第二話 前編
あれから、一晩が経った。
朝の森は静かなもので、ぼやけた緑の向こうから鳥の囀りが微かに聞こえるぐらいだ。どちらかといえば賑やかなものを好むアーテにとって、その静けさは些か苦痛だった。昨晩、ロノスの前で取り乱したことを加えれば、居心地の悪ささえ感じる。
「そういえばさ、フィロアリアって石より木でつくった家が多いんだな」
いま思い出したといわんばかりにアーテが切り出すと、ロノスの視線だけが声に反応する。その視線の流れが、気まずく思う気持ちを見透かされてしまったようで、住んでいた村は石造りの家が多かっただろうと、珍しく感じた理由を付け加えて主張することで誤魔化そうとした。
「フィロアリア……というより此処、レフカティカ王国は、この森のおかげで木工業が盛んなんだ。その影響だろう」
アリアの森と呼ばれるこの場所は、資源が豊富で、森の東側は王国が直轄しているほどだ。なんでも、東の奥深くに神聖な大樹が聳えており、魔獣も近寄らないという。大樹は国の象徴であり、森の恵みは大樹からの贈り物だとされている。その為、生活の至る所でも木材が使用されているのだそうだ。
「尤も、森の西側は国民も避けているようだが」
森の西側は隣国、エマテリア王国に続くアリア山へと繋がる道もあるのだが、東側ほどの通行規制は敷かれていない。
神聖な大樹とやらの加護が及ばないのか、魔獣も生息している為、長期に渡り滞在する者が居ないのだ。言ってしまえば、国境であるにも関わらず警備が薄い。両国の関係性が友好だからこそ出来ることだといえば、聞こえはいいかもしれない。
「へ、へぇ~~! そうだったんだな!」
「……街の名は覚えているのに、街へ入る前に話した森のことは忘れているんだな」
びしり、とアーテの身体が固まる。本当は覚えていた。いや、東側のことは忘れていたが。思い返せばフィロアリアへ入る前に、森の東と西の差についても聞かされていた気がして、気まずさを紛らわす為に始めた会話が意味をなくしていく。
なんとか動く口で、精一杯に目で見て覚えるタイプなんだと反論すると、小さく笑う声が聞こえた。
「店主がくれた覚書のことか? 俺が村に行く前は文字も読めなかったのにな」
「でも覚えるのは速かっただろ!」
食ってかかるようなアーテにそうだな、と笑いを噛み殺した声が続く。
「たしかに。子どもたちの中でも、読み書きだけは一番速かったな」
「だって、字を覚えたらロノスから聞いた旅の話も書いておけると思ったから……」
あの頃は楽しかったのに——そう続きそうになった口を閉ざす。
今が楽しくないとは言わない。それでも、あの頃とは違うのだと少しでも思ってしまったことが、後ろめたかった。結局、しまい込もうとした気まずさが、どうやっても帰ってきてしまう。
ぱきんと枝の折れる音に顔を上げて、いつのまにか俯いていたことに気付く。すっかりテントはしまわれて、焚き火の跡もロノスが始末したらしい。荷物もすべて持たれてしまっていた。アーテに出来たことは、立ち上がることだけだった。
「……そろそろ行くぞ。山道はまだ不慣れだろう」
アーテは拳を背に隠したまま、それを強く握った。
(——いつだって、俺は助けられてばかりだ)
◇ ◇
始めこそ違いが分からなかった森の道と山の道も、斜面を歩いていると実感する頃には景色も幾らか変わり、道の険しさは全く異なるものになっていた。
国境ということもあり、ある程度は整備された痕跡もあるが、登るという作業は体に負担がかかる。おまけに、魔獣がいつ出てもおかしくないとなれば、気も引き締まる一方だ。
少し先を行くロノスの足取りは軽やかなもので、彼が経験のある旅人だということをアーテは改めて実感した。時折、振り向いてアーテの姿を確認することを忘れない彼の顔には汗ひとつとして無い。
そのロノスが、唐突に立ち止まる。何事かと思えば、お前はゆっくりでいいとアーテに声を掛けて、振り向きもせずに山道を走って登っていった。
果たして、そんな様子を見ても尚、悠々と登山を続ける旅人が居るだろうか。
アーテは痛み始めた足を無視して地面を蹴り出すと、彼の背が視界から消えぬように、その後に食らいついていった。
ふたたび立ち止まったロノスにようやく追いつくと、そこには見知らぬ男がうつ伏せに倒れていた。
男の周囲に広がる彼の荷物であろう中から、フィロアリアで見かけた木材や布を見つける。他にも見慣れない物がいくつかあったが、おそらく男は商人かなにかなのだろうと察しがつく。
男の背には大きな爪で裂かれたような傷が広がっており、そこから止まる様子のない血が流れていた。
「おい! あんた、大丈夫か!?」
アーテは男の傍らにしゃがんで、男へと手をかざす。手のひらへ意識を集中させれば、水色に塗られていた左目が金色に溶けていく。光が浮かぶとふたりを包み込み——まるで時が戻るように、男の傷が消えていった。
ロノスへと振り返ると、彼は一度だけ頷く。
「……護衛は逃げたか、魔獣と共に崖下にでも落ちたんだろう」
アーテは周囲をもう一度見渡して、地面に散乱する商売道具の中に、抜き身の剣を見つける。商品としては随分と古い傷が多く、それとは逆に真新しい血も付いていた。その血は地面を伝い、魔獣と人間と思わしき荒々しい足跡と共に、崖の先へと続いていた。あの剣に主が居たとして、ここから落ちたのだとすれば。少なくとも人間の身では助からないだろう。
