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oddmagia  作者: 湖流るこ
16/22

第十四話

 どこまでも青色が続く空と海。さながら青色の両腕に抱かれながら、キュア号は太陽に輝く金波(きんぱ)と共に海原を進む。

 アーテにとって海を渡る経験は、初めてではなかった。今まで二度あったことだ。

 一度目はロノスと共にミロ村から旅立った時。二度目はクラトに(いざな)われ、あの南の集落からカロ島へ向かった時だ。

 どちらも用いたのは小舟であり、キュア号ほどの規模ではなかった。

 キュア号は豪華客船とは呼ばれてはいるものの、ガラッサ公国と貿易するために作られた船とも言われている。

 船には四本の帆柱が備えられており、それぞれの帆を海の状態に合わせて付け替えることで、気まぐれな海を従えたように航海することが出来るという。

 その為か甲板ですら広く、乗船する前からはしゃいでいたアーテはすっかり興奮していた。

 中央に(そび)える帆柱の上部には見張り台が付けられており、見上げると海原の様子を確認しているのであろう若者を見つけた。仕事に熱心な様子でこちらに気付きもしない。そのアーテの後ろで腕を組むクラトにも双方気付いていない様子だ。


「すっかりご機嫌だな、少年」


 跳ね上がった肩に手を掛けながら、クラトがアーテの顔を覗き込む。蜂蜜色の髪とマントが風に揺らめいていた。アーテの髪やマントも同じはずなのに、どこか(しお)れたように見えるのは気のせいだろうか。


「きゅ、急に話しかけるなよ。吃驚しただろ!」

「何を言うんだ。ボクはずっと話しかけていたぞ」


 クラトがそう言えば、すっかりその言葉を信じたアーテが肩を落とす。

 彼のからかいを(たしな)めるロノスも今は此処に居ない。必要以上に他人と接するべきではないと部屋に閉じこもってしまっているからだ。

 なにせ、船というものは揺れるものだ。いつ、誰がよろめいた拍子にあやまって彼の空の眼窩やまぶたに触れてしまう——なんて自体が起きるか分からない。逃げ場のないこの海の上で半魔と知られてしまったのであれば、海に突き落とされても文句は言えないだろう。

 ロノスが部屋から出ないというのなら自分も、と言い出すアーテを無理やり連れ出したというのに。いざ海を進む船の甲板に出ると、実に子供らしい顔を浮かべてはしゃぐものだ。

 少しばかりの悪戯は許せよと、部屋に居残りした保護者を思い浮かべながらクラトは口元を笑わせた。


「しかし、すっげぇな」


 この大きな船が海の上に浮いていることが未だに信じられず、アーテは手すりに両手を付いて身を乗り出してその様子を伺おうとした。

 案の定、勢いづいたせいか、揺れたせいで足が離れたのか。危うく船から落ちかけたアーテの首根っこをクラトが摘み上げる。


「……あとでロノスからも怒られたまえよ」


 アーテのマントを掴んだまま、クラトは甲板の内側へと移動する。

 いつからこちらを見ていたのか。先程はアーテに気付いていなかった見張り台の若者と目が合い、微笑ましい顔で手を振られてしまった。


「みられてるって、なあ! 離せよ!」

「お前が海に落ちたら、あいつは音ですぐに気付くだろうなぁ」


 降ろせと文句を垂れていたアーテが押し黙る。容易に想像が付いたのだ。何も自分に限った話ではない。誰かが船から落ちれば、彼はすぐに気付く。

 そして、躊躇(ためら)いもなく助けようとするだろう。他人であれば気をつけろの一言で済ませるところも、落ちたのがアーテとなれば以降は船旅が終わるまで部屋から出して貰えないかもしれない。


