第十六話
アーテが今までに訪れたレフカティカ王国やエマテリア王国は血筋によって定められた王が統治する国だったが、ガラッサ公国は貴族が統治する国だ。
次代を選別する際も王位継承順によって王が選ばれるわけではなく、貴族としての名を持つ者であれば候補者として名を挙げることが出来る仕組みが採用されている。とはいえ、辺境の地を統治している者では国民すべてから指示されるような功績を残すことは難しく、大きな港街があるロダー領の伯爵も落選を続けていた。
その大きな港街というのが今回の目的地であったダノーロだ。王としては選ばれずとも領民からの支持は厚く、伯爵もそんな民たちを深く愛しているという。そんな伯爵がどうして目の前に居るのか。困惑しながらも、しばらくは黙っていろと言いつけられたアーテは硬く結んだ閉口を維持するしかなかった。
「歓迎しますよ、クラト・ニユリ・リミクリー様」
「カラマ殿、畏まる必要はない。今のボクは旅人として昔馴染みを尋ねに来ただけだ」
今はただのラト・セマだと改めて名乗りながら、目の前に跪いた男へ手を差し伸べる。褪せた茶色い髪と揃いの顎髭を持つ男の名はカラマ・アクティ・ロダー。この地の領主である。
なぜそのような人物が自分たちの前に居るのか。リミクリー王国とガラッサ公国は久しく交流が行われていなかったのではないのかと、アーテの中で疑問は深まるばかりだ。例え、口では黙っていても煩いほど釘付けな視線が深々とクラトとカラマに向けられていた。
「それでも、貴方様がわたしの恩人であることには変わりありません」
「全く、義理堅い男だな」
「貴方様が居なければ、わたし達はあの時に死んでいたでしょうから」
「えっ」
カラマのひとことに堪えきれなくなったのか、アーテが声を漏らす。一瞬では足らず、次いで伸びに伸びた大声で驚きを示してしまった。当然、部屋に居る者達から注目を浴びる羽目となった。此処がカラマの屋敷でなく街の中であったなら、行き交うひとびとの視線を独り占めできただろう。
「……連れがすまない。彼はあまり教育を受けていないものでな」
「お気になさらず。元気があって良いではありませんか」
そう言って微笑ましくこちらを見やるカラマと違い、同じくこちらへ流されたクラトの視線には明らかな悪意があった。こうなると分かっていたに違いない。それでいて黙っていろと言われていたのかと思うと、眉間に寄せられた皺から音が鳴ってしまいそうだった。
「……もう、十五年も前になりますか」
——十五年前、カラマの妻がある病に罹った。病を治せる医者は領内には居らず、そもそも治療に必要となる薬草がこの土地にはないと言われてしまったのだ。
その薬草が生息する土地こそがリミクリー王国内にある雪山であり、カラマは腹心と共に探索へ向かった。王国へ辿り着く前に体力の限界を迎えた彼らは倒れ、これまでかと諦めかけた時。偶然にも城壁外に居たクラトが通りかかったのだ。
いやはや懐かしい、と瞳を伏せ頷くクラトの背をロノスが睨む。
「……その頃の貴方様はよく教師の方々を困らせていましたからね」
「奴らの話がつまらないからだろう。既に知っていることを長く語られていた俺の身にもなれ」
彼らのやり取りを過去にも見たのだろう。お変わりありませんねとカラマが笑う。
当時、倒れたカラマらを見つけたクラトは彼が身につけていた装飾からガラッサ公国に縁がある者だと見抜き、己の背に追いついたロノスと教師に彼らを客室へ運ぶように指示をしたのだ。
手厚い介抱によって意識を取り戻したカラマが政治絡みではなく、妻の為に此処まで来たのだと知ると、父王を説得して王室の医局から無理を言って薬草を持ち出してカラマへ譲った。
以来、国同士とまではいかないものの、カラマとクラトの間では文通による交流が続けられ、国を発つ直前に近々そちらへ顔を出すと文を送っていたという。
文を送っていたのは人ではなく鳥だと聞いたアーテは先程まで閉じていた反動もあるのか、開いた口が塞がらなかった。そんなアーテを視界に収め、くつりと一度喉を鳴らしてからクラトはカラマと向かい合う。
「では、本題を聞こう。船と地図を譲って貰う為の対価を」
船、と口にしかけたアーテの隣でロノスが首を静かに振る。こくりと頷いてからアーテはクラトとカラマを見守った。
おそらく、船はリミクリー王国へ向かう為の手段なのだろう。国同士のやり取りが行われていない以上、ガラッサ公国の港からリミクリー王国へ向かう公式な手段は現在では存在しない。
しかし、此処からリミクリー王国まで渡ったという実績のある船と地図は存在する。
