第六話 ミツルギ、クロに問いかける
カラスは、ミツルギの与えた菓子をモリモリと食べた。
食べ物を差し出すと、警戒心もなく素直についばむ様子が見ていて可愛らしい。つい、たくさん与えたくなってしまうが、数は限られている。
与えられた分を全て平らげてしまうと、カラスは首をかしげてミツルギを見上げている。頭部を護符で覆われしまっているせいで分からないが、その頭の角度的に、どうもミツルギを見上げているようだ。
「今回はしまいじゃ。残りは夜まで待つのじゃ」
ミツルギがそう言うと、カラスは諦めたようだ。言葉を解しているとも思えないが、ミツルギの声の調子で何か察したらしかった。
脚を折りたたむと、床の上でうずくまる。動かなくなったカラスをしばらく観察してみたが、どうも眠り始めたようだった。
呼吸に合わせて上下する体を、ミツルギはそっと撫でる。
昨日、木の根元で見つけた時は、今にも衰弱死しそうな有様だったというのに、見違えるように元気になっている。体は痩せ細り、羽毛も新しいのがまだ生えてきてはいないが、元の姿に戻るのも時間のうちだろう。食べ物と安全な寝床が揃っているのだから、必ず回復する。
ミツルギは、似たようなことが随分前にもあったことを思い出した。あの時はカラスではなく、人間の子供が相手だった。長引く戦で親と住む場所を失い、死を待つばかりだった子供の前へ、ミツルギは人のふりをして姿を現し、食べ物と安心できる寝床を与えた。
森で採ったアケビを与えると、よほど腹が減っていたのか、その子供は目を大きく見開くと、アケビに無我夢中でかぶりつき、甘い果汁と果肉を口中いっぱいに含んでいた。その子と、カラスの姿が違和感なく重なる。けれど、あの子は最後どうなったか。
ミツルギは、瞼の裏に焼きついた血なまぐさい光景を振り払うように、頭を左右に振った。それから、眠るカラスへ「はよう、元気になれよ」と、優しく声をかけた。
*
奇妙なカラスを拾ってから、幾日か経った。
カラスは、ここ数日でさらに元気を取り戻していた。
日増しに足と翼の裂傷は薄まり、衰弱し羽が抜け落ちていた体も、今では新しい翼を蓄え、深い青と紫を宿した濡羽色が美しい。しかし、まだ翼が痛むのか、カラスは一向に飛び立つ気配を見せなかった。それどころかカラスは随分ミツルギに懐き、しょっちゅうミツルギの膝の上に乗って甘えようとしてくる。
ミツルギもそのカラスの仕草がまんざらでもなく、近頃は「クロ」と呼んで可愛がっていた。
一方、神社の方は大盛況、というわけでもない。梅瀧神社と兼務して兎山神社の管理を行う神職の男性を除けば、訪れるのは初日に出会った犬を連れた初老の男性、その男性と同年くらいの上品なご婦人と、境内を早速遊び場にしようと目論む小学生たちである。
今日も、ミツルギの神社では小学生たちがたむろしていた。最近の子供は、外でも体を動かす遊びはやらないらしい。各々、手に持った端末を持ち寄って画面の中のゲームとやらに興じているようだ。
ミツルギは、鳥居の上でその様子をぼんやり眺めながら、「ふわあ」とあくびをした。
小学生たちは、神社に集まるものの、お賽銭をするでも参拝をするでもない。それを少し寂しく思うものの、最近までは人一人近づかない廃神社だったことを思えば、進歩した方である。まあ気長に行こうではないか、と暢気に思っていると、頭上に影が差した。
なんぞ、と振り仰げば、そこには龍神が仁王立ちしていた。正確に言うと宙に浮いているので、立ってはいないが。
「何をボケーっとしている。そんなだから子供に境内を占拠されるのだ」
ずいぶんなご挨拶である。ミツルギは口をへの字に曲げた。
龍神の来訪は、ミツルギが高天原から自分の社へ降りてきて以来のことだ。久々に姿を見せたと思えば、開口一番失礼なことを言ってくる。
「そんなだからとは何じゃ。そなたがわしなら、子供に境内を占拠させないとでも?」
「当然だ」
ミツルギよりも背の低い龍神は、ミツルギの頭上から下には降りてこようとしない。おかげで、ミツルギは見上げなければ龍神と目も合わない。ずっとこの体勢では首が痛くなりそうだ。
龍神は偉そうに言葉を続けた。
「俺の神格はお前よりも上だ。すなわち、人間からの信仰篤く、また神威も存分にある。そういった神の社で不届きなことをする者はいない。畏れられ、そして敬われているからだ。人間は自ずから、俺の社の境内では慎ましく敬虔に振る舞う」
「それはすごいのう」
ミツルギは感心した風に、少々大げさに感情を込めて言ってみた。龍神はそれも気に食わなかったのか、眦を釣り上げる。
「それはすごいのう、ではないわ。お前、まだ神使を用意していないな?あれから高天原へ行っていないのか」
その言葉に、ミツルギは「ああ、忘れておった」とのんびり答えた。
「はあ?まさかあれだけ助言してやったというのに、神使を探してすらいないのか?」
呆れ果てた様子の龍神に、ミツルギはひらひらと手を振る。
「まあ、ゆくゆくは探すつもりじゃよ。ゆくゆくは」
