第十九話
残酷な描写と流血表現があります。ご注意ください。
離れと称されている建物はかつて、住み込みで働く使用人たちの為にカラマが用意した住居だった。カラマは家の為に尽くしてくれる使用人たちを大切にしており、彼らもそんなカラマに忠義した。
だからこそ、カラマが半魔の息子を匿うと決めた時には誰もが共に守ると誓った。
魔獣化の症状が進み、音を苦しみ始めた息子を少しでも海から遠ざけようと部屋を離れに移した時も、誰もが進んで世話をした。
その離れの一室からカーテンを僅かに開けて、恐る恐る外の様子を伺う少年こそがカラマの息子であり、長男のステリーだった。
ステリーは上半身こそ少年らしい面影が残されていたが、下半身はまるで獣の様な赤褐色の毛に包まれていた。その毛色も足に近づくほど黒色へと移り変わっており、もしも彼の下半身だけを見れば尾のない狐と見間違うかも知れない。
そんなステリーの耳に届いたのは救済の言葉。
「必ず助けて差し上げます。あなたたちを人間に戻す方法を知っているのです。半魔を悪く思う者たちに見つからぬよう、そっとお返事ください」
半魔を悪く思う者たち。ステリーは心の中でそっと繰り返した。弟はそいつらに連れて行かれてしまったのだろうかと、表情を曇らせる。
ステリーの弟、アステも一年半前に起きた魔獣騒動で半魔となったひとりだ。症状の進行が速く、毎日が苦しかったはずなのに、いつも笑顔で居た弟の顔が脳裏に浮かぶ。
だがアステは半年前、唐突に居なくなってしまった。誰に聞いても弟の行方は答えて貰えず、それどころか話をはぐらかされ続けていた。
子供ながらに弟のことを聞いてはいけないのだと、そう感じるようになった頃には母の姿も見なくなってしまった。
それまでは父と共に毎日会いに来てくれて、食事をする時も寝る時も一緒だったのに。
(もしもアステが悪い奴に見つかって居なくなったのだとしたら。僕まで見つかって居なくなる訳にはいかない)
そうでなければ、今日まで耐えてきた意味がない。
息をするだけで痛い身体も、聞こえすぎて指で突き刺してしまおうと思った耳も、傷つけずにステリーは我慢した。そんなことをすれば、皆が悲しむと思ったから。
きっといつかは元に戻れるはずだと励まされていたからこそ、耐えられた。
先程聞こえたあの言葉が本当ならば、まさにその時が来たのだろう。
だから、少年は囁いた。すぐ隣で眠る父が起きぬよう、そっと小さな声で。
「本当に、助けてくれるんですか?」
ステリーはすぐにでも返事が来るものだと思っていた。
しかし、聞こえたのは父の客人の声。
「隣の男に伝えろ。ロノスがお前を待っていると。その方に手を出せば、この目を抉り捨てるとな」
それから聞こえた会話は、先程の声の主が救済の為にやってきたわけではないことを物語っていた。
程なくして、何かが割れたような音と岩を砕くような音が本邸の方から響き渡る。眠っていたカラマも何事かと目を覚ました。すぐ隣を確認し、そこがもぬけの殻であると知ると顔を青ざめるが腕を引く存在に気付く。
そちらを見れば怯えた様子の息子がおり、カラマは彼を抱きしめた。
何が起きたのだとしても、息子が傍にいることに安堵した。
「ああ、よかったステリー」
「と、とうさま……!」
悪いひとが居る。そう伝えようと父の声を遮るが、震えた口は上手く動かない。息子の様子にただならぬものを感じたのか、カラマは周囲を伺う。
——直後、怒号が屋敷に響き渡った。
「誰も部屋の外に出るな!」
それは、クラトの声だった。
◇ ◇
「邪魔しないでくれるかしら」
まるで鈴が鳴るような澄んだ少女の声。場にそぐわない声だ。
燃えるような瞳にも赤色に似合わぬ冷ややかさがあった。そんな片目で半魔の少女はアーテを睨みつける。
少女を見据えたまま、アーテは息を呑んだ。少しでも視線を外せば、隙と見做し攻撃を開始されてしまう。そう予感させるには十分な眼光だった。ゼスとクラトも同様で、互いを視界に収めたままだ。
張り詰めた空気の中、無邪気な声が弾む。
「そうそう、邪魔は困っちゃうよ」
そう言ってアドアは大げさに頷いて見せる。その間もアドアは纏うローブの両袖から伸びる黒い爪を交差させ、ロノスの剣を押し留めていた。
ぎちぎちと爪を鳴らすアドアの黒色の瞳が、うっすらと細められる。
「だからさぁ」