「貴方様には恩義があります。対価など……」
「それは昔のことだ。私は今、貴殿の財産である船と今では未開とされる航路が描かれた地図を譲って貰うのだ。相応の対価が必要だろう」
クラトは正面からカラマの瞳を見据えた。何年も文を交わした相手だ。妻の病がすっかり治ったこと、息子が生まれたこと。その息子を貴方のように優しく勇敢に育てると誓われたこと。自分などは気に留めず、夫婦で思うように育ててやれと文を送り返せば、次は家族それぞれから文が届けられた。
そうして続いた文が、一年半前からカラマだけに戻ったのだ。筆まめで律儀な一家の変わり様、それに触れもしない内容の文に違和感を覚えるのは当然だろう。
「……なにがあった?」
誰にとは言わずとも、誰に何かあったことは知っていると、ひとつ落とされた声音がカラマに問いかける。一瞬、ほんの少しだけ、彼の視線は目の前の男から逃げ出した。カラマは瞬きの合間に何事も無かったかのように視線を戻すと、それでも重々しく口を開いた。
「……一年半前、街に魔獣が入り込みました。その時に、息子が大怪我を負いましてね。いまは離れで養生しています」
「……そうか」
「……息子の友人が、半年前から行方不明になりまして。息子も気が気でないのか暗い顔をしたままなのです。それに、その友人だけではないのですよ」
カラマ曰く、その頃からダノーロの街から時折行方不明になる者が居たという。それも、前触れもなく唐突に。夜のうちに居なくなり、姿を見せなくなったと。
愛する息子の友人と、愛する領民が行方不明となったのだ。当然、カラマは行方不明者の家族に話を聞きに行こうとした。けれど、領主様の手を煩わせるわけにはいきませんと十分に話を聞くことが出来なかったのだそうだ。
「解決して欲しいとは言いません。少しでも情報を頂ければ……」
「行方不明者のリストは? もしくは、共通点はどうだ」
「それが……」
「分からない、と」
成程、とクラトが小さく漏らす。それからアーテとロノスの方へと振り返る。どうする、とでも言いたげに首を傾げてみせれば、ロノスが動くよりも先にアーテがこくこくと頷いた。決まりだな、とクラトが無音のまま笑う。
「出来うる限り、行方不明者の行方を探そうではないか」
「よ、よろしいのですか?」
思わず一歩踏み出したカラマを片手で制し、クラトが大きく頷いた。
「勿論だ。対価に見合う結果を約束しよう」
◇ ◇
調査するにも無名の旅人では街の者へ要らぬ不安を与えかねない。
街へ滞在する間は伯爵の客人として扱われることとなったアーテ達はひとまず、屋敷の客室へと通された。客室の広さと豪華さにまたしても驚くアーテへクラトが何かを投げつける。
「なんだよ、もう」
手で直接渡せばいいだろうと、そう文句を垂らしながらも投げつけられた物を確認すると、花と果物の形が掘られた石のブローチだった。何だこれはと彼を見てみれば、胸を指し示していた。身に付けろ、と言うことなのだろう。よく見てみれば、いつのまにかクラトの胸にもブローチが付けられていた。アーテに見せつけるためだったのだろう。その目を確認したクラトはマントでそれを隠した。
「伯爵の客人である証らしい。無くすなよ」
「そ……ンなもんを投げるなよ!」
高価な物に違いないとアーテが青ざめる。物の善し悪しは分からないが、細かい彫刻からして職人の手によるものだろうと分かる。その上で伯爵の客人の証となればどれ程の物なのか。考えるだけで背筋がぞっとした。
「……それで、今から動くのか?」
「速いほうが良いだろうからな」
ロノスがそう問えばクラトは肯定する。ならばと背を預けたままだった扉を開けようとしたところでクラトと目が合った。己に影を作るほど彼が至近距離まで来ていたことにロノスが目を見開く。それから、小さく舌打ちした。
せめてもの気遣いだったのだろう。高価と知ったブローチを慎重に身に付けようとするアーテには聞こえないように、クラトが囁く。
「お前は今の内に少しは休んでおけ。船旅の間、ろくに寝ていないだろう」
「……ラト、伯爵だが」
「分かっている。だが彼に悪意は無い……そうだろう?」
それ以上何も言わなくなったロノスへブローチを手渡す。無言のまま受け取ると、ロノスは扉をクラトへ譲るように壁側へと移動した。
「……アーテに無理をさせるなよ」
「お前なぁ……」
この期に及んでそれかと、この分では睡眠を取ろうとするか怪しいものだ。いっそ倦怠感を覚えてしまいそうだった。それでも、休むと頷いたのであれば今は十分かとクラトは小さく舌を出しながら良しとした。小煩い保護者に気付かれぬよう背を向けて、アーテへ支度をしろと声を掛ける。
