえ聞こえず、まるで左右の足を宙で前後させているだけの様だ。
もしかしたら、ずっと落ちているのかもしれないし、浮遊しているのかもしれない。そんな暗闇を悠々と進むアドアは、後ろに続くふたつの気配を確認しながら口を尖らせた。
「もっと遊びたかったのになぁ」
何もかもが不安定なくせに、声だけはよく透る空間だった。
心底残念がるアドアの声に呆れた様子のゼスが続く。
「それ程まで、あれをネキアス様に知られたくないのですか」
「おじさんに知られたら遊べなくなるじゃん。アドアはもっと遊びたいの! それに、どうせ獲るなら熟れてからの方が良くない?」
その問いかけに賛同する者は居らず、つまらない奴らだと今度はアドアが呆れる番だった。わざとらしく舌打ちをしても、理解は得られない。
これでは帰還次第、すぐにでもネキアスへ金色の瞳を見つけたと報告されてしまうかもしれない。そうされてしまっては困る。せっかくみつけた遊び相手を取り上げられてしまってはつまらないと、そうされない為にもアドアは得意げに笑った。
「告口するつもりなら、アンタたちのこと……此処に置いていくからね」
困らされるよりも先に、相手を困らせればいい。至って単純な方法だ。
返事は溜息のみだったが、アドアは満足したように鼻歌を歌い出す。この暗闇に案内なく置いていかれた場合、二度と外には出られないのだから。そりゃあそうだろうとほくそ笑んでいた。
「あ、そういえば」
アドアは振り返ると自分に続くふたつの気配の内、小さい方へと歩み寄る。手を伸ばせば、ごつごつとした感覚に行き当たった。ほんのりと熱があるこれを斬り落とされていたなと思い出す。
触り続けていると後ろに退かれてしまったが、追うことはせずにアドアは再び歩き出しながら少女へと問う。
「ダリュー、身体は大丈夫?」
「問題ない。削れはしたけど、指までは到達しなかったから」
少女の、ダリューの声は至って冷静だった。平坦と言ってもいい。この程度は怪我の内に入らないとでも言いたげだった。
その途端、空間に笑い声が響く。
「あっはは! アドアが落としてあげなかったら、指どころか腕も首も全部もってかれてたくせに!」
アーテに斬り掛かれたあの時、アドアは自身とダリューを影に落とした。そうしていなければ、今頃ダリューは此処には居なかっただろう。
腹を抱えてアドアは笑うが、その姿が見えないダリューは気にも留めない。
彼女が感謝はしていると礼を述べると、子供はより一層可笑しそうに笑った。そうだったね、と止まらないそれを噛み殺そうとするも堪えられなかったのか、また笑い出す。
「ごめんごめん、こっちの人たちは知らないんだっけ」
「……何をですか?」
怪訝な顔をしたダリューの隣で、口を挟んだのはゼスだった。
ふたりが暗闇の中、同じ様な顔をしていることはアドアしか知り得ない。
楽しげに口元を歪め、アドアはダリューの丸みのない瞼にそっと触れる。
「生か死か。そのどちらかを感じた時ってね、侵蝕されやすいんだよ」
◇ ◇
内側で蠢く何かが、背に刺さっていた硝子を押しのけようとしていた。
心臓が強く脈打ち、呼吸が乱れ始める。
それは、いつかの森で味わった感覚に似ていた。間違いなく魔獣化の症状だった。
あの時のように倒れるわけにはいかない。激痛の中でロノスは踏み留まろうとした。このまま倒れてしまっては、アーテを不安にさせてしまうからと。
けれど、身体は言うことを聞かなかった。膝から崩れ落ち、傾く身体を支えようと咄嗟に手を床へ突き出した。そうして床へ叩きつけられた右手の隣にも、鱗がぼとりと落ちた。
ばきり、ばきりとロノスの身体は音を立てる。傷口を内側から外側へと掻き回す感覚が、口を自由に動かすことさえ許さない。
目を見開くアーテへ大丈夫だと声を掛けようとも言葉もろくに紡げず、ただ低い呻き声へと転じていく。
せめて、獣じみた声が外には漏れぬようにと歯を食いしばることしか出来なかった。ぎちりと閉めた歯に食い込んだ内側は血で濡れ、がりがりと爪が床に傷を増やしていく。
そんな光景を前に、アーテは息を呑んだ。落ち着いてなど居られなかった。
駆け出したアーテの足が、床に散らばる鱗を踏みつける。そのうちのひとつがぐちと音を立てた。革靴を裂き、足の裏へと突き刺さったらしい。
鈍い痛みにアーテは顔を 顰めるが、構わずに彼へと手を伸ばした。
