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第七話 ミツルギ、水浴びをする

 その夜、ミツルギはうなされていた。


 うーん、うーんと何度もうなっては寝返りを打つ。額には玉の汗が浮かぶ。


「なぜじゃ、なぜ左様なことをする、なぜ」


 うわ言のように、ミツルギは同じ言葉を繰り返す。


「なぜじゃ、なぜ、わしは、わしはただそなたらを」


 汗ばんだミツルギの額に、そっと人の掌が乗った。その手はひんやりとしており、ミツルギの頭の中に冷気が染み渡るようだった。

 

 次第に、険しかったミツルギの表情が和らいでいく。繰り言も止まって、乱れていた吐息はすうすうという寝息に変わる。


 掌は、そっとミツルギの額から離れた。部屋の隅に広がった暗がりに、その手は吸い込まれて消えた。


 その翌朝、ミツルギは雀たちの囀る音を耳にしながら目を覚ました。気持ち良く寝ていたものと思っていたが、起きてすぐに不快感を感じる。首元に手を添えてみると、びっしょりと汗をかいていた。難儀なもので、神は食事も排便も必要としない身体の癖に、発汗機能はある。


 ミツルギは「う〜」と情けない声を上げながら、よたよたと起き上がった。


「仕方がない。水浴びにでも行くか」


 言いながら、部屋の隅に目を向ければ、目を覚ましている様子のクロがいる。


「クロ、そなたも一緒に来るか?」


 当然、クロが返事をするわけもない。そんなことは委細承知なので、ミツルギは声をかけながらクロを抱きかかえると、社の外へ出た。


 幸い、外は良い日和だった。もう五月も半ば。あと少しすれば梅雨の季節だ。今のうちに青空を堪能しておこうと、ミツルギは清々しい初夏の空を眺めた。


「そなたの怪我、はよう治ると良いのう。わしに、あの空を飛び回っている姿をはよ見せてくれ」


 そうやってクロに話しかけて歩くうちに、田に挟まれた小川が見えてきた。


 小川の上には小さな木造の橋が渡されている。川の水は澄んでおり、水草が揺蕩いながら水に洗われているのがよく見えた。その上をすいーっと瑠璃色の塊が飛んでいく。カワセミだ。川に張り出した枝の上に留まった。黒い嘴に、小魚を一匹加えている。

 

 ミツルギは、クロを地面に下ろすと、腰の帯を解いた。すると、白い衣が白鳥のように舞い上がった。かと思うと、無数の白蛇が、一斉にとぐろ解いたように、するりと衣が落ちた。これまで覆い隠されていたミツルギの裸体が露わになる。


 少女らしく起伏に乏しい体が、一瞬輝いているかのように見えた。それはきっと、剥かれた生玉子のように、全身白くみずみずしい肌のせいだろう。その肌にはシミひとつ、傷ひとつとてない。


 ちゃぷんと右足を水につければ、小さな水しぶきが上がった。跳ね上がった水しぶきがミツルギの白く柔らかい肌に当たって、パチンと弾ける。


 左足は、おとなしく水につけずに、えい、とわざと蹴り上げて派手な水しぶきを作った。


「んあ〜、やっぱ水浴びは気持ちがいいのう」


 バシャバシャと水を浴びながら、ミツルギ

は歌うように言った。


「クロもどうじゃ。長い間水浴びなどしていないのではないか。ほれ」


 ミツルギは手で水をすくうと、それをクロへばしゃんと浴びせた。


 クロは驚いたのか、一瞬硬直した後、ブルルと羽毛を膨らませて体を揺すった。

 

ミツルギはそれを見て「あはは」と笑う。


 ひとしきり体や髪を水で清めたミツルギは、近くの小石の上に座って爪で髪を梳かし始めた。


 水を含んだ長い白髪は、ミツルギの裸体を覆うようにして彼女の白肌に張り付いている。それをひと束ひと束、手にとって、子猫でも撫でるような仕草でくしけずる。髪の毛一本一本についた水滴が、動くたびにキラキラと星の如く瞬いた。


 念入りに梳かした髪をそよ風にあてながら、ミツルギはふんふんと鼻歌を歌った。それからふと思い出したような顔をして、クロを抱き上げる。


 川の浅瀬に連れて行くと、クロを水につけてジャバジャバとクロの体を洗った。水が傷口に染みたのか、クロは「カア」と小さく鳴いた。ミツルギはすぐにクロを水から上がらせる。それから、クロの反応を注意深く観察しながら、クロの体を洗ってやった。


 クロの体を洗い終わる頃には、ミツルギの髪も乾いていた。川辺に無造作にほっぽり出していた衣を拾い上げ、それを身にまとう。


 ミツルギは立ち上がると、衣服を正してからクロを見下ろした。


「さあて、すっきりしたの。うちに帰ろうか、クロ」


 幼子をあやすように声をかけ、ミツルギはクロを抱っこして帰路に着く。


 こうして帰れる場所があるのはいいことだと、ミツルギは改めて思った。  


 かつてのミツルギの社——廃れて誰も寄り付かなくなった神社は、もはや帰るべき家ではなくなっていた。


 神社は、文字通り神の社だ。


 遠い昔は社ではなく、巨木や巨岩など、神が宿る場として人々が認識した空間に注連縄などを張り、他の空間と区別していた。それがいつしか人の住む住居のように、社が作られるようになった。


 さらに時代が下ると、人々は他所からご利益のある神を勧請かんじょうして祀るようになる。今ある神社のほとんどは、そうしたものだ。人に請われ、必要とされた。だから神はその土地と密接に結びつく。


 しかし、人々に忘れ去られてしまえば、その結びつきも弱まる。神と土地の繋がりが弱まることは、その土地を守護する神の力が弱まるということだ。神社がきちんと維持されている土地は、守りが固い。しかし、そこが崩れてしまえば、邪気や物の怪といった人や土地にとって悪しきものが入り込んでしまう。


 守りの固かった場所が急に崩れてしまうのは、編まれた布に突然穴が空くようなもので、どうしたって目を引く。悪しきものもその習性は同じで、空いた穴に目を引かれ、そこに吸い寄せられてしまう。そうなれば最早神社は神社ではない。形が残っていたとしても、それは神社の形をしただけの建物だ。神もいない。人に請われ、招かれたのに、忘れ去られたその場所は、神にとっての家ではなくなる。


 自分の神社が忘れ去られことに気づいたミツルギは、社が形として残っているのにもかかわらず、帰る家を失くしたと思った。慣れ親しんだ社が、突然見知らぬ建物にしか見えなくなった時の、心に穴が開いたような空虚さは今でも覚えている。


 一度は忘れられ、廃れた神社が再興されることは、極めて稀なことだ。ミツルギは、この極めて稀な僥倖を自分が授かったことを、今日、ようやく実感できたように思えた。「うちに帰ろう」なんて言葉、最後に発したのは一体いつだったのやら。


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