幕間 クロ 宴に参加する
ハラリと、一枚の白い札が落ちた。
クロは、自身の顔から剥がれ落ちたその白い札をぼんやりと眺めた。
札は、月光に照らされた地面の上でのっぺりとした白さを晒している。
「クロ!」
主人の声が聞こえて、クロは顔を上げた。
開け放たれた神社の本殿の扉から、クロの仕える神である、ミツルギが顔を出している。
クロの顔には十数枚もの札がかかっており、見える世界はいつも薄い紙を一枚隔てた向こう側にある。それでも、彼女の白い髪が、たった今地面へ落ちた札ののっぺりとした白さとは対照的に、月光を浴びて輝いていることは分かった。彼女の存在は、いつだって世界の隔たりを超えて、クロのそばへやってくる。
「そこで何をしておる。はようこっちへ」
愛らしい少女姿の神は、「ほれほれ、はよう」と楽しげに手招きしている。
クロは「今行きます」と答え、白い札はそのままにして、彼女の元へ向かう。地面に落ちた札は、風に吹かれて音もなく何処かへ去った。
ミツルギを祀る兎山神社の本殿の中では、豪勢な馳走が並べられていた。
鯛の活造り、鯛の煮付け、ちらし寿司に筍や茸の煮物にお吸い物、天麩羅御前に蒸篭に盛られた酒蒸し料理、もちろん甘味も忘れない。そして、神の好物である酒もある。そのどれもが、龍神を祀る梅瀧神社からもたらされたものだ。龍神の神使である白花が、龍神を蛇の物の怪より救ってくれたお礼にと、張り切って用意した宴会料理だ。
当初は梅瀧神社で宴の席でも設けようという話だったのだが、クロの怪我の具合を案じたミツルギの言葉により、ミツルギの社で宴が催されることとなった。
宴と言っても内々のもので、参加しているのはミツルギ、クロ、龍神、白花、ミヅハの神三柱と神使二名である。ミヅハの神使は賑やかな場が苦手だそうで、欠席している。
本殿の中は灯りが灯され、夜とは思えぬほどに明るい。
見たこともない食べ物をぼんやり眺めていると、共に社の中に入っていたミツルギが、自分の傍の床をポンポンと手で叩いている。
「そなたの席はここじゃ」
クロは言われるがままそこに座る。
豪勢な馳走を囲うように、円になって皆が座っている。時計回りに、ミツルギ、クロ、白花、ミヅハ、龍神の順だ。
「そいつが怪我してるからあまり移動を強いたくないと、言ってなかったか。普通に動いてるじゃないか」
クロを見て忌々しそうな声をあげたのは、片手に盃を持った龍神だ。童子姿であるが、今宵の宴に集った者の中で一番偉そうにしている。さらに、積み重ねた座布団の上であぐらをかいて座っていた。
クロはこの龍神のことがあまり好きではない。初めて会った時など、危うく殺されかけた。何より気に入らないのは、ミツルギへひどい言葉や態度をとるところだ。ミツルギによって物の怪から救い出されてからも、その態度はあまり変わらない。
「思いの外、怪我の回復が早くての」
ミツルギはクロへ視線を向けてから返答した。
「宴が始まるまでの間に、すっかり良くなってしもうた」
クロの体には今、包帯が巻かれている。
包帯の下にある傷は、半月ほど前、ミツルギの代わりに蛇の物の怪に噛みつかれた時のものだ。今では血も止まり、痛みもほとんどない。
ミツルギはけろりと笑った。
「まあ、傷の治りが早いのは良いことじゃ。ミヅハ殿の薬のおかげやもしれぬ」
「ミヅハ様の薬?初耳です」
白花が首を傾げる。その隣でミヅハが微笑んだ。
「軟膏を差し上げたのです。わたくしの社の山に沸く水を混ぜて作ったもので、よく効くと姉上様方からも評判なのです」
「へえ、それはもう話を聞くだけで薬の効能が伝わってきますね。ミヅハ様は、薬も司られているのですか?」
白花とミヅハが会話に花を咲かせている。
その様子を眺めながら、ミツルギはご馳走に手をつけ始めていた。龍神も、ちびちびと盃の中の澄んだ酒に唇を浸しつつ、酒の肴をつまんでいる。
クロがまだ何も口にしていないことに気がついたミツルギは、「口に合いそうにないか?」と尋ねてきた。クロは首を横に振る。
「見たこともない料理ばかりで、どう食べればいいのか」
「どうって。適当に取って食べると良い。ほれ、そこの箸を使え」
ミツルギに短い棒を二つ渡されたが、クロにはこれをどう使えばよいのか分からない。カラスとして過ごしてきた時間が大半だったため、人の暮らしには疎かった。朧で虚な自分の記憶を掘り返してみれば、なるほど、人はこのようなものを使って食事をとっていたことが思い出される。
