第十三話
少しだけ戦闘描写、流血の表現があります。苦手な方はご注意ください。
メラナスの街はキャノラスの装飾がそのまま黒色へ替えられた装飾に包まれていた。青色の街と黒色の街はまさしくあの鳥を模しているのだろう。
鳥の名前はなんだろうと呟くと、後ろから声が掛けられた。
「キュア。それが鳥の名前だ」
ロノスの言葉に、アーテがはっとする。キャノラスで聞かされた名前だった。
振り返れば溜息をつくロノスと、ぷっと吹き出すクラトが居た。
「ちょ、ちょっと忘れただけだろ!」
鳥の名前を忘れただけだ。一度しか聞いていないし、たとえ忘れたとしても困るわけじゃないだろうと、訊かれてもいないのにアーテは言い訳を述べる。
少年は本当に文字を覚えられたのかと、クラトに疑いの目を向けられたアーテはロノスに泣きついた。
「ラトがいじわるだ!」
己を見上げるアーテは頬を膨らませながら、眉を寄せている。酷い顔だった。
たしかに、アーテは覚えが悪いとロノスは素直に思った。目にしたものは比較的に覚えているのに対し、耳にした程度ではすぐに忘れてしまう。
とはいえ、鳥の名前は噴水広場で鳥と戯れるアーテの呟きに返したものだ。忘れてしまっていても無理はないだろう。
そう思っていたロノスを見抜いたのか、隣でクラトがにんまりと笑っていた。
「国でみっちり勉強させてやろう。なぁ、ロノス」
勉強。その言葉にアーテはげんなりとした顔を俯かせた。
メラナスで取った宿の一室は広く、備品も整えられていた。今まで見てきた宿との差にアーテはすっかりはしゃいでいた。
この一室は特定の船の予約をした者だけが泊まれる部屋らしく、それ故にほかの部屋よりも豪華な仕様となっているそうだ。
乗船予定の船の名は鳥と同じく、キュア号というらしい。
キュア号は北の海をやや西寄りに数日かけて渡る予定だ。最終的な目的地はガラッサ公国領土にあるダノーロという街だ。
ガラッサ公国は貴族国家であり、貴族が君主として率いている。同じ名前の花が国の象徴とされているが、元々はリミクリー王国が贈ったものだったという。
もっとも交流があったのは、それこそクラトの曽祖父の代よりも前の話であり、現在はそれほどでもないらしい。
「じゃあどんな国なのか、クラトもそんなに知らないのか?」
寝台の上で寝転がり、頬杖をつきながら両足を遊ばせていたアーテがそう訊くと、クラトが貴族連中は頭が硬いらしいとロノスを見ながら答えた。
「……なんか想像つくような、つかないような」
クラトがぷ、と吹き出す。アーテが不思議そうに首を傾げた。なぜクラトが笑ったのか気付いていないのだ。
「口に出てるぞ、アーテ」
ロノスにそう言われ、アーテは跳ねるように起き上がった。口を両手で覆って、首を必死に左右に振っている。
「思ってないからな! 俺は思ってないからな!」
そう繰り返すアーテにロノスは返事をしなかった。
◇ ◇
アーテは明日にでも出航すると思っていたが、まだ少し先らしい。
ふたりから長い船旅の前に身体をしっかりと休めておけと言われたが、いくら豪華といえど宿の一室にはすっかり飽きてしまった。
夕暮れまでには帰ると約束し、アーテはメラナスの街を散策に向かった。
「色以外はほんとにキャノラスにそっくりだなぁ」
ほとんど同じ見た目をしているのに、色が変わるだけでこうも雰囲気が一変するものかと嘆息を漏らす。
街を見渡すアーテの頭をつん、とクラトの指が突いた。
「また迷子になるぞ、少年」
ひとりで構わない、大丈夫だと言ったにも関わらず、勝手に着いてきた男に対してアーテが口を尖らせる。
未だにクラトはアーテの名前を呼ばずに少年呼びしていた。アーテが何度指摘しても、すまんの一言でまともに名前を呼びもしない。
どうしてこんな奴と、とアーテが小さく漏らしたことには目を瞑り、クラトは並木道で鳴いていた鳥へと手を伸ばす。
ぴぴ、と歌いながら鳥がクラトの長い指に止まる。あの青い鳥だった。
「少年、この鳥が何処から来たか知っているか?」
また呼ばれたあだ名に顔を顰めつつも、アーテは首を傾げる。
何処から来た、とは。まるでこの鳥が此処ではない場所から来たようではないか。
鳥はこのカロ島の象徴では無かったのかと問うと、クラトはやんわりと首を振った。
「アリアの森から来たそうだ」
「もしかして、神聖な大樹があるっていう東側から?」
ああ、とクラトが頷く。