「……いま、のは」
か細い声に従って崖先から男へと視点を戻してみると、彼はすっかり上半身を起こしていた。ついでに言えば、これでもかと目を見開いている。信じられないものを見た、といった具合だ。その顔を見て、ようやくアーテは自分が魔術を使ってしまったことを自覚した。男は驚愕の顔を浮かべ、アーテは両手で顔を覆い、ロノスは額を片手で押さえる。
希少な存在とされる魔術師は、それを騙る詐欺師すら居ないほどにその真似事は難しく、目の当たりにすれば一目瞭然だ。
驚きと喜びか。男は輝いた目でアーテを食い入るように見つめている。目の前の少年が、ぶつぶつと自責の念をもらしていることにも気が付かないらしい。
それらはロノスがわざとらしく咳払いをするまで続いた。
「行商人と見受けたが……どこに向かう予定だったんだ?」
「え、えっと……。はい、今は家に——スフィトリアへ帰る途中でした」
スフィトリアは、アリア山を越えた先にある街だ。護衛に雇っていた者たちも同じ出身らしく、気心知れた仲だったという。
彼らがどうなったのか、もう理解しているのだろう。崖先を見つめる男——行商人の横顔に、山の冷たい風が吹き付ける。
「……心中お察しする。しかし、護衛が居なくては危険だ。血の匂いが残っている以上、魔獣がいつ襲ってきても可笑しくはない。——彼のことを他言しないなら、護衛を引き継ごう」
ば、と顔を上げたのは行商人だった。
遅れてアーテも同じように顔を上げると、ロノスがふたりの様子を伺いながらも、利き手を剣へと添えたままであることに気付く。
きっと、アーテよりも先に走り出したあの時から、そのままだったのだろう。
選ぶ時間は無いと暗に伝えているようで、アーテもそれは名案だとばかりに任せてほしいと、少し強く胸を叩いて見せる。
果たして勢いに負けたのか、名案と受け入れたのか。行商人はその案に乗ることとしたらしい。
「では……お願いします」
◇ ◇
ひとまず、三人は山中にある行商の仲間も使うという彼所有の小屋で、一晩過ごすことになった。
幸いなことに道中で魔獣に遭遇することはなかったが、魔獣は血の匂いに敏感だ。行商人が襲われた件で、山に住む魔獣へ刺激を与えた可能性は高い。その状態で山道を進むのは危険だ。
どのみち、夜通しで進むつもりはなかったが、野宿を避けられたことは有り難かった。とくに、アーテはそうであったようで、小屋についてからは機嫌が良い。
自分が野宿を避けられたことよりも、野宿をしたばかりのロノスがきちんと休められる機会を得られた、という喜びによる機嫌の回復だった。
小屋は外観から見ると簡素に感じたが、寝泊まりするには十分な設備が整っていた。行商の仲間も使うと言った通り、寝具が備わった個室もいくつかあるようで、この小屋が村にあったとすれば宿としても機能しそうなほどだった。
自由に使ってくださいと通されたのは、個室へと続く扉が並ぶ廊下の突き当りにあった部屋で、個室の中でも一番広いらしい。行商人はふたりを部屋へと案内すると、夕食を用意すると言って足早に立ち去った。
それから、半刻もしないうちに水の入ったボトルと、パンとチーズを敷き詰めた籠を片手に戻ってきた。
部屋へ駆け込むなり、彼はふたりを机と椅子の方へと促し、籠をどんと机に置くと、彼は対面に座りながら前のめりにアーテと向き合った。
どうやら魔術に興味があるらしく、助けられたあの時から話を聞きたくて、うずうずとしていたらしい。よほど急いでここまで戻ってきたのだろう。服装に乱れすら見える。
「その瞳、水属性ですか? 回復魔術が水属性とは知りませんでしたよ」
「あー、その。なんていうんだろ。べつに、回復は水! ってわけじゃないんだ、けど……」
アーテ自身も魔術に関しては知識ではなく、感覚として認識している部分が多い。
しかし、回復魔術が水属性に入らないであろうことには確信があった。
おそらく、回復を担う魔術の元はロノスが持っていた属性に値するのだろう。体内にある魔力の流れがそう語っている。彼の瞳を譲り受け、その属性を引き継いでいるからこそ、行商人が負っていた傷程度であれば、文字通りその程度として治せてしまう。
けれど、それを口にすることで、ロノスが片目であることに気付かれてしまうかもしれない。行商人の話に乗ってしまったことに後悔しつつ、乗ってしまった以上は急に切り上げることも怪しまれるだろうかと、そう考え始めると、パンへと伸びていた手も止まってしまう。
ロノスの左の眼窩には幻影魔術をかけてある。そこがもぬけの殻とは知りもしないだろうが、懸念を抱かせる隙を与えたくはなかった。
幸いなことに、アーテは魔術を使用した際、とっさに顔を隠している。その間に色を塗り変えたおかげだろうか。左目がロノスのそれと同じだったことに、行商人は気が付いていないようだ。
嬉々として話の続きをせがむ様子に、アーテはほっと息をつく。
「俺の目はたしかに水属性っぽいんだけど、水属性の魔術しか使えないわけじゃない。得意になるって言い方のほうが正しいよ」
「そうなんですか。でも魔術師ということならば、もうひとつ属性をお持ちなのでは?」
「え、そりゃ——……」
(あれ、ロノスの属性って……なんだ?)