ゆっくりとした動作でアドアは振り返った。
そうして囁く。まるで、子供が欲しい物を強請るような甘い声で。
「代わりに貰ってもいいよね、金色の瞳」
それが誰の瞳なのか。それを示す必要はなかった。
にんまりと笑うアドアとアーテの視線が絡んだその刹那。アーテの焦点から外された少女の姿が揺れる。標的を定め、一歩を踏み出す動きだった。次を許せば彼女はそのままアーテを襲うだろう。
その光景をロノスが視界に収めた頃にはすべてが遅かった。影から伸びた黒色がロノスの身体を窓に向かって吹き飛ばす。彼の背は窓を突き破り、外へと放り出された。飛散した硝子の破片に映ったのは、月とロノスに覆い被さる魔獣の姿。
魔獣は以前にも見た狼に似た姿をしているが、大きさはその比ではない。それが、そのまま落下していく。
一秒にも満たない内に目の前で起きた出来事に、アーテは目を見開く。
ロノスの剣だけが、床に取り残された。
「ロノス!!」
「待て!」
既にクラトの声など聞こえていなかった。名を叫び、もう届かないと分かっていてもアーテは手を伸ばす。その隙に、二歩目を踏み出していた少女がアーテへと迫る。少女が腕を振るだけで、アーテは壁ごと隣室へと吹き飛ばされた。
窓が割れる音に壁が破壊された音。いくら深い眠りについていたとしても、誰もが目を覚ますだろう。
「誰も部屋の外に出るな!」
剣を引き抜きながら迫るゼスの細剣を躱し、クラトが叫ぶ。
例え使用人だろうが、屋敷を守る衛兵だろうと変わらない 魔術師が居る戦いではただの足枷だ。この場に居られては堪らない。
それでも、いずれは誰かが駆けつけるだろう。静観を願っても、彼らは状況を知らないし、報せる時間もない。彼らは彼らの仕事をしようとしているだけだ。
せめて、カラマやその息子が動かなければ、それで構わなかった。
再び迫る細剣を剣でなぞるように潜らせ、打ち払う。細剣が僅かに浮いた合間。姿勢を崩さぬまま、ゼスは瓦礫に埋もれるアーテへと視線を流す。瞬間、土埃が消え去ると同時に兄弟の髪が靡く。未だ起き上がれずにいるアーテの元に走ったのはふたつの風だ。ひとつの風は切り刻まんと吹き荒び、もうひとつはそれを打ち払おうとアーテを中心に回っていた。
既に室内は嵐が過ぎたような酷い有様だ。家具は元の姿を失い飛び散っている。
「おや。魔術の才もあったのですね、クラトは」
「……兄上こそ」
互いに刃先を喉に突きつけたまま、両者は動かない。
ゼスの瞳の色に変化はなかった。魔術の扱いに差があったとしても、魔力の差がどちらに傾くかは一目瞭然だろう。剣の腕前もどれ程のものなのか、それもクラトは知っている。何故なら、稽古の中で本気を出した兄には一度も勝てたことがなかったのだから。
外からは魔獣の咆哮が轟いている。魔獣の声は街にも届いているだろう。一年半前に襲撃を受けた彼らがどう思うか。混乱は避けられまい。
衛兵らしき足音が近づく中、瓦礫から這い出たアーテが剣を支えに立ち上がる。
「……ラト、風どけろ!」
状況は最悪のように思えるが、あれからアドアと少女に動きはない。風に作られた檻の中に居るアーテへ手が出せずに居る訳ではないだろうに、観察するようにアーテを見つめるだけだった。
「馬鹿を言うな。刻まれるぞ」
クラトが風を止めればゼスの風がアーテを切り裂く。瞳を欲する彼らの目的からアーテを殺しはせずとも、その間際まで追い詰めるはずだ。おそらく、彼らが見たいのはその先だ。
アーテは彼らに試されている。風に刻まれ回復魔術を使うか、その場を脱せられる別の魔術を使うか。アーテが使う魔術に興味を持っている。
しかし。
「んなもん、全部ぶっ飛ばしちまえばいいだろ!」
アーテにとってはそんなものはどうでも良かった。むしろ、彼らの思惑など知りもしない。アーテの中にあるのは邪魔者を退かせ、今すぐにでもロノスの元へ駆けつける。それだけだったのだから。
「馬鹿を言うなと言って——……!」
それは、一瞬だった。
いつの間にか、少女とアドアの眼前にアーテが移動していた。この場に居る者たち全員が、そうとしか表現できなかっただろう。風を突き抜けた気配すらなく、感じられたのは魔力が移動した痕跡だけだ。何らかの魔術を扱ったことは間違いない。
けれど、正体が掴めない。文字通り、気付いたらそこに居た。
「お前たちこそ、俺の邪魔するなよ!」
