第34話 ミツルギ、龍神の過去を知る
反射的に手をばたつかせると、手足は固い地面の上に当たった。川にいたはずなのに、なぜ、と思って周囲を見渡すと、ミツルギは川岸に水浸しの状態で横たわっていた。傍らにはクロがミツルギと同じように横たわっている。
「クロ」
名を呼び、クロの体に触れる。体は氷のように冷たい。空から絶えず降り続ける雨が、冷たいクロの体を無情に打ち据えている。
「死んではいない。傷の手当ても済んでいる」
背後から龍神の済ました声が聞こえて、ミツルギは飛び上がった。
「そ、そなた」
続く言葉が見つからない。
龍神は、珍しく地べたに座り込んでいた。
身長が低いせいで、他人から見下ろされることを嫌い、常に宙に浮いている龍神が、座っているというのは信じがたいことだった。それに、様子が元に戻っている。幼子のようだった龍神は、すっかりどこかへ引っ込んでしまっていた。
「なんだ、その鳩が豆鉄砲を食らったような顔は」
龍神は眉をひそめた。それから「ほら」と体を起こしたミツルギに、白い抜き身の剣を押し付けてきた。
「お前の神器だ。もう手放すな」
受け取った剣を、ミツルギはしげしげと眺めた。
剣には一切の装飾がなかった。柄と刀身との境目すらない。その色は白一色。白花が言っていた、ミツルギの神器の特徴とも一致している。
それでも、ミツルギにはこれが自分の神器であったことを思い出せなかった。だが体は覚えているのだろうか。やけに手に馴染んでいる。さっきも、今まで何千、何万回と振るってきたかのように、軽々とこの鉄の塊を水中で振りかざし、蛇の首を断ち切ってしまった。
今、振り返ってみても自分のことだとは思えず、ミツルギは困惑する。それに、この剣がクロの中から出てきたことも不可解だった。クロはこのことを知っていたのだろうか。そして、クロは一体何者なのだろうか。
ミツルギがクロを見ていることに気づいたのだろう。龍神がため息をついて、「俺も見ていた」とつぶやいた。
ミツルギが振り向くと、龍神は気むずかしげな顔をしている。
「あの時、そいつの体から奇妙な影が飛び出し、その中央から黒い剣が現れた」
どうやら心が子供になっていた時の出来事を、覚えているらしい。
龍神は「はあ」とため息をつく。
「そいつは一体何者なんだ。お前は何を拾った」
「そんなの、わしだって知りたい」
ミツルギは俯いた。クロのことを知ろうとして、少しずつ彼のことがわかってきたと思ったら、また一つ大きな謎が出てきた。たまたま拾った行倒れの物の怪の中から、失った神器が出てくるなんて、天文学的な確率だ。本当にこれはただの偶然なのだろうか。
龍神はミツルギの返答に「そうか」と返す。
「だが、そいつは物の怪よりももっとタチの悪い者かもしれないぞ」
「どういうことじゃ」
まだ目を覚まさないクロを、龍神は睨みつけている。
「こいつの中から出てきたあの黒い影。あれは物の怪の発する瘴気とは違う」
「違うのであれば、一体なんじゃ」
「書物で読んだことがある。祟り神は、黒い影を纏うと」
ミツルギは息を飲んだ。祟り神とは、憎悪や憤怒に駆られ、もはや人の祈りを聞き届けなくなった堕ちた神のことだ。人々に鎮撫されて、元の神に戻ることもあるが、それすら叶わなければ、高天原の差し向けた神軍によって討たれることもある。その祟り神の恐ろしさときたら、物の怪がまだ可愛らしいと思えるほどのものらしい。
「だから、クロが祟り神だと?」
「ああ。だが神気は感じないから、確証はない。祟り神は堕ちるところまで堕ちると、ほとんど物の怪と変わらない存在になるとも聞くから、その手のものかもしれないな。普通はそうなる前に、鎮撫されるか、討伐されるかするはずだが」
ミツルギは沈黙して、クロを眺める。
クロは、素直で穏やかな性格をしている。そんな彼が、恐ろしい祟り神とはどうしても結びつかない。
「とにかく、本人に直接聞くしかない。今ここで俺たちが考えても、結局は推測でしかない」
龍神は億劫そうに立ち上がると、ミツルギの隣へやってくる。
龍神もミツルギも、雨に打たれて全身濡れ鼠になっている。水中にいた時は、そんなに濡れている感覚はなかったのだが、あれはミヅハの領巾の力の一つだったのだろうか。
そこまで考えて、ミツルギは「あっ」と自分の肩周りを探った。やはり、ミヅハの領巾がない。そもそも、ミヅハはどこにいるのだろう。白花は、蛇にとらわれていた人たちは、どうなったのだろう。
「龍神、ミヅハ殿と白花はどこに」
「ミヅハ?あの水神のことか。案ずるな」
いつもは頭上から聞こえて来る龍神の声が、ミツルギの頭一つ分下がった位置から聞こえて来る。
「二人は、クロの手当てをした後、水中に囚われていた人間たちを助けに向かった。もう、蛇の物の怪はお前が倒したから、危険はない」
龍神の言葉に、ミツルギは胸をなでおろす。
「あ、しかし、ミヅハ殿の領巾をなくしてしもうた」
しゅんとしていると、龍神が「それなら、水神がお前の肩から剥ぎ取っていったぞ。水に潜るから使うんだろ」と言ってくれたので、何も問題は起きていないことに再び胸をなでおろす。
「そういえば、わしはどうなっていたのじゃ。蛇を斬った後、妙なことが起こって、気がついたら、ここにおった。自分でここまで泳いできた覚えはないし、ひょっとしてそなたが」
「ああ、俺がここまで、お前ら二人を担いできたんだ」
二人とは、ミツルギとクロのことだろう。
龍神は腕を組んで不平を漏らした。
「まったく、骨が折れたぞ。自分より図体のでかいのを二人も引き上げるのは。おかげで宙に浮く余力すら残っていない。腹立たしい」
「それはかたじけなかったの。では、わしはやはり意識を失っておったか」
龍神は言葉を発するより先に、ミツルギの方を見上げてきた。
「意識を失っていたわけではない。お前は、俺の記憶の中に飲まれていたんだ」
「記憶?」
あの時、洪水のように頭の中に流れ込んできた情景と、大人が子供を生きたまま川に沈めていた光景を思い出す。
「あれは、そなたの記憶だったのか」
「ああ」
龍神は苦々しげにうなずいた。
「あの物の怪は、人や神の名前を奪っていた。物の怪というのは、元は怪異に名前がついた存在だからな。奴らにとって、名前は自分の存在を高めるための力だ。効率よく力をつけるために、名前を奪っていたんだろう。それが分かったところで不意打ちに会い、奴の水草に囚われ、高龗神の名と、龍神の名を奪われてしまった。奴が唯一取り損ねたのが、俺の人の頃の名。俺は神としての己を忘れ、人であった頃のことしか覚えていなかった」




