第16話 ミツルギ、高天原へ行く
境内に下り立つと、先客がいた。ミツルギは、ちょうどクロに抱きかかえられたままの格好で、その客を出迎える羽目になってしまった。
その客は白の浄衣に赤の襷を掛けている。一目見て高天原からの使者であることに気づき、ミツルギは仰天してクロの腕から飛び降りた。
「すまぬ。ちょうど留守にしておった」
「いえ、こちらこそ急な訪問となり、申し訳ありません」
三十代ほどの男性の姿をしたその使者は、丁重に謝罪の言葉を述べる。
「御剣城比売命、あなた様へ高天原からの召喚状が届いております」
使者はミツルギのことを神としての正式名称で呼ぶと、書状を収めるための漆塗りの箱を恭しく差し出してきた。ミツルギはついに来たか、と緊張しながらその箱を受け取った。
「書状へ日時が書いております故、結びの鏡を用いてお越しいただきますようお願い申しあげます」
使者はそう言うと、深く礼をしてミツルギの前より静かに退出した。
書状を届けるためだけに、わざわざ来てくれたようだ。正確に言えば、あの使者の主人である神が遣わしてくれたのだろう。神々は面子にうるさい。ミツルギはそんなに面子は気にしない方だが、相手はそんなことは知る由もない。書状を送りつけて呼び出すより、きちんと使者を立てることで、ミツルギの体面を保とうとしてくれたのだろう。
「今のは?」
クロが、立ち去った使者について興味深そうに尋ねてきた。
「高天原からの使者じゃ」
「高天原からということは、神様ですか。天津神ですか」
「いいや、神使じゃ。高天原にいるのは神だけではないぞ。神の身の回りの世話をしたり、作物を育てたり、衣を仕立てたり、いろんな役目を持った神使がたくさん働いておる」
「そんなにたくさんの神使がいるのですか。見てみたいです」
クロからすれば、神使は自分の目指すべき存在だ。初めて神使を目にして俄然やる気が湧いてきたのかもしれない。
一方でミツルギは緊張で心臓をばくばくさせながら、書状の収まった箱を開けた。中の書状を取り出して箱をクロの手に押し付け、包紙を開けるのももどかしい気持ちで紙を開く。
書状は、形式的な内容のもので、ミツルギへ召喚命令が下ったこと、高天原へ来るべき日時や場所のことが書かれていた。書状によれば、高天原へ行くのは明日ということになる。いささか性急だと思ったが、召喚状が来るのが遅かったことを考えると妥当なのかもしれない。また、書状にはクロも連れてくるよう書かれてあった。もちろん、高天原がクロの名前を知るわけもないので、烏の物の怪と書かれている。まさかクロも呼び出されるとは予想もしておらず、ミツルギはこれに一番驚いた。
そもそも、物の怪を高天原に連れて行くなど前代未聞だ。ミツルギも自分が前代未聞のことをやっているので、とやかく言えないが、それでも前代未聞であることに代わりはない。それとも、高天原としては神使としたのだから良し、と考えているのだろうか。だが、神使としたのは龍神を欺くための方便でしかなく、クロは神使ではなく、ただの物の怪のままだ。
「これはまた参ったの」
ミツルギは頭を抱えた。
「どうされましたか」
いまいち危機感のないクロに、ミツルギはそなたも高天原から呼び出されているのだと教えてやる。
「私も、高天原へ行けるのですか」
「まあ、呼ばれている故な。連れて来いと書かれている以上、わしはそなたを連れて行くしかない」
もし、高天原へ連れて行った途端、クロが殺されたらどうしようか。クロを斬ろうと息巻いていた龍神のことを思い出して、ミツルギは気が重くなる。
クロはミツルギの思いとは裏腹に、嬉しそうだ。本当にこいつは自分の置かれている状況を全く理解してないなと、ミツルギは複雑な思いでクロを見つめた。
あくる日、ミツルギはカラスの姿のクロを抱きかかえて、本殿の鏡の前で仁王立ちしていた。なぜクロは人型ではなくカラスの姿なのかというと、人型ではあまりに物の怪感満載で絶対に高天原で目立つと考えたからである。カラスの姿も、頭についている護符のせいで目を引くだろうが、人型よりはマシだ。
続いて、なぜ鏡の前になっているかというと、これが高天原へつながるワープゲートのようなものだからだ。龍神から聞いて知っていたが、使うのは初めてこの社へ来た時以来だ。緊張する。そもそも、この鏡をくぐるとすぐに高天原というのも、余計に緊張する。道中ゆっくりと心を構えるということがどうやってもできない。
「ええい、ままよ。とっとと行ってとっとと帰って来れば良いだけのこと。どれだけ嫌でも死ぬわけではあるまい」
そうやって自分に言い聞かせる。しかし、クロが無事で済むかは分からない。クロを置いていきたい気持ちは山々だが、召喚状に逆らうわけにもいかない。
「クロ、そなたは覚悟できておるか。これより我らが参るは高天原の評定の場。決して楽しい場所ではない。そなたの身もどうなるかは分からぬし、安全とはとても保証できぬ」
クロは、ミツルギの言葉を聞いているよと言いたいのか、嘴を上に突き上げた。それから、カア、と鳴いた。覚悟はできていると言いたいのだろうか。
ミツルギは深呼吸すると、本殿に鎮座している神鏡を覗き込んだ。鏡には見知らぬ場所が映っている。ぐいっと体が前へ引き寄せられるような心地がしたと思うと、ミツルギはクロを腕に抱えたまま、鏡の向こうの見知らぬ場所に立っていた。