第15話 ミツルギ、願い事を叶える
クロは、翼で風を掴むと前進した。眼下の風景を見下ろしていると、田んぼの間を歩く子供の姿が見えた。
「先ほどの童じゃ」
ミツルギが指をさすと、クロはさっと降下した。等間隔で立つ電柱の上へ着地する。
先ほど神社へやってきたその子供は、肩にかかったランドセルの輪っかの部分をギュっと握り締めて、テクテク歩いている。ミツルギはクロと共にその後をつけた。
やがて、子供は一軒の家の敷地へ入っていった。当世風の二階建て家屋で、趣味なのか、洋風の意匠が凝らされている。
「ただいま」と言いながら、子供はその家のドアを開けて中に入っていく。ドアは、ミツルギが入る前に閉まってしまった。こうなれば、窓から中の様子を伺うしかない。
ミツルギは庭を回り込んで、大きな窓のある壁まで来たが、窓にはカーテンがかかっており中は見えない。
「弱ったの。これでは、様子がわからぬ」
しかし、声は聞こえる。ミツルギは窓に耳を押し当て、会話を聞き取ろうと試みる。
いくらかくぐもっていたが、大体の内容は聞き取ることができた。子供は、母親と会話しているようだ。弟の腹痛が治るように、神様にお願いしたんだよ、と無邪気に報告している。母親の方はそれに「偉いわね」と応じている。
「いい子にしていればきっと、神様が治してくれるわ」
「うん、明日になれば治ってるかな?」
「うーん、それはどうかな。神様も、いろんな人のお願い事を聞いているから、忙しいでしょうしねえ」
あんまり忙しくしてないミツルギは少々複雑な気持ちになる。そこへ、子供の口から「クラスのみんな噂してるんだ」と興味の引く言葉が放たれた。
「今、お腹が痛いって言って学校を休んでる子、たくさんいるでしょう?その子達は、みんな雷様におへそを取られたんだって。おへそを取られたから、痛むんだって」
その言葉に母親は笑ったようだ。子供はムキになって言葉を続ける。
「だって、このあいだの雷の日からだよ?翔吾がお腹を痛くしたのも、クラスのみんなが下痢とか腹痛で学校を休んだのも」
そこまで聞いてから、ミツルギは窓から耳を離した。
「雷様?まさか、あやつが原因なのか?」
二、三日ほど前、ミツルギと龍神の前に現れた異様な風体の女の姿が、鮮やかに脳裏に浮かび上がる。
それに呼応するかのように、ミツルギの鼻先に雫が落ちてパチンと跳ねた。
*
雷鳴を伴わない霧雨だった。
ミツルギは、クロと体を寄せ合って家の軒下で雨宿りしながら、考えを整理した。
「あの童の言うことは、的を射ているかもしれん。おそらく、あの紅天が、へそをとったのじゃ」
クロは首を傾げて、ミツルギへ尋ねた。
「雷様にへそを取られる、という言葉がありますが、あれは本当のことを言っているのですか」
「そういうことかもしれんな。じゃが、まるきり文面通りというわけではなかろう。あれはそもそも、子に雷から身を守る術を言い聞かせる方便のようなもの。雷が落ちて、本当にへそがなくなった人間の話など、聞いたことがない」
ミツルギの言葉に、クロは困った様子で首を傾げた。
「では結局、どういうことですか?」
「ふむ、わしもまだ確証は持てぬ。クロ、雨が止んだらひとっ飛びして、紅天から贈られたきんちゃく袋を持ってきてくれぬか。確かめたいことがある。あ、わしはここで待っておるからな」
最後に慌てて付け加えると、クロは了解したようだった。しかし、雨が止むのは待ってられなかったのか、すぐにカラスの姿に変身して曇天へ飛び立っていってしまった。
遠ざかっていくクロの姿を見送ってから数分の後、きんちゃく袋を抱えたクロが戻ってきた。クロからきんちゃく袋を受け取り、中身を確かめる。
袋の中には、薄桃色の真珠のようなものがたくさん入っていた。つやつやとした光沢を帯びるその球体は、大きさもちょうど真珠のようだ。最初見たときは、これが何なのか分からなかったが、今、一つの仮説がミツルギの中で出来上がっている。
クロは人の姿を取らずに、ミツルギの肩に乗って袋の中身を覗き込んだ。カラスは光りものに目がないというが、クロも同様なのかもしれない。今にも袋に顔を突っ込みそうだ。
ミツルギは、袋の中から無作為に一粒取り出した。手触りは硬く、表面はスベスベしている。「クロよ、わしはな、これこそがへそ《《》》ではないかと思うのじゃ」