しかし、その手は逆立つ紫紺色の前に止まってしまった。
硝子の破片を押しのけ、衣服を突き破りながら蠢く鱗はロノスの背を覆っていく。筋肉を沿うように、背骨を辿るように、あるいはそれらを隠すように。
魔獣に噛みつかれた右腕も同じことが起きているのだろう。侵蝕は右手の甲にまで及ぼうとしていた。
「ロノス!!」
今にも崩れ落ちそうなロノスの背を支えようとして、アーテは今度こそ手を伸ばす。指先を切り裂く鱗は無視して、比較的に侵蝕されていない左肩を支えようとした。そこまではいい。問題なかった。
けれど、彼の背に触れた瞬間、ぷつりと糸が切れたようにロノスの身体から完全に力が抜けたのを目の当たりにした。
落とすわけにはいかないと、背にも腕を回そうとして気付く。
隆起していた鱗はロノスの肌へ沿うように静まっていた。再び動き出す兆しは無く、多少の起伏もあれどアーテを傷つけるには至らない。
「お、おい。大丈夫か!」
何事も発さないロノスを不安に思い、抱き起こす形で顔を伺う。瞼は閉ざされているものの、彼の顔に苦痛を示す色は微塵も残されていなかった。元の色を差し引いても顔色は悪いが、気絶しているだけのように見える。
それなのに、違和感があるのは何故だろう。何かが可笑しいと感じているのはロノスに対してなのか、自分自身に対してなのか。
答えの報せはすぐに訪れた。徐々に重くなる身体にアーテは自覚しないまま魔術を使ってしまったことを知る。余程魔力を消費したらしく、吐き気すら感じられた。
(俺、なにを……した?)
確かに、始めはロノスの背を治療する為に回復魔術を使うつもりでいた。
だが、彼の背を這う鱗を見て、使ってはいけないと判断した。
何故なら、あれはロノスの傷を覆うような動きを見せたからだ。
それが本当に覆っているだけなのか、傷口を縫っているのか。それは分からなかったが、傷口の周囲から発生していることは確かだった。
傷を庇うために作用しているのならば、回復魔術をかけることで鱗へどんな影響が出るか分からない。
なにせ、鱗は傷を覆うだけには留まらず、全身へ広がろうとしていた。
それを助長させた結果、鱗がロノスを喰らい尽くしてしまったら、彼はどうなるのか。望まない最悪を予感したアーテは恐怖した。
だから、手が出せなかった。出せないはずだった。
それにも関わらず、何かをしてしまった。
思い返せば、理性的に魔術を扱えたことが少なかった。
先の戦闘でもそうだ。風の檻をどう脱したのか、自分でも分からない。ただ、通れないならば元いた場所に戻ればいいと、そんなことを思った気がする。
無意識に魔術を使ったのだとすれば、今は何を思ったのだろうか。
心臓がばくばくと五月蝿いのに、どこか冷静に考えようとする気味の悪さはひとつの汗となってアーテの額から流れていく。
「……止まれって……そう、思って」
アーテの頬を伝い、寄り添う行き場を失った雫が落下する。
そのままロノスの鼻先に落ちるか、床に吸収されるか。どちらかに行き着くはずだったそれは、静かに宙で留まっている。
しかし、アーテの視線はそこではなく、もっと下へと降り注いでいた。
ロノスはまるで動かない。瞼も、肩も、胸も。
彼は呼吸をしていなかった。
◇ ◇
「では、カラマ様もご無事なのですね」
屋敷の門を出て、街へと続く階段に差し掛かった時だ。
クラトは衛兵と出会った。出会い頭こそ警戒されたものの、クラトが身に付けていたブローチを見るなり伯爵の使いだと認められた為、ブローチには余程の効力があるようだ。
街の警備を任されていた彼らは有事があった際、屋敷で何があろうとも街を、民を優先するようにカラマから言い渡されていたらしい。
その民に懇願され、持ち場を離れて伯爵の元へ向かう途中だったのだと衛兵は話してくれた。彼自身もカラマの身を案じていたのだろう。クラトから屋敷の者に怪我人は居ないと聞かされ、ひとつ胸を撫で下ろした。
酒場に居た男もそうだが、カラマが慕われていることがよく分かる。同時に、その使いの証であるブローチを見たからと言って簡単に警戒を解かれてしまったことには些か不安を感じざるを得なかった。
(混乱に乗じて屋敷から奪って来たとは考えない……か。諍い嫌いのカラマ殿を主に持つだけはあるが、危機感が足りんな)
どれほど危機的状況でも真贋の確認ぐらいは取るべきだろうに、とクラトは苦笑しかけた口を引き結ぶ。