アドアの影が伸びる中、少女が腕を払うよりも速く、アーテが剣を払う。影に引きずりこまれながらも僅かに触れたのか、少女から剥がされた黒い塊がごとりと地面へと転がった。
周囲を見渡してもアドアと少女の姿はない。睨み合う兄弟とアーテの姿だけだ。
だが、声が響く。
「やっと面白いものを見せてくれたね」
そう言ったのは確かにアドアだったが、姿は何処にもない。
嬉しそうな声はアーテの足元から聞こえていた。迷うことなくアーテは影に向かって剣を突き刺すが、床を抉る以上の感覚は生じなかった。
「なに逃げてんだよ!」
「どうせこの遊び場も潮時だったんだけど、まぁ楽しかったよ」
まるで、アーテの声など聞いていない様子だった。
剣を再び突き立てようと、何も変わらない。そうしている内にゼスの姿もどぷりと影に沈み、宙に剣を突きつけたままのクラトと足元を睨むアーテだけが部屋に立っていた。
「あの人に見つかる前に、もっと遊べるようになってね」
アドアの声を残し、揺らぐ影も静止した。
程なくして扉が開け放たれる。
「ご無事ですか!」
現れた衛兵の声に弾かれるように面を上げ、アーテは窓へと走り出す。
衛兵から見れば訳が分からなかっただろう。客人と聞かされていた子供が窓へ向かい出したのだ。自分たちの介入が驚かせてしまったのか、辿り着くまでにそれほど恐ろしい目に遭わせてしまったのかと嘆いても、既に子供は外へと飛び出した後だった。
「ら、ラト様、アーテ様が!」
狼狽える衛兵がいっそ可哀想で、クラトは深い溜め息を吐き出す。
「……問題ない。ボク達も魔獣の元へ向かうぞ」
◇ ◇
剣を手放せば、間合いに入り込める。
そう思考した隙を突かれ、魔獣の侵入も許した。ロノスは魔獣と共に宙を舞う。
利き手を齧られることは防いだが、腕に噛みつかれては同じことだ。右腕に忍ばせた短剣も取り出せない。このまま落ちれば、まもなく頭から地面に激突する。背に刺さった硝子の破片もどうなることか。
それでも、これはアドアが出した魔獣だ。即死は防いでくるだろう。死んだ生命からは急速に魔力が抜け落ちる。半魔であろうと、それは変わらない。そうなる前に動けなくなったところで目玉を齧り、奪ってから殺しに来ると予測できる。
(結局、このままなら同じだ)
自分が居なくなれば、そうすればアーテの旅は終わるのだろうか。浮かぶと同時に、また馬鹿なことを考えているなと口が笑う。悪い癖だということは、もう自覚していた。
(死が近づく度に、これだ)
ロノスが死を恐れたことはない。
今も半魔が救われる方法なんて、誰かを犠牲にする以外には存在しないと思っている。存在してはいけない者に違いないと。半魔だなんて呼ばれ方をしていても、血肉を求めてしまう時点で己はただの魔獣だと思っていた。
——死のうと、するなよ……頼むから。
——魔獣そのものとか、お前が思ってんじゃねぇぞ!
あの日、アーテはロノスの死を恐れた。
あの日、アーテはロノスの浅慮を否定してくれた。
だから、友が自分の意思で諦めてくれる、その日までは。
(まだ、死を選ばないようにしよう)
ロノスは左手を魔獣の腹部へと突き出す。鋭く伸びた爪はいとも簡単に剛毛を潜り抜けて肉まで到達した。腕を噛み締める力が僅かに揺らいだ隙に強引に引き抜き、勢いのまま穴の空いた腹部を蹴り飛ばす。
先に中庭へ足が着いたのはロノスだった。
本邸と離れを繋ぐ中庭には衛兵も居る。先程の破砕音で警戒態勢を取ったのだろう。既に武器は構えられていた。
こちらへ向けられても文句は言えないと思っていたが、客室から突出したことも、それがカラマの客人のひとりであることも目に収めていたらしい。槍が向いた先は魔獣だった。
彼らは勇敢にも起き上がる魔獣へと近づこうとする。その様子を、離れの一室からステリーを抱きしめたカラマが見ていた。息子は父の胸に顔を押し付けて震えている。
彼らが眠る部屋も知っていたのに、本当に愚かな真似をしたと後悔する。これ以上、余計なものを見せる訳にはいかなかった。
なにせ、彼らはクラトが大切にしたいと思った人間たちだ。
「お前たちは前に出るな。屋敷に入りこまれないことを優先しろ」
それだけを衛兵へ投げかけ、ロノスは魔獣の前へと立ち塞がる。
魔獣は咆哮するが、それに臆する者はこの場に居ない。