「ゆくゆくだと」
龍神はますます信じられないとばかりに鼻息を荒くする。
「社持ちの神は、神無月に出雲の神議りに出席する義務があることを知らぬはずはないだろう。その際は神使も同伴する。その神使がいないなど、他の神からバカにされてもいいのか」
もちろんミツルギもその義務のことは知っていた。出雲の神議りは、全国から神々が集う一大行事。主催者である、国津神・大国主命の名の元、毎年十月に開かれる。ミツルギも、前の社があった昔に出席したことがあった。もっとも、神社が廃れてからは義務を放棄して、サボり続けていたが。
「そなたはせっかちじゃの。神議りまでまだあと五ヶ月もあるではないか」
「逆にお前はのんびりしすぎだ。五ヶ月なぞ、吹けば飛ぶような歳月だ」
真っ向から意見の対立しあう二柱の神は、しばらくすると互いに短く息を吐いた。
「実は今、社で怪我をしたカラスを保護しておってな。とりあえず、そのカラスが元気になるまでは、神使探しのためと言えど、あまり社を不在にしたくないのじゃ」
ミツルギが事情を話すと、龍神は「カラス?」と首をひねり、ミツルギの社の方へチラリと視線を送った。
「ならばそのカラスを神使にしてしまえ」
「本当にそなたせっかちじゃな。そこまでは考えておらぬ。まあ、クロはわしに随分と懐いておるが」
「クロ?それは名前か。お前が名付けたのか」
「もちろんじゃ」
「じゃあもう、そのカラスが神使でいいだろう。神が名付けを行うことには大きな意味がある。まさか、長い放浪生活で忘れたのか」
ミツルギは龍神の言葉に、「そういうわけではないが」と言葉を濁らせた。
名前をつけるという行為は、祝いであり、縛りである。名を与えることで、その者は良くも悪くも縛られる。強い言霊の一種だ。
かつては実態を持たない現象でしかなかった物の怪が良い例だ。彼らも人々から名前を与えられたことで、曖昧な存在が縛られ、実体化した。
そして神の名付けは、人のそれと違い、さらに強力な言霊と化す。神使も、そもそもは神より名を賜ることで縛られ、神威を宿した鳥獣である。
そのことを、ミツルギは忘れたわけではなかったのだが、「クロ」という名前は特別な意味を込めた名ではない。単純に黒いから「クロ」と手遊びに呼んだだけで、「今日からお前の名前はクロだ」と明確に名付けを示唆したわけでもない。そのため、言霊の効力の範疇外という考えだったのだ。だが、龍神にとってそんな細かい話は知ったことではない。
「ともかく、そのクロを神使として召し上げるんだな。いないよりはいた方がはるかに良い。社持ちで神使のいない神なんて、今の所お前くらいだろうからな。四日後、また来る。それまでに、ちゃんと新米神使に礼儀作法を教えておくんだぞ」
龍神はいつも、突然来たかと思うと言いたいことだけ言って去っていく。今回も例に漏れず、一方的な約束をミツルギへ取り付けて、自分の社へ帰って行ってしまった。
ミツルギはなんとなく興が削がれて、鳥居の上から飛び降りた。だが重力には従わず、白い衣の裾や袖をたっぷりと膨らませながら、ゆっくりと地面へ着地する。
ゲームに興じる小学生たちの横を素通りし、社の中へ入ったミツルギは、クロの様子を見に行った。クロは相変わらず、床の上でじっとうずくまっており、翼を広げる様子はなかった。
ミツルギは、クロを神使にするか、考えてみた。クロは随分とミツルギに懐いている。ミツルギも、クロを好ましく思っている。
神使となることは、クロにとっても、悪い話ではないかもしれない。神使となれば、人の姿をとることもできる。そうすれば、猫や犬といった天敵に襲われる心配もない。神の加護により、同族よりはるかに長い寿命を得ることもできるし、異能を操ることもできる。だがそれは同時に、これまで生きていた環境や、自分自身が一変することも意味する。
人の姿を得、人の言葉を喋り、人並みの知性や理性を手に入れる。すべての鳥獣が、そうなって幸せかどうかは、神にも分からない。
「のう、クロはわしの神使になってみたいと、思うか?」
神から正式に名を賜り、神使として召し上げられるまでは、どんな鳥獣もただの鳥獣でしかない。カラスは賢い動物だが、ミツルギの言っている内容など分からないだろう。それでも、クロは護符に包まれた頭部をコテン、と横へ傾けて、ミツルギの顔を伺う仕草をする。その様がまたなんとも愛らしい。
ミツルギは正座すると、クロをすくい上げるようにして持ち上げて、自分の膝の上へ乗せた。
そっと背中を撫でてやると、美しい羽毛越しに、生き物の体温を含んだ皮膚と、骨が、確かな実感を伴って手のひらに伝わってくる。
「そなたがもし、ずっとわしのそばにいたいと、そう願うならば、神使にしても良いと、わしは思っておる。だが、わしは分からぬ。そなたが、このままカラスとしての一生を生きる方が幸せなのか、神使として長い時を生きるのが幸せなのかが」
半ば独り言のように発したその言葉を、クロはじっと聞いているように、ミツルギには見えた。