「え、今から行くのか?」
ようやくブローチを身に付けられたアーテが首を傾げる。ロノスには出かける様子が無く、声を掛けようとしたところでクラトの手によって阻まれた。
「もうじき夕暮れだろう?」
「そう、だから明日からでも——」
「話を聞くには丁度良い場所があるのだが、な。ロノスの耳には煩すぎる場所だ」
あいつの気が変わらない内に俺達だけで行くぞと小声で付け足せば、アーテは素直に頷いた。尤も、気は変えずとも彼の眉間には皺が刻まれていたのだが、クラトの背を両手で押すアーテは気付くこともなく、そのまま屋敷を後にした。
ダノーロの街は主に三つの区域で構成されている。大まかに下段、中段、上段と区域が分けられており、階段と斜面の多い街でもあった。港と漁業施設のある下段と居住区と商業区がある中段の間にある階段も中々に長く、そもそも中段自体にも段差が多く作られていた。
船から降りて白い煉瓦の街並を見渡しつつ階段を登り、見知らぬ造形に変わった街だなと感じたことを思い出しながら、アーテは少しだけうんざりとしていた。
伯爵邸は上段に居を構えており、これをまた一番下まで降りるのかと思えば中段の中程でクラトは階段から逸れて、とある建物へと向かって歩き出した。
その背を追い掛けながら、アーテが小声でその名を呼んだ。その間も、アーテは伯爵邸がある方をまるで盗み見するように様子を伺っている。
「なぁ……ラト」
「何だ、少年」
アーテの意を知った上で声量を抑えるつもりもなく、クラトは歩み求めずに続きを求めるが、背後で口籠る様子を感じたのだろう。小さく息を吐き出しながら、クラトが振り返る。
「……俺が休めと言ったからな、今頃は律儀に寝ていると思うぞ」
ずっと屋敷の方を気にしていたアーテのことだ。彼の耳に聞かれないように、聞きたいことがあるのだろう。
罰が悪そうに頬をかきながら、アーテはあのな、と切り出した。
「カラマのおっさんに恩を売ろうとしたのってさ、もしもの時……あいつの隠れ蓑にさせてもらう為か?」
「……なんだ、よく気が付いたな」
あまりにもあっさりとクラトは頷いた。頷いて、再び建物へと向かって歩き出した。てっきり、はぐらかされると思っていたアーテは口をぽかんと開けて、その場で呆けてしまう。
「ロノスも褒めていたぞ。勘は悪くないと」
その名にはっとしたアーテもクラトの後を追う。小走りに駆け寄って耳打ちするようにおい、と名を出した事を咎めようとする。余程彼の耳に聞かれたくなかったようだ。焦った様子が可笑しくて、鼻先だけで笑いながら自分で言うのも何だがなと語りだす。
「でも、うまくいくのか? それ」
「ただでさえ、カラマは俺に恩がある。上乗せすれば、もしもの時に助けを願えないかとは目論んでいる」
「そういうものかぁ?」
「そういう義理堅い男だ、あの人は」
(——ロノスもそのつもりだろう。自分ではなく、アーテを匿う為だろうがな)
そうでなければ疾うに口を出していただろう。頼み事に耳を傾けるまでもなく船を貰えるのであれば、少しでも速くリミクリー王国へ向かうべきだと。そうしなかったのは利害の一致とも言える。
(俺の思惑には気付いているだろう。アーテの為にもなるとすれば乗ってくるだろうとは思っていたがな)
いつの間にか暗がりになっていた街の中、クラトは足を止める。目前の扉を両手で開け放ち、中から溢れる音を迎えながら首だけをアーテの方へと傾かせた。
「少し見直したぞ、アーテ」
「何か言——……」
直後、轟々としたざわめきと強烈な匂いがふたりを通り越した。まるで突き刺さるような臭いにアーテは鼻を覆いながら、その中を見渡した。
建物に充満していたのは鉄板でじゅうと焼かれる肉と魚、成人したであろう男の掌よりも大きなグラスに注がれる酒、笑い合いながら何事かを語らう者達——様々な場所と物から漂う多種多様な匂いと音だった。
「あいつの耳と鼻には酷だろう?」
「これは……連れてこれねぇな」
つまり、クラトが言った丁度良い場所とは酒場のことだったのだ。今までも旅で訪れた街の中でその存在の気配を感じたことはあるが、故郷でも酒を飲んではいけないとされる年だったアーテが近づくことをロノスが許すはずもなく。
「先に言っておくが、何を勧められても口にするなよ」
「えぇー、飯もぉ?」
「飯もだ」
ならば、今回の同伴者であるクラトも許すはずがなかった。