クロは、ミツルギが箸を使って鯛の刺身やお椀によそったちらし寿司を、次々と口に放り込んでいるのを注視しながら、見様見真似で箸を使った。
ぶすりと、皿に盛られた鯛の刺身へ無作法に箸を突き立てる。しかし、上手く箸が通らない。その様子を見ていた龍神が、短く笑った。
「おいミツルギ、お前の神使は箸もろくに使えないのか」
「やかましいわ。神使になったばかりのものは、箸など使えぬのは常識じゃろう。まあしかし、すまぬな」
ミツルギがクロへ謝ってきた。
「そなたが人の姿になれるので、つい人の道具は使い慣れているとばかり思っておった。丁度良い機会じゃ。箸の使い方を教えてやる」
虚しく鯛の刺身を取り損ねた箸へ、ミツルギも手を重ねる。クロの指先を一本一本箸から離して、正しい位置へと添える。次に自分も箸を持って、箸の動かし方を実践してみせる。
「さあ、やってみよ」
クロはぎこちなく指を動かし、箸で鯛の刺身を摘もうとしたが、上手くいかず何度も落としてしまう。しょんぼりするクロを、ミツルギは温かい眼差しで見守っている。
「練習あるのみじゃな。そのうち使えるようになる」
ミツルギはクロの手から箸を取ると、落とした刺身をその箸で摘み、醤油をつけてクロの口へ放り込んだ。クロはもぐもぐと刺身を咀嚼した。
「美味いか?」と問われ、「おいしいです」と答える。ミツルギは「よかった」と微笑んだ。
時が進み、豪勢に料理が盛られていた皿も寂しくなり、代わりに酒が主役となってくる。
神は酒が好きだ。龍神もミヅハもミツルギも、互いに雑談を交わしながら上機嫌で酒を飲む。白花は酒より食べ物に目がないようで、余っている料理をパクパク口に運んでいた。
「さあ、クロ様も食べてください。でないと私が全部食べちゃいますよ」
白花にそう言われると食べるしかない。使い慣れない箸を懸命に動かして、クロは料理を食べてゆく。
やがて酒も料理も尽きた頃。ミツルギはくうくうと眠りこけてしまった。白花は空いた皿の片付けに奔走しながら、それを手伝おうとするミヅハへ丁重に断りの言葉を述べている。
クロは正座したままぼんやりとしていた。隣に誰かが座る気配がして横を向けば、そこにいたのは龍神だ。
龍神は酔っているようで、目が座っている。無理やりクロの手へ空の盃を押し付けると、「飲め」と言って徳利を傾けてきた。並々と注がれた澄んだ水のような液体へ、クロは目を落とす。
「酒が飲めんわけではないだろう」
目は座っていたが、龍神の口元は笑っている。
クロは酒がどういうものかも分からなかった。見た目から水の一種だろうかと思い、グイと喉へ送る。水にはない特有の香りが鼻に抜け、蜜のような甘みを舌先に感じた。
盃を空けると、すぐに龍神が酒を注ぎ足してきた。クロはまたそれを飲んだ。繰り返すにつれ、体が熱くなり、気分が良くなってくる。
「これは高天原より取り寄せた極上の酒。神の酒だ。神が飲めば美酒となり、人が飲めば薬酒となり、物の怪が飲めば毒酒となる」
耳元で龍神が呟いた。
それから口を閉じて、ほろ酔い状態のクロを眺める。しばらくしてから「つまらん」と鼻を鳴らした。
「物の怪と言えど、神使であれば毒酒とはならんのか。そもそもお前は物の怪なのか」
龍神に問われていることに気がつき、クロはぼーっとする頭で考える。
「私は、主様、ミツルギ様の神使です」
「物の怪である前に神使であると?意外と口が回るのだな」
ははっと龍神は笑い、クロへぐったりともたれかかってきた。それから徳利を傾けて、注ぎ口から直接美酒を煽る。その味をしっかり味わってから、龍神はクロへ視線だけを寄越した。
「先日の件は感謝している。だが、お前を認めたわけではない。お前がミツルギを傷つけたら、いや、悪しき者だと分かれば、万の水でお前を攻め殺す。それは忘れるな」
それだけ言うと、龍神は立ち上がり、自分の席へ戻る。クロは虚な目で龍神を見、次にくうくう眠りこけている主人を見た。
龍神は言った。もし、お前がミツルギを傷つけたら、と。そんなこと、万に一つも起こり得ないことはクロが一番知っている。
彼女は、クロにとっての太陽だ。薄い紙を隔てた向こう側の世界から、クロを照らして導いてくれる。それはあまりに眩くて、ずっと暗がりで生きてきた自分には時には眩しすぎるほどだけれど、この身が焦がれても、太陽に向かって飛び続ける。それがカラスというものだ。
「私が主様を傷つけることは、決してない」
龍神に向かってそう告げると、彼は「そうか」とだけ答え、酒を煽った。