カラス姿のクロからの返事はない。ミツルギは構わず続けた。
「雷様をこの目で見たのはつい先日が初めてだったが、雷様に関する俗説は知っておる。雷様にへそをとられる、と。まさにさっき、クロが言った言葉じゃ。その雷様がこのきんちゃく袋の中身のことを、宝物だと言った。どうじゃ、いかにへそ臍っぽいじゃろ。ん?」
クロへ説明している途中、奇妙な現象が起こった。きんちゃく袋から、玉が一つ、勝手にふよふよと出てきたのだ。それは頼りない速度でミツルギの頭上へ浮上し、さらに高度を上げてゆく。
「な、待て待て、どこへ行く!」
ミツルギはぴょんと飛び跳ね、玉を掴もうと手を伸ばすが、時すでに遅かった。
玉は家屋の一階の天井あたりの高さに達し、さらに浮上を続ける。ミツルギの肩に止まっていたクロが、さっと飛び上がって玉へ追いついた。器用に嘴で玉を咥え、ミツルギの元へ運んでくる。
ミツルギは玉を受け取ると、逃げ出さないようにしっかりと手のひらで包み込んだ。玉は、身動きが取れなくなったものの、ミツルギの手の内で脈打つような鼓動を放っている。
「なんとも奇妙な」
呟き、ミツルギはしばし考え込んだ後、するりと指を解いて玉を解放した。身じろぎするクロを制し、再び浮上を始めた玉を観察する。今度は邪魔の入らなかった玉は、家屋の二階の高さへ達した。そこで上への移動をやめ、今度は横への移動を始める。ミツルギは、人型に戻ったクロに抱えてもらい、玉を追って二階の屋根へ自らも移動した。
玉の移動する先は窓ガラスだ。そのままコン、とぶつかるかに見えたが、水面に着水するように、トプンと固形の窓に波紋のようなものを広げて、玉はガラスを通過した。内側のカーテンは閉まっていたが、少し隙間があり、中の様子を見ることができる。
ミツルギは窓にプニプニのほっぺをくっつけて、玉の行方を目で追う。
カーテンの隙間から覗き見た部屋は寝室のようだ。子供用のベッドが置かれており、そこに子供が寝ている。おそらく、参拝に来た少年の弟だろう。玉はその少年に近づくと、吸い寄せられるようにして子供の体に落ち、消えてしまった。
「うむ。これで弟の腹痛を治すという願い、叶えられたかもしれぬぞ」
振り返ってクロに告げると、クロはよく分からない様子で首を傾げた。ミツルギは口を閉じ直したきんちゃく袋を、顔の横で掲げながら説明する。
「さっきも言ったが、あの紅天とかいう雷様のくれたこれは、雷様がとった人間のへそじゃ。古くから人間の間では、雷様にへそを取られるという俗説がある。あれは、雷から身を守るための体勢を促すだけではなく、冷たい風の吹く雷の日に、腹を出して寝ていたらお腹を冷やして病を得るぞ、という意味が込められておる。それを、雷様にへそをとられるという分かりやすくも恐ろしい表現を、子供を躾けるために使うのじゃ。で、実際、その言葉通り、あの男の子はへそを取られてしまい、病を得たのじゃ」
「でも、さっき主上は雷が落ちてへそを取られた人間の話は聞いたことがないと言いました」
「うむ、そう言った。しかし、わしが聞いたことがないからといって、その事象が存在しないことの証明にはならぬぞ。わしも今、自分の認識を改めたところじゃ。まあしかし」
ミツルギは、巾着袋を触って中身にまだたくさん入っている玉の感触を確かめた。
「どう見ても、この玉は人間のへそには見えぬがな。雷様が宝だと言ったこと、腹を壊した子がいること、そして、この玉がまるで吸い寄せられるように一人でにあの童の体へ入っていったところ、この三つから、多分へそじゃろうと思っただけで、わしも詳しくは分からん。第一、あの子のへそが本当になくなっていたのかも確認できておらぬし」
ミツルギは、もう一度肩越しに部屋の中を
伺った。
そこへちょうど、部屋の中に子供の声が響いた。どうやら兄が部屋に入ってきたようだ。ベッドの上で寝ていた弟が体を起こし、「お兄ちゃん」と声を上げている。
「もう、お腹痛くないよ。寝てたら治った」
その声を聞き、ミツルギは微笑んだ。
「うむ、治ったようじゃな」
クロへ向き直り、「さあ、わしらはもう帰ろう」とクロへ声をかける。頷くと、クロはミツルギの体を抱きかかえ、背中の翼を広げた。
ちょうど雨が上がり、雲の間から日の光が幾筋も差し込んでいる。その光の中を、ミツルギはクロに身を預けて滑るように飛んでいく。