フィロアリアの近くに広がるアリアの森。東側と西側で大きな違いを持つ森。ロノスが話していたことを思い出しながら、アーテは顎に指を押し当てる。たしかに、あの森でも鳥の囀りは聞こえていたが、姿は見ていない。
けれど、納得した。魔獣が近寄らない大樹のある森に暮らす鳥だというのなら、ひとびとが親しみを込める気持ちも分かる。
あ、とアーテが呟く。
「そういえば、キャノラスで鳥から羽根もらったんだよ」
ポケットを探り、一枚の羽根を取り出すと風に飛ばされないように片手で庇いながらクラトに見せる。太陽の明かりが今も尚、きらきらと羽根を輝かせていた。
ほう、とクラトが関心したように羽根を観察する。
「運が良いな、少年は」
「へ?」
それだけ言うと、クラトはマントを揺らしながら背を向けて歩き出す。置いていかれないように、追いかけて来ているだろうアーテの足音を聞きながらも止まる様子はない。
「あまり町中でそれを出さないほうが良いぞ。幸運のおまもりは高価なものだ」
急に立ち止まったクラトの背にアーテがぶつかる。鼻を赤くしながらも、羽根だけは離さなかった。
どういう意味だと顔を上げると、クラトが足を止めたのが店の前だったことに気付く。窓から覗くと、店内の棚に青い羽根を用いた首飾りや耳飾りが目についた。
文字は読めるんだろうと笑うクラトにむっとしながらも、指差された値札に目を凝らしてみると、そこには武具を買うよりも高いであろう金額が提示されていた。
「……あれ、銀貨じゃなくて金貨で!?」
あまりにも驚いて腰を抜かしかけたアーテを支えながら、クラトは人差し指を幼い口に押し当てる。店前で大声を出しては迷惑だということだろう。こくこくと頷きながら、アーテは口を引き結ぶ。
それから、指でつまんだままの羽根を見た。これに、あんな価値があるというのか。よくも鳥から毟り取ろうとする者がいないものだと感心した。さすがに神聖な大樹から訪れた鳥に粗相はしないらしい。
「あ、だからか」
あの時、無くさないようにとロノスも言っていた。自分が装飾にしてみたいと言ったのは偶然だったが、なにか作ってやるとはそういう意味だったのだろうか。
ひとり納得して頷くアーテに盗まれるなよ、とクラトが釘刺すと物騒なことを言うなとアーテがクラトの背を叩こうとした。もちろん、躱されてしまったが。
◇ ◇
アーテとクラトが出掛けた隙を見計らい、ロノスは街を抜け出した。
船旅は少なく見積もっても六日はかかるだろう。つまり、その間は海の上で過ごすことになる。海にも魔獣は存在するが、姿を現すことは滅多になく、現れたとあれば大抵が厄介な存在だ。
それでも、クラトが居れば退治すること自体は可能だろう。問題は別にあった。
魔獣との戦闘が起きたとして、もちろん乗客は避難させる。出来ればその誘導をアーテに任せて戦闘から遠ざけたいのだが、彼の性格だ。すぐにでも甲板に戻ってくるだろう。そうすると、魔獣から吸血することは難しい。
街から十分な距離は取った。ここなら構わないだろう。袖を捲り上げようとした時、ロノスは自身の爪が尖っていたことに気付く。
(あとで削っておかなければな)
そのまま、右手の爪で左腕を裂いた。そこに吹いた風が甘い香りを運んでいく。
やがて誘惑に乗って魔獣が姿を現した。魔獣は獲物の背へと飛び掛かる。
振り向くこともなく、ロノスは剣を素早く抜くと魔獣を斬り伏せた。その拍子に服へ潜ませていたガラス瓶がかちゃりと音を立てる。
それは、クラトから渡されたものだった。
(あいつの魔術に頼るのは癪だが、致し方ない)
小さく舌打ちをしながら、ロノスは魔獣を見下ろした。
ロノスが宿に戻り、それほど時間を置かずにふたりも宿へ帰還した。
アーテを出迎えながら、流し場の方へと向かうクラトとすれ違いざまにガラス瓶を手渡した。もともと、このガラス瓶は彼から渡されたものだった。
ガラス瓶に入れた魔獣の血を魔術によって適度に冷やし保管する。彼だからこそ出来ることであり、彼だからこそロノスに提案が出来たのだ。
得意とする属性ではないが、それなりに扱えるとクラトは自負していた。
彼が己の魔術に頼ることに対していくら忌避感を覚えようとも、船旅をする以上は己に頼るしか無い。
ふたりに隠れ、クラトはそっと左目を片手で覆う。
(息苦しいものだな、主というのも)
どれだけ頼られても構わないと、そう思っていても伝わらない。
生まれた時から主従の関係だったのだ。それに付け加え、忌々しい者が彼に昔じみた教育を施した。昔の彼はエスローラと共に居た時以外、ほとんど笑わない男だった。エスローラの実兄であるビーアにも少なからず懐いていたように見える。