がくんと肩を落とすアーテを尻目に、クラトは店内を見渡した。陽気に酒を交わす者、賭け事に興じる者、料理にかぶりつく者。改めて見ても、複数名の行方不明者が出た街の様子には思えなかった。その中で、ようやくアーテ以上に肩を落とした者を見つける。
「行くぞ、少年」
クラトは肩を落としたままのアーテの背をどんと拳で叩くと、そのままでは置いていくぞとばかりに店の片隅へ向かった。アーテはすぐ近くで豪快に酒を喰らう客を恨めしげにひと睨みし、思いの外に振動を感じた背を押さえながら彼に続く。
「やぁ、一杯どうだ? 奢るぞ。好きなものを店主に頼むと良い」
クラトが声を掛けたのは陽気さ溢れる店の片隅、丸いテーブルでひとり酒を煽る男だ。男が項垂れるようにもたれた椅子の足元には空の瓶が散乱しており、彼の顔は鼻先に至るまで真っ赤に染まっている。けれど、その顔は酒を楽しんでいる様には見えなかった。
「……なんだァ、兄ちゃん。おれになにか用かよ」
「周りは随分と楽しそうに飲んでいるのに、ひとりだけつまらなさそうにしていたから。安酒しか飲めていないのかと」
男に睨まれながらもクラトは男の対面の椅子に腰掛けると、やや離れた椅子を引きずり座面をぽんと叩く。ここに座れということなのだろうと、そう察したアーテも席に着く。テーブルにはすっかり冷めたスープと魚が放置されており、足元の酒瓶の数からしても、この男が長く此処に居座っていることが伺えた。
「どれだけ飲んでもよ、変わらねぇンだ。今となっちゃあ味もよぉ分からん」
男は手にしていた酒瓶を傾けるが、既に中には何も残されていなかった。荒々しく舌を鳴らしながら男が空となった酒瓶を机上に転がすと、転がる瓶に何かが鈍く反射した。その正体にクラトが指を差す。
「奥さんに怒られたりしないのかい?」
「……一年半前に死んじまったよ。魔獣に喰われちまった」
あ、と小さく声を漏らしたアーテは自身の手で口を塞いだ。男はそんなアーテには目も触れないで、クラトに指差された左手を庇うように右手を重ねていた。
「魔獣もひとを呪うのかね」
「どういう意味だ?」
「……よそ者は知らんだろうけどな。時折、夜の間によォ、行方知れずになる奴が居るんだ」
男の視線はアーテ達ではなく、重ねた右手の隙間から覗く左手の薬指に注がれていた。その隙にふたりは頷き合い、改めてクラトは男と向き合った。
「噂程度には聞いたさ。しかし、誰が行方不明となったのか。その名をあまり耳にしない」
街で行方の知れなくなった者がいるにも関わらず、街の誰もが口にしない。誰が居なくなってしまったのか、リストすら存在しない。不自然なほどに情報がないのだ。けれど、誰もが不安を隠している。陽気に酒を飲んでいる者たちも時折、周囲へ目を配らせていた。誰かと視線が交わる前に酒を飲んではを繰り返している。
クラトは机を指先で二度叩き、男の気を引いてからマントで隠していたブローチを晒した。それに習い、アーテも同じ様にブローチを男に見せつける。
「ボク達は伯爵の私兵だ。どんな理由があろうとも、伯爵はお前たちを見捨てはしない。そういう御人だと、あなたも知っているだろう?」
ブローチを前に見開かれた男の目と合わせ、クラトは努めて柔和に微笑んで見せた。そんな彼の姿を瞳に映しながら、男の口が震えている。もう一押しだとばかりにクラトは男の手をそっと握る。
「話してくれないか?」
そうだ、話してくれといいかけた口をアーテが噤む。今はまだ、この場で口を挟むべきではないと判断した。この男はなにかを知っているのだ。クラトがそれを聞き出そうとしていることも理解出来る。
思い返してみれば、伯爵と顔を合わせた時も、彼はアーテにひとまずは黙るように指示を出していた。
そうだ、自分はいつだって誰かと何気ない会話をする時のように、何にでも口を挟んでいた。その度にロノスやクラトから小言や同様な視線を受けたものだと思い返しては悔やんだ。
おそらく、この行方不明者が出ているという事件は非常に繊細な問題を抱えている。落ち着きがないと言われ続けた自分に出来ることは、クラトを信じて場を任せることだと、アーテは判断した。
「ボク達ではなく、お前たちを助けたいと願う伯爵を信じて欲しい」
賑わう店内の一角が沈黙する。それは、蛇口から漏れた水が地面に落ちるまでの僅かな時間だった。だが、男にとってはその一瞬すら長かったのだろう。
男を前に、クラトは何も口にしない。ただ口元だけを緩め、ほかは微動だにせず男の言葉を待った。
そうして、男はようやく口を開いた。
「……居なくなったのは、全員半魔なんだ」