「ま、少年が注意を逸らすほど、船旅を気に入って貰えたなら何よりだ」

「いちいち嫌な言い方する奴だな、ラトは」


 ようやくクラトから解放されたアーテの眉が不満を訴える。

 どうにも話す度に棘を感じることが多いのだ。ロノスから受ける子供扱いとも少し違う。直接的なこともあれば、後々考えると嫌味だったように感じたこともある。

 へそと口を曲げたアーテに返事をすることもなく、クラトは客室層に続く階段を降りていった。


「あ、待てよ!」

「船の上で走ると転ぶぞ」


 その言葉と同時だっただろうか。見事にアーテは階段を転がり落ちていった。



 案の定、アーテが盛大に転んだ音はロノスの耳にも届いていたらしい。

 部屋に入るなり睨みつけながら何をしていたと訊かれ、思わず跳ねたアーテの肩にふたたびクラトが両手を置いた。


「あまり怒らないでやってくれ。少年も海へ落ちそうになるほど船旅を楽しんでいるんだ」

「おい! 余計なこと言うなって!」


 ほんの一瞬でも庇って貰えると思ってしまった己をアーテは恨んだ。頭上ではさぞご機嫌な男が居るのだろうと思うと、見上げる気力さえ無かった。


「……それで、どうだった。海は」


 吐き出しそうになる溜息を飲み込みながらロノスがアーテに問えば、床へと落ちかけていた彼の視線がぐんと正面を向く。その輝きと言えば、まさにあの輝く海そのものだった。


「すっげーきらきらしてた! 海なんかもう慣れたと思ってたけど、やっぱ違うものなんだな」


 目を閉じて、脳裏に焼き付けたばかりの光景を呼び起こす。

 ああ、風も気持ちよかったなと思い出して深く息を吸う。考えてみれば、空だって同じ姿ばかりではない。

 海にもいろんな姿があるのだと、この先の船旅に胸が躍る。


「あ、そうだ」


 海、船。はたと思い出したようにアーテがクラトへと振り返る。彼が先程ロノスの代わりに溜息を溢していたことなど知りもしないのだろう。

 どうした少年、と返すも呼び名にすっかり慣れたのか、はたまた気付かないのか。アーテはどこか期待に満ちた瞳でクラトを見上げた。


「ラトはリミクリーからあの森へ来たんだろ。この船に乗るのも二回目なのか?」


 それがどんな旅だったのか聞きたいのだろう。

 例えキュア号でなかったとしても、遠く離れた国からやってきたのであれば、それは壮大な船旅をしたに違いないと少年の目が期待に満ちている。


「ああ……その、だな」


 その眼差しから逃れようと片手で空を押し、ちらりとロノスを見やる。

 歯切れの悪いクラトに何かを察したのか、彼は既に呆れたような顔をしていた。


「……あの森からカロ島へ移動した時に魔術を使っただろう?」

「ああ、あれ! 速かったよな!」


 それがどうしたと、アーテが首を傾げる。輝く瞳は健在だ。

 よくよくと己がしたことを思い出せば、自分でも馬鹿らしいという感想が出てくるあれを旅と呼べるのか。聞かせられるのか。


「……急いでいたからな。あの時の小舟で全て済ませたさ」

「……うん?」


 アーテの首が更に傾げられた。

 思い出すだけで馬鹿らしい。いくらか正気でなかったに違いない。

 魔力が尽きるまで爆進し、危うく死にかけたのだ。

 誰に言われようと、二度と同じことをするつもりも無い。

 尤も、小舟であろうと三人乗りでは不可能だろう。あの集落からカロ島までが限度だったのだ。とてもじゃないが消費するであろう魔力が足りない。

 ——などと話せるわけもなかった。


「少年が期待するようなことは語れない……と言うことだ」

「ちぇー、なんだよそれ」


 むくれるアーテの後ろで、ロノスは今度こそ溜息を吐き出した。



 ◇ ◇



 青々しく輝いていた海に日が落ち、夜もが溶け込んだ頃。ロノスの瞳が(またた)いた。

 聞こえてくる波の音が心地良いのだろうか、アーテはすっかり寝息を立てている。

 こうして見下ろしても、気配で目を覚ますこともない。

 ——彼と違って。


「……起こしたのなら、悪かった」


 まさか、彼と暗闇の中で目が合うとは思っていなかった。

 音を立てずに居たつもりでも、寝ている人間と起きている人間の気配は異なるのだろうか。起き上がったクラトからロノスは目を逸らす。

 抑えられた声量に合わせた声が気にするな、と返してから続ける。


「お前にとっては、夜であろうとこの音が(わずら)わしいか」


 停泊出来るほどの静かな夜でも、海の音がロノスの耳には届いていた。

 船体へぶつかる波の音。海底から浮かぶ泡の音。

 海中を過ごすあらゆる生命の音が、途絶えることなく耳を刺激している。

 海に()まう魔獣が発する音も遠くから聞こえはするものの、幸いなことにこちらを気に留めた様子はない。


「街で聞く喧騒の方が良いと、そう思うとはな」


 それは眠る者たちへ気遣った声ではなく、ぼそりと呟かれただけだった。

 街であろうと、それが村であろうと。人がいる限り、夜でも何処からか音は聞こえてくる。いつだって深く眠ることは出来なかったが、そのうち慣れるだろうと高を括っていた。

 しかし、慣れるどころか拾う音ばかりが増えていく。片目となり、さぞ視界も悪くなるだろうと思っていたのに。暗闇の中でクラトが眉を(ひそ)めたこともくっきりと見えていた。