アーテと出会ったおかげだろうか。随分と角が取れた彼を見たときは驚いたものだ。根は変わっていないが、自分の意思をきちんと持っている。
(それにしても、異母兄に言われてミロ村へ行っていたとはな)
ミロ村はエスローラがいつか行ってみたいと言っていた場所だった。
それ故に、彼女を喪って一層に笑わなくなったロノスが自分の意思で向かったとばかり思っていた。考えてみれば、あれがいくらエスローラを大切に思っていたからといって無断で国を出ることなど在り得なかった。
(にしても、俺に話を通していないのはどうなんだ)
国で帰りを待つビーアが恨めしかった。状況が変わったとはいえ、迎えにいってやれと言ったのもビーアだった。
おそらくは、ゼスから引き放す為に指示したのだろう。
ゼスは、実弟であるクラトから見ても哀れな人物だった。第一王子として生まれたにも関わらず、側室の産んだ男児が 魔術師として生まれたばかりに周囲からの期待の眼差しを奪われてしまった。
それでも、彼は勉学に励み、周囲からも再び期待を受け始めた。己に仕えたアゼ家の人間にも優しく、幼い従者が己の目を使えば貴方の視界は広がると言っても彼は頷かなかった。そういう人間だったと後から聞いた。
決定的に彼が変わってしまったのは、第三王子として正室から生まれたクラトに金色の瞳を持つロノスが仕えた頃だったという。
(父上も俺達に隔てなく接していたように思う。それでも、ゼス兄様はそうとは思えなかったのだろうな)
数年前、ゼスがロノスの瞳を奪おうとしたことがあった。
昔じみた教育を受けた彼がゼスに瞳を渡してしまったのではと、酷い焦燥感に駆られたことを覚えている。
——この瞳は、クラト様のものです。
そう答えたロノスに安堵したことも覚えていた。そこまで忠誠を誓っていてくれた彼を、自分は裏切った。拒絶してしまったのだ。
それを知ったゼスがどんな行動を取り得るか。また同じように要求されたとき、ロノスはゼスを拒絶することが出来るのか。容易に想像が出来たからこそ、ビーアもロノスを国から離したのだろう。事実、城から姿を消したロノスを彼は探していたのだから。
想定外だったのは、ゼスが父王の瞳を奪ったことだった。
国王がただ殺されただけでなく、瞳をも奪われたことをロノスが知った時。彼は自責に苛まれるだろう。彼はそういう男だ。
国へ帰ればその話もいずれは耳にするだろう。このまま国へ戻ることなく、ロノスとアーテを気ままな旅路で振り回してやろうと思わないわけではない。
けれど、何を思ったのか、ゼスはガラノシア王国へ向かうと言葉を残している。それによって、どのような経緯が働いたかは分からないが、彼の国は瞳狩りを始めた。
瞳狩りに襲われた数少ない生存者から、奴らが金色の瞳を探していたとも耳にした以上、あのままふたりに世界を歩かせるわけにはいかなかった。
「クラト? なにしてんだよ」
流し場へ入ったままだったクラトを不審に思ったのだろう。
扉の入口からアーテが顔を覗かせていた。その後ろにこちらを伺うロノスの姿も見える。稼ぐように頼んだ時間はとっくに過ぎていたらしい。
「いや何、国でアーテに受けさせる授業の内容を考えていただけさ」
「なんだよそれ」
口を曲げたアーテの頭を捕まえて、押し付けるように撫でる。当然抗議の声が上がったが、一切無視した。満足するまで続け、ようやく手を離した頃にはアーテの髪はぐしゃぐしゃに乱れていた。
その姿を見たロノスが密かに吹き出したことを、クラトは見逃さなかった。
◇ ◇
目の前の大きな船にアーテが目を輝かさせる。これに乗るのか、これが動くのかと興奮した様子だ。その姿は太陽に照りつけられた海よりも眩しく感じられた。あまりにも眩しくて、クラトが目を背けた先にはロノスが居た。
ロノスにガラス瓶は返していない。必要となった時に声を掛けろと、そう言うと彼は案外素直に頷いた。なにか言おうものならば、適温でなければ保存できないぞと返そうとしていたのに、拍子抜けだった。
「お前たち、船酔いには気をつけろよ」
そう声を掛けて、クラトは先んじて乗船する。その背に続くアーテがさっそく揺れる足場に戸惑う声を上げた。小舟とは違う感覚に戸惑っているようだった。
ロノスに支えられながらなんとか歩くアーテに、先が思いやられたのは言う迄も無い。
「本当に、目が離せんな」
囁いた言葉が聞こえたのは、ロノスの耳ぐらいだっただろう。




