第八話 ミツルギ、眠れぬ夜を過ごす
もうすぐで神社に着くという頃、おとなしく抱かれていたクロが、急に身を捩らせた。
「どうした、クロ。傷が痛んだか?んぎゃっ」
クロが突然翼を広げた。その翼が顔面に直撃し、ミツルギは短い悲鳴をあげる。その間に、クロは翼を広げて空へ飛び立っていた。
予想外のことに、あんぐりと口を開けた状態で、青空に飛び立ったクロの姿を目で追う。
突然の別れに、ミツルギは声を失う。
懐かれていたと思っていたが、それはこちらの一方的な思い込みだったのだろうか。クロの姿は遠ざかり、もうどこへ行ったのかも分からない。
翼の傷もまだ癒えていないと思っていたのに、あっという間に飛んで行ってしまった。
クロを抱きかかえていた腕をダラリと下げて、ミツルギはその腕の軽さに一抹の寂寥感を抱いた。そのままトボトボと社へ戻ったミツルギは、何をするでもなく社に閉じこもると、大の字にひっくり返ってぽかんと天井を見上げた。
その夜、ミツルギはなかなか寝付くことができなかった。特段寝苦しいわけではないのだが、あれこれと考えを巡らせてしまう。いつでもどこでも眠ろうと横たわれば、ものの数秒で眠れる特技の持ち主なのだが、こんなに眠れないのは初めてだ。自分が思っている以上に、クロとの突然の別れにショックを受けたらしい。
何がそんなに堪えたのかと、ミツルギは自問自答する。そもそも、クロは野生動物だ。愛玩動物ではない。一人で生きていけるくらい元気になれば、遅かれ早かれ手放すつもりだった。それが突然訪れただけのこと。ミツルギに懐きすぎて、野生に戻らない方が困る。だからこれで良かったはずなのに。
まんじりともせず、ミツルギは寝返りを打った。これで良かったのだと、心中で唱える。しかし唱えたところで効果なし。はあ、とため息を零す。
「わしの方が、クロ離れできておらぬな。せめて……顔に貼り付けられているあの珍妙な札を剥がしてやれば良かったな。あれでは何かと不便であろう」
あんな妙な格好のカラスを見たのは初めてだった。人間の悪戯にしては、少々性質が悪い気もする。
「あんな変な格好では、仲間のカラスからもいじめられるのではないかな」
ミツルギは誰にともなく問いかける。
一人で過ごすことが長かったときの癖で、自分相手に問いかけるようなことを時折してしまう。特にそれは、こんな風に心配事をしている時に現れる。
「ええい、ダメじゃ、ダメじゃ」
ミツルギはペシペシとほっぺを両手でたたいた。
「わしは神様じゃぞ。一羽のカラスにこんなに心を動かしてどうする」
ミツルギは、考える内容を変えた。幸い、考えるべきことは他にあったのだ。
というのも、明後日は龍神が来る日だからだ。彼は自分が一度口にしたことを違えたことはない。「四日後にまた来る」と言えば、本当に来るのだ。その四日後が明後日である。
龍神は、クロを神使にしてしまえと言っていた。もともと気乗りしなかった提案だ。クロは完治して野に放したと伝え、神使派遣サービスを検討中だとでも言っておけば大丈夫だろう。
「よし、これで行こう、これで」
明日のシミュレーションをしながら、ミツルギはぶつくさと呟く。その時、外から大きな翼を羽ばたかせるような音が聞こえた。一瞬にして思考がクロのことへ戻り、ミツルギは跳ね起きた。
「クロか?」
カラスの翼にしては音がやけに大きかった気がするが、草も虫も静まり返ったこの刻限ならば、昼間より音が響くこともあるのだろう。
ミツルギは、パッと社から飛び出す。しかし、飛び出した瞬間硬い何かに鼻っ柱をぶつけ、「へぐぅ」と情けない声を上げながら後ろへひっくり返り、社の扉に後頭部を打ち付けた。
じんじんと痺れる鼻と後頭部にそれぞれ手を伸ばし、ミツルギは涙目になって「いたーい」とうめく。自分が何にぶつかったのか確かめる余裕もない。
そのミツルギの上に、大きな影が覆いかぶさった。さすがに異変に気付いて、ミツルギは月光を覆い隠した影を見上げる。さっと、自分の血の気が引くのがわかった。
その影は、一応は人の姿をしていた。生白い手を社の扉に押し付け、しゃがみこむミツルギを見下ろしている。しかし、暗闇に見えるのは顔ではなく、十数枚の護符のようなもの。否、護符に覆われた顔だった。護符の周りには、隠れた顔の輪郭を縁取るように長い髪が垂れている。それだけでは説明のつかない威圧感と閉塞感は、その影の背中にあった。ミツルギの視界全てを覆うほどの、巨大な鳥の翼だ。
今にも絶叫しそうな喉を無理やり閉ざし、ミツルギは冷静でいようと深呼吸した。少し落ち着きを取り戻した頭で冷静に観察してみれば。相手は、ミツルギを見下ろしているだけで、今の所何かしてこようとはしていない。それに、顔を覆っている札。ものすごく見覚えがあるどころではない。ここのところ毎日のように目にしていたではないか。
「そ、そなた、まさか」
震える声でミツルギは言葉を紡ぐ。今しがた浮かんだ答えが、自分でも信じられないが、そうとしか説明がつかない。
「クロ、なのか」