「心配なら不要だ。まったく眠れないわけじゃない。ただ……」

「……アーテには黙っていろ、だろう?」


 音もなく、クラトが寝台から足を降ろす。

 幼い頃から共に育った身だ。彼が魔獣化による症状を自ら進んでアーテに話したとは思えない。聴覚や嗅覚の話も、あの森に住む少女がきっかけでようやく話せたに違いないと、目の前の男を睨む。


「……吸血衝動について、いつ話すつもりだ」

「……」


 返事はない。ただの沈黙だ。頷きもしなければ、首を振ることもしない。

 それが答えだとは、クラトは認めなかった。壁に手を付いて、逃げるなと挟み込む。すぐ傍らのアーテへと視線を逸らすことすら許さない。


「いつ、話すつもりだ。答えてみろ」

「話して……どうする。取り乱すだけだ」


 精神的にも危ういアーテを守るためだと、彼を利用してまで国へ戻れと言った癖に。彼の弱さを、脆さを知っているはずだとロノスが睨み返す。


「そんな話はしていない。貴様はアーテにいつ話すのかと、そう訊いたのだ」

「……お前は……っ、貴方は! ……私に、何をさせたいんですか」


 視線は逸らさない。睨んだままだ。

 けれど、声が震えていた。クラトがなにを望んでいるのか、ロノスには検討もつかなかった。アーテに隠れ魔獣の血を吸うことには協力的な姿勢を見せたくせに、何故、いつ話すつもりなのかと問われるのか。ぎちりと歯を鳴らす。

 その時、目を見開いてロノスが顔を背けようとした。

 クラトは敢えて、ロノスが顔を背けることを見逃した。その先に、アーテの寝顔があったからだ。


「……そこも、変わってきているのだろう?」


 自らの手で、ロノスは口を覆う。歯で切り裂かれて溢れた血を、勿体ないとばかり伸びた舌が勝手に(さら)っていく。ごくりと鳴った喉が渇きを訴え始めた。

 アーテから目を逸らせずにいるのは何故だろうか。知られたくない一心に違いないとロノスは己に言い聞かせる。クラトがあのガラス瓶を取り出した音が(わずら)わしかったからに違いないと、せめて目を瞑る。


「貴様の飢えに気付いた時、アーテはどう思うのだろうな」


 ロノスとアーテの間。取り出したガラス瓶をその間に揺らす。

 血の揺れる音が彼の耳には届いているだろう。甘い匂いが鼻をくすぐっているのだろう。


「熟睡しているようだが、どうだろう。起こしてやろうか」


 アーテへと伸ばされたクラトの手をロノスが掴む。震えているせいか、顔を俯かせてしまったからか、まるで力は籠められていなかった。


「……アーテを苦しめたいのですか、貴方は」

「貴様は、私よりもこの少年を信頼しているのだろう?」


 彼の口から出たものは、アーテを信じてやらないのかと問われた際にロノスが彼へ返した言葉だった。貴方よりは信頼していると、そう答えたことを忘れたのかと咎めるようにクラトの目が細められる。


