第10話 ミツルギ、クロを観察する
まずいことになったと、ミツルギは無意識のうちに下唇を噛んだ。
人からも神からも忌避される物の怪を神使として召し上げるなど、前代未聞どころか禁忌と言われたっておかしくない。そんなもの、お前が物の怪である時点で反故だ、と突っ撥ねるべきだ。
実際、ミツルギと同じ立場に立たされた神がいればそう言うだろう。だが、それは多くの信仰心を集める力のある神であれば、の話だ。ミツルギはそうではない。小さな農村の土着神であり、そのことすら長い間人々から忘れ去られていた。
万が一要求をはねのけ、相手が良からぬ行動をとった場合、それに対処する術をミツルギは持ち合わせていない。
社の建つ神域から無理やり外へ放り出すことくらいならできるかもしれないが、ミツルギは祭神として祀られてから一週間ほどしか経っていない。しかも、人型の物の怪は、その姿が人に近ければ近いほど強力とも聞く。背中の翼以外は人と変わらないクロ相手に、うまくやれる自信は正直なところ全然なかった。
それならば、もう相手が納得してくれるように話をするしかないのだが、何をどう話せば納得するのか、そもそも話が通じるのかも分からない相手なのだから、どっちみち絶望的だ。
ここに龍神がいてくれれば、とこんなに思ったことはなかった。龍神は、その名の通り、川が神格化された龍そのものだ。本気を出せば川を氾濫させ、地形をも変えるほどの力を持つ。龍神を前にすれば、物の怪は皆泡を食って逃げ出すだろう。だがそれも無理なこと。龍神が来るのは二日後なのだ。
そこまで考えたところで、ミツルギは思った。二日後には、必ず来るのだ。龍神は、自分の言いだした約束を破ったことはこれまで一度もない。その時に、どうにかして貰えばいい。神のくせに他力本願だとミツルギは思ったが、仕方ない。
「今はまだ、そなたを正式な神使とすることはできぬ」
ミツルギは威厳さを意識しながら、ムンと胸を張った。
「物の怪を神使にするなど、前例のないことじゃからな。そもそもやってみて本当に神使にできるかどうかも分からぬし、思わぬ害がそなたに降りかかるやもしれぬ。慎重にことを運ばねばならない。とりあえず、二日後まで待て」
「二日後。私を正式に神使とすると」
「ん、んん、ん〜まあ、そういう感じかなとわしも思っておる」
これでは、自分が相手を欺いているようなものだ。急にそのことに思い至り、ミツルギは良心が傷んできた。
威厳さが怪しくなってきた歯切れの悪さで返事をし、それをごまかすように「じゃあ、わしはほら、神として色々やることがあるから」と言って、本殿の中へ駆け込む。
それからそっと外を伺えば、月の光の下、クロは座り込んだまま、こちらに背を向けて空を見上げていた。その背中が、なぜかひどく寂しそうに見えたのは、きっと良心の呵責のせいだろう。
ミツルギは社殿の扉をバタンと勢いよく閉め、その場でへたり込んだまま動けなくなった。
あまりの出来事に、感情も何もかも追いつかない。
咄嗟に適当なことを言ってやり過ごしたものの、このままではいけないことは分かっている。けれど、他にどうしようもなかった。龍神が来るまで、彼が大人しくしていてくれさえすればそれで良い。
翌朝、ミツルギが外へ出ると、昨日の姿のままにクロが待ち構えていた。
「おはようございます」
「う、うむ。おはよう」
どうにもやりづらい。ミツルギは、護符で隠された向こうから、自分へ熱い視線が注がれているような気がしてならない。
「と、ところで、新しくこしらえておった怪我は、その、大したことないと言っていたが、本当に大丈夫なのか」
「それについては心配いりません。もう体力も回復してきましたので、自力で治せます」
「そうか。ならば、良い」
ミツルギは、露骨になりすぎないよう注意しながら、正体を晒したクロの姿を改めて観察する。
黒く長い髪、黒い着流し、背中に生えた黒い翼、そして、髪の生え際のあたりから垂れ下がる、数十枚の護符。全身黒ずくめの中、最も目を引くのは顔を覆い隠す白い護符だ。
護符だとミツルギは思っているが、普通は護符なんてものを貼り付けられたら、並の物の怪なら浄化されて消し飛んでしまうはずだが、クロは平気そうだ。
もしかしたら、ちゃんとした護符ではないのかもしれない。そもそもなぜそんなものを顔に貼り付けているのか。それとも貼り付けられたのか。謎だらけだ。
クロは、じっと自分を眺めているミツルギへ困惑したように、首をひねる。その仕草は、カラスの姿をしていた時に時折見せていた仕草とそっくり同じだった。
「主上、今日は何をされますか。私はもう随分回復したから、もう自分で食料を探しに行くことができるますが」
いきなりそんなこと言われてミツルギは目を丸くしたが、考え直した。
クロがこれまで目にしてきたミツルギの姿といえば、しきりに自分に食べ物を持ってきてくれる姿だけだ。
「おお、そうじゃな。もうわしはそなたに、ご飯を持っていかんでも良いものな。お地蔵様にも、何度も供物を分けてもらったし、何か、そうじゃの、埋め合わせとして、お供え物でもするかの」
「埋め合わせ」
クロは、ポツリとそれだけつぶやく。
「どうした。何か考えておるのか」
ミツルギは注意深くクロの方を見た。顔が護符で隠れてしまっているため表情を読み取ることはできないが、仕草や口の動きで彼がどんな行動を起こそうとしているのか、できるだけこちらで把握しておきたかった。
「主上は、私へ食料を与えました。その食料は地蔵の供物であったもの。主上は、地蔵へその礼として、供物を捧げようとしている。ならば私は、お礼として食料を主上へ返せばいいということ。主上はそれを地蔵へ供物として差し出す」
顎に手を当て、何やらぶつくさと言っているようだ。
どこか超然とした、というべきなのか。クロは独特の話し方をする。これまでミツルギは、神や、神使、人間、さらにはクロではない別の物の怪とも話をしたことがあるが、クロと話した時に受ける印象はそのどれとも違う。流暢に言葉を喋っているはずなのに、どこかたどたどしい印象を受ける。
「主上」
一般的に、神使が自分の仕える神は用いる呼称で呼びかけられ、ミツルギは「何ぞ」と眉を持ち上げた。どこで知ったものか、クロは先ほどからミツルギのことをそう呼ぶ。
「私は、今から地蔵へ返す食料を調達してきます」
ミツルギがそれに返事をする前に、青年の姿がスルスルと帯を解くように消えた。代わりに一羽のカラスが現れる。見慣れたクロの姿だ。カラスは、生え揃った翼を広げると、ミツルギが「あ、おい、待てっ」と言うのも聞かずに、空へ飛び立ってしまう。
「これ、クロっ!神使になりたいなら、神の言うことを聞くもんじゃろおが!」
もう言っても遅いことだが、ミツルギは叫んだ。当然、クロは帰ってこない。
「食料を調達って、どうするつもりじゃ。まさか、ネズミや残飯でも取ってくるつもりか」
後を追おうにも、さすがに鳥の飛ぶ速度には敵わない。
ミツルギがやきもきしながら待っていると、やがてカラス姿のクロが戻ってきた。足には、何か丸いものを掴んでいる。