ロノスへ再び飛びかかろうともその姿を捉えることも出来ず、頭上へと飛んだ彼によって短剣ひとつで叩き伏せられる。だが、それで動かなくなるほど柔ではない。
ならば、もう一撃貫けばいい。そのまま腕を引いてとどめを刺そうとした。
しかし、それを成したのはロノスではなく、アーテだった。
二階から振り下ろされた剣は容赦なく魔獣の命を両断した。
目の前に飛来した少年の名を思わず呼ぶと、手を引かれ有無を言わさず魔獣の上から引きずり降ろされる。
しっかりと地に足が付き、それでようやく手を離したかと思えば、今度はがっしりと肩を掴まれた。
魔獣と対峙した緊張感が残ったまま、衛兵やカラマに見守られながらアーテが口を開く。
「なに考えて怪我は!! 今治すどこ!」
アーテが発したのはある意味、要領を得た言葉だった。
また心配をかけたとロノスが憂うまでもなく、アーテの顔は真っ赤である。
そのまま戦う奴があるかだの、どうせ心配かけたのが申し訳ないだとか思っているんだろうとだとか、また変なこと考えていたんじゃないだろうなと吐き終わらない思いが内心に展開されていた。彼は胸中に留めたつもりだったのだろうか。
実際は許容を越えたのか、途中から殆ど口に漏れ出している。
アーテの剣幕にロノスも周囲も唖然とするばかりだ。それを無言の逃避と受け取ったのか、アーテは掴んだままの肩をぐわんと揺らす。
何処から見ていたのか。いつから見ていられなくなったのか。
「なにをしているんだ、少年」
それでは答えるどころか傷が広がるだろうと嘆息し、クラトはアーテの額を指で弾く。遠慮のない一撃だ。短く呻き、額を抑えながらふらつくアーテを引き離し、クラトは改めて訊ねた。
「ロノス、怪我は」
「……あ、ああ。腕と背に少し……」
なにが少しなものか。指摘してやりたい気持ちは山々だったが、それは背後で復活したアーテに譲ることにした。一息は入れさせたぞと満足し、クラトはそろりと顔を出し始めた使用人の元へと歩み寄る。
「申し訳ないが、清潔な布と水を用意して貰えないだろうか」
「は、はい。すぐに!」
「ボクは街の様子を見に行く。魔獣の声は彼らにも聞こえていただろうからな」
私もと、声を上げようとしたのだろう。窓越しに立ち上がるカラマへ、クラトはふっと笑みを浮かべた。民思いの伯爵のことだ。彼らのことも心配で堪らないのだろう。
しかし、今はステリーの傍に居てやれと、マントに付けられたままのブローチを指差す。伯爵の客人である証は傷ひとつとして付いていない。
「皆は伯爵と御子息を頼む」
そう言ったクラトに異を唱える者は居なかった。
◇ ◇
少しなもんか。
手当ての為にと用意された部屋に案内される間も、アーテの頬は膨らんだままだった。必要な道具を受け取り、魔術を扱うところを見られるわけにもいかないと手伝いを申し出る使用人たちに首を振り、退室する彼らを見送る。
それから、正面を陣取ってロノスを睨んだ。
「ほんとに、腕と背中以外は無いんだろうな」
「ああ、無い」
落ち着きを取り戻したのか。ロノスからあっさりと答えられ、思わず目が据わった。この期に及んで隠しているのではないかと疑う眼差しになる。せめて逃さないようにと先に部屋の奥へロノスを通し、アーテは扉を塞ぐ。
ロノスの背には深々と硝子が突き刺さったままだ。なにも感じないはずが無いのに、平静な顔をする男が信じられなかった。他にも怪我があり、平気なふりをしているのではないか。そう思わずには居られない。
「なあ、それって回復させながら抜けばいいのか?」
「どうせ、治癒はあまり効果がない」
扉から離れようとしたアーテの足が止まる。
俯いたアーテに己がまた失言したと気付き、傷を蔑ろにする訳では無いと弁明する。逃げるつもりもないと告げようとした。半魔には回復魔術も効果が薄いから、魔力の消費もかかってしまうと。
「無理をして欲しくないだけ——……」
「これ、なんだ」
アーテは俯いていたのではなく、足元に散らばるなにかを見ていた。
蛇のものか、それとも別のなにかか。鱗らしきものが落ちていた。
どうしてそんなものが此処に。どうして、そんなものに血が付着しているのだろう。何故、それがロノスを追うように続いているのだろうか。
アーテが見上げると同時に、ロノスの背から硝子が独りでに抜けていく。
床にぶつかって割れた破片の横に、血濡れた鱗がぽとりと落ちた。