「それほど想ってやるなら話しておけと、そう言っているだけだ」


 後悔するぞ。そう言ってクラトはロノスの手を振りほどく。

 力を失ったように壁に背を預け座り込む彼の前へしゃがみ込むと、改めてガラス瓶を差し出した。


「飲んでおけ」


 無理やりロノスに受け取らせると、クラトは立ち上がり寝台ではなく部屋の扉へと歩き出す。ロノスはその背へ声を掛けることが精一杯だった。


「……何処に行くの、ですか」

「夜風へ当たりに行くだけさ。少年と違ってボクは落ちたりしないからな」


 だから、その顔がどんな表情をしていたのか。彼らは互いに知りもしない。



 ◇ ◇



「ふあぁ……」


 大きな欠伸と共に背を伸ばす。安宿と違って背に痛みをあまり感じないことにアーテは喜びを覚えた。それ程にとても清々しい朝だった。

 もう一度身体を伸ばし、ちらりと両脇の寝台を見ようとしたが、どうせ居ないのだろうとやめた。毎度の如く、最後に起きるのは決まって自分なのだ。

 起こしてくれればいいのにと、ロノスに対してだけでも何度思ったことか。

 ちぇ、と舌打ちをしかけて真横に立っていた影に気付く。


「び、びび……吃驚するだろ、なんだよロノス!」

「……悪い」


 いつからそうしていたのか、彼は顔を俯かせたままだ。

 下から覗き込むといつもより青白い顔をしており、今度はアーテが顔色を変えた。


「顔色悪いぞ、お前。もしかして酔ったのか?」


 魔術で治るものなのだろうかと、手を(かざ)そうとしたアーテを止めるべくロノスが首を振る。違うという声も聞こえた気がした。


「……アーテ」


 名を呼ぶくせに、こちらを見ない。ますます分からないとアーテは怪訝な顔をした。どうしたと訊ねても、名を呼んだきり何も喋ろうとしない。


「大丈夫か、ロノス?」

「……お前は」


 小さい声と大きな声が入り混じったような、絞り出したような声だった。

 思わず、アーテも息を呑む。


「俺が、血を飲んでいると言ったら、どう……する」

「……えっ?」


 俯いたまま、ロノスが自身の首を両手で押さえる。その手は震えていた。

 意識的なのか無意識なのかは分からない。震えながらも、押さえるようにしていた手が締め上げるような手つきに変わったことを、アーテは見逃さなかった。


「ロノス、落ち着けよ! 血って、なにを……」


 力が籠められる前に、アーテはその両腕を掴んで首から引き剥がそうとするが、びくともしない。


「お前に隠れて、この喉で……。この、口で……魔獣の血を啜ってきた」

「そ、れ……魔獣化の症状ってことか?」


 頷いてみせたロノスを映したアーテの瞳の中で、瞳孔が開く。

 それと同時に感情がふつふつと湧き始めた。黙っていたのかと、ぐるぐると渦を巻きそうになってしまう。


(なんで、教えてくれなかった? いつからそんな——いや、違う)