事が終わったらカラマへ忠告するか、と心に留めてから街の様子を訊ねた。
どうやら、夜中に魔獣の声が轟いた為に街でも多少の騒ぎは起きたものの、怪我人も居らず、今は落ち着きを取り戻し始めているらしい。
魔獣を前に冷静さを失う者は多いというのに。街へは魔獣の声以外、影も寄らず姿を一切見せなかったことも幸いしたのだろうか。
一年半前に魔獣による襲撃を経験した身とは思えない冷静さだと、口にはせずともクラトは素直に関心した。
「では、私は皆様へカラマ様のご無事を報告しに参ります」
「いや、ボクも——……」
衛兵は礼をすると、こちらに背を向けた。そんな彼を呼び止め、その背に続こうとしたクラトの足が止まる。僅かに目を細めたのは、背後で魔力の流れを感じ取ったからだ。
アーテが回復魔術を行った、というには大げさなものだった。
回復魔術といえど、戦闘向きの周囲へ魔術を展開させるものと比べれば、回復魔術は人から人へ魔力を流すものだ。それだけでは、こうも離れた場所まで魔術を使ったことが分かるほど魔力の流出は生じない。
(……何かしでかしたな)
呼び止めたことで、衛兵は律儀にも振り向いて足を止めている。
彼の言葉を疑っている訳では無いが、街の様子をこの目で見ておきたいという気持ちもクラトには残されていた。
「……ボクも、貴方がたの無事を伯爵へ報告に向かわせて貰おう。貴方も伯爵の無事を速く皆に知らせてやってくれ」
カラマへ街の様子を見に行くと宣言した手前もあったが、クラトは衛兵を見送ることを選んだ。踵を返し、屋敷へと急ぐ。
万が一、アーテが魔力の暴走を起こしたとあれば、その影響は伯爵の屋敷全体にも及びかねないからだ。
アーテが意識的に魔術を扱えないであろうことは知っていた。
彼が魔術を使うと意識した中で、まともに行えたのは幻影魔術ぐらいだろう。
無意識に使えば、込める魔力も意識的に使った時と比べ大きく増減する。
先の戦いでアーテが見せた無意識の内に使ったであろう移動する魔術、あの瞬間にも魔力の流れは出来ていた。多くの魔力が消費された痕跡だ。
今生じているのは、それよりも大きいものだった。なにより、一行に収まる気配がない。
(あの状況でふたりを置いてきた俺も悪いな、これは)
どの部屋に彼らが居るか、誰かに尋ねるまでもなかった。
本邸の廊下を進み、曲がり、迷うこと無くその部屋まで辿り着くことが出来たのは、未だにアーテが魔力を垂れ流し続けているからだ。
部屋の前、その扉。それには触れずに声を掛ける。
「アーテ、聞こえるか」
返事はない。
ただ、息を吹きかけた煙がその身を踊らせるように、僅かだが魔力の揺れを感じた。間違いなく、アーテは目前の部屋に居るとクラトは確信する。
しかし、中からは全くといっていい程、音というものが感じ取れなかった。人が居るという気配すら感じられない。魔力だけが感じ取れる唯一の手掛かりだった。
面倒な事になったな、とクラトは深く息を吐く。
その扉の向こう側で、アーテは必死にクラトの名を呼んでいた。
ぐったりとして動かなくなったロノスを抱え、助けてくれと嘆いている。
聞こえるかと問うたくせに、返事をしてもその先が訪れない。
「おい、ラト……っクラト! 聞こえてるんだろ、なぁ!!」
まるで、こちらの声が聞こえていない様子だった。
いくらクラトといえど、この状況で聞こえない素振りをするような人物ではない。本当にこちらの声が聞こえていないのかもしれないと、頭の隅では考えながらも声を張り上げ続けた。
「ロノスが、ロノスが! 息してないんだよ、俺が、何かしてから……俺のせいだろこれ! 俺がなにかしたせいなんだよ。なんとかしなくちゃいけなくて、でも分からなくて……っ、助けてくれよ、ラト!!」
いくら揺さぶっても、ロノスは動かない。呼吸をしてくれなかった。
死さえ脳裏に過ったが、彼から熱が奪われていく様子はない。普段よりも温かいぐらいだ。それこそ、あの森で倒れた時と同じぐらいに。
だから、死なせてはいないはずだとアーテは願っていた。
「いいか、アーテ。よく聞け」
先程よりも大きく、低い声だった。
何だと言いかけたアーテへ被せるように、クラトはそのまま続けた。
「まずはしっかりと呼吸をしろ」
「こ、呼吸……って……」
「ゆっくりでいい」