今まで考えたことが無かったことに気が付き、アーテはそのまま口を呆けさせる。
一瞬だけ空いた合間に、それまでふたりの様子を伺っていたロノスが口を挟んだ。
「……あまり、詮索しないで貰いたいものだな」
用意されたパンに手を付けた様子もなく、ただアーテと行商人の成り行きを見守っていたらしい。いつになく、彼の声に冷ややかなものを感じ、思わずアーテですら息を呑んだ。ようやく手に取ったパンを落としかけたほどだ。
彼のことを深く知りもしないであろう行商人は、それを怒りと受け取ったのか、しどろもどろに適当な声を漏らしている。はっきりいって、空気が凍りついていた。
「アーテはあなたの治療で少なからず消耗している。はやく休ませてやりたいんだ」
「あっ……、そ、そうですよね! これは失礼しました」
すっかり縮みこんだ行商人が哀れで、アーテは机の影に隠れながらロノスの腰を小突くが、気にもとめない様子で彼は行商人から視線を外さない。
結局、その場はお開きとなり、残ったものはご自由にと、まだ中身が詰まったままの籠を残して彼は部屋から去っていった。
足音も聞こえなくなったことを確認すると、アーテは立ち上がりロノスを見下ろす形で睨みつける。
「ただの行商人だろ、あのおっさん。そりゃロノスの目はバレたらやばいけどさ」
いくらなんでも邪険にしすぎだと言いたいらしい。なにも答えないロノスに痺れを切らし、アーテは机に残された籠へ手を伸ばしてパンを掴み取る。
そうしてそれを、そのままロノスの前へと差し出した。
ロノスが水やパンに手を付けていないことには気が付いていた。
行商人を警戒しているのだろうが、アーテにはそこまでする理由が見つけられなかった。彼の挙動を見守る為に食事にありついていなかったのだとすれば、今は警戒する必要もないはずだ。
しかし、ロノスがパンを受け取ることはなかった。
「喉が乾くからパンは苦手なんだ。それに、腹も減っていない」
「水も用意してもらえたじゃん……」
そう言ってボトルを指差すが、しまいにはもう寝ろと言われてしまう。実際、未だ慣れない魔術の使用で消耗したことは事実で、少なからず眠気を感じていた。
もう、と不安げに声を漏らし、アーテは寝台へと向かうと大げさな動きで上掛け布に包まった。もぞりと顔だけを出して、未だに食べる気配のないロノスを睨みつけながら、彼に釘を刺す。
「俺は先に寝るけどさ、すこしは食べておけよ!」
「……ああ、しっかり休めよ」
◇ ◇
傾いていた日が完全に落ち、机に置かれたランプの明かりだけが残される。
それすらもロノスの手によって消されると、部屋は暗闇に閉ざされたように暗くなった。雲に隠れた月は姿を現さず、闇の中でアーテの寝息だけが聞こえる。
結局、机に残されたものには手を付けず、ロノスは椅子に座ったまま行商人が去った扉を見つめていた。
遠くで、かたんと小さな音がした。ようやく立ち上がったロノスはアーテを一瞥し、彼が眠ったままであることを確認すると、音も立てずに廊下へと向かう。
廊下の向こうには、行商人が揺らめきながらこちらへと歩み寄る様子が見えた。
先程とは打って変わった様子で、目は見開き、口元は引き攣るように歪んでいる。
その手には鈍く光るナイフがあった。
「彼の……彼の瞳を、妻に譲っていただけませんか」