 あの森で、話さないのは取り乱すからだと言われたじゃないか。

 ならば、ここで感情に飲まれてはいけない。彼は自分から打ち明けてくれたと、アーテは心に言い聞かせる。

 容易なことではなかった。飲み込もうとしても、疑問は鎌首をもたげようとする。

 こうなるから、彼が話せないのだと必死に自身を叱咤した。

 感情のままに言葉を吐き出しても、飲み込んだままにしてもいけないのだ。それだけはアーテも理解していた。


「……魔獣そのものだと、お前も……そう、思うか」

「そんなわけないだろ! バカにすんじゃねぇよ!」


 ばちんと加減の無い音を響かせながら、アーテがロノスの両頬を打つ。

 僅かに開いた彼の口から見えたものは、明らかに過剰に尖った犬歯だった。

 いつからそうだったのか、なぜ教えてくれなかったのか——そうではない。

 気付けずに居た己へ腹が立った。それこそが、感情が湧き出る原因だと思い知る。


「そりゃ今だってぐちゃぐちゃだ。自分が怖いぐらいに意味わかんねぇけどさ!」


 何を口走っているか、アーテ自身すら分からなかった。余計なことを言ってしまってはいないか、恐怖を抱いていた。

 だからこそ、必死の中で伝えなければならないことだけに集中する。


「どんなになっても、ロノスはロノスだろ。人間だろ!」


 少なくともアーテの中では始めからそうだった。彼が人間でない時など存在しない。これからもそれは変わらない。

 それ故に、彼の中でそこが変わっているのであれば、己が無理やりにでも正してやらねばならないと思った。


「だから魔獣そのものとか、お前が思ってんじゃねぇぞ!」


 分かったか、とロノスを引き寄せて思い切り頭突きをお見舞いしようとした。

 明らかに様子の可笑しい彼には言葉だけでは届かない。そう思っていたのだが、いつの間にか両肩を強く押さえ込まれてしまっていた。


「やめておけ。……怪我をするぞ」

「……はぁー!? 俺が石頭って言いたいのかよ!」


 お前が怪我したら治してやるからと、アーテは再び頭突きを食らわせようと目論むが、標的からこの場にそぐわぬ笑い声が聞こえて不機嫌そうに顔を(しか)めた。


「お前なぁ!」

「く、……はは」


 押し留めようとした息がロノスの喉から漏れていく。

 彼は顔を背けながら俯かせていた。どんな顔で笑っていやがるんだと、せめてその顔を覗いてやろうとアーテが身じろぎしても、両肩を押さえつけるロノスの力は緩まない。


「そんなに俺の頭は石か岩ってことかよ!」

「ふふ……ち、ちがう。お前じゃない」

「はあ?」


 先程までの深刻そうな顔はどこへ消えたのか。互いにまるで違う顔を浮かべていた。その表情を崩さずにロノスは再度アーテへ問いかける。


「俺が魔獣の血を飲んでいると言ったら、お前はどうする」

「……正直、止めたい」


 魔獣の血を摂取することで身体へ害は生じないのか。なにも身体だけではない、つらく思う気持ちはないのか。あったからこそ悩んでいたんだろうと問いたかった。


「けどさ、喉が乾いただけでお前がそうするとは思えないんだ」


 それこそ、あそこまで思い悩んでいたのだ。彼にとって、単なる欲を満たすだけの行動な訳が無い。

 だからこそ、こちらを優先して訊いておかなければならないと、揺らぐことなど無いようにまっすぐ彼を視界の内へ収める。


「魔獣だけじゃなくて、人間に対しても……吸いたいって思う時があるのか?」

「……あぁ」


 瞳を揺らしながらも、彼は逃げなかった。

 例え、魔獣のものだとしても、摂取しなければ血への渇望は膨らむ一方だ。


「ひとのものは、魔獣より甘い匂いがするんだ。だから……」


 半分ほど中身を残したガラス瓶をアーテの前で揺らしながら、ロノスは語る。甘美な誘惑を打ち払う為に、飢えを満たしておく必要があると。


「それ……」

「クラトが用意してくれたものだ。船旅では魔獣に接触出来る機会は減るからな」


 やはり彼は既に知っていたのかと、胸が痛む。痛むけれど、その虚しさを叫んではあの森の時と同じになってしまう。


「これ以外にも、まだクラトが預かってくれているから、今は大丈夫だ」


 (こら)えなければと口を引き結んだアーテの様子を不安だと捉えたのか、ロノスが肩を竦ませる。間を置かず、違うとアーテが首を振った。


「勘違いすんなよ! お前が誰かを襲うとかそんな心配はしてない」


 そんな理由があるものかと、自分を情けなく思っただけだと抗議する。

 やはり彼はその辺りの自己評価が低い。どう思われているかへの卑屈さが目立つとアーテも頭を悩ませる。悩む脳裏に浮かんだのはクラトの言葉だ。



 ——あいつにもふたり兄が居るんだが、まあアゼ家らしく他人……というよりは主ばかり優先する奴らだ。だが、あれはそれより酷いな。

 ——あいつをアゼ家の呪縛から解いてやってくれ。

 ——俺には、無理だった。



 思い出すだけで、彼をそうさせた彼の祖父母に腹が立つ。腹は立つが、そんなものを此処で立てたとしても、どうしようもない。


「ロノスが誰かを襲う心配はしてないけどさ、お前への心配だけはさせてくれよ」

「俺への……?」


 何への心配だと言わんばかりの顔だ。

 余程クラトも苦労したのだろうなと、アーテは彼へ同情した。


「身体に不調とかあったら、俺でもラトへでもいい。きちんと言えってこと!」


 分かったかと、アーテはロノスへ指を差す。

 まるで勝ち誇ったように笑うアーテだが、格好付けは波に揺らいだ船の傾きによって儚く砕かれる。転ばなかったのはロノスによって首根っこを掴まれたからだった。


「空気読めよな、もー!」


 ロノスへ差していた指を、今度は船へと向けた。



 ◇ ◇



 どうせ話すことは出来ないだろうと思っていたが、どうやら決心したらしい。

 クラトは船内の廊下で扉に背を預けたまま、先程聞こえてきたアーテの情けない叫びに苦笑を浮かべていた。


「まったく、しまらない奴らだな……」


 今も尚、アーテは船へ文句を()れているようだった。

 こん、と内側から扉が叩かれた音にもアーテは気付かない様子だ。


「……貴方が絶望的に助言が不得手であったことを、今思い出しました」


 夜とは打って代わりすっかり落ち着いた声が棘と共に囁かれる。

 確か以前、兄妹からもそのようなことを言われたことがあったなと、黙ったままクラトも思い返していた。


「助かりまし……」


 ロノスの言葉が止まる。

 アーテに気付かれでもしかたと思ったが、そうではないらしい。


「ありがとう、ラト」


 意図的に引いた言葉は、波の音に掻き消されてしまいそうな小さな声で続けられた。それこそアーテの声に上書きされてしまいそうだった。

 だからこそ、彼もまた小さな声でそっと返す。


「……どういたしまして」


 波打つ海の上、船室の内側からこつんと扉を叩いた音がした。

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