会話が成立しているようで、していない。互いの言葉は被り合っていた。
やはり、あちらには声が聞こえていないのか。確信へと変えながらも、アーテはクラトの言葉に従った。
吸って、吐いて。ゆっくりとした動作で繰り返していくと、途切れたり引っ掛かったりと滅茶苦茶だった呼吸が次第に落ち着いていく。
その間も、ロノスからは目が離せなかった。
「……ロノスへ幻影魔術を掛ける時はどうしていた。思い出せるか?」
機を見計らったように、クラトはアーテへ問いかける。
幻影魔術。アーテは口でその言葉をはっきりと繰り返した。
色を誤魔化す為の術。身を守る為に使うもの。自身へ使う時はそれだけで、ロノスへ使うときは少し違っていた。
中身がない彼の眼窩に傷が付かないよう、少しだけ回復魔術を掛けていた。
それはどのように行ったか。彼に触れて、そっと魔力を流す。それだけだ。
思い出せると、アーテは頷いた。
「魔術を解く時はどうだ。その感覚を思い出せるか。自分に掛けたものでもいい」
クラトの問いにアーテは目を伏せる。
どうしていただろう、と考える。すぐには思いつかなかった。
気付いたら、いつの間にか幻影魔術が解けていたことはある。それを掛け直したこともある。
それでも、解いた時のことは思い出せなかった。
「……どう、してたっけ。だって、やめるとしか……やめるって、なんだ」
またひとつ、アーテの額に汗が浮き上がっていく。
分からない、と困惑し浮かんだものが頬を伝う前に遮ったのはクラトだ。
「分からないなら、意識して拳を握ってみろ」
なるべく力を込めて。クラトはそう添えた。
彼の言葉に従って、アーテは拳を握る。ぐ、と音がしても更に力を込めた。爪が食い込む感触に眉根が動いた時、またクラトの言葉が届く。
「……そっと力を抜くんだ」
握り込まれていた指が、ふっと浮かぶ。浮いた指を、人差し指から順番に開いていった。開いた順番は意識した訳ではなく、無意識だった。
掌には爪の痕がくっきりと残されている。どれだけ強く握っていたのか、そう思考する前に次を待った。
「目を閉じて、流れる水を思い浮かべられるか? ゆっくりとした、穏やかな川だ。葉が流れに沿って運ばれていく。川はお前の魔力そのものだ。お前が拳をもう一度握れば流れは止まり、葉を拾えるだろう」
言われた通りに、アーテは川を空想した。住んでいた村の近くにも穏やかな川があったなとアーテは思い出す。葉で作った船を浮かべたこともあった。
緩やかな川に浮かぶ船はちっとも進まなかったが、余所見をしている内に流されてしまったこともあった。今はその船をじっと見つめている。
何処かへ消えてしまう前に、アーテは拳をそっと握る。止まった川に手を浸し、葉を抜き取る。水を帯びた一枚の葉のくせに、ひどく重く感じられた。
同時に、いつか宙で留まっていた雫が床へと落ち、がちゃりと扉の開いた音がした。思わず顔を上げると、呆れた様子のクラトがそこに居た。
「まったく……手間が掛かるな、少年は」
「ラト!」
アーテの大声に、聞こえているとでも言いたげにクラトは肩を竦める。
わざとらしい大股で歩み寄り、傍らで屈んでみせた。それから肘を膝に宛て、頬杖を着くという、いかにも誰かから文句が飛んできそうな姿勢の悪さだ。
「っ、ロノスは……!」
はっとしてアーテがロノスを伺うと、彼は呼吸を取り戻していた。
気絶したままのようだが、微かに上下した肩に息が続いている様子に安堵した。
鱗もまた蠢き出してしまうのではと危惧したが、その様子もない。
発熱はしているようだが、それでも生きていると確証が得られただけでもアーテにとっては十分だった。
途端に、忘れていた疲労が身体を襲う。
「き、もちわる……」
ぐるぐると視界が周りだす。
あの森で味わった思いと一緒だと自分に呆れてしまった。口先ばかりで、何も成長が出来ない。今度こそと何度思えば変わることが出来るのだろうか。
「きちんと魔術も解けている。安心して、今は寝ておけ」
「でも……」
寝ている場合じゃないと抗議したかったが、瞼は既に視界の半分を閉ざしていた。
目を開こうとするアーテの額をクラトの人差し指が押す。いつものように弾かれた訳でもない。軽く押されただけで、後ろへと転がってしまった。
次第にアーテの意識は微睡んでいく。クラトが何か言っている気もするが、聞き取ることは出